プロローグ とあるアメの日
いつもよりも光の少ない夜、いつもよりも昏い空の下。彼女はいつものように傘をさしている。
穴の空いた傘の向こうに見える黒髪は空と同じように光を受け止めている。すべて飲み込むように。
見慣れたコンクリートを跳ね返る雨を浴びながら、いつもと同じように数十センチしかない軒下に腰をおろし、ときどき飲んでいる酒をいつもより多めに口をつけた。喉を抜けて腹の裡に落ちると熱がボッと広がる。
いつもなら熱を奪う雨に体を震わせたかもしれないが、その一口で灯された火種のおかげでもう寒くない。雨にかき回される空気も心地よく感じるほどだ。
ひとつ息をつくと声にならない声がアルコールを孕んで空気に溶けていった。いつ来ても降り続いている雨音に混ぜ込まれたその響きはきっと誰にも届いていないだろう。
二口目を含み、鼻に抜ける香りを堪能した。また一つたっぷりと時間をかけて飲み込むと傍目にも満足そうに息を漏らす。
ああ…今日はいい夜だ。
お気に入りの酒が減っていくのは悲しいが、それ以上に満ち足りていた。たまにはこんな夜もいい。
いつもは疲れ切っていて酒を飲もうなどという気すら起きない。日中を過ごすのがようやくで、頭をフル回転させて乗り切っている。それでようやく時間が来たかと思えば、残っている仕事を見てため息をつく。
だが今日は周りの様子を気にすることも、手元の書類を見なかったことにすることも、周りの視線を後ろめたく思うこともない。
だから、今日は間違いなくいい夜だった。
「またお酒? もっと他のことすればいいのに」
雨の向こうから声がする。雨という帳に隠された顔は今日も朧気だ。雨が強いせいか、いつもだったらすぐそこに見えているはずのぼろぼろになった給水塔すら見えない。
また、というほど飲んでいるだろうか。確かに彼女の前で飲んでいたことは何度かあるが、そう多い頻度ではないはずだ。
「みんな美味しそうに飲むけれど、そんなにいいものなの?」
その言葉には答えられず、もう一口飲むことで誤魔化した。
悪いものじゃない。味はもちろん、染み渡る感覚はとても手放そうとは思わない。飲む頻度が週二回もないことを考えれば依存にはなっていないと思う。
たまには酔いたい気分もある。それだけだ。
傍らにおいた酒瓶に視線をやるともう半分も残っていない。
勿体ないような気持ちが鎌首をもたげる。飲みたい気持ちを汲んで、仕方なくほんの少しを手元の器に注いだ。
「お酒のどこがいいのか……わかりそうにないわね」
「意外とそう言ってたヤツがハマったりするもんだ。気に入る気に入らないは別にしてな」
また一口流し込むとじわりと広がり、鼻に抜けていく。胃に落ちた熱が喉を駆け上がり、ため息になって手の中の水面を揺らした。
雨と違ってほんの少しだけ色がついて見えるその液体は最近見つけた楽しみだった。
「語るじゃない? 年長者のありがたい経験談かしら?」
「そんなつもりはないよ。気に入らなかったらゴメンな」
「そういうところが年長者ぶってるって言われない?」
「酔っぱらいの戯言ってことにしておいてくれ」
そう。ただの戯言だ。彼女とはここでしか会わず、ここでしか言葉をかわさない。メールもチャットもSNSもすべてここでは無粋だった。少なくとも彼にとっては。
雨が降り続く中、僅かな軒下はここしかない。どこかのビルの屋上のような空間では屋根を期待するのも野暮だ。
足元のコンクリートは雨でびしゃびしゃになり、まるで川のよう。雨どいの終着点ではひっきりなしに水があふれていた。
傍らに手を向けて雨宿りするよう促してみるが、彼女はいつものように首を横に振るだけだ。ボロボロの傘で立っているのに今日も雨宿りしようとはしない。いつもの事とはいえ、穴のあいた傘はそれほど身を守ってくれるわけでもないだろうに。
意外だが、案外、雨を楽しんでいるのかもしれない。
「……今日はいつまでそうやっているつもり?」
「そうだなぁ……全部は勿体ないからあと一杯だけ」
トクトクと音をたてて注がれる透明の境目が端が欠けたグラスの半分に届く。今日はこの位にしておこう。
背もたれにしていた扉を開けて棚の上にそっと酒瓶をおいた。
また今度の楽しみだ。いつ飲むのかはわからないが。
手の温度が伝わらないように気をつけながら口元に持ってくるとほんの少しだけアルコールの匂いが鼻に届く。それだけで頭の奥の方がじんわりとしびれるような気がした。
(こんな夜がいつまでも続けばいいのにな……)
湿らせる程度を口に含み、喉に流し込む。
ここでは月を一度も見たことがなかった。これだけ雨が降っているのだから当然かもしれない。
十五夜は団子を月に見立てて曇りだか雨だかの夜に酒を飲んでいたらしい。それはそれでありかもしれないが、どうしても勿体ないと思ってしまう。
いつか月見酒ができるだろうか。酒に揺らめく月が見てみたいものだ。
「……いつか、君とも飲みたいね」
「あら、口説いてるのかしら? それともお前にはまだまだわからないだろうって?」
「勘弁してくれよ。ホント……そんなつもりじゃないんだって」
「ええ、わかっているわ。あなたがからかうからよ?」
「本当に勘弁してくれ。ただ、目の前にいるのに話ができないのが淋しいだけなんだ」
「そう……」
傘の向こう側にたつ彼女は口元すらはっきりとは見えない。どこか遠くを見ているのだろうか。少しだけ顎が上がっているように見えた。
「そうね。いつか飲みましょう」
「色々用意しておくよ」
「ええ、そのときは――」
風のない夜がゆっくりと進んでいく。星が見えなくても、月が見ていなくても、雨が優しくなでてくれる。
雨垂れのリズムが心地良い。痛くならない程度の小さな音が耳をくすぐる。
最後の一杯と言うんじゃなかったな、と思いながらグラスを傾けた。
ああ、本当にいい夜だ――
いい機会なので書き溜めたものを投稿してみようと思いました。
ストックが切れ次第不定期になるとは思いますが、お楽しみいただけると幸いです。
あまり長くならない予定です。




