私は魔夜
ちょっと不思議な、ガールと歯の物語をよろしくお願いします。
数年前から定期的に親知らずが痛む。
頻度によっては抜歯も必要だと歯科医師から言われているので、大庭結衣はかかりつけである『にこにこ増田歯科医院』に電話をかけて予約を取ることにした。
「今日の夜七時からの枠なら、お取りできますよ」
応対してくれたのは院長の母であり、実質的に歯科医院を取り仕切っている増田悦子だ。今回は前よりも激しく痛むと伝えると、
「わかっていますよ。そろそろですもの」
「そろそろ?」
何の話だろう。
「お待ちしてるわね」
悦子が明るく笑うので、結衣もよくわからないまま曖昧に笑って電話を切った。
仕事を終えて、結衣は自宅から近い『にこにこ増田歯科医院』に滑り込んだ。
結衣は営業事務として都内の証券会社に勤めている。大学卒業から勤続十五年。職場ではそこそこの中堅だ。両親と暮らす一軒家は千葉のニュータウンの端なのだが、駅周辺の再開発の流れを受けて地価がじわじわと高騰。駅直結のタワマンや商業施設などもできて、若い子育て世帯の間では人気のエリアになりつつある。彼女は、幼少のころから親しんだ町がガラリと様相を変えていくのを、他人事の様に眺めていた。
『にこにこ』は、この土地で三代にわたり歯科医院を続けている。無愛想で経営も下手な前院長を妻の悦子が積極的にサポートし、一人息子の竜司も歯科医に育て上げたというのが地元民の評判だ。悦子は駅前の再開発地区にも土地を保有しており、商業ビルとオフィスビルを誘致する計画もある。地元ではちょっとした有名人だ。
最近になって建て替えた住居兼医院は三階建ての一階部分が歯科医院で、上階には竜司と悦子が二人で暮らしている。
朝はじんじんと痛む程度だった結衣の歯は、今ではドクドクと脈打つように痛む。市販の痛み止めでは、まったく効き目が感じられなかった。
仕事にも支障が出た。痛みのせいで唯一の楽しみである昼食も楽しめず、上司からは「そんな怖い顔してると、男が逃げちゃうね」と茶化されたにも関わらず、歯の痛みのせいでろくに言い返せなかった。これは一刻も早く治療が必要かもしれない。覚悟して来院した結衣を迎えたのは、受付で微笑む悦子だった。
「悦子さん、こんばんは。朝から痛みが増すばかりで……」
「さあ、さあ。早く診せてちょうだい」
診察室に案内されて入ると、院長の竜司が渋い顔で寄ってくる。他の患者はいない。
「君の予約を受けてから、母さんは有頂天だ。前から悪さしてる右の上の親知らずだよな」
付き合いが長いので話が早い。早速レントゲンを撮ると、奥歯に対して完全に真横に突き刺さるようにしている立派な親知らずが映し出される。もう何度も見ている画像だ。
歯科用チェアに座って、画面に映し出された画像を結衣が眺めていると、何やら竜司と悦子が揉めている声が聞こえてきた。
「そりゃ、母さんの話はいつも当たるんだけどさぁ……」
「あの子はね……、あなたにはわからないんでしょうけど……」
ぼそぼそとした小さな声なのだが、悦子は上ずった声を出しているし、竜司はそんな母に完全に吞まれている。
「この日のために……! 朝露を集めてから……」
「勘弁してくれよ……」
よくはわからないが、二人は小声で話しながら歯科用チェアに座っている結衣のところまでやってきた。
「先に謝っておく。すまない」
竜司が結衣に頭を下げた。いつもは見ることがない、彼のつむじが此方を向いている。
「結衣さん、抜歯の前に少し試して欲しいものがあるのよ。これなのよ」
悦子から見せられたのは、透明の小瓶に入っている緑色のドロリとした液体だった。
「これをね、今からグイッとね」
オカシイ、と結衣の脳内アラートが鳴り響く。いやあ、そういうのはちょっと……、と腰を浮かそうとしたが、悦子が信じられないような力で結衣を押さえつけた。
「選ばれた人しか飲めない貴重なものなの」
奇妙な笑みを浮かべた悦子は、小瓶をグイグイと結衣に押し付けてくる。結衣は、もちろんそんなものは飲みたくない。しかし、心と裏腹に結衣の口は大きく開き、勢いよく小瓶の中味を飲み干してしまった。強烈な清涼感が結子の身体を貫く。大きな渦に、ぐるんぐるん(・・・・・・)と飲み込まれていく。いつの間にか、あんなに痛かった親知らずからは全く痛みが感じられない。
「ほほほほほ!」
悦子が笑っている。竜司は引きつった顔で結衣を見ていた。
翌朝。
「おはよう、結衣」
ベッドの中に親知らずがいた。ぼんやりしていると、見逃してしまいそうな小指の先ほどの大きさ。
親知らずが喋った。
しっとりと落ち着いた声。
親知らずは、つやつやとしていて、ぷっくりと膨らんでいる。
「私はあなたの親知らず。魔夜と呼んでちょうだい」
彼女はスッと華麗なお辞儀をしてくれた。
「今日は会社でしょう。私も一緒に行くわ」
「えっ、親知らずが?」
「私の名前は魔夜よ」
魔夜は元気よくベッドから飛び出すと、窓辺に置いてある銀製のボンボニエール目がけて思い切りよく飛び上がり、蓋を弾き飛ばして中に入り込んでしまった。
「歯と人は一心同体。離れたくても離れられない関係なの。今日はこれに入って移動することにしたから、よろしくね」
ワケのわからないまま朝の支度をすませた結衣は、通勤カバンにボンボニエールを入れると職場へと向かった。




