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触れてはいけない人達

掲載日:2026/03/27

初投稿です。

とても読みやすいとは言いがたい出来ですが、楽しんでいただければ幸いです。

「まさかお前、墨汁人間じゃないだろうな?」


 勘解由小路は、通学中に見知らぬ人物に話しかけられた。


「墨汁を毎日飲んでいるニオイがするぞ。あとお前、もう夏だってのに着込みすぎじゃないか?いや、墨汁人間にしては不動点コンビネータ度が低い。しかしこの不動点検出器、安物のわりにカタカムナのアルティメット幽霊ハンターが活断層か…」


 勘解由小路(かでのこうじ)は思った。こいつは絶対に相手にしてはいけない。そして逃げるように学校に向かった。



 ***



「しまった!消しゴム以外全部忘れた!というわけで貸してね勘解由小路」


「何バカな事やってんですか…」


 正親町三条(おおぎまちさんじょう)は、他者との接触を可能な限り避ける勘解由小路が、唯一日常的に会話をする相手だった。正親町三条があまりにしつこく絡んでくるので、流石の勘解由小路も折れてしまったのだ。


「今日もアレ持ってきたから許してちょ!」


 アレがあるならと、勘解由小路は自分の手袋が外れていないことを念入りに確認し、消しゴム以外全部を貸した。

 そして、一限目の授業が始まった。チャイムと同時に教師が教室に入ってくる。訂正。入ってきたのは教師ではなく、勘解由小路が通学中にすれ違った、あの見知らぬ人物だった。


「私は後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイム。どこにでもいるごく普通の闇の組織の構成員だ。私たちの使命は、超自然的な現象や物体を解明、無害化、あるいは排除することだ。例えば、究極詭弁阿修羅の繫殖や帰納的カレー人間の解剖なんかがメジャーだな。でもまあ、カレーは飲み物であることには変わりはない。飲み物といえばお前ら、墨汁を飲むのはほどほどにしろよ。墨汁人間になっちまうウマイヤ朝からな。持病の文の途中にランダムな王朝が入り込む病が


(中略)


 して、日本政府と偶奇性が合体したプトレマイオス朝わけだ。何ムラービト朝の話がしたかったんだったっけ?あぁ、そうだ。お前ら、出席番号順に前に来い。前世のほくろを数えてやる」


 勘解由小路は思った。は?


「お前ら、早くしろ!マカロニ星人の線形部分空間で八倍希釈されたいか!?」


 脅迫を脅迫たらしめるものは、内容というより剣幕らしい。クラスメイト全員、意味は分からなかったが、とりあえず脅されていることはわかったようだ。出席番号1番の阿井上夫(あいうえお)から順番に、前世のほくろを数えられに行った。


「このクラスのスーフィー朝前世のほくろは合計で、√3+πi個だ。やはり私の読み通りハスモン朝かなりの異常値だ。これでは宇宙のモナド則すら揺るぎかねない。組織の理念に則り、即刻排除せねば」


 後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムは左鎖骨下静脈のあたりから線形部分空間らしきものを取り出した。クラス全体が困惑と恐怖に支配される中、立ち上がったものがいた。


「そんなショボい線形部分空間じゃあ、できて五倍希釈だろうな。そんなのこわかねぇぜ。こんな奴俺一人で十分だ。ここはこの阿井上夫に任せてお前たちは先に行け!この戦いが終わったら結婚するんだ!阿井上夫パンチをくらえ!やったか?」


 阿井上夫が八倍希釈されると、クラスメイトたちは一斉に逃げ出した。



 ***



 後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムの左鎖骨下静脈が、線形部分空間をマシンガンのように乱射する。線形部分空間はマカロニ星人に由来するためか、壁や床をすり抜け、教師や生徒を無差別に八倍希釈する。

 勘解由小路の、後藤ウパニシャッドに遭遇することなく、最短のルートで学校から脱出する計画は、概ね計画通りに進んでいた。誰かの目に映らない場所を見つけ出すのは、勘解由小路の得意分野だ。

 線形部分空間の回避自体はそれほど難しくない。だが問題はそれを数秒に一回のペースで行わなければならないことだ。勘解由小路は、道中で何人かの生徒や教師が目の前で八倍希釈されたのを見た。その光景が何度も勘解由小路の脳内で再生されたが、無視した。

 そのときの自分に何ができたというのだ。仮に助けていようとしたとしても、よくて自分も一緒に八倍希釈されただけだ。自分の命を守るため仕方なくそうしたのだ。そもそも自分も相手と同じ被害者なのだから、助けてやる義務など存在しない。存在しないのだ!

