終章
村にけたたましい音が響きました。
空から何かが降って、村の中央に大きな穴が開きました。
「天で暴れおった神が落ちてきたか」
村人は恐れて穴に近づきませんでした。焦げ臭い匂いと静寂が村を包みました。村人たちは穴から神が出てくれば、村はひとたまりもないことを分かっていました。そこへ何も知らない子供がわあああと野原から駆けだしてきました。
「あ、こら」
大人たちが止めようとしたのも間に合わず、子供たちは煙立ち上る穴へと駆けていきました。
「おとう、すごい穴じゃ」
「離れろ、逃げるんじゃ」
大人が叫んだ声も虚しく、子供たちが覗こうとした穴から大きく黒い化け物が姿を現しました。子供たちはさっきまでの元気をあっという間に無くしてしまい、足を震わせながら山のような化け物にただただ怯えました。
動けない子供の一人を陽神がつまみ上げました。他の子供たちはわんわんと泣き出します。
「……泣かずともよい。童よ、寛太という名を知っておるか」
つまみ上げられた子供は泣きじゃくって手足をばたばた宙で振っています。陽神はゆっくりと子供を地面に降ろし、頭を撫でました。
「この容姿じゃ。怖がらせたのう。すまぬかった。誰か……寛太という病に伏した子供を存ずものはおらんか」
まだ村の者たちは真っ黒に焦げた陽神を畏れ、声を出せないでいました。穴を覗きに行った子供たちは大泣きして自分の親の元へ走って逃げました。そこへ、一歩前に出たのが村の長老でした。
「……その風貌は、陽神様ですかな」
「いかにも。寛太という童を知っていようか」
長老はしばし迷いました。神とはいえ、われら人間にとっては厄神。そうやすやすと寛太を差し出すわけにはいかぬ。これだけ傷だらけであれば、村の力を結集して戦えば何とかなるかもしれぬ……。そう長老が頭に巡らせたとき、案じた陽神が先に口を開きました。
「おぬしが村の長老であるな。考えは、あい分かる。じゃが、聞いてほしい。わしは見ての通り。命はわずかである。端的に申す。わしは寛太の姉より命に代えた願いを授かった。……この米じゃ。この米を寛太に食べさせてほしいとの命を受け、わしはここに来た。案内してはくれぬか」
陽神は紐のちぎれた小さい麻袋を長老に見せました。
その袋は村に伝わる織物で、女の子が十歳になると母親から送られる大切な袋です。そして、陽神が見せてくれた麻袋はつい先日十歳を迎え、母親とともに雷に打たれ命を落としたと言われていた女の子のものでした。
「それは……。つるという娘のものです。確かに寛太の姉でございます。分かりました。寛太は東の外れにおりまする。皆の者、この陽神様はつるの願いを叶えにこの村へお越しいただいた。丁重に寛太の元へ案内せい」
長老がひときわ大きな声で号令をかけると、村人たちは陽神への恐れを忘れ、機敏に動き出しました。ある者は陽神に肩を貸し、ある者は陽神の身体中に薬草を貼り付けました。
陽神の身体はまことに重く、それだけ力が無くなっていることに肩を貸す者は気がつきました。その身体で寛太に米を届けに来てくれたという感謝の念で涙を溜めました。
寛太は小さな家の奥で床に伏しておりました。
「童よ。おぬしが寛太か」
もう天井を突き破ろうかというくらいに大きな陽神が床の隣で寛太に語りかけました。
どの子供も泣きじゃくったその姿に、寛太もさぞ怯えるであろうと村の者はみな心配しておりました。ですが、村人の心配をよそに寛太にはまったく動じる様子はありませんでした。
「……寛太でございまする。お姉から、お姉から聞いております」
寛太は小さな声でそう言いました。村人たちが、はて、と理解できぬ中、陽神だけがじっくりと頷きました。
「……そうか。童ながら見事なり。おぬしの姉も見事なり。まことに通じ合うもの、心だけで充分ということじゃ」
