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血を失って冷え切った体が徐々に活力を取り戻しているのがまどろむ頭でも理解できた。背中に押し当てられたほっそりとした指からそれが与えられている。心地よい気分だった。体はそのまま眠りにつきたがっていたが、気を失う直前の光景がそれをさせてはくれなかった。
探しているものはすぐ目の前にあった。縦に割られた死体。濁った眼球とこぼれた内臓と地面のどす黒い染みが目に焼きついた。
最悪だった。きっとこれも夢に出るようになる。
「その男のことは残念だったな。すんでのところで間に合わなかったよ。お前の命があったのは、まさしく幸運だった」
聞きなれた女の声。誰のものかは顔を見なくても分かる。
「なんで、ここにいる」
かすれた声で言って、ゲインは起きあがろうと体に力を込める。
「喋るのはいいが、まだ動くなよ。回収と変換に集中しろ。なに、心配はいらん」
首と目玉を動かして状況を確認する。四方を人工的に成形されたとしか思えない長方形の土壁に囲まれていた。その内部を光球が照らしている。
腕はまだ復元していない。ダンの死体をまたいで、少し離れた場所に槍を握ったままのそれが力なく転がっていた。動かそうと思っても動かない、ただの肉の塊。自分のものではないような気すらしてくる。エシオンの奇跡によって痛みが抑えられているせいもあって現実感が乏しかった。
「ウルの使徒──個体数からいえば神官なのだろうが、奴らは視界内の影しか操れんのさ。だからこうして壁を十重二十重に作って内外を照らしておけば、とりあえずの安全は確保できるというわけだ」
何かが土壁にぶつかる音。壁はびくともしない。なにもかもを承知しているといったエシオンの口ぶりに、ひとつ疑念が湧いた。
「まさか……あんたがこれを仕組んだわけじゃないだろうな?」
「脱走兵の始末まではまあ予想していたが、こんな状況は流石に想定外だった。つくづく不運な男だな、お前は」
ゲインは肝心な部分を尋ねる。「他の住民はどうなってる」
「誰ひとり残ってはいない。家屋は全て叩き壊され、人の姿など見当たらなかった。彼が最後だったようだ」
押し殺した呻き声がゲインの喉の奥から漏れ出た。
「考えすぎないことだな。これはそういうゲームなのだから。我々のあずかり知らないところで始まり、あまつさえ勝手に参加させられているとなれば、真面目に思い悩むなど時間の無駄というものだ」
こんなことになってしまった原因について考えた。あの女の要求を拒否したからか。難民にいい顔をしようとして求められた以上の仕事をしてやろうと思い立ったからか。金に目がくらんでこの仕事を請けたからか。それとも、悪夢にうなされるような馬鹿な真似をしたからか。
「何でこうなる。俺はただ、命令に従っただけなのに。言われた通りに殺しただけなのに。なんで俺がそのツケを払わされなきゃならないんだ」
「共同体や組織に過度な期待をするべきではなかったな。それらが約束するのは建前上ですら最大公約数的な保障であって、誰か特定の個人に寄り添うものではない。信徒同士ですらそうであるというのに、神を頂点にいただく国家ともなれば──何をいわんや、といったところか。おっと、大のおとなにするような話でもなかったか」
吐息がかかるほど顔を耳元に寄せられる。淡紫の髪がゲインの首筋をくすぐった。
「だが、お前の煩悶は痛いほど分かる。この状況を作った元凶に対して、報いを与えてやろうとは思わないか? 私ならそれを手助けしてやる事ができる」
背筋が痺れるような甘い囁き。
ゲインは悲鳴のような声でそれを強く拒絶した。また死体が積みあがる。もう夢を見たくない。
「やりたいなら一人で勝手にやってくれ。俺を唆そうとするな」
「柔弱なくせに強情だな」エシオンの顔が離れた。うんざりしたような溜息。「まあいい。だが、とりあえずはこの場を何とかした方がいいのではないか? 耳を澄ましてみるといい」
ひっきりなしに土壁を叩く音に混じって。激しく地面を駆け回る音と、剣戟の音が聞こえる。二人が丁々発止を繰り広げている様が容易に想像できた。
殺してやる。あの女は殺してもいいのだから。当然そうするべきだった。
星髄に意識を向けた。それは周囲に満ち溢れ、だだっ広い川のようにゆったりと流れている。ゲインはそれを吸い上げる。そして拡張された星髄の回収機能と同様、後天的に付与された神気の生成機能を全速力で回転させた。
「少しこちらに回せ。壁と光源の維持に使う」
二割をエシオンに、残りを自分に下賜する。満足げな薄ら笑いが聞こえてきた。
「まさしく神の御業という他ない。神気を与えられるのではなく自ら生み出し、あまつさえ誰かに授けることができる。他の誰にも真似をすることができない才能だ」
今では押し付けられて塗りたくられた糞のようにしか思えない──血がのどに詰まって咳き込み、声にはならなかった。ぜいぜいと息を切らす。
「何で俺なんだ」
「理由を問うだけ無駄だな。お前である必要など無かったのだから。言ってしまえば単なる偶然だ。だが、盤の局面がこの状態を招いたという意味では、誰かがそうなるのは必然だったともいえる。このゲームは能率を上げるという名目のもと、基本的には信徒側の権限と裁量を拡大する形で進行してきた。法や社会制度がそう遷移してきたように、信徒の設計方針もまた同じであるという話だ。相手のものより優れた駒をより多く揃える。もっとも分かりやすい勝ち方だ」
糞食らえ。
ゲインの腕から流れ出た血が這うように蠢いた。ダンの死体を乗り越え、切り落とされた腕まで到達すると、二つを再びつなぎ合わせるために収縮を始める。
腕が繋がり、血がそれを補強するように外側を覆った。赤黒い膜は腕全体に及び、握っていた柄の部分から槍全体にまで広がって腕と一体化する。槍の穂先で丸く膨らんだ血液から五本の鉤爪が伸び、槍と一体化した細く長い腕が形成された。
血液は体の方まで侵食した。腕、肩、顔。それらが次第に硬質化して光沢を帯び、赤黒い外殻へと変化していく。
それを眺めるエシオンの吐息が熱を帯びる。
「他にも相当数いた適格者だが、まだ検証の域を出ないのか、出力も変換効率もお粗末なものだった。何より、自分以外に下賜することができたのは、お前を措いて他になかった。恐らくは意図した機能ではないのだろう。なにせ、これはもしかすると、プレイヤー側に回ることすら出来るかもしれない可能性を秘めているのだからな」
ゲインは長大に過ぎる腕を倒れたまま持ち上げ、地面に爪を立てた。そこから炎が噴き出し、蛇のようにのたうちながら土壁を越えて四方八方へと伸びる。
辺り一帯の星髄をひたすら呑み、神気を吐き出し続ける。酩酊感でゲインの頭の中はぐちゃぐちゃだった。酒の満たされた巨大な水槽に入れられ、それらが皮膚を素通りして体中を洗い流しているような感覚だった。凍えるように冷たくもあり、焼けるように熱くもある。
正体がなくなる。記憶が混濁する。何がどうなっていまここにいるのか、はっきりしなくなってきた。腕の接合部分が疼いて、そういえば切断されていたことを思い出した。
そうだった、殺すのだった。
敵意をゆっくりとゆっくりと吐き出す。穴という穴から、体の中身が飛び出していきそうだった。
炎の線が地面を走り回り、集落のいたるところに広がって噴き上がった。




