母と遺影
キキィー…ガシャーン
ドンドンドンドンドン
誰かが玄関のドアを叩く。
「あかりちゃん、あかりちゃん」
男の人の声が私を呼ぶ。
「はーい」
急いで玄関に出てみると、そこには2軒隣の家のおじさんが青い顔をして立っていた。
「あかりちゃん、お母さんが事故にあった」
「えっ!?」
おじさんの口から発せられた思わぬ言葉に、頭の中が真っ白になった私は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
私は倉本あかり。14歳の中学2年生。
一つ上の兄・拓也と母親の三人で暮らしている。
父親は健在だが、仕事のために少し離れた所で暮らしている。
所謂、単身赴任と言うやつだ。とは言っても遠方というほど離れてはいないし、帰ってこようと思えば何時でも帰って来れる距離なのだが、一人暮らしが気楽なのか、滅多に帰ってこない。そのくせ、ことある事に母を呼びつけては用事を言いつけている。なので私達兄妹も年に数回会うだけの日々が続いていた。
その日は6月の梅雨時だったが、久しぶりに雲の切れ間から光が差し込む日だった。
学校から帰った私はリビングで宿題をしていた。
「雨が止んでいるうちに買い物に行ってくるね」
そう言って母が家を出たのは、つい30分程前のこと。なのに、このおじさんは何を言っているのだろう?と、状況を理解出来ずにいた。
「とにかく、ちょっと一緒に来てくれるかな?」
おじさんの言葉で我に返った私は頷いておじさんの後について行った。
家を出て5分程走ったところで、おじさんが「そこだよ」と言った。
見ると、そこには母が蹲っていて、そばには様子を見に来た近隣の人達で人だかりができていた。
少し離れたところに原付バイクが2台止まっていた。どうやらお互い原付バイクに乗っていて、すれ違いざまに接触したようだった。
そもそも母は車の免許を持っていない。どこに行くのも原付バイクで出かけていたから、いつも気をつけるように言っていたんだけどな…と思いつつ、蹲っている母に声をかけた。
「お母ちゃん」
「あぁ、あかり、来てくれたん?」
「島田のおっちゃんが呼びに来てくれたんよ。びっくりしたわ」
「ごめんな。お母ちゃんもびっくりしたよ」
あっけらかんと言う母に苦笑しながらも安堵していたが、次の母の言葉に戦慄が走った。
「足の指、飛んでしもた」
「!?」
母が左の足元を指さしている。視線を指差す方に移して絶句した。左足の足首から下約半分ほどが血まみれになっていた。
「ちょっ…なっ…えぇ?」
言葉にならない声が、私の動揺を物語っていた。
程なくして救急車が到着し、母は病院に運ばれた。
救急車が来る少し前に、部活帰りの兄が通りかかり、現状を知って驚いていた。
私と兄も母と一緒に救急車に乗った。
事故当時、母は素足に雪駄履という出で立ちだった。いつもはちゃんと靴下も靴も履いて出かけるのに、この時だけ『 ちょっとそこまで行くだけだから、まぁいいか』と思ったと、後で聞いた。
母の左足は小指の骨が飛んでしまっていて、皮だけがぶら下がっている状態だった。
出血量をみたかぎりでは、2~3本の指が飛んだのかと思うほどだったが、小指だけで済んだのは不幸中の幸いだと言えるのかもしれない。が、転倒した際に負った全身打撲もあり、母はそのまま入院することになった。
幸い大きな怪我は足だけで、あとは検査入院のようなものなのだが、それでも母親が入院するということは、14歳の私にしてみればまさに青天の霹靂であり、かなりショッキングな出来事だった。
そのショックのためか、この時、私の精神状態は限りなく疲弊していたのかもしれない。
まさか、あのようなおぞましい体験をするなんて、この時は夢にも思っていなかった。
母は3日後に退院出来たが、左足の小指を失ったためバランスが取りにくく、自由に動くことが出来なかった。そのため、自宅でも寝ている時間の方が多かった。
母が少しでも早く回復するようにと、私は毎日仏壇と祖母の遺影に手を合わせていた。
それからしばらくしたある日、その現象は起きた。
朝、起きてみると、いつもと同じ風景、同じ空間、何も変わりはないはずなのに、何かが違う。どこが?と聞かれても答えられない。でも何か違和感がある。まるで空間が歪んでいるかのような気持ち悪さと、言いようのない不安感。
「なんだ?これ。なんか変」
声に出してみても何も変わらない。
私、疲れてるのかな?気のせいかな…うん、きっと気のせいだ
自分にそう言い聞かせて、その日も学校に行った。
学校ではいつもと何も変わりなく、普通に過ごせた。
やっぱり気のせいだったんだと、思っていた。
「ただいまー」
家の玄関を開けた途端、朝感じたあの例えようのない不安と違和感が押し寄せてきた。
「おかえりー」
母の声だ。
いつもの元気な声に、違和感も不安も一瞬で消え去り、急いでリビングに来てみると、母がキッチンに立っていた。
「お母ちゃん、動いて大丈夫なん?」
心配そうに聞く私に、母は
「うん、もう大丈夫やで」
と笑って言った。
この時、気付くべきだった。
母の目が、笑っていなかったこと。
何より、バランスが取れなくて自由に動けない母が、キッチンを自在に動き回っていたこと。