陽神は潰れた目で笑みを浮かべました。
村人たちがお茶碗一杯ほどの米を洗い、炊きました。
「寛太よ。起きて食らうのじゃ」
寛太は震える手を踏ん張って身体を起こしました。陽神の組む胡坐の前で正座し、手を合わせ、米を食べました。寛太は涙をおいおいと流しながらその米を食らいました。一粒も残さず食べ終えると、寛太は深々と陽神にお辞儀をしたのでした。
「……病は治るはずじゃ。今おぬしが食らった米は普通の米ではない。病があっという間に治ると言われている米じゃ。おぬしの姉がそれをわしに託した。じゃから、寛太よ。約束じゃ。病をすぐに治すのじゃ。おぬしなら、できるな?」
陽神はゆっくりと聞かせるように言いました。
「分かりました。ありがとうございます」
先ほどまで床に伏していたとは思えぬ、凛と伸ばした背筋をして寛太は陽神に答えました。まだ歳も四つの寛太の振る舞いはおそらく陽神のおかげでした。村人は心から陽神を敬うのでした。
「……うむ、立派な姉弟である」
陽神は寛太の頭を撫でました。ぼろぼろに皮が捲れた陽神の手は心地よいものではありませんでしたが、寛太はその感触を何年も何年も忘れることはありませんでした。
寛太の家を出ると、村人みなが地に這い、陽神に頭を垂れておりました。
「陽神様、ありがとうございます」
「陽神様、ありがとうございます」
もう陽神の目はほとんど塞がっておりました。振り絞って、村の者に語りかけました。
「人間どもよ。もう、おぬしらに敵うものはこの地には存在せん。おぬしらの時代じゃ。じゃから、忘れるでない。わしがこれから言うことを忘れるでないぞ。弱きものを守れ。強きものを討て。弱きものを守るもの、必ずや平穏が訪れよう。……弱きものを討たんとするとき、また神たちが人間たちの前に現れようぞ」
そう告げると、長老をはじめ、村人たちは大きく頷きました。もうあまり見えない目でも、陽神は村人たちの目の光を感じることができました。
風神よ、雷神よ、わしらはやはり少し間違っておった。そう、思うぞ。
「……ひとつ、願いがある」
「なんですじゃ。心おきなく」
陽神は山のてっぺんを指しました。
「……あの山の頂上へ連れていってくれぬか。連れて行ってくれれば……もうそれで良い。すぐ山を下りれば良い」
「わかりました。すぐに支度を」
長老は村の若者に声をかけ、荷車を二つ用意させました。二つの荷車でも陽神の身体が入りきれないと見るや、村の大工は素早く大木を継ぎ、釘を打ちました。
「持ち上げまする。よいですか」
村の若者が問い、陽神はゆっくり頷きました。
村の若者はきつい勾配を一所懸命押しながら陽神を運びました。なんせ三倍もの体躯をした陽神を山のてっぺんまで運んであげなければいけません。初夏の暑さがじっとりと若者たちの身体に沁みこみます。たまにある大木の木陰で休んでは、うんせほいせと汗かきながら陽神を運んでいくのでした。
「……人間の若者たちよ。問うても良いか?」
「はあ……はあ。何でございましょう」
若者たちは息を切らしながら返事をします。
「木陰で休むのは心地よいであろう」
「ええ、それはもう」
「ずっと木陰が続けば、楽であろう」
「それは、ごもっともでござる」
陽神は童のような若者たちの答えにふふと笑みを浮かべました。
「これはおぬしたちが切った木じゃよ。これからでも遅くはない。木を植えると良い」
「ははあ」
太陽が一番高いところにあがった頃、若者たちはついに頂上まで陽神を運びました。
「ご苦労であった。あの、あの木の麓へ」
よいしょおお。
若者たちが残った力すべてで陽神を持ち上げ、指差された大樹の麓に陽神を運びました。一人の若者が木のもとに横たわる人に気がつきました。
