どこまでも いくよ これからも
待合室の壁には無残にも大きな傷がついている。簡単に持ち上げられないであろうウォーターサーバーが壁にめり込んで斜めに刺さっており、雑誌や紙コップは床に散乱していた。
最初に信玄に気が付いたのはエリザベスだった。
「信ちゃん!」
受付のカウンター上で魔夜と睨みあっていたエリザベスが飛び上がり、信玄に思い切り抱きつき熱いキスを交わした(ように結衣の角度からは見えた)。
「なんで、ここにいるの? 竜成君が亡くなった時に、信ちゃんはただの親知らずに戻ってしまったはずなのに」
「私のような偉大な親知らずは簡単には死なないのだ。竜成が亡くなる時に、一番心配していたのが悦子とベスのことだった。絶対に悦子が暴走するだろうから、止めて欲しいと頼まれていたから」
「はぁ⁉」
大げさに叫んでエリザベスはその場で大きく飛び上がった。そして、その後ろでどすどすと地団駄を踏んで叫び始めたのは悦子だ。
「冗談じゃないわよ。何が心配よ、何が暴走だって? 私はようやく私のやりたかった事をやってるの。心配してくれなんて頼んでないよ」
「女の身で会長選に打って出ようとしたり、対立候補を消しにかかったり。竜成は君がバカな真似をこれ以上しでかさないように、君を抑え込むために会長選にも出馬したんだ。そもそも婿入りも、君の両親からどうしてもと頭を下げられて断れなかったんだ。君みたいな気が強い女と、結婚したから、ストレスがたたって竜成は短い年月しか生きられずに命が尽きてしまったんだ」
「黙れ!」
悦子が怒り狂っている。結衣は、床に散らかっていた週刊誌を素早く拾い上げ、信玄を横から叩き落とした。飛ばされた信玄は壁に激突して床へと落ちた。
「何言ってんの? この歯科医院が続いてるのは悦子さんの経営手腕のおかげだっていうのは、ここらじゃ有名な話だよ。会長選とか正直どうでもいいけど、立候補なんて誰がしても自由なんじゃないの? 女だからどうとか、そんなこと関係あるか。やりたいことをやればいいじゃん」
「「そうだ、そうだ!」」
結衣の肩に飛び乗った魔夜と、エリザベスがシュプレヒコールを上げた。
「今だってね、竜司だけだったら歯科医院は潰れるよ。駅ビルにもロータリーにも新しい歯科医院がいくつもできてるし、歯科医院はここだけじゃないんだから」
「「そうだ、そうだ!」」
よろよろと立ち上がった信玄が、そんな面々を呆然と見ている。結衣はそのまま診察室へと大股で向かうと、壁際で這いつくばっている竜司に声を掛けた。
「待合室がぼろぼろだから、このままじゃ明日から診察できないよ。私たち、もう帰るから」
結衣は魔夜を肩に乗せて身を翻すと、そのまま歯科医院から飛び出した。
「よし、私もやりたいことをやる!」
吹っ切れたように結衣が叫ぶ。
「やりたいことって?」
住宅街を駆け抜けながら、結衣は魔夜に笑った。
「とりあえず、転職する!」
「賛成!」
魔夜が結衣の頭の上に飛び乗ってクルクル回っていた。
半年後。
結衣は転職活動の末に、品川にある医薬品会社の事務員として採用された。定年退職予定の女性から仕事を引き継ぎ、毎日新しいことを覚えるのに必死だ。
定時から一時間残業して、帰路につく。そうして最寄り駅まで戻ってくると、ロータリーに建てられた選挙用の立て看板が目に入る。ここ数日、地元の話題はこれ一色だ。
国政へと打って出ることを決めた増田悦子の衆院選選挙への立候補。
『福祉も 医療も なんでもやります なんでもできる!』
本当に、何でもできちゃいそうだもんな。
悦子の自信たっぷりの笑顔のポスターの左端には不自然な白い影が見える。エリザベスだろう。
結衣のトートバックからヒョイと魔夜が顔を出して、「何を企んでいるのやら」と呟く。
「とりあえず、今日は帰って焼き鳥とビールにしよう。何かあったら、魔夜と殴り込みでもかけてやろうよ」
ケヘヘ、と魔夜が笑う。結衣も、そんな魔夜を見て笑っていた。
最終話です。最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。よろしければ、感想などお寄せいただければ嬉しいです。




