一人目 オフィスと喫茶店と記憶
週明け、いつもと違う様子のオフィスにどうも落ち着かなかった。いや、違うと思っているのは自分だけに見えているせいで気味が悪いのだ。そう思っていた。
「先輩、いい加減にしたらどうっスか」
相変わらず隣の席にいる後輩から声をかけられる。
どちらかといえばあれこれと気にしているの多いこの後輩が、なんとも思っていない様子なのも違和感に拍車をかけていた。
「そうは言ってもな。覚えてないんだから仕方ないだろ」
オフィスの場所は変わらないのに、見えている景色がまるで違う。それはまだともかく、どうしてそうなってしまったのか覚えがない。
朝来たときには自分がおかしくなってしまったのかと本気で頭を抱えた。
「異動があったんだから席の位置が変わるくらい不思議じゃないじゃないっスか」
そう。先週末にスタッフの異動があったため、ここぞとばかりにオフィスの整理も行ったようなのだ。そのついでに席位置まで変わったらしい。
問題は自分がいない間にそれが行われ、知らせてあると言われたのにそれが全く記憶にないことだった。
そのせいで朝一出社したときに自分の席が見当たらなくて軽くパニックになったほどである。
「頭に糖分が足りないからそうなってるんスよ。朝ごはん食べました? チョコ食べます?」
「ん? ああ、ありがとう。朝ごはんは食べたけど」
後輩から差し出されたいつかのチョコレートを同じように口に放り込んだ。
乾き気味だった口の唾液腺が急に刺激されて痛いほどだ。
「先輩もお疲れなんですかね? たまには有給使ったらどうです? 今は何日か使わないとだめじゃないっスか」
後輩はそういうものの、手元には締切が近い仕事がある。今有給を使って休むわけにはいかなかった。
「この仕事が落ち着いたらそうするよ」
「そう言ってる間に次の仕事が入らないといいっスね」
「やめてくれ。冗談じゃなく本当にそうなりそうで怖い」
自分はもちろんだが、過去に同僚にもそういうことがあったのだから軽口で流せる内容ではない。
口に出すと実現するなんてこともあるのだからやめてほしい。
「あー……それは申し訳ないっス」
「悪気があったわけじゃないからいいよ……今回だけだからな」
「きっ、肝に銘じます……」
あまり脅しすぎるのはよくない。これだけ釘をさしておけば大丈夫だろう。
パソコンをたちあげ、手元に資料を広げる。そのどれもがいつもの行動で、どこにも違和感はない。
デスクトップのアイコンもいつも通りだ。見覚えのないものが並んでいたり、あったはずものものが見当たらないということもない。
やはり自分が考えすぎているだけなのだろう。
それからは仕事に集中することにした。
先方に提案するための資料づくりは手を抜くわけにはいかない。過去の資料とパワーポイントはこれ以上ない参考資料だが、同じようになってしまえば相手を退屈させてしまう。
オリジナリティをどのくらい出していいものなのか。悩みは尽きない。
「先輩、そろそろいい時間ですけどお昼はどうするつもりです?」
後輩の声に顔を上げるとすでに一時を過ぎていた。
昼時なのであちこちが混んでいることを抜きにすれば確かにいい時間だった。
今からコンビニに向かったところで目ぼしいものは残っていないだろう。まだオフィスの中にいるのだから、昼競争では出遅れも甚だしい。
「この時間だともうカップ麺かなぁ。給湯室のお湯、確認しないとだめかな。ていうか、俺に付き合う必要なんかないんだぞ?」
「いやー、ウチも今気づいたところなんスよ。出遅れましたね」
オフィスの中を見回すとそれなりに空席が見て取れる。ほとんどが既に外に出てしまっているようだ。
残っているのは弁当組か、同じようにインスタントを選択した連中だろう。
独り身も多い部署だからか、昼休憩までオフィスにいなくてもいいのは正直ありがたかった。
(ま、そうしないと昼飯抜きになってしまうからな)
コンビニすら行けないようでは昨今のコンプライアンスに弾かれてしまうだろう。
いいのか悪いのかはわからないが、そういうことにはやたらと敏感だった。
「それでどうします? 本気でカップ麺っスか?」
「どうしようかねー……」
値上がりの激しいこの頃、コンビニでカップ麺含めて購入するにしても外に食べに出るにしてもそう値段が変わらなくなってしまった。少し前のコンビニであれば、五百円もあればそれなりに腹を満たすこともできたというのに。
「例の店の日替わりにするか」
「いいっスね。ウチとしては先輩が気に入ってくれたようで何よりです」
