side 鏡堂 広太
大喧嘩して、見る見る意気消沈していった空の気持ちを全部無視してタクシーに押し込む。
死にたいとか、助けてもらいたくないとか、知らない。俺がそうしたいからそうする。以上。
逃げないように真ん中に座らせたけど、そんな元気もないって感じ。
「とりあえず元気になるまで寝て、起きたらご飯食べよう」
来客用の部屋に適当な布団を敷いた。床だからちょっと痛いかもしれない。これからは父さんが使っていたベッドで寝てもらおうかなぁ。
「…めん」
部屋のドアを閉める間際、よく聞こえなかったけれど多分ごめんって言った。
罪悪感や絶望感からくる謝罪だろうから聞かなかったことにする。
「空、心療内科に行かせた方がいいかもね」
居間に戻ると優がスマホを操作しながら呟いた。
「また喧嘩になるからもう少し落ち着いてからだな。それか往診。あいつ頑固すぎる」
俺はショートスリーパーだから少しうたた寝できればその日一日は元気でいられる。
毎日朝五時に起きて、エスプレッソ飲んで、しっかり朝ごはんを食べる。これが俺のルーティン。
コーヒーメーカーでエスプレッソを抽出しながら、一応、三人分の朝食を準備する。
「優は?朝食べる?寝る?」
「食べてから寝る。氷水ちょうだい」
早朝とはいえ夏本番。
無気力、気だるげ、無表情のコンピューターは、一日の稼働可能時間を超えてキャパオーバーしているらしい。
「朝からこんなもん飲んでたら内臓びっくりするぞ」
透明な円筒形のグラスに氷を八割、水を二割。優の氷水はこれじゃなきゃダメみたいだ。
氷まで食べ尽くすのがこいつのルール。できるだけたくさん食べたいんだそう。
病気になるぞ。
特に返事をすることはなく、氷をガリガリと噛み砕く音が響く。
「空」
台所でレタスを引きちぎっている最中、優が何かを呟いた気がする。
よく聞こえなかったからスルーでいいか。
「広太と二人きりで大丈夫かな」
俺の背中に話しかける優はどうせ無表情。それならわざわざ作業を止める必要はないだろう。
「どういう意味」
冷蔵庫の真ん中、野菜室に眠る大量のトマトを手に取り、軽く水で流す。
「二人だと喧嘩する」
切れ味のいい包丁でトマトをスライスするのは気分がいい。
「そうかもしれない。でも」
この期に及んで、家に帰せと言うのか。死にかけてるのに?空が帰りたいと言うから?
勢いよく包丁を置き、優が座るダイニングチェアへ振り向いた。
「でも、何」
俺は、予想外なことが起こると言葉に詰まるらしい。
『でも』に続く言葉を、一時的に忘れてしまった。
「空を家に帰せ、なんて言わないよ」
優の顔が、怒っているように見えた。
長い間一緒にいる中で、多少睨まれることはあったけれど、本気で怒ったり、笑ったり、感情を露わにすることがなかった優が、怒っている。
「感情がないと言われても、それは表面的な部分で、気持ちは広太と同じくらい、空を助けたいと思ってた」
言葉に抑揚こそないものの、顔には出ている。この言葉がどれだけ本気かってことが。
「だから、一旦は安心してるよ」
優はコンピューターみたいに正確でなんの間違いも犯さない。
俺が考えていることを読むのだって容易いのだろう。
そう思うから、今から言われることには、正面から向き合わないといけないのだと感じた。
「でも、広太を頼れなくなったら、本当に自分で、終わらせるかもしれない」
何をとは言わなくても分かる。空はいつもいつも、絶望感を抱きながら、闇を見ているから。空と暮らす上でとても重要なことを言おうとしている。
「まずは、二人が喧嘩しなくなるまで、俺もここに住む」
………え?
