アポロバター ③
沙織がそれを認識してからすぐに少年の手は枝を離れ、体は宙を泳いだ。沙織とアダムは間に合わないと目を逸らしそうになるが、そんな二人の目の端にアポロが映る。アポロは諦めてなんかいない。アポロは必死に少年の落下地点に向かって全力疾走する。
それでも間に合わないと二人は思ったが、急に二人の目からアダムの姿が消える。次の瞬間にはアポロは落下地点近くでヘッドスライディングしていた。土埃と木の葉が舞い子供とアポロの姿を隠す。二人が急いで駆け寄ると、そこには子供の下でクッションになっているうつ伏せ状態のアポロがいた。
アポロは間に合ったのだ。
子供は見たところ怪我など一切無く、意識もハッキリしていた。ただ恐かったのかワンワン泣いている。子供の状況に母親が気付き慌てて駆け寄ってきて怒鳴る。
「アンタ、あれだけ木登りしたらあかんって言うたのにまたしたんか!お姉ちゃんに心配かけて。謝り!お姉さんすいません。私がトイレ行ってる隙にこの子はほんまに。この子、木登り大好きでなんぼ注意しても登ってしまうんです。心配かけてすいません。ほれ謝らんかいな!」
「ごめんなさい」
「いえ、私は何も出来なくて。でも無事で良かったです」
少年は謝罪後、キョロキョロ辺りを見回す。
「なんやアンタはキョロキョロして落ち着きないな。財布でも落としたんかいな」
「いや、トラが守ってくれたんやけど、どこにもおらん思て」
「アンタ頭打ったんか。はよ病院行くで。トラがおるんは甲子園やろ。また甲子園連れてったるさかい、その時にトラッキーにお礼言い!」
二人が帰って行くのを見送った後、沙織はアポロの介抱しているアダムに状況を聞く。
「どう?アポロは大丈夫?」
「おう!全然大丈夫だぜ。サオリンも気付いてると思うが、オーラが急激に減少したりとかしてねえし、精霊に効く攻撃をされたりとかでもないしな、全然問題ないぜ。ただ・・・何故か起き上がらないんだよ」
沙織もアポロが無事だろうとは思っていたが、起き上がらないのは心配なので、後ろからアポロの両脇に手を入れて起こし、膝の上に座らせ顔を覗き見た。するとアポロはボロボロと涙を流している。
「どうしたのアポロ?どこか痛いの?」
アポロは首を横に振る。
「あの子と同じで恐かったのかアポロ?まあそりゃ怖えわな。八メートルくらいの高さから落ちてくる人間を子供とはいえ受け止めるんだからな。泣いても全然OKだぜ。それよりアポロ凄かったな。急に脚が速くなって追いついたし、それにあの子を受け止められるほどオーラを高めるなんて相当高度なことだぜ。無意識でやったかも知れねえが大したもんだぜ」
「アポロ凄いじゃない!よく子供を守ったね。エライエライ!」
沙織はアポロをいつも以上にモフモフする。しかしアポロの涙は止まらないし、いつも聞こえてくる喉を鳴らす音も聞こえてこない。
「・・・えっえっちょっとアポロ、本当に大丈夫?」
沙織が本気で心配しだしたその時、沙織の膝から飛び降り二人に向かってアポロが口を開く。
「サオリン、アダム。いっ今までお世話になりましたでしゅグスン。アポロは今からバターになってしまいましゅ」
血の気が一瞬にして引くアダム。
「これ以上全力で走ったらバターになっちゃうから全力疾走禁止と言われてましゅたが、アポロは密林の王者だから・・・。森で困っている者を見過ごす訳にはいかなかったでしゅよ。でもアポロは後悔してないでしゅから二人共悲しまないで欲しいでしゅグスン。明日の朝ご飯はバターを沢山使うホットケーキにしてくだしゃい。それにアポロバターをたっぷり付けて食べて欲しいでしゅ。とっても美味しいはずでしゅよグスン」
アポロは両手でゴシゴシと涙を拭い、無理矢理笑顔を作って二人に微笑む。沙織は心優しいアポロを笑顔で抱きしめ、耳元で「ちょっと待っててね」と囁く。
その後、振り返り逃げようとしているアダムの首根っこを掴む。
「おいこの馬鹿コギ!なんか聞いた事がある話なんだけど?お父さんから昔寝るときに聞かされた木の周りを走ったトラがバターになる話と似てるんだけど?あっちょっと待って。じゃあイギリス原産のコーギーをへし折ったら紅茶が涌いて出てくるのかしら?あらっ、ホットケーキにピッタリじゃない!確かめてみましょうか」
そう言うと、沙織はアダムを持ち上げ、アルゼンチンバックブリーカーの体勢に移行する。