「コンビニと値段が変わらないなら美味いもの食いたいだろ」
コンビニの商品が美味しくないわけではない。ただ、どうせ同じお金を出すならいいものが食べたいと言うのが人情ではないだろうか。
「それはそうっスねー。案外高くないですし、気持ちはわかります」
「んじゃ行くぞ。課長、お昼に出てきます」
オフィスの奥に座って弁当をつついていた課長に声をかけた。せめて一言くらい伝えておくべきだろう。
「ん? おお、行ってこい行ってこい。にしても最近お前ら仲いいな。そのうち他の課で噂になるかもな」
「何言ってるんです? 指導してたんだからある程度は仲いいのはわかってるでしょうに」
「そうですよ。先輩にはお世話になってます」
「昼によく一緒にいるのにか? まあいいか。早めに戻って来るんだぞ」
「承知しました。さて、行きますかね」
「あ、先輩、待ってくださいよ」
財布を持つとさっさとオフィスを抜け出す。
そういえば最近課長の機嫌がすこぶるいい。以前なら売上などを気にして常にピリピリしていた印象がある。なのに先程も冗談を言うくらいの余裕はあるのだ。
なにかいいことでもあったのだろうか。
(まあいいか。余計なことを言って機嫌が悪くなるくらいならこのままでいい)
「先輩、今日の日替わりなんでしょうねぇ」
後輩は課長のことなんか全く気になっていないようで、ランチメニューのことを話題に上げてくる。
課長に怒られていたことだってあるのに呑気なものだ。
「さあな? いつもはサンドイッチなんだろ?」
「それはそうですけど、具材のことを聞いてるんすよー。ハンバーグサンドとかいいと思うんスよー」
エレベーターのスイッチを押す。二台あるエレベーターは両方とも一階。しばらく待たないといけないようだ。
「変わり種だな。まぁ、どちらかというと洋食の店だし出てきてもおかしくないのか」
ビーフシチューやサンドイッチなど、メニューで言えば洋食屋のそれだった。喫茶店と銘打っているが、内装がレトロなこともあり、通ってみれば街の洋食屋さんという印象も出てきていた。
「ハンバーグはメニューにもありますからね。サンドイッチでは見たことはないっスけど……」
「そんなの期待するなよ……」
エレベーターが到着した。呆れながら乗り込むと、後輩も続いて入ってくる。
一階のボタンを押すと、程なくしてゆっくりと動き出した。
「いいじゃないっスか。一回くらい食べてみたいんスよ」
「市販品に近くてもか?」
どこかの会社がそういう商品を出していたはずだ。温かい商品ではないが思ったより美味しかった記憶がある。企業努力の賜物だろう。
「ぜーったいもっと美味しいっスよ。先輩はあそこのハンバーグを食べたことがないから知らないだけっス」
「それはしょうがないだろ。まだ数回しか行ったことないのに」
それもだいたい後輩と一緒である。ここ最近の話だし、後輩に把握されていても不思議はない。
普段のものまで知られているわけではないはずなのになぜか寒気がするような気がした。気の迷いだと思いたい。
程なくしてエレベーターの扉が開いた。どうやら一階に着いたようだ。
昼時のロビーはガランとしており、見える範囲の外にも人はほとんど見当たらない。
「先輩、場所はもう覚えたっスか?」
「流石にな」
「それなら先に行っておいてもらってもいいっスか。あとから合流するんで」
「? まあいいけど。時間かかるなら一人でいくぞ?」
「すぐなんで大丈夫っス。メニュー選んでる間につくんで!」
そこまで時間がかからないなら待っていてもいいと思う。たが、後輩の様子を見る限りそれは遠慮願いたいようだ。
「……まあいいか。ゆっくり歩いとくよ」
「ありがとうございます。ではあとで」
「おう」
後輩に返事をすると自動ドアに向かう。以前はなかなか反応しないこともあったが、最近はスムーズに開いてくれる。おかげで立ち止まらなくていい。
外に出ると湿り気を帯びた空気が肌をなでた。
そういえば雨の予報になって数日たつが、外に出たときに雨に降られた日はなかった。
空を見上げると鉛色の分厚い雲が覆っている。いつ降られてもおかしくない。
折りたたみ傘でもいいから持ってくるべきだっただろうか。確かオフィスのロッカーには一本だけおいていたはずだ。
(まあいいか。そんなに距離があるわけじゃないし)
だが、後輩のこともある。そのまま喫茶店に向かって歩を進めることにした。
仕事はまだあるのだから早めに戻ろうと心に決めながら。




