父と母
虚空に青白い線が描かれる
魔力が手から魔法陣に流れる感覚がある。
f(x)=x
〈イグナイト〉の関数に、僕の魔力値を代入する。
(小さな炎だけど……でも、もしかしたら――)
あの時。
魔法が暴発した、あの日。
母さんが言っていた、
「足りない分を、生命力で補ってしまった」と。
もしもあの時みたいに、
僕の魔力値13を、50に書き換えることが出来たのなら。
やり方なんて分からない。
それでも――賭けるしかない。
拳を強く握り、恐怖ごと握りつぶす。
僕の後ろには妹がいるのだから。
(イリスを、守る)
歯を食いしばり、〈イグナイト〉と唱えようとした、その瞬間だった。
――ドンッ!
背後から、大地を叩きわるような音が響いた。
びくりと肩が跳ねる。
次の瞬間、胸の奥に溜まっていた息が、一気に抜けた。
理由なんて、考えるまでもない。
「――父さん!」
「フェルディア! もう大丈夫だ」
父さんの剣が、唸りを上げて振り下ろされる。
刃が届く寸前、シャドウウルフは地面を蹴り、影のように後ろへ跳んだ。
当てるつもりは、最初からなかったのだと思う。
父さんは、獲物よりも――僕と、シャドウウルフとの距離を切り離した。
父さんの広く大きな背中を見た瞬間、
張り詰めた糸が切れたみたいに、
僕の足が急に震え始めた。
そんな僕を後ろから、強く優しく抱きしめたのは、
母さんだった。
「フェル、もう大丈夫よ! イリスを守ろうとしたよね。とても…… とても立派よ」
母さんに抱きしめられた瞬間、
胸の奥がじんわりと熱くなった。
このまま力を抜いたら、
きっと泣いてしまう。
「にーしゃまー……めめ痛いの?」
イリスの声に、はっとする。
グッと歯を食いしばる。
僕は、泣いている場合じゃない。
イリスにとって、
父さんや母さんみたいに――
安心できる存在でありたい。
父さんは、もう一歩だけ前に出た。
シャドウウルフが低く唸り、再び身を沈める。
黒い影が、地面を這うように走った。
――ガンッ!
剣と牙がぶつかり合い、火花が散る。
父さんは後ろに下がらない。
踏みしめた足で衝撃を受け止め、身体ごと押し返す。
一瞬、シャドウウルフの体勢が崩れた。
「援護するわ!」
母さんの声は、大きくなかった。
でも、不思議とよく通った。
母さんが一歩前に出る。
手を掲げ唱える。
「風よ、鋭き刃となれ——」
魔法陣が描かれる。
攻撃を目的とした関数は初めて見る。
僕は唾を飲み込んだ。
f(x)=ax
a=1.3
x=20
f(20)=1.3×20
f(20)=26
白い風が母さんを包む。
エネルギーを溜め、
解放はまだかと言わんばかりに、
身体にまとわりついている。
母さんは叫ぶ。
「ラグナ! 合わせて——! 〈ウィンドエッジ〉!」
それは突き抜けるような突風ではなく、
空気を切り裂く、風の刃のようだ。
父さんは振り返る事もなく、上に跳んだ。
これ以外無いというタイミングは、
母さんとの呼吸が合っている証明だ。
その風魔法は、シャドウウルフに容赦なく襲いかかる
無数の刃。
致命傷にはならないだろう。
でも、効いている。
毛皮を切り裂き、確実にダメージを与えている。
跳躍した父さんは、受け身になった相手の隙を逃さなかった。
落下の勢いそのままに、剣を振るう。
音もしないほど、静かな斬撃——
次の瞬間、影は地面に伏せていた。
父さんは、まだ剣を降ろさない。
シャドウウルフが完全に動かなくなったのを確かめてから、
ようやく、ゆっくりと鞘に収めた。
母さんは僕たちをもう一度引き寄せると、
腕や肩、頭と、あちこちに手を伸ばして
怪我がないかを確かめてくる。
少しだけくすぐったくて、
僕は思わず小さく身をよじった。
「……大丈夫だよ」
そう答えると、
母さんは「ごめんね」と言った。
その一言が、胸の奥に引っかった。
(僕が手伝いをするって言ったのに……)
僕は、母さんのその顔から目を逸らして、
グッと唇を噛んだ。
「さぁ、もう帰ろう」
父さんが、空気を温めるように、穏やかに言った。
「とーしゃん」
父はイリスを抱っこして、一度森の方を振り返った。
まだ日があるのに、その光を飲み込んでしまうその森を、今日は一層不気味に感じた。
