一人目 アメと水と酒
深夜を過ぎてしまった空は暗く、どこまでも真っ黒だ。雨が降っているのだから雲があるはずなのに、見上げてもその姿を捉えることができない。
思ったよりずっと分厚く空を覆っているのか、それともずっと高い位置で見下ろしているのか。
地上から離れて存在できないちっぽけな人間の一人でしかない自分にはとても知りようがない。
「こんばんは。今日は来ないかと思ったのに」
「こんばんは。なんでだろうね。いつの間にか来てしまったよ」
グラスを傾け始めてからしばらくして彼女が現れた。どうやって知ったのかは分からないが、どうやら様子を見に来たらしい。
ジャブジャブと水をかき分けながらやってくる。傘を指しているというのに全身を濡らしたまま歩く彼女は冷えたりしないのだろうか。
相変わらず表情は伺いしれない。
「また飲んでるの?」
「飲んでた、だな。これは水だよ。これ以上飲んでると明日残りそうだからな」
呆れたと言わんばかりの彼女にそう返した。
アルコールの分解には時間がかかる。かかりすぎると言ってもいい。だからいい時間になってしまった今日はもう飲まないつもりだ。
「あら、てっきりお酒かと思ったわ」
「さすがに違うよ。明日、二日酔いで会社に行こうものならどんな顔をされるかわかったもんじゃない」
後輩なら笑いながらからかってきそうなものだが、他の人は果たしてどんな顔をするのか。少なくともいい顔をしないことだけは間違いないだろう。
社会に縛られたサラリーマンには翌日の仕事というタスクが重くのしかかっていた。
「だから酔い覚ましも兼ねて、かな」
グラスに残った僅かな酒気をまとった水はきっと明日までに酒を流してくれるだろう。
それに、アルコールで鈍くなった舌にはこれくらいがちょうどいい。
「あなたがそれでいいならいいけれど、もういつもよりも遅い時間よ?」
深夜だとは認識していたが相当遅い時間らしい。
それなら彼女が呆れたような声をかけてきたのも納得だった。
「まだ眠くないからもう少しだけいるよ。大丈夫、適当なところで切り上げるよ」
そうは言ったが今日は眠れるだろうか。酒を飲んだにも関わらず意識ははっきりとしていた。
ヒーリング音楽として雨音が使われることがあるのは知っている。心地良いのは間違いないが、自分はどうやら雨音では眠くならないらしい。
もしかしたら足元を流れる雨水がいつもよりもどこか冷たいからそうなのかもしれない。
(寝不足じゃないし、たまにはこういうのもいいか)
軒から滴る雫が膝頭を打った。風はほとんどないように思うが、どうやら吹き込んできたらしい。
グラスに入らなくて良かった。
「いつまでいるつもりなのかわからないけれど、明日が辛くなるだけよ?」
「たまにはいいんだよ。たまには。それに、大人にはいざというときの栄養ドリンクだってある」
「そんなものに頼らないほうがいいわよ? 体には良くないでしょう?」
そんなことは百も承知だ。負担になるのは目に見えている。それでも一時しのぎくらいにはなるのだからバカにはできない。
彼女だってそれくらいのことはわかっているだろう。
「大量に取らなきゃ大丈夫だよ。毎日飲んでる人もいるんだろうけど」
「あなたはどうなの?」
「時々だよ。毎日なんて財布へのダメージが大きすぎる」
一本でペットボトル飲料と同じくらい、下手するともっと高いものだってあるのだ。毎日買ってなんていられない。
「それこそ体に良くないしな」
毎日のように飲んでいた同僚が健康診断で再検査を食らっていたのを見たことだってある。
そうなってしまえば休日や有給を潰してしまいかねない。そんなことはゴメンだった。
「そんなこともあるのね。初めて聞いたわ」
「肝臓の負担になるとかならないとか。俺も詳しくは知らないよ」
喋り過ぎだろうか。口が乾いたような気がして水を流し込む。少しずつ頭の靄が晴れてきているような気がした。
「お酒だって肝臓の負担になるでしょう?」
「だから今日はもう水だって……」
今日はもう酒を飲むつもりはない。つまむものはないが十分に楽しんだあとだ。
「……私はもう行くわ。あなたも早く帰りなさい」
「……そうだな。グラスが空になったら帰るよ」
この雨の世界とやらは不思議な場所だが、どうしてか落ち着く場所だった。
人が見当たらないからかもしれないし、雨音が心地良いからかもしれない。
ただ、こうやって雨を眺めているだけの時間が今の自分には必要なのだろう。
だからグラスを理由にもう少しだけ、と引き伸ばした。
「帰れなくなっても知らないわよ?」
「帰れるよ。そこまで酔っちゃいない」
雨音を楽しむために目を瞑る。
セカイが遠くなるような感覚は視界を塞いだせいだ。眠気はまだまだやって来ない。
「このまま軒下の僅かなスペースで寝転がっても体が痛いだけだろうしね」
「寝てた前科がある人が言っても信用ないわよ?」
そういえばそんなこともあった気がする。あれはなんでだっただろうか。床で寝てた気がするのだが。
「ああ、わかったよ。ちゃんと帰る」
「わかったならいいわ。それじゃあね」
彼女は振り返るとまたジャブジャブと水が流れるコンクリートの上を歩いていった。
どこに歩いていったのかわからないまま、姿が見えなくなる。
彼女がどこの誰かは未だに知らない。名前も知らない。知っているのはいつも濡れていて、それでも寒そうにもせず、ただこちらの様子を伺っているということだけ。
ただ、それでもいいと思う。
(いつか聞けたらいいな……)
もしかしたら来るかもしれない日を夢想しながらまたグラスに口をつける。
たまには水でもいいなと思いながら。
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