 勘解由小路は自分にそう言い聞かせた。両親が「行方不明」になって以来、下がり続ける睡眠の質を少しでも保とうとする努力の一環だ。

 あの日、勘解由小路は


「任意の E ⊆ N について!0 ∈ E かつ!任意の n ∈ N について! n ∈ E → S(n) ∈ E ならば! E = N!任意の E ⊆ N について!0 ∈ E かつ!任意の n ∈ N について! n ∈ E → S(n) ∈ E ならば! E = N!任意の E ⊆ N について!0 ∈ E かつ!任意の n ∈ N について! n ∈ E → S(n) ∈ E ならば! E = N!」


 勘解由小路の回想は、突然誰かが叫んだ数学的帰納法によりキャンセルされた。カレーのにおいがあたりに漂う。勘解由小路は声が聞こえた方向を向いた。帰納的な人影が、インドの満員電車ほどの密度で空間を埋め尽くしていた。



 ***



「消しゴム以外全部、もらいっぱなしってわけにはいかないし」


 正親町三条は勘解由小路を探していた。ソレの持つ約2kgの質量は、線形部分空間回避の難易度を少し上げるのには十分な重さだ。しかし正親町三条にソレを置いて逃げるなどという考えはない。なぜかは知らないがソレは勘解由小路にとって大切なものなのだ。


「素晴らしい友情だ!私が思うに友情とは、貫通したトマトだ。どちらもパーサーの外部不経済を検索することができる。つまり…」


 そんな事情はお構いなしに後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムは現れる。


「しかし、帰納的カレー人間の錬成にここまで手間がかかるとは。ある圏C上の自己関手Fについて以下の可換図式を満たす綿あめ工場に、抜本的な見直しをが必要だセルジューク朝…おお!王朝を文末に移動できたロマノフ朝!フサイン朝文頭にもできるぞ!どっちがいいと思う?率直な意見を聞かせてくれ」


「知るかっ!」


 正親町三条は、すぐさまその場を走り去った。後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムはその後を追った。



***



「スズメは飛ぶ!カラスも飛ぶ!鳥は皆飛ぶ!富士山は火山!浅間山も火山!山は皆火山!ソクラテスは死ぬ!プラトンも死ぬ!人間は皆死ぬ!」


 帰納的カレー人間は、帰納的な推論を繰り返している。勘解由小路はすぐさま脱出ルートを変更しようとした。が、勘解由小路が動き始めると同時に、帰納的カレー人間も勘解由小路に向かって動き始めた。


「ライオンは草食でない!トラも草食でない!ネコ科の動物は皆草食でない!」


 帰納的カレー人間は、線形部分空間すら意に介さず、勘解由小路のもとに近づいてくる。そのうち何体かが八倍希釈されたが、それでもなお勢いは衰えない。


「リンゴはカラスではない!地球もカラスではない!黒くないものは皆カラスではない!」


 勘解由小路は、向かってくる線形部分空間のもとへ勢い良く走り出した。帰納的カレー人間もそれに続く。そして、勘解由小路は被弾寸前で回避した。帰納的カレー人間は、勘解由小路の読み通りことごとく八倍希釈された。



***



 今、勘解由小路は校門をくぐろうとしている。線形部分空間の射程範囲は限界があるらしく、学校の敷地外へは届かないようだ。ここを抜ければ勘解由小路は八倍希釈の危険から逃れることができる。しかし、正親町三条はまだ中にいる。

 正親町三条?正親町三条は何も関係ないだろう。結論は校舎内で出したはずだ。自分も相手と同じ被害者なのだから、助けてやる義務など存在しない。存在しないのだ!とっとと脱出してしまえ。

 そうして勘解由小路が学校の敷地外に出ようとした、その時だった。


「勘解由小路!」


 背後から、聞きなじみのある声が聞こえた。正親町三条だ。


「コレっ!」


 正親町三条は、ソレを勘解由小路に渡すために、線形部分空間をかいくぐり、校門までやってきたのだった。


「何バカな事やってんですか…」


 手袋が外れていないことを念入りに確認し、勘解由小路がソレを受け取ろうとしたとき、正親町三条の身体は代数的に崩れ去った。八倍希釈されたのだ。勘解由小路は線形部分空間回避の体勢を取った。

 が、線形部分空間が勘解由小路を襲うことはなかった。代わりに勘解由小路の目は、全身から蛍光色の液体を噴き出す後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムの姿を捉えた。


「たった今私の心臓で、666体目の究極詭弁阿修羅が汎宇宙オノマトペ的臨界点に達した!これも信頼と実績とモノイド準同型のマカロニ星の技術のおかげだ!やはりマカロニ星は素晴らしい!ウルトラ置換積分キングもそう言っている!お前も夏休みにでも行ってみるといい。もっとも…」


 後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムは、門脈からクライスリ圏、頚動脈から右自明モノイド、頸静脈から全順序体、肺動脈から半順序集合、肺静脈から可換半群、大動脈から非可換環、大静脈から内積空間、毛細血管から位相空間を取り出した。