——それから、子供だけで村の外に出る事は、固く禁じられた。
村も少しだけ騒ついていて、なにか不穏な空気が流れた。
父さんも母さんも、眉間に皺を寄せて何か考えてるようだった。
なぜか聞いてはダメなような気がした。
そしてそれは、間もなく七歳になるある日の事だ。
父さんが、家の裏で地面に杭を打っていた。
弟子も増えたことで、新しく作業用の小屋を建てるらしい。
「この辺から、この辺までだな」
父さんは紐を引き、目測で距離を取る。
経験に裏打ちされた手つきだった。
その様子を、僕とティアは並んで見ていた。
「ねぇフェル」
ティアが、地面を見ながら言う。
「まっすぐってさ、どうやって分かるの?」
父さんが肩をすくめる。
「長年の勘だな。
曲がってたら、あとで分かる」
でも、僕の視線は
父さんの引いた紐と、地面の影の角度を行き来していた。
(……少し、ずれてる)
理由は分からない。
でも、頭の奥に引っかかる感覚があった。
「父さん……ちょっとだけ、待って」
落ちていた紐を三本拾う。
一本は短く、一本は少し長く、一本はさらに長い。
「それ、何だ?」
「……見てて」
言いながら、地面に杭を打つ。
短い紐。
その次に長い紐。
長さを合わせる。
「この二つを……3と4くらいにして」
ティアが目を丸くする。
「さんと、よん?」
「うん。
で、これが……5くらい」
一番長い紐を、二本の先に結んだ。
引っ張る。
きゅっと張った瞬間、
角が――不思議なくらい、綺麗に決まった。
「……あ」
自分の口から、思わず声が漏れた。
父さんが近づいて、角を確かめる。
木材を当てる。
「……直角だな」
もう一度、別の場所でも試す。
同じだった。
父さんはしばらく黙ってから、低く言った。
「勘より、正確だ」
ティアが僕を見て、ぱっと笑う。
「フェル、なんで分かったの?」
「……なんとなく……そうかなーって」
(この長さの組み合わせ……
図で何度も描いて、教えてきた感覚がある)
この日を境に、
そのやり方は、少しずつ村に広がっていった。
他にも、下げ振りを柱から垂らして垂直を測ったり、
水を使った水平の出し方も、同じように伝わっていった。
そして七歳になった。
森の件以来、変わらず村には少しピリッとした空気が流れていて、大人たちは四六時中、見張りを立てていた。
僕はというと、平和に過ごしていた。
でも事態は急に動いた。
それは、昼下がりのことだった。
裏庭で木片を削っていると、
家の戸が勢いよく開いた。
「フェル!」
母さんが、少し息を切らして立っていた。
「どうしたの?」
「領主さまの……遣いが来たのよ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「え?」
母さんは、僕の顔を見て、少し困ったように笑う。
「村長さんの家にね、
立派な服を着た人が来てるの。
それで……」
母さんは声を落とした。
「“最近、村で妙に正確な測定方法が広まっているが、
それを考えたのは誰だ”って」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
村長の家は、いつもより静かだった。
中に入ると、
知らない男が一人、腰を下ろしていた。
質の良さそうな外套。
無駄のない立ち居振る舞い。
男は、僕を見るなり、目を細めた。
「……君が、フェルディア・パスカルか」
「はい」
「最近、この村で使われ始めたやり方だが」
男は淡々と続ける。
「直角を測る方法。
柱を垂直に立てる道具。
水を使った水平の取り方」
一つ一つ、正確だった。
「それらを、最初に広めたのは――君か?」
村長が、ちらりとこちらを見る。
逃げ場はなかった。
「……はい」
男は、少しだけ口元を緩めた。
「そうかそうか」
一拍置いて、続ける。
「その技術と考え方を、
領主さまがたいへん面白がっておられる」
胸が、どくんと鳴った。
「ぜひ一度、
直接会って話がしたいとのことだ」
男は立ち上がり、
僕を見下ろして言った。
「近いうちに、迎えを出す。
心の準備をしておくといい」
そう言って、外套を翻す。
扉が閉まったあとも、
誰もすぐには口を開けなかった。
ただ、
僕だけが――
自分の手のひらを、じっと見つめていた。