「ぎゃああああああーーーー!サッサオリン、マジで止めて!腰に負担がかかるコーギーにこの技は危険過ぎるからああああぁぁぁーーーー」
30秒ほどアダムに苦痛を与えた後、沙織はアダムを投げ捨て解放する。酷い目にあったと腰をさするアダムの目の前に、ポスッとスコップが投げ置かれた。それはアダムとアポロがウンコを我慢できなくなったときのために用意していた物だ。
「うん?何だサオリン?スコップなんか投げて?」
「穴を掘れ。お前が入る穴だよアダム」
その無慈悲な言葉にアダムは沙織の顔を仰ぎ見ると、沙織はアダムを射殺すような、いやそんな生半可なもんじゃない、射殺して、燃やしてその上ロードローラーで踏みつけるような凍てつく視線をアダムに叩きつけていた。
アダムは冷や汗が止まらない。『マジや!マジやでこの人!』。しかしアダムはスパイである。この状況を逃れるための言い訳をすでに数通り思い付いていた。しかし失敗した場合、リアルに【YOU DIED】が目の前に表示されるだろうと思い、正直に話すことにする。
「ちょっちょっと待ってくれよサオリン!まず便所の件は悪かった。あれは何でも強がるアポロにお仕置きの意味を込めてやったって前の説教中に言ったよな?何でも強がってちゃ生き残れねぇ。恐いと感じる物からは逃げなきゃ駄目だからな。でも後から考えて俺はやり過ぎたのを認める。怒られても仕方ねえ。でも今回は事故だ。信号で止まってたら後ろから車が追突してきたような10対0の事故だ。俺は善意からトラがバターになる絵本の話をしただけなんだ!あの話って恐い話かサオリン?楽しい話だろ?でもトラの精霊のアポロにはホラーだったみたいで・・・まあ最期には調子にのって驚かしたけどよ・・・でも最初はただただ善意で話してあげただけだったんだ。許してくれよサオリン」
「・・・本当なのアポロ?」
「そうでしゅ。アダムは人魚姫の絵本を読んでくれたでしゅが、アポロには難しくて、分からなくて・・・そしたらトラの絵本のお話をしてくれたでしゅよ。アダムは優しいでしゅよ。だからサオリン怒らないで欲しいでしゅ」
沙織の脚にすがりつき、沙織の目をウルウルした瞳で見て懇願するアポロ。
「・・・そっか。まあアダムが意味もなくアポロに意地悪なんてしないこと知ってるけどね。でもアダム!あんまり怖がらせちゃ駄目よ。アポロにとって強がることはトラとして生まれた以上、必要なことかも知れないんだからね」
沙織の指摘にアダムはハッとなる。自分の生き方、汚い事をしてでも生き残る術をアポロに押しつけていたのではないのかと。しかしそれはアポロに何でもいいから生きていて欲しいと願うアダムの心からの善意なのだが。
「・・・そうだなサオリン。密林の王者だもんな。恐いからって引くことが出来ねえ場合もあるわな。今回の件も自分の命を投げ捨ててでも、森で失われようとした命を救ったもんな。何を捨てても生き残るってのは、誇り高いトラにとっては幸せじゃないのかもな・・・。すまなかったアポロ。トラはバターになったりしねえから安心してくれ」
アダムはアポロに頭を下げて謝る。
「アポロは全然気にしてないでしゅよ。また一緒にお昼寝したり絵本を読んだりして欲しいでしゅ」
アポロは頭を下げているアダムに飛びついてマウントをとり、顔をペロペロと舐める。
「サオリンもごめんな」
「もういいわよアダム。私の方こそ事情を知らないのに怖がらせて悪かったわ。アダムも恐い思いすれば、もうアポロを怖がらせたりしないかな~って思ったの。ごめんなさい。それといつもアポロの面倒見てくれてありがとね。感謝してるよ。今日は日頃の感謝を込めてアダムの好きな夕飯を作ってあげる」
沙織の機嫌が直って安堵したアダムは、沙織の提案にある食べ物が頭に浮かぶ。
「じゃあホットケーキを朝ご飯じゃなく晩ご飯にしねえか?アポロバター騒動がハッピーエンドってことで」
アダムがアポロの読み聞かせた絵本の最期もホットケーキを食べてハッピーエンドとなる。それにあやかり、アダムもホットケーキを食べたくなったのだ。
「アポロもそれがいいでしゅ」
お腹と喉を同時に鳴らすアポロ。
「フフッじゃあ決まりね。材料買いに行こうか。それじゃあ・・・車まで競争だーーー!」
沙織が勢いよく走り出すと、それに続いてアダムが走る。その後をアポロが必死において行かれないように全力で走る。三人の顔には笑顔が咲いていた。