アダムとアポロとサオリンと ②
死者を見慣れているといってもグロは駄目だ。沙織は気を紛らわそうと、趣味の料理のことを精一杯考える。しかし一度そんな想像をしてしまうと、おでんを作ろうと大根を輪切りにすれば、切り口から真っ赤な血が吹き出てまな板が血の海になることを想像したり、ネギを切ろうとすれば、『ネギを切るときは猫の手にしなきゃね』と、自分の指を見ると爪が無く、そこから真っ赤な血がドクドクと流れ出て、まな板が血の海になることを想像したりと、さらに自分の首を絞めるような恐い想像をしてしまう。
そんな脳内想像と戦っている内に、遂にそれが距離を詰めてきた。そしてそれは止まることなく、さらに沙織の背後に迫ってきている。
沙織は背中にインドの酷暑からくる汗ではなく、恐怖のあまり体から染み出す嫌な汗がツツーっと流れ落ちるのを覚知する。この幽霊は完全に沙織に照準を合わせて接触しようとしてる。それが悪意を持って接触してくるなら、沙織はまな板の上の鯉状態。それの機嫌一つでまな板の上が血の海になるだろう。
沙織の体が暑いのにもかかわらずガタガタと震え始める。
「いっいい沙織落ち着いて。私にはこんな時のために、知人が持たせてくれたもう一つの御守、霊を祓う御守があるわ。もしおぞましい幽霊だったなら、そいつにこの御守を投げつけて、ここから少し先にある寺院に逃げ込むの」
沙織は汗ばむ手で胸ポケットを探り、その御守を強く握る。それを心の支えにして呼吸を整えていく。そして覚悟を決め、一気に振りかぶりながら振り返る!
「ヒャッ」
謎の不審者はビックリした声を上げ、バタバタと建物の背後に隠れる。沙織は振りかぶった手を下ろし、尾行者が恐い幽霊でない事に安堵した。今度は逆に沙織が満面の笑みで不審者を追い詰める。
「今度は私のターンだよ~。おーい!隠れても無駄だぞ~。今すぐ出てきなさ~い!」
その声に建物からはみ出している部分がビクッと硬直する。しばらくするとあきらめたのか、オドオドしながら建物の背後からそろ~っと顔だけを出す。なんと私を付けていた不審者はトラの子供だった。
「や~~んカワイイ!どうしたんでちゅか~何にもしないから出ておいで~」
トラはオドオドしながら出てくる。ただしやはり普通のトラではない。何故なら二本足で直立歩行をしているからだ。だから早歩きするとバタバタとしていたんだなと沙織は納得した。
「あっあのごめんなさいでしゅ。でっでも悪い事しようとしたんではないんでしゅ。ただ寂しそうに歩いてたから元気づけてあげようと思って・・・ぼっ僕は密林の王者でしゅから、弱ってる人を助けてあげないといけないと思ったでしゅ。」
沙織の胸はキュンキュンとトキメク。
「そうなんだ。私を守ってくれるんだ。ありがとう~!でもお母さんは一緒じゃないの?一人なの?」
「お母さんはいないでしゅ・・・一人でしゅ。僕ずっと探したんだけどお母さん見つからないでしゅ。でっでも大丈夫でしゅよ。僕は密林の王者でしゅから泣かないでしゅ」
子トラは顔を伏せ、か細い声で答える。残念ながら沙織の予想通りの答えだった。まず、直立歩行である点、あとこちらの問いかけにまるで人間のように回答してくる点を考えると、この子トラは霊ではなく精霊に進化している。
精霊になれば生きている時には意思疎通が出来ない生物でも会話が出来るようになり、二足歩行も可能になる。さらには、精霊の意思一つで生者に接触する事さえも可能になる。
おそらくこのチビトラは数百年この地を彷徨っているのだろう。探してもお母さんは見つかるはずがない。沙織は数百年もお母さんを探し彷徨い続け、子トラ自身も寂しいはずなのに、それでも自分を気遣ってくれる子トラにツライ質問をしたことを悔いると共に、子トラの境遇に涙する。
「グスッじゃあ君、私と一緒に旅をしてくれるかな?君の言うとおり一人で寂しかったんだ~。どうかな?」沙織のその言葉にチビトラは顔を勢いよく上げ、目を輝かせて喜ぶ。
「いいでしゅよ!一緒に旅をするでしゅ。僕が守ってあげるでしゅ」
そう言うと子トラは沙織によじ登り頭に抱きつく。
「コラコラ、ハハハッくすぐったいよ~。そうだ、君はまだおチビちゃんだからチビトラ君って呼んで良い?私の事はお姉ちゃんって呼んでくれたらいいよ」
「いいでしゅよお姉しゃん!」
「よし!じゃあチビトラ君、行こっか!」
「行くでしゅ!」
チビトラはよほど嬉しいのかさらにギュッと沙織の頭に抱きつき髪をグルーミングし続けた。