アポロバター ②
トラ達の惨い結末と大声を出したアダムに驚き、アポロはベッドの布団にくるまり出てこない。布団が小刻みに震えていることから、思った以上に怖がらせてしまったことにアダムは後悔する。
「おいアポロ、大丈夫だから出てこいよ」
「だっ駄目でしゅ。もうアポロは駄目でしゅよアダム。さっさっき手を舐めてみたんでしゅが、ほっほんのりバターの味がするでしゅしゅ。アポロもバターになりかかってるでしゅー」
布団からひょっこり顔を出し、もう自分は助からないというような鬼気迫る表情で泣きながら告白すると、またすぐに布団に潜り震える。アダムは、だからそんなに布団の中で震えていたのかと理解するとともに、『アポロよ、それはお昼に食べたクロワッサンのバターが手に残ってただけだ』と突っ込みたくなったが、ここまで怯えていては信じてくれないだろう。そこでアダムは話をアレンジする事を思いつく。
「だから、まだ話は終わってねえから出て来いよ。トラのバター化を防ぐ方法が話の続きにあるんだからよ」
その言葉に一筋の希望を見いだしたのか、またひょっこりと顔を出すアポロ。
「ほっ本当でしゅか?」
「本当さアポロ、さあ俺の前に出てきてくれよ」
アポロは布団から出てきて、アダムの目の前にちょこんと座る。
「まず手を出してみろ」
バターになる自分を認めたくなかったアポロは、バターの味がしなくなるまでしゃぶり続けてベトベトになった手をアダムに恐る恐る見せる。アダムはここまで怖がらせてしまったことに罪の意識を覚えたが、それ以上にこいつカワイイ奴だなとほっこりした。
「話の続きだが、アポロと同じようにトラ達はバターになるのを恐れた。そこで長い間彼等はバター化について調べて一つの予防法に辿り着いたんだ。それは手相を調べることであと何キロ走ればバターになるかということを予測する事だ。えーっと、これがこうだから・・・良しアポロ、お前はギリギリ大丈夫だ。今日一日全力疾走しなければ、バター化は防げるぜ」
「ほっ本当でしゅかアダムしぇんしぇー。アポロは治るんでしゅか?」
アポロは両手でアダムの二の腕を掴み揺さぶる。
「・・・おっおまえ昨日見た医療ドラマの真似するなんて結構余裕あるじゃねえか・・・。まあいい、よく聞けアポロ。バター化は一週間に100キロ以上走った時に起こるんだ。その目安を知るには手の平のバター線を見るんだ。それはトラだけにある線で、走った量に比例して線が伸びるが、一週間で消える特殊な線だ。確かにアポロは限界ギリギリの100キロの目安まで線が伸びかけてるが、バター線もこの薄さじゃ今日がちょうど一週間目で間違いない。明日には消えて、また一から伸びるはずだぜ。アポロが100キロなんて走ってる事はないから、多分飛行機で飛んだ分の何百分の一かが足されたんだろうな」
「でっでもアポロにはバター線が見えないでしゅよ」
「おいおい、ここだよここ。ここにあるだろ? まあ一週間目の線の薄さは素人には分からねえよ。俺もこの線が見えるようになるまでに本で勉強したり、半年知り合いのトラの手相を見せて貰ったりしたからな。簡単にはいかねえよ」
アポロはアダムが指し示してくれた場所を何度も探したが見つけることは出来なかった。当たり前だ。そんな線はない。今日一日を乗り切りさえすればどうとでもなるとアダムが付いた嘘なのだから。しかしその嘘がアポロの表情を少し明るくし、体の震えを止めた。
「まあ今日一日全力疾走しないことだ。簡単だろ?それとこの事はサオリンには黙っとけよ。無駄な心配させたくないからよ」
アダムは、またアポロを怖がらせたことが、沙織にバレると怒られると思い口止めする。以前、みんなで心霊番組を見ていた時に、アポロだけが怖がって震えていたのだが「こっこんなの恐くないでしゅ。アッアポロは密林の王者でしゅしゅから」と強がっていたので、アダムはイタズラを思いついた。
アポロが夜中にトイレに行く時は、いつも恐くてドアを開けているので、赤い絵の具を溶かして血の色にした水をバケツで一気に流し込んだのだ。当然アポロは大絶叫をあげ、さらには子供用便座にお尻がはまってしまって動けなくなり、ガタガタ震えていた。