「つる! つるではないか。なんと無残な姿に」
火傷と擦り傷とで見ることも憚れるおなごの姿にその若者はおいおいと泣き出しました。
「……そのおなごの最期の願いが寛太に食わせた米じゃ。願い叶ったり。そう伝えてあげたかったのじゃ。皆の者、すまぬのう。もう、麓へ降りよ」
運んできたすべての若者が涙を流していました。よほどできたおなごだったことを陽神は改めて知るのでした。
「つるを、連れて帰ります」
一人の若者が言いました。
「それはならん。そのおなごはそれを望まず。寛太を皆で介抱せよ。身体が治り、寛太の足にてここへ参るのが、このおなごの本望であろうぞ」
若者たちは揃って頷きました。若者たちは陽神に深々と礼をし、必ず寛太を連れてここへ来ると言い残し山を下りていきました。
木々の間から木漏れ日がさしています。陽神はつるという名のおなごのそばで横たわりました。
つるは傷だらけの身体とは裏腹に柔和な表情で木漏れ日を浴びていました。
「……ふう。ここまで疲れたのは初めてじゃ。わしの命もあと一刻。報告に参ったぞ」
きらきらと陽の光で輝くつるの顔が笑ったように見えました。
「喜んでくれるかよ。寛太は必ずおぬしを迎えに来るであろう。楽しみにしておれ。……われ、弱きものを守る神、陽神なり」
陽神は目を閉じました。
太陽から一筋の柔らかな光が陽神の身体に落ちました。陽神の身体はゆっくりと粉のように崩れ、風に吹かれていきます。陽神の大きな身体がすべて粉となり、照っていた太陽が雲に隠れました。
しばしの時が経ちました。
陽神が化した粉が山のあらゆるところに風で飛ばされておりました。もう、陽神の姿を想像することもできません。静かな山の揺らぎと横たわるつるの亡骸だけが、ただありました。
その時のことでした。
雲から太陽が顔を出し、山を照らした時です。
陽神であった粉が陽光を浴びて、いたるところで輝き出したのです。禿げた山のあちらこちらから天を目指して芽が生えてきました。芽はぐんぐんと伸び、真っ直ぐに天に向かいました。そして、太陽に向けて大きな黄色い花を咲かせていきました。山じゅうを真っ黄色の向日葵が覆いました。赤茶けていた山が眩しい太陽色に染まりました。
風神と雷神は山のはるか上におりました。
風神と雷神の動きを止めていた太陽の輪が光を放ち、ゆっくりと溶けるように消えていきました。陽神の命が消えたことを知り、二人の神は太陽を拝みました。
「おい、雷神よ」
「……何ぞ」
風神は眼下を指差しました。
「見よ。……美しい」
雷神は眼下に広がる真っ黄色の景色をただただ見下ろしていました。
そよ風が吹きました。
優しいぽつとした雨が落ちました。
雲の隙間から柔らかい陽の光が大地に差し込んでいました。
「我は、しばし、雨に戻る。また人間どもが許されぬとき、我はいつでもまた雷神となろう」
風神は怒りに満ちていた雷神の表情が緩むのを初めて見ました。
「雷神よ、ひとつ頼みがある」
「なんだ」
「お主のその雷……」
風神がそこまで言うと、雷神は風神の前に手のひらを広げ、風神の口を止めました。
「みなまで言わずともよい。お主と陽神の意、今では我も理解できようぞ」
雷神はそう言って、指先で小さな雷を作りました。
「ほんの数刻の命である。しかと見よ」
雷神はその雷をおなごへと放ちました。おなごの身体が小さく揺れ、おなごはほんのわずか目を開けました。
「……わああぁ、きれい……」
おなごは、またゆっくりと目を閉じました。閉じた目は幸せそうな目をしておりました。
風神はひとつゆっくりと頷き、そのまま風になりました。
「人間どもめ。……陽神に感謝することを……祈っておるぞ」
雷神は静かな雨に打たれ、そのまま優しい雨粒となり、人間の住む大地へ落ちました。
恵みの雨として。