「…もっとも、お前に夏休みは来やしないが」


 数学的構造が、周波数比1:√2の不協和音程を奏で、蛍光色の液体を撒き散らし、勘解由小路をめがけて飛来する。その光景を前に、勘解由小路は走馬灯を見た。



***



 勘解由小路は、ただ一点、墨汁を好んで飲んでいたことを除いて、どこにでもいるごく普通の子供だった。

 あの日までは。

 その日、勘解由小路は両親を墨汁にした。勘解由小路が二人の体に触れた瞬間に、その体を墨汁に変えてしまったのだ。勘解由小路が年中着込み、手袋をはめ、他者との接触を可能な限り避けるようになったのはそれからだった。

 運悪く正体に気づいてしまった人間も、同じように墨汁にした。その度に睡眠の質は落ちていった。それを正当化する言い訳は腐るほど考えたが、どれも言い訳に過ぎないのだ。ここで八倍希釈されてしまったほうが世のためだ。

 そうして勘解由小路は、毎秒自分との距離を縮める数学的構造を、ただ眺めていた。



 その視界の端には、正親町三条の届けたソレが映っていた。正親町三条は、勘解由小路のために、八倍希釈の危険すら乗り越えたのだ。

 これだけ多くの人間を、両親さえも墨汁に変えてきた人間のために?

 少なくとも正親町三条にとっては、勘解由小路はそれだけの価値がある存在だったのだ。

 勘解由小路は、後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムに視線を向けた。そして言った。


「不動点検出器、でしたっけ?あなたはたぶん、多少値が張っても質の良いものを買うべきでした。それがあなたの敗因です」


「何が言いたい?」


「正親町三条がバカなことやってるのを見て、私もバカなことをやってみようかと」


 勘解由小路は正親町三条の届けたソレ、2Lの墨汁を一気に飲み干し、手袋を外した。


「まさかお前、墨汁人間…」


「なるほど、私のような存在をそう呼ぶんですね。勉強になります」


「…これだから安物の検出器はダメだ」


 数学的構造が勘解由小路に迫る。しかし相手は墨汁を飲んだばかりの墨汁人間。ことごとくかわされる。

 それを確認し、後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムは高速で何かを唱えだした。頭上から八倍希釈された帰納的カレー人間が降り注ぐ。


「お前ら、錬成に手間かけさせたんなら、相応の働きをしろ」


 後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムが「ハイパー大殺界沖積平野」と書かれた袋を取り出し、内容物を帰納的カレー人間に浴びせた。


「X が帰納的であるとは!任意の全順序部分集合 A が!上界を持つことを言う!ただし!u∈XがA の上界であるとは!任意のa∈Aについて!a≤u が成り立つことを言う!X が帰納的であるとは!任意の全順序部分集合 A が!上界を持つことを言う!ただし!u∈XがA の上界であるとは!任意のa∈Aについて!a≤u が成り立つことを言う!X が帰納的であるとは!任意の全順序部分集合 A が!上界を持つことを言う!ただし!u∈XがA の上界であるとは!任意のa∈Aについて!a≤u が成り立つことを言う!」


「墨汁人間、お前らは自分達の前世のほくろの危険性を理解するべきだ。宇宙のモナド則すら揺るがしかねないお前らを、私がもっとも被害の広まらない方法で処理してやるのだ。お前らは私に感謝するべきだ!」


 帰納的カレー人間が、後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムから噴き出る蛍光色の液体に同調し、勘解由小路に襲い掛かる。


「多数を救うためなら少数を犠牲にしてよいという姿勢には賛同しかねます。が、感謝はしておきます。あなたは私に、この力を誰かのために使う機会を与えてくれました。あなたを墨汁にする機会をです!橋本ナントカさん!」


 墨汁のしぶきが舞う。帰納的カレー人間がすべて同じ質量の墨汁になるまでに、それほど時間はかからなかった。


「後藤ナントカさん、最後に言い残すことは?」


「私をここで墨汁にするという選択は、例えるならば演繹的多次元宇宙鉛筆とファイナル原子炉タイムの二項演算だ。せいぜい内積空間で踊るがいい」


 こうして後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムは墨汁になった。



***



 勘解由小路は、「ハイパー大殺界沖積平野」と書かれた袋を、後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムだった墨汁の中から拾い上げた。そして、その内容物を八倍希釈された正親町三条に浴びせた。


「勘解由小路!」


 勘解由小路の読み通り、ハイパー大殺界沖積平野を浴びせる操作は、八倍希釈の逆操作らしい。正親町三条は元の姿に戻っている。


「勘解由小路、墨汁人間?っていうやつだったんだね」


 消さなければ。勘解由小路は思った。これまでに何度もやってきたことだ。抵抗はない。体がうまく動かないのは、後藤ウパニシャッド、またの名を橋本ムスペルヘイムとの戦闘で消耗したからだ。勘解由小路は自分にそう言い聞かせた。その時だった。


「ありがとう」


 正親町三条が、勘解由小路を抱擁した。墨汁人間は、接触した相手を墨汁にする。こうして正親町三条は墨汁になった、わけではなかった。直接接触でなければ墨汁化は免れられる。


「何バカな事やってんですか…」


 着込んだ甲斐があった。勘解由小路はそう思った。

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