9-2
「スライフという名前に聞き覚えは?」
サルタナの国土内に居住地を持つ飛沫勢力──ゲインは首を横にふった。「ないね」
「嘘をつくのは苦手のようだな」
「随分な言いようだが、何か根拠でもあるのか?」
アシュレイはかるく嘲るように鼻を鳴らした。
「自分ではうまくとぼけたつもりだったのかもしれないが、一瞬間が空いたときに瞼がひくついた。体が動いた。いま、指摘されて少し汗をかいたな。鼓動も少し早まったようだ。ここまで分かりやすいのは中々いない」
「なるほどね、お前さんの第六感とやらがどんなものか段々分かってきたよ」
「それで、知っているのか?」
質問の体をとっているが、ただ一つの答えしか望んでいない。ゲインは観念してあっさりと頷いた。
「知ってる。それがどうした」
「どこで知った? 誰に会った?」
「戦場で出くわした。仕事の話はどうした?」
「殺したのか?」
「追っ払った。手傷は負わせたが、死んだかどうかは知らん。誰かさんのように馬鹿みたいな速さで逃げたからな」
ゲインはテーブルの上の武器をちらりと見た。アシュレイはそのつもりがないことを示すように少し後ずさる。
「そのスライフの信徒の生き残りを探している。おそらくまだ死んでいないはずだ」
ゲインは首を傾げる。「察するにお前さんも"そう"なんだろうが、最後のひとりなんじゃなかったか?」
「それは間違っていない。僕が最後のひとりだ。割り振る先が少ないからこそ、今まさに敗北を喫しようとしている無様なプレイヤーでも、それなりの加護を授けることができるというわけだ。まあ、あまりの体たらくに愛想を尽かされたわけだがな」
事情が飲み込めてきたゲインは椅子から足を下ろし、膝に手をついて真面目に耳を傾ける姿勢をとった。
「スライフの領土はこのサルタナの勢力圏内にあった。宗主国と比較すれば塵程度、吹けば飛ぶような規模でしかないが、どういうわけかお目こぼしに与っていた。木っ端に過ぎるし、余計な手間をかけるよりは──というのが実際のところだろう。事実こうやって勝手に衰退したわけだからな。ただ、見逃してもらうための条件として取引があった。それが兵役だ。そのために多数の男たちが村を出て、ついぞ戻ってくることはなかった。彼らは別の神の元へと奔ったからだ。僕は彼らを殺さなければならない」
アシュレイはいったん言葉を区切り、ゲインの様子を窺っていた。これといって反応を返したつもりはなかったが、細められた灰色の目がそこから何を読み取ったかについては分かるはずもなかった。
「置き去りにされたことを恨んでの報復か?」
「いいや。思うところがないわけではないが、彼らの選択は十分に理解できる。無理もないとすら思っている。だが、スライフがそれを許さなかった。愚かで、無能な、僕の神が」
「託宣があったのか」
「そうだ。そうしろとのお達しだ。まともに考えるなら、これはまったくの無駄な行為だ。後ろ足で砂をかけた信徒を処理しようがしまいが趨勢にはほとんど影響がないのだからな。つまり、単なる腹いせでしかないのだろう」
無気力そのものといった声。理解しがたいとばかりに首を振る。
「その後、どうするつもりなのかは分からない。負けを受け入れ命乞いをするのか、それとも逃げ回るのか、はたまた新しい駒を造り直して一からやり直すのか──僕にそれを知る術は無いし、心底どうでもいいがな」
「そうまで蔑ろにされてまだ付き合ってやるのか? さっさと見限ればいいだろうに。なんだったら、口を利いてやってもいい」
アシュレイの形のいい眉が忌々しげに歪む。
「できればとっくにそうしている。だが、日に日に拘束が強くなる。起きている最中、頻繁に声が聞こえるようになった。僕の意思とは別に体が勝手に動くことも珍しくない」
吐かれる言葉には気圧されそうなほどの情念が込められていた。表情には嫌悪が宿り、目は爛々と強い光を放っている。手から離れているはずの短剣が呼応して震えだし、冷気を放出してテーブル上に霜を走らせた。蒸し暑いくらいだったはずの閉め切った屋内が少し肌寒さを感じるほどになっていた。
「いと尊き存在は、使命の達成を条件に首輪を緩めることを約束してくれた」
これっぽっちも信じていないといった口ぶり。それにすがるしかない憤りのこもった。
「難儀な話だな」
誰しもが駒には違いないが、しかし、こいつは中々に哀れだった。残りの枚数が少ないせいで直接掴まれて振り回されている。自分と比べてどうだろうかと考えた。
「欲しいのは情報、それと、いざというときの助力だ。知らない相手ではないし、僕としてはまず恭順を示すように促すつもりだが、恐らくは拒否されるだろう。そもそもスライフがそれを許すと思えない。そうなると、行き着く先はひとつだ」
先ほど感謝と共に手渡された、銀貨の詰まった袋が凍りついたテーブルの上に置かれた。重量感のある魅惑的な音が響く。アシュレイはそこから少しばかり抜き取ると、残りを袋ごとゲインの方へと差し出した。
「彼らはみな優れた戦士だった。鞍替えした今もそうなのかは分からないが、楽観視するべきではない。だから、あんたに協力をお願いしたい。必要経費以外はそちらの分だ。今の仕事が終わったらまた稼ぐ必要も出るだろうが、それも同様の取り分で構わない」
魅力的な提案ではあった。そのため、金から視線を外すのに努力を必要とした。
「悪いが、受け取れない」
「金額の問題ということか?」
「いいや」
「では、何故?」
