たのしい毎日
証券会社の朝会では恒例のアレがある。
結衣が勤める丸山証券は、茅場町に五階建ての自社ビルを保有している。営業事務のフロアは営業フロアと隣接しており、ビルの三階にある。八時半になると最上階から営業本部長が営業フロアに降りて来て、目標数字と損益分岐点がいかに数値目標に到達していないか、大声で怒鳴り始めるのだ。お世辞にも職場環境がいいとは言えない。
「お前ら、こんな数字でよく会社に来れるな。今月の手数料収入が達成できると思ってるのか、このバカ野郎!」
営業本部長が、怒鳴りながら壁に四季報を叩きつける鈍い音が響く。この嵐が過ぎ去るのを、自分のデスクで待つしかない。
「おい、今日は手数料いくらやるんだよ。三十はやれよ。数字つくれよ!」
数人の営業部員が椅子から立たされ、集中砲火を浴び始めた。
ゴン!
鈍い音がする。営業部に置いてあるクリスタルの灰皿が床に投げつけられた音だろう。
「野蛮な職場ねぇ」
ギョッとした。
あのボンボニエールが結衣のデスクに鎮座しているではないか。二度見、三度見しても、そこにあるのが当たり前のように景色に馴染んでいた。会社の個人ロッカーに確かにしまったはずなのに。魔夜の声は、結衣の周囲の人間には何一つ聞こえていないようだ。カタカタカタと音がして、ボンボニエールから親知らずの魔夜が出てくる。
「仕事する環境じゃないね。ちょっと私に任せて」
その瞬間、声を張り上げていた営業本部長の声が唐突に途絶えた。
さざ波の様に営業員たちの声が広がり、気の利く一人の社員が素早く席を立つと営業部へと覗きに行って、すぐに戻ってくる。
「あいつ、歯が痛くて失神したみたい! 泡吹いてます!」
魔夜がデスクで小刻みにタップを踏んでいた。
その後、営業本部長の意識はすぐに戻った。しかし、言葉を話そうとするだけで全身が痺れるように痛むらしく、救急車で近くの病院へと搬送されていった。
「魔夜って、もしかして最強の親知らずなんじゃないの?」
「およそ、歯の生えてる生物で、私に逆らえる者はいないわね」
帰宅後にボンボニエールから出てきた魔夜は、ベッドの上で寛いでいる。
「よかったら私専用の寝床を準備してよ。寝心地のいい、特別なやつをお願いね」
結子は魔夜を手のひらに乗せると「はい!」と頭を下げた。
毎日が楽しくなった。あれから、どこへ行くのも二人は一緒だ。
月末にまとめて相続書類を持ち込んできて、不備を指摘したら「女のヒステリー」と揶揄してきた営業部員には魔夜が鉄槌を下した。歯茎からの出血が止まらないらしい。社内の飲み会で、新入社員の女性の身体に触れた上司は、突然前歯が欠けたらしく情けない顔を晒していた。
最初は、その力を結衣の勤務する会社内でのみ振るっていた魔夜は、そのうちにどこでも好き勝手に力を使い始めた。裏金問題で糾弾されていた代議士や四股交際でマスコミから追いかけられている俳優まで標的にして、彼らを歯科医院へと送り込んでいる。
「歯槽膿漏から知覚過敏、歯根破折も細菌感染も、この私にかかればお手の物よ。フヒフヒフヒ……」
新聞やワイドショーを見ながら魔夜は笑って標的を探し、結衣の退屈な日常にも彩りがうまれた。そんなある日のこと、竜司から結衣に電話が掛かってきた。あの、変な液体を彼らに飲まされた日から三週間が経っていた。
金曜の夜、すっかり日も落ちた九時。竜司は、誰もいない待合室に座って結衣を待ち構えていた。
「まさか、こんなバカなことをやらかすとは」
「バカって何よ。それより、電話ではできない話って?」
魔夜が入ったボンボニエールは、結衣の膝上に置いたトートバックの中にある。カタカタと僅か
に揺れるのが伝わってきた。
「出すんだ」
「出すって?」
「知ってるぞ。絶対に君の親知らずの仕業だろ、ここ最近のバカバカしいニュースの原因は。低俗な問題ばかり起こすな」
すっとぼけようとしたが、それを遮るように魔夜がボンボニエールから勢いよく飛び出してきた。
「呼んだ? 低俗とは聞き捨てならないわね。私は今、生を謳歌しているところなの」
魔夜は結衣の肩の上に乗ると、クルクルと回っている。
「私に文句つけるんだったら、歯科医といえども容赦しないよ。あんたのお口も地獄にしてやる」
「俺は、君らに親切で言ってるんだよ。いいか、その力を好きに使うな。大人しくしとけ。さもないと……」
さもないと?
その続きを竜司は口にしなかった。