アポロの大絶叫に沙織が起きない訳がなく、アダムは「こんなの誰でも恐いわ馬鹿コギ!」と頭に拳骨をくらった後、死ぬほど怒られた。それから夜中にトイレへ行くことを、怯えに怯えたアポロをトイレに連れて行くのはアダムの役目になった。
そしてヤバイ事にその出来事があってからまだ二日しか経っていない。今度は沙織に殺されるとアダムは確信していた。そんな邪な考えをしているアダムと違い、純粋なアポロは、アダムの忠告に心から頷き、アダムとサオリンとの楽しい生活が続けられるように走らないことを誓う。
ちょうどその時、玄関のドアの鍵を開ける音をアポロの耳が拾う。帰ってくるのはもちろん沙織だ。アポロは嬉しくて玄関まで全力疾走しそうになるが、ギリギリさっき誓ったことを思い出し小走りで玄関に向かう。
「ただいまー!・・・・・」
沙織は笑顔で勢いよくドアを開けたが、「あれっ?」と思う。今までずっと玄関を開けたら、必ずアポロが沙織の胸に飛び込んできたのにそれがなかったからだ。沙織もそれを楽しみにしていただけに寂しく思うが、それ以上にアポロの体調が心配になった。
猫をペットショップから家に連れて帰ると、環境の変化によるストレスで体調不良になる子もいるからだ。トラに、それも精霊にそれが当てはまるのかは分からないが、インドの森から日本に来た事がアポロのストレスとなり、病気やホームシックになっているかもしれないと沙織は思った。
「ねえアポロ大丈夫?どうしたの?いつもは胸に飛び込んで来るのに」
「なっ何でもないでしゅよサオリン。あっ明日は飛び込みましゅから!今日はたまたまでしゅ」
アポロが焦っているのが手に取るようにわかる。この時ばかりはアポロの分かり易い性格が役に立つ。沙織はアポロを引き寄せ抱きしめた。それに呼応してアポロも沙織を抱きしめた。
「何でもないならいいよ。でも何かあったら言うんだぞアポロ。そうだ!今日は早く帰って来れたから、みんなでお散歩行こう!アダムが住んでた森ほど立派じゃないけど、木がたくさんある公園があるんだよ」
沙織は木が沢山生えている公園に行けばアポロの気が紛れるんじゃないかと思った。少しでも元気になって貰いたいと思った沙織は、二人を急かして車に乗せる。
「おまたせ!どう?山の中に作られた公園だよ。アスレチックって言う遊具もあるから一杯遊んでね」
「ワーーーイ!遊具が一杯でしゅ。サオリンありがとうでしゅ~」
「森の中に作られた公園か。面白いな。色々な訓練に役立ちそうだぜ」
二人が遊具に走って行くのを見て、沙織はやっぱり来て良かったと思った。ただ・・・アポロの足取りが重い。いつもならもっと元気一杯に走るのにと沙織は思う。ホームシックなどではなく病気?と思いながらも医者ではない沙織には分からないので、今は一緒に一杯楽しんで様子を見ようと二人を追いかけて行く。
「だっ駄目でしゅよ~揺らさないで欲しいでしゅよ~!落ちちゃいましゅよ~」
「ハハハッこの程度の揺れで何言ってんだよ。さあ、あとちょっとだ頑張れ」
吊り橋の踏み板が一枚毎にはずれている遊具で、踏み板を一歩一歩ゆっくり脚を伸ばして渡っていたアポロを見て、アダムは吊り橋の中心付近に陣取り、兄が弟を可愛がるような気持ちで揺らした。
ただアポロの歩幅などを考えて大して揺らしていない。この揺れに比べたら小学生が、仲間内で悪ノリして揺らす方がよっぽどヒドい。それに落ちたところで吊り橋の高さは50センチ程度だし、地面は土なので、トラの精霊のアポロにとって怪我をするほうが難しいだろう。
「頑張れ!あとちょっとだよアポロ!さあこの手を掴んで!」
沙織もゴールでアポロが来るのを手を伸ばして待つ。アポロはその手を掴もうと吊り橋を握っていた左手を沙織の方にゆっくりと伸ばす。しかし、それがいけなかったのか、アポロは体勢を崩し地面に落ちてしまう。
「大丈夫?アポロ」
心配になり急いで駆けつけたが、怪我などしていないようで、アポロは直ぐに立ち上がった。そして急に見た事もないような真剣な顔で、沙織の横を全力で駆け抜けた。
何があったのか分からず、確認するため沙織が後ろを振り返ると、沙織は目を剥く事になる。小学校低学年位の子供が、地面から八メートルはあろう木の幹にぶら下がり、今にも落ちそうになっていたのだ。