3-2
自分はいったい何に熱を上げればよいのか。
何、など分かりきっている。しかし、自分の頭のすぐ上にあるのはひどく分厚い壁だ。だから事は慎重を要する。排除されないように上手く立ち回らなければならない。
こんなところで油を売っている暇などなかった。しかし立場上、これから数日に渡って似たような会合に何度も参加しなければならない。
考えるだけで気が滅入ってくる。そもそもゲインのやつが吹っ切れてさえしまえば話が早いというのに。そうなるよう色々と手を回しているのだが、いつまでたってもあの男は煮え切らない態度を取り続けている。
浮かない気分を紛らわせるため、隣の相手に小声で話しかける。
「調子はどうかね」
マクディーアは緊張で顔を赤くし、手拭で汗をぬぐった。
「その、おかげさまで」
「それは何より」エシオンは大抵の男が魅力的に感じるであろう笑みを意識して浮かべた。「私の方はここのところ、とんと暇でね」
マクディーアがそれと分かるほど狼狽する。面白くもない見世物にエシオンは手を振った。この国のみならず、近隣においてエシオンの素性を知る者はどこの誰もがこのような反応を示すが、この男はそれに輪をかけたような醜態を演じる。臆病が性根に染み付いていた。趣味ではなかったが、だからこそ目端が利くという一面もある。それ以外のものを大目に見るには十分な素養だった。
「何か面白い話が聞きたいね」
期待はしていなかったが、小心者は予想に反して一本の指を立てていた。
「ひとり、興味をお持ちになりそうな、あ、相手がいました」
エシオンは椅子の背もたれに寄りかかって手を組み、聞く姿勢を示した。マクディーアは体を硬直させ、しどろもどろに口を開く。
「私の紹介した仕事を、完璧にこなし、その依頼人に手ひどい怪我を負わせました。いずれの神に属しているかは、その、不明ですが、かなりの加護を授かった信徒のようです」
「使徒か?」
「恐らく、ですが」
「さきほどは名前が上がらなかったようだが」
かくいうエシオンもゲインの件については誰にも言っていない。
「我々、この国に対しての敵意はないように見受けられましたので。その、どこかの組織に所属しているという可能性も、限りなく低いと判断しました」
「私が興味をひかれそうだと判断した訳は?」
「ひどく、むこう気が強いからです」
思わず口元が綻んだ。確かに多少は無礼な方が好ましい。礼儀を伴ってさえいれば。
「取り込めたのか?」
マクディーアが目を伏せ、頭を下げる。
「申し訳ございません。今頃はもう国外に出ているはずです」
先ほど怪我をさせたと言っていた。
「逃亡か?」
「いいえ、そうではありません」
熱が入ってきたのか次第に舌が回り始めるマクディーア。
「その件の相手から仕事を斡旋してもらったようです。事情を伺ってみたところ、交渉が決裂した結果の正当防衛とのことでした。なにやら被害者側が庇っている様子でしたが、いささか過剰なものであったと推察されます」
差し出された報告書を流し読みする。先ほどマクディーアが述べた経緯と、外見的特長が記載されていた。灰色の髪。灰色の瞳。十代の半ば。見目麗しい少年。
少年の行動、言動、果たした仕事から、その人となりや背景を想像する。聡明だが、激しやすい。何かしら制約のにおいがする。確かに面白そうな人物ではあった。少し話をしてみたくなってすらいた。もしかすると友人になれるかもしれない。
「ほう?」
報告書の最後には、パオロ・カヤの隊商に護衛として参加、サルタナへ向かっている、とあった。奇妙な偶然だ。ゲインをねじ込んだものと同じ隊商だった。
このような状況でなければ珍しいこともあるものだといった感想を抱くだけで済んだかもしれない。いまのように望まぬ苦労をさせられているのでなければ。まるで自分だけ蚊帳の外に置かれているような気分だった。自分がこれだけ世の中のつまらない部分を引き受けてやっているのだから、他の奴らはきっと楽しんでいるに違いない。
エシオンが唐突に席を立つ。部屋中の会話が瞬時に途切れた。
マクディーアは刑の執行を言い渡される直前の囚人のように青ざめていた。エシオンは微笑み、安心させるために穏やかな声で言った。
「確かに面白かった。一族連中には私から君のことについてよく言っておこう」
それが幸運か不幸かを判断できないでいる男を尻目に、エシオンはすべきことを考える。会合の日程を終えてから追いかけるつもりだったが、もうそんな気分ではなくなっていた。出立に遅れが生じていなければ隊商が発って数日は経過している。もたもたと準備している余裕はないだろう。一人で向かうのが合理的だ。そうに違いない。
手招きをして部屋を出る。続けて出てきた司会役の老人が声をひそめて言った。
「いかがいたしましたか?」
「少し出かける。しばらくは戻らないかもしれん」
信じられないといった顔の老人。エシオンは疑問を挟ませずに指示を出す。
「以降の面倒な手続きや会議はうまいことやっておけ」
抗議の代わりに眉根を寄せる老人に、エシオンは長衣の内から鍵束を取り出して渡した。はめていた指輪を外し、さらにその上に乗せる。
「私の店と、別邸と、その金庫の鍵だ。中に入っているものは好きに使え。君の取り分も含めてな。指輪は代理の証明になる」
老人の視線が自分の手の中のものとエシオンの顔とを行ったり来たりした。やがて恭しく頭を下げて部屋に戻ると、残っている者たちに解散を告げた。余禄でざっと人生が三度は送れるほどの報酬額。彼の孫の人生はそれなりに輝かしいものになるだろう。
裾を翻したエシオンは大股で通路を歩きながら、これから遠出をするにあたって手配しなければならないものについて指折り数えた。旅の道具。不在の連絡。気まぐれの言い訳。
そして期待で胸を膨らませた。どうか波乱と驚愕に満ち溢れたものになりますように。あわよくば、この世界がひっくり返りますように。