「は?別にそれはいいけど、お前ん家はそれでいいの?」
「勉強を辞めるわけじゃないし、多分、父さんなら話せば納得してくれる」
いつの間にかスッと肩の力を抜いて、いつもの無表情に戻っている。
張り詰めていた緊張感が徐々に溶け出す。
「んならいいけど、お前がいても、俺らの喧嘩止められたことないよな」
学校でも、病院でも、そばで見てるだけ。空の母親を制止することもできなかった。
やろうとしなかったのかもしれないけれど、こんなガリ勉もやしが本気を出したところで。
「喧嘩を止めるんじゃない。広太の癖を直す」
「はぁ?」
「俺と違って表現力が豊かなのは良いことだよ。それを、もっと客観的に見られるように。自分でブレーキをかけられるように。空の居場所を一番に考えて、すぐカッとならない訓練をして。俺が見とくから」
めちゃくちゃ大事なことだ。分かってる。俺がいつも喧嘩をふっかけている。だからあいつは俺を頼りたくないかもしれない。自分で蒔いた種だ。
「…分かった。キレないように、自制する。どうすればいい」
「うん。気持ちを伝えるときは、最悪、感情無しでも伝えられる。文章やイラスト、歌やジェスチャーでも」
「うん、お前の感情はなかなか読めねえけど」
「てことは、広太が今まで熱心に怒りながら伝えてきたことは、他の方法でも伝えられた。空は人の話をよく聞くから、どんな言い方をしても、真意を汲み取ってくれるはず」
嫌味を無感情でスルーできるスキルはさすがだ。俺だったら言い返してる。
「広太はなんでも決めつける癖がある。感情を武器にして相手を流そうともする」
思わず、『はぁ!?』と声を出しかけた。もしかしたらもう"訓練"が始まっているのかもしれない。大人しく話を聞こう。
「俺が無表情だから無感情だと決めつけてるよね」
図星だが、何も言わない。
「二人で勉強した期間中、空は俺の乏しい表情から、いくつか感情を読み取った。伝える気がそもそもなくても伝わった」
ならなんで俺の気持ち、理解してくんねーの。
「じゃあどうして自分の言葉はって考えたね」
「心読むなよ怖いから」
「広太は全部、顔に書いてあるんだよ」
「あー、そう。で、続きは」
「怒るから、煩わしく思われる」
「何も最初から怒ってたわけじゃ…」
「それから、自分の意見だけを押し付ける」
「強引にしなきゃ帰るだろ」
「それも決めつけ」
いつも隣にいるだけの優に叱責される日が来るなんて、思ってもみなかった。
俺は賢い。やればなんでもできる。怒られても、めげない強い精神。うん、最強。
「広太には個人的な恨みも少しあったのかもしれない。けど、強引にしなくても、怒らなくても、空は自分で考えて、夏木さんや斎藤の家に泊まりに行ってたよね。空は家に帰りたいんじゃなくて、相手が広太だから、違う方を選んだだけなんじゃないかって思うよ。
空の気持ちを黙って聞いたことはある?
広太が空を怒る度、空はきっと否定されたように感じてる。そんな相手と一緒に住んで、毎日否定されたらって考えたら、嫌じゃない?
否定したつもりはないだろうし、助けたい一心だったのも俺には分かるよ。空も本当は分かってくれてると思う。でも、余計な感情を必要としない空には煩わしく感じた。これからはなるべく静かに会話してみて。
怒らなくても伝わるから。それができるようになったって判断したら帰る」
いつだってあと少しのところで敵わない相手に言われると、言葉の重みってのがずっしりしていた。
見下されていただろうか。俺の上で、ずっと。
「もっと早く言ってくれよ、そんな大事なこと」
「こんな時にしか言えないよ。眠気でボーッとしてないと」
「はぁなんで」
「広太はいつも自信満々だから」
「当たり前だろ。それとこれとどう関係あんの」
「余計なこと言ってプライド傷付けても、眠気のせいにできる」
「はぁ?殴るぞクソもやし」
「暴言一語につき500円でどう?今のは、殴るぞ、クソ、もやし、だから1,500円」
手を出し、金を要求する天才を無視して朝食作りの続きを始めた。
熱々のコーヒーが飲みたいのに、すっかり冷たくなったエスプレッソを一気に飲み干す。
やっぱり、ホットコーヒーしか有り得ないな。




