一人目 とある金曜の夜
世間では花金などという人もいるがそんなことは気にしていられない。明日から休みであることは間違いないが、彼にとってそれはどうにか過ぎ去っていく日々の一つに過ぎなかった。
疲れ切った体を電車から引きずり下ろし、慌ただしく歩く人に飲まれながら、邪魔にならないようについていく。階段に足をかけて体を持ち上げると筋肉が悲鳴を上げた。少し横に目をやれば、うつむき加減の人が何人も見えた。肩を落として歩く姿はさながら幽鬼のようであり、纏う空気は視界が歪んでいるかと錯覚させるほど澱んでいる。多分、自分もその一人だろう。
ひどく痛む足をどうにか持ち上げて階段を上り改札を通過する。それでもまだ足を止められない。入れ替わるように改札を抜けていく人の波をかき分け、流されるまま気がつけば出口に近く。そこまできてようやく一息つけた。
足が棒のようだ。どこかに座ってしまえばしばらくは立ち上がれないだろう。だから鞄からペットボトルを取り出して一口。それだけで開きっぱなしになっている自動ドアをくぐった。
疾うに真っ暗になった空から吹く冷たい風が首元の僅かな隙間を撫でる。夜は随分と気温が下がるようになった。日中を思えば寒いくらいだ。
(風邪をひかないようにしないとな……)
そういえば他の部署ではついにインフルエンザが出たらしい。朝礼で自己管理を徹底するようにと言われたのを思い出す。
昨日だったか今日だったかすらあやふやだが。
歩くのが遅かったせいか目の前で信号が切り替わる。どうせ明日は休みだからいいかと自分を言い聞かせ、
道の反対側では彼からは程通い、まごうことなき週末が繰り広げられていた。
高そうな看板を掲げた店のガラス越しに、着飾ったご婦人が楽しそうにショッピングをしている様子が見えた。少し視線をずらせばレストランの煌びやかな灯りの下でしわ一つないスーツを着た紳士が白い手袋をしてドアを開け、腕を組んだ若い男女が中に吸い込まれていく。ヨレヨレのスーツを着た彼にはそっぽを向くことしかできなかった。
帰り道に目を向けると赤い提灯や行灯が右も左もふさいでいた。のれんの下から見える向こう側からは威勢のいい声とジョッキがぶつかり合う音が聞こえる。
これまた花金にふさわしい。
「兄さん、一杯どうだい? 安くしとくよ」
声をかけられたため仕方なく立ち止まった彼の目に「ビール一杯目二百円」と書かれた看板が飛び込む。二杯目からどんな値段になるのか分かったものではない。店横の路地から焦げた醤油と脂のにおいが鼻先をくすぐるが、それだけだった。疲れ切った身体にはそのニオイが重くのしかかる。足は向こうとしなかった。
「はは……持ち合わせがなくてね。また今度にするよ」
「そうかい? それじゃ、また頼むよ」
「ああ、そうするよ」
客引きにしてはあっさりと引き下がっていった。
それはそうだろう。今どき、クレジットカードも電子マネーも当たり前。アプリで支払うことすら当然の現代で、よほどのことがない限り社会人が持ち合わせがないからとそそくさと帰るはずがない。体のいい断り文句だ。お互いにそれをわかっている。
力なく言葉を交わすと、客引きはまた別の男に声をかけ始めた。きっと店が見えなくなるころにはお互いのことなど忘れているだろう。だが、それでいい。声が遠くなる。
店の灯りが少なくなってきたあたりを曲がり、しばらくしてまた曲がる。通いなれた道を折れるたびに店の灯りは少なくなっていき、代わりに街灯が増え始める。最近になってLEDに替えられた街灯は、以前に比べて遠くまで物を照らすようになった。
力強くなった光は影を縮み上がらせ、何もないかのようにふるまわせている。これはきっと良いことなのだろう。
近くを通れば青さを感じるほどの光が目に飛び込んでくる。自分はわざわざ避ける必要なんてないが、眩しいと思う人からすれば辛いだろうなとは思う。
(人気がないとは言え、見られているような気がして嫌だな……)
以前やっていたゲームに隠れながら進む探索パートがあったことを思い出す。当時はなぜこんなにもコソコソするとかと思ったが、今になればその気持ちがわかるような気がした。光に視界がぼやける。
身体の疲れを考えないようにしてようやくたどり着いたアパートはとても暗い。零時を回ったせいか廊下の明かりは一つもついていなかった。二階の突き当りの部屋までがひどく遠く感じる。そこにたどり着くための階段はなぜか鉄製で古めかしく、一段ごとにカンカンとうるさい。疲れた頭にいちいち響いては無性に心をざわつかせた。イライラする。
家の冷蔵庫には何が入っていただろうか。今夜はもう食べる気力さえないが、とりあえず飲み物だけでも入っていることを願ってやまない。
柵に体を預け、ポケットから鍵を取り出す。よろけるようにして鍵を差し込むと固くて仕方がないドアノブをひねって乱暴に引っ張った。それでも重い扉はようやく人一人分の隙間しか作らない。頭が痛い。
真っ暗で何も見えない向こうに無理矢理体をねじ込んで後ろ手に鍵を閉める。吐き出す息に負けてドアに寄り掛かる。足の力が抜ける。ぬくもりを持たないコンクリートが手にあたった。
朝はどうやってこの家を出たんだったか。暗いせいで奥の方は全く見えない。かばんだけどうにか土間から救出すると重い音を立てた。反射した音が耳の奥を駆け回る。顎がギシリと鳴る。
今日も疲れた――




