おばあちゃん
家に着いて門を開き、ドアの鍵を開けた。閑散とした空気が初春の風に乗って体中を撫でた。
「ただいまー」
と呟くが、もちろん答えは無い。
両親は二人とも自分の好きな事を仕事にしていて、常にイベント事やら展示会やらで日本だけでなく世界各地を飛び回っていた。
そんな父や母に付いていけばまともに学校に通うことも出来ないと考えた両親は、祖父が他界して一人暮らしをしていた祖母のもとに僕を預け、おばあちゃんっ子として小学生の一〜五年生まで日々なんの不自由もなく楽しく暮らしていた。
小学校六年生の春休み。今から丁度一年前頃だった。
桜の花が今にも咲きそうな綺麗なつぼみたちが河原や並木道を彩り始め、温かくて麗らかな心持ちで友達と遊んで帰ってきたところだった。
「ただいま!」
・・・・・・・・・。
いつもすぐに聞こえる「はいよー」というしゃがれた声が聞こえなかった。買い物はいつも必ず一緒に行くからその線はなし。出掛けているのかな?と思ったが僕に何も言わずに用事へ出掛ける祖母ではなかった。
嫌な予感がした。
開けっ放しのドアから入ってくる風が、冷たいものに変わっていた。肌が泡立つのを感じる。そして血の気が引いていっていることも。
「おばあちゃん?」
居間の扉を開くためにノブに手を伸ばす。
キイイイイイイイイ・・・・・。
いつも聞いているはずの音が奇妙で恐ろしく耳を不快にざわつかせる。
右手にはまだ肌寒い日があるからか出したままのコタツ。左にはダイニングテーブルが四人分の椅子と共に収まっている。
緊張していつのまにか足音を消すように歩いていた。コタツの周りを回っていると、そこに祖母はいた。
普段の明るくて「優ちゃん」と呼んでくれる優しい祖母はそこに無く、青白い顔と紫色に変わった唇の祖母のような物があった。
「あ・・・・ああ。お、おばあちゃん?」
揺すって起こそうとするが反応が無い。焦る気持ちが強くなりパニックを起こす。僕はどうすればいいんだ?おばあちゃんを助けたい。その気持ちだけが先走る。
そうだ。救急車に電話しよう!あれ、番号なんだっけ?110?119?どっちだ?分からない!そうだ!お隣さんに聞こう。僕はお隣さんの家のインターホンを押してすぐにドアを懸命に叩いた。子供ながら祖母に命の危険が迫っていることは分かっていた。
しかしお隣さんは出てこない。反応すらない。時間を無駄にした。今の祖母にとって大切な時間を。
更に隣の家を同じように訪ねた。また無反応だった。春休みといえど大人は仕事に出ている。じゃあ子供がいる大人ならいるかもしれない。
一番近所のみっちゃんの家ならお母さんがいるかもしれない!行ってみよう!
と思ったが、みっちゃんの家まで走っても五分はかかる。この時初めて田舎に住んでいる事を恨んだ。そんなことしてたらおばあちゃんが!
そうだ!携帯!携帯で調べよう!
焦ってパニックになっていたためようやくそこに思い至ることが出来た。悔やんでいる時間も余裕も無く、親から持たされていたスマートフォンをポケットから取り出して調べた。
「119か。もしもし、おばあちゃんが大変なんです!」
一言目にそれを伝えた。
『落ち着いて下さい。近くに大人はいますか?』
僕の声質から子供だと読み取ってくれたのだろう。自分の高い声が嫌いだったが、この時はとてもありがたかったと今は思う。
「いません。田舎でだれもいないんです」
『分かりました。分かる範囲でいいのでおばあちゃんの様子を教えてくれるかな』
外に出ていたのでダッシュで家に戻りながら息切れ混じりの声で話した。
「顔が真っ青で唇が紫色でした。揺さぶっても起きなくて」
『そうですか。分かりました。すぐに救急車を向かわせるので住所を教えて貰っていいかな』
「ご、ごめんなさい、ちょっと待って貰っていいですか?」
『はい』
僕は自分の住所を覚えていなかった。二ヶ月前に年賀状を出すのに書いたばかりだが、それらは全ておばあちゃんに教えて貰いながら二枚目以降はただひたすら写すだけの作業となっていたため、福岡県までしか覚えていない。
そうだ、年賀状だ。逆に友達から送られてきた年賀状に僕の住所が載っているはずだ。それを見れば・・・・。
二階に駆け上がって机の引き出しを乱暴に開けた。
「あった。えっと言っても大丈夫ですか?」
『はい。お願いします』
そうして住所を伝えることが出来、田舎なので救急車の到着が遅く、僕がおばあちゃんの異変を発見してから消防署に連絡するまで十分、そして救急車が到着するまでにかかった時間は二十分。合計三十分もの間、おばあちゃんは放置されていたことになる。
子供の僕に応急処置の知識はおろか、そういうものがあると気付く思考すらなかったのだ。
僕はおばあちゃんを連れた救急車に乗せられて救急病院へと運ばれた。