だが、母の元気な声と姿を見た私は 、嬉しさのあまりそんなことすら忘れてしまっていたのだ。
それでも、その後の母とのやり取りに次第に違和感を覚えるようになった。
「今日な、学校で先生にお母ちゃんのこと聞かれたよ」
「え?先生?先生って…?」
「へ?先生は先生だよ。担任の大野先生。お母ちゃんも知ってるやん?」
そう、母が知らないはずはなかった。
大野先生は1年の時からの担任であり、家庭訪問や授業参観などで、何度も会ったことがあるのだから。
「あ…あぁ、大野先生ね。お母ちゃんちょっとド忘れしてたわ。で、なんて言ってたん?」
「あぁ、えっとね、お母ちゃんもう動けるようになったか?って」
そこで私ははたと気付いた。母が動き回っていることに。
「てか、お母ちゃん、そんなに動いて大丈夫なん?昨日まで殆ど動けやんかったのに、そんな急に動けるようになるもんなん?」
「.........。」
母は黙り込んでしまった。
「お、おかあ…ちゃん?」
この時、朝から感じていた違和感はMAXまで達し、その違和感は母から漂っていることに気付いた。そして、母とは違う別の気配を感じたのだ。
「?!」
空気が重い。圧迫感と重圧感が押し寄せてきて、私はその場に座り込んでしまった。
母がゆっくりと私に近づきながら口を開く。
「お母ちゃんなぁ、足の指なくなってしもたんよ。今までみたいに動かれへんねん」
母の声は、次第に母のものではなく、嗄れた老婆のような声に変化した。
私は何が起きているのか分からず、ただ固唾を呑んで座ったまま後ずさっていた。
声だけでなく、母の顔も少しづつ違うものへと変貌して行った。それは更に続けて言った。
「だから、お母ちゃんはもう役に立てへんやろ?そやから変わったろと思ってな」
「な、何言うてんの?変わるって何を変わるって言うんよ」
「お母ちゃんとワシがや」
「え?」
「お前のお母ちゃんはもうおらへん!ワシが取って代わったったさかいなぁ」
そう言って、それはケタケタと不気味な笑い声をあげた。
全身の血が凍るような恐怖が私の中を駆け巡り、涙目になりながら卒倒しそうになるのを堪えて『それ』を凝視した。
その者は既に母ではなく老婆だった。だが、どこかで見た顔。どこで?
「はっ!」
一瞬の思案の後、私はあることに気がついた。
まさか、そんな馬鹿な。でも、あの顔は確かに……
恐怖で震え、もつれる足を何とか動かしながら這うようにその場を離れた私は仏間へと向かった。
仏壇の横上、そこに飾ってある祖母の遺影。
何とか仏間にたどり着いた私は、徐ろに祖母の遺影を見上げた。
瞬間、私の思考は停止した。
遺影の中に写っていたのは祖母ではなく、紛れもない母の顔!
驚愕に満ちた顔で言葉も出せずに遺影を見つめる私。
遺影の中の母は張り詰めた顔で何かを言いたげに見える。
そう、母は遺影の中の祖母と入れ替わっていたのだ。
「なんで…こんな…」
涙が溢れてくる。
視線を遺影から外し、仏間の戸口に移した。
そこには足音もなく忍び寄ってきた祖母の姿をしたものが、ニタニタと不気味な笑を浮かべながら立っていた。
私の中に恐怖はもうなかった。
その代わりにとめどない怒りが湧き上がり、私は『それ』に詰め寄っていった。
「なんでこんなことするの!返してよ!!私のお母ちゃんを返してよ!!!」
私の叫びに『それ』は答えず、薄ら笑いを浮かべたまま
「次はお前の番だねぇ…お母ちゃんの所へ送ってやるよ」
そう言って私の首に手をかけてきた。
息が出来なくなり、意識が朦朧としてきた時
「あかり!」
母の声が聞こえ、直後に
パリーン
何かが割れる音。
薄れゆく意識の中で、母と祖母が取っ組みあっているのが見えた。それはやがて白い光に包まれて消えていった。と同時に私も意識を失った。
気がついた時は朝だった。
仏間で気を失ったはずなのに、目覚めたのは自分の部屋のベッドの上だった。
「え?夢?」
腑に落ちない私は仏間へと足を運び、恐る恐る遺影を見上げてみた。
そこにはいつもと変わらない祖母の顔。遺影には割れたような形跡もなかった。
「なんだ、やっぱり夢だったんだ」
安堵して、キッチンに向かった。
「おはよう」
母がびっこを引きながら朝餉の支度をしている。
「おはよう、手伝うよ」
母を手伝いながら、安堵感から涙が出てきた私に
「どうしたん?」
と、聞く母。
「ちょっと怖い夢見てね、でも大丈夫だよ。お母ちゃんの顔みたら安心してん」
少し照れながらそう言った。
すると母がこんなことを言った
「そうなんか。そう言うたら、お母ちゃんもなんか変な夢見たような気がするんやけどね、なんかもう忘れてしもてん」
一瞬ギクッとしたけど、まさかねとその思いを打ち消した。
それでも何故か言ってみたくて、
「もしかして、同じ夢やったりしてね」
冗談半分に言ってみた。
「まさかァ」
母もそんなバカなとばかりに笑いだし、私も一緒になって笑った。
「手伝いはもういいから顔洗っておいで」
「はーい」
母に促されて洗面所に行き、鏡の前にたって愕然とした。
私の首の周りには痣ができていた。
まるで首をしめられたかのような、指の跡のような痣が…。
おしまい。