世界智歯学会からの誘い
翌日。祝日だったこともあり、気分転換に一人と一本は東京駅からほど近い喫茶店にやってきた。十種類以上ある茶葉の中から好みの香りの茶葉を選び注文するのがこの店のスタイルで、魔夜もボンボニエールから出てきて興味津々で茶葉の入った茶筒の蓋の香りを嗅いでいる。
「ここ、いいですか」
黒い影が、結衣と魔夜の上に覆いかぶさる。何事かと思って見やると、大柄な男が一人テーブルの横に立っている。いいも悪いも言わないうちに、その男は勝手に彼女の向かいの席に腰をおろしてしまった。何かのスポーツをやっているのだろうか。白いTシャツの下からでも、大きすぎる筋肉がこれでもかと主張している。肩幅も首の太さも規格外だ。髪は短く刈り込まれているが、黒い
サングラスのおかげで表情はわからなかった。
「自分、こういう者です」
男はデニムのポケットから名刺入れを取り出し、一枚の名刺をテーブルの上に置いた。
『新中央日本プロレス所属レスラー 濱野翔』
「レスラーの方ですか」
ついつい結衣は下手に出て、名刺を受け取る。
すると、もぞもぞと濱野のTシャツの首元から何かが飛び出してきた。
親知らずだ。
テーブルの上で、まるでぶつかり稽古のように二つの親知らずが組み合った。カチカチと音がして、目にも止まらぬ素早さで二つの物体は交差し、やがて止まった。
「あんた、なかなかやるね」
「お前もな……」
魔夜と向かい合う様にして、その親知らずが挨拶をした。
「俺は濱野の親知らず、リッキー濱野だ。よろしく」
魔夜とリッキーは早くも打ち解けたようで、距離を詰めて何やらひそひそと話している。そんな中、濱野が結衣に声をかけた。
「実は、今日はお願いがあって来ました。ぜひ、次回の『世界智歯学会会長選挙』で票固めを手伝って欲しいのです」
チシガッカイカイチョウセンキョ? チシ、というのは智歯(親知らず)のことだろうか。結衣が考え込んだ時だった。
「ここの席、いいですか?」
隣のテーブルの横に大きなシルクハットをかぶったタキシード姿の奇妙な男が立っており、結衣
の了承も得ずにテーブルとテーブルとをつなげている。
彼のテーブルには、当たり前のように一体の親知らずが仁王立ちしていた。男が胸ポケットから優雅な仕草で一枚のスカーフを取り出し左右に振ると、スカーフがあっという間に一枚のカードになる。よく見ると『イリュージョニスト MASARU 』とキザな書体で、名前が印刷されている。
「あなたの親知らずの活躍は、風の噂で私のいるアメリカにまで届いています」
こう切り出してきたのは、シルクハット姿の男……MASARUだった。
「次の世界智歯学会会長選挙では、我々アメリカ支部にぜひとも協力していただきたい。協力していただけるのなら、あなたの望みをできうる限り叶えますよ」
「なぜ大庭さんと魔夜さんが君たちに助太刀しないといけないんだ。彼女たちが協力するのなら、当然この日本支部だろう」
強引な二人から、魔夜が結衣を守るようにして立つ。
「お誘いありがとう。でもね、私たちは誰とも徒党は組まない。そんな会にも興味はない。今のまま、楽しく結衣と暮らしたいと思っているの」
ブーブー。 二体の親知らずと男らが低い声で異議を唱えている。
「うるさい!」
魔夜の一喝で、彼らは大人しくなった。
翌週の水曜日。職場の壁に設置してある大きなニュース用端末に映し出された映像に、結衣はぎくりと身体を硬直させた。
『世界中でお口のトラブルが大勃発、米国で活躍する日本人著名イリュージョニストが来日記念公演の舞台上で失神』
瞬間的に、MASARUに間違いないと判断した結衣は机上のパソコンに素早く検索ワードを入
れていく。
「MASARU」
「濱野翔」
「プロレス」
「親知らず」
やはりそうだ。面白おかしく書かれているが、MASARU以外にも濱野翔という男が所属している新中央日本プロレス絡みのニュースも出てきた。所属するほとんどのレスラーが激しい歯の痛みに襲われ、地方での興行が全て中止になったらしい。
机上のボンボニエールから、するすると魔夜が出て来てパソコンの画面を覗く。
「昨晩から、あの男たちの親知らずの波動をまったく感じない。能力を失って、ただの歯に戻ってしまったのかも」
「それ、やばくない?」
焦る結衣に同僚が声を掛けた。
「大庭さん、5番に外線入ってます。増田さんという女性です」
電話は悦子からだった。
「こんにちは、結衣さん。あなたに話があります。もし断ったら、あなたにもあの(・・)人たち(・・)と(・)同じ目にあってもらいます」
受話器の向こう側から聞こえる悦子の声は、あいかわらず楽しそうだった。
「結衣、今日の仕事が終わったら『にこにこ』に行こう」
魔夜は覚悟を決めたようだった。
「大丈夫なの? あの人、どう考えても普通じゃないよ」
「でも、逃げるわけにはいかない」
結衣は魔夜の心配をしていた。力を失ったら、魔夜はただの歯に戻ってしまう。
「大丈夫。私は負けない」
不安そうな表情をしている結衣を励ますように、魔夜は大きく頷いた。
大好きな都築道夫リスペクト、ということでこういうことになりました。