「俺はこういうことから足を洗いたいのさ。いま稼いでるのだってそのためだ。だから手伝えない。自分から濁ったドブに入っていく気はないのさ」
「あれだけのことが出来るのにか?」
「あんな真似が出来たからなんだってんだ」
アシュレイは腕を組み、沈黙して俯いた。控えめな同意の表現。しかし、それでもなお食い下がる。
「なにも僕の側に立てと言っているわけじゃない。手を貸してくれるだけでいい」
「何度でも言うが、ごめんだね」
「にべもないな。だが、こちらもおめおめと引き下がるわけにはいかない。金以外であんたが望むものはなんだ?」
「美味いものを食って、美味い酒を飲んで、いい女を抱いて、気の会う奴らと下らん話で盛り上がることさ。もちろん毎日平和にな。我ながら慎ましやかだと思うね」
アシュレイは唐突に上着を脱ぎ捨てた。怪訝な顔で警戒を続けるゲインをよそに、肌着にも手をかける。
ゲインは唖然とすると同時に自分の察しの悪さに頭を抱えたくなった。どうりで顔が整いすぎているはずだ。細身で、いささか起伏に乏しいものであったが、そこに晒された裸身は間違いなく女のものだった。鍛えられてはいるが、その柔らかさを含んだ曲線は男ではあり得なかった。
「今のところ、僕に用意できる女はこれだけだ」
いい、かどうかは分からないが。アシュレイが小声で呟いた。
「服を着ろ」
危険だと理解はしていたが、ゲインは顔を背けた。それには先ほどよりも多大な労力を伴った。喉が渇き、身体の一部に熱が集まるのを感じ、思わず椅子から腰を浮かしかけた。ここ暫く女とは無縁の生活を送っていたことを今さらながらに思い出す。
「どうしても受ける気にはならない?」
「同情はしてやるが、こっちも他人に施しをしてやれるほどの余裕はないんでね。さっさとその薄い体を隠してくれ」
アシュレイがテーブルを蹴り上げた。ゲインは押されるようにして座っていた椅子ごと後ろに倒される。金の散らばる音が家中にやかましく響いた。
背中を打ち付ける痛みに顔を歪めながら、床に転がった槍に手を伸ばす。しかしその時には既にアシュレイが上にのしかかっており、空中で掴み取られた短剣が首に押し当てられる寸前だった。片腕をとっさに間に挟んで首を守ったが、刃から発せられる冷気は受け止めた籠手の上から容赦なく熱を奪い去っていく。刃の触れた箇所を中心に突き刺さるような痛みが腕全体に走った。
「何の──」真似だ、と言いかけて喉が詰まる。
「ただ引き下がるのも癪に障ると思ってな。どうだ? 協力したくなってきたか?」
平坦な声で告げ、アシュレイは両手を使ってさらに刃先を押し込んだ。ゲインの籠手に霜が広がる。
空いた方の手を動かして短剣をなんとか外そうとする。アシュレイが肘で巧みにそれを阻止する。刃に込められた力は緩みそうにない。冗談ではないことを悟り、冷や汗が出た。
ゲインは腕を外すのを諦め、下から相手の顔を目掛けて殴りつけた。腰が入らず上手く力を込められないそれは、首を少し傾けるだけで避けられる。
「こうまでしてやることが同胞殺しか? まったく可哀想なやつだなお前さんは。駆けずり回って、行きずりの男に身体を差し出して、それでいったい何が残る?」
相手の注意を逸らすために口を動かした。テーブルが倒されて床の上に散らばった銀貨をいくつか掴み、アシュレイの顔面に目掛けて投げつけようとした。先に腕を捕まれて制される。女の細腕のはずだが振りほどくことができない。ぎりぎりと締め上げられる。
周囲を漂う星髄を回収。すぐに使う分を急速に変換。生成して下賜。回収。変換。下賜。眩暈がした。
「まったくその通りだ。僕はこんなことなんぞどうだっていいのに。あんたに分かるか? 自分の頭と体が度し難い間抜けによっていいように動かされる苦痛が。不快としか言いようがない。しかし」
アシュレイがせせら笑った。
「ひるがえって、あんたはどうだ? 金。酒。女か。何かしら抱えてはいるのだろう。しかし、刹那的な享楽に浸ってそれこそ何になる。僅かな間だけ嫌なことを忘れられるのがせいぜいだろう。無様に逃げ惑っている分際で、よくも憐れんでくれたものだな」
「黙れよ──」
ゲインは神気が必要量に達するなり奇跡として発現させた。
全身から雷光が迸る。補助具が手元に無いため指向性を持たせることができなかった。折り重なっていた二人はそれをまともに食らい、声にならない呻きを上げ、身体を仰け反らせた。ゲインは左腕の凍傷と自身の雷撃による火傷を半ば無意識のうちに再生させながら、アシュレイを押し退けて歪む視界の中で槍を手探りで探した。
手に長柄の感触。掴む。立ち上がる。最も手馴れた奇跡──光球を追い払うように周囲に展開した。
アシュレイも跳ね起き、片膝をついてゲインを睨み上げていた。効いているようにも、飛びかかるための力を蓄えているようにも見える。
「いいから、服を着ろっつってんだろ」
息を荒げながら言い、片手で石突きを向けた。凍りついた方の腕はまだ動かない。
お互いに睨み合ったまま静止する。
冷や汗が数滴、頬を伝って顎から落ちるほどの時間が経過した頃、不意に家の戸を叩く音がした。食事の用意ができたとの声がする。
「おい、どうする」
どっちだろうと構わないといった調子で聞いてみた。アシュレイはゆっくり立ち上がって背中を向け、脱ぎ捨てた服を拾い上げる。
「厚意に甘えるといった手前、顔を出さないわけにはいかないだろう」
ゲインはわざとらしく大きな息を吐いて近くの寝台に座り込み、手早く行われる着衣から視線を外した。




