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確かにずぶの素人ではないようだったが、それは技術的に見て稚拙という他ないものだった。
盆地の周囲を囲む山々を発見して風下から回り込もうとしたところ、木々の合間にしゃがみ込むようにして何者かが潜んでいることにアシュレイは気付いた。体臭にまでは気が回らなかったとみえ、そこから流れてくる汗と垢の臭いが、隠れ潜んでいる存在がいることをありありと示していた。
遠くから一方的に補足したアシュレイは、周囲に他の誰もいないことを念入りに確認しつつ目標に迫った。風による草木の揺れに自身の存在を紛れ込ませ、じりじりと近づく。
相手は動かない。同じ姿勢のまま前方に向けて視線を行き来させている。盆地を背にした、外側に向けての警戒。忍耐力は備えているようだったが、それだけだ。背後から今まさに脅威が近寄ってきていることにまったく気づいていないのは致命的だった。
射程距離に入ったアシュレイは遮蔽物のない地点に陣取り、目標が敗残兵──賊の一味であることを確認して弓に矢を添えた。呼吸で肩が上がったところを見計らい、一気に引き絞り、放つ。
男の後頭部から眉間へ矢が突き抜ける。体がぐらりと傾き、目を見開いたまま草の上に横たわる。
アシュレイは近づいて死亡を確認し、首を傾げる。
何故こんなところに単独で──その疑問はすぐにある閃きへと変わった。中へは踏み込まず、そのまま周囲の山をぐるりと回るようにして偵察を続行する。
盆地の規模が小さいものであったことが幸いし、すぐに二人目が見つかった。地図上でちょうど東側にあたる地点だ。最初の男は南側に陣取っていた。恐らくは周囲に斥候として配置されている。
その想像を裏付けるように、三人目、四人目もあっさりと見つかった。
盆地の縁を一周し終えたアシュレイは、不在の五人目については一旦保留して合流地点まで戻った。こと偵察に関しては足手まといになるだろうと待機させていたゲインが、木陰に座り込んで汗の浮いた顔を手であおいでいるところだった。
「暢気なものだな」
「戻ったか。やけに遅かったじゃないか、状況はどうだ?」
「残りは一人だ」
ゲインが苦笑いして肩をすくめる。アシュレイは自分の荷物の中から水筒を取り出して喉を潤した。見張りの排除に時間を掛けていたこともあって太陽が頭上に差し掛かろうとしている。
「行くぞ。音を立てるなよ」
荷物に雑草を被せて隠し、斜面を歩く。登り切ったところで姿をさらさないように注意を払いながら眼下の光景を見下ろした。
盆地の平野部には田畑が敷き詰められていた。山から流れ込む水を利用しているようで、そこら中に用水路が張り巡らされている。
「姿は見当たらないな。ということは、あれかね」
ゲインが手でひさしを作って盆地の中央付近へ視線をやる。そこには何軒かの民家が身を寄せ合うようにして建っていた。それ以外に身を隠せそうな場所は見当たらない。
「お前さんの第六感は何て言ってる?」
アシュレイの鋭敏化した五感を持ってしても、そこに最後の一人がいるかどうかは判然としなかった。距離があることもそうだが、死体の臭いが強く、それ以外の情報が拾えない。恐らくは腐乱が始まっており、元の住民の成れの果てだろうと思われた。
アシュレイは渋々、といった具合に大きく息を吐いた。
「これ以上は近づかないと分からない。隠れていろ」
アシュレイは太陽を背にできて、民家の窓からは見えない位置まで移動した。前方にあるのは水田、畦道、用水路のみで、遮蔽物は無い。
ゆっくりとした動作で地面に片手をつき、両足に意識を向ける。貴き座より少しずつ流れ来て、体の中に蓄積された神気がアシュレイの身体を奇跡でもって変質させる。
《神の威を示せ》
消費が許容量を超え、体の奥から喜悦が湧き上がる。無能な狼は鼠をいたぶれる予感に打ち震えている。
アシュレイは地面を殴りつけた。感情を塗りつぶされる不快感と拳に伝わる痛みでもって神意を跳ね除ける。
手についた砂を払うと皮膚が少し破れて血が滲んできたが、骨に異常はなかった。何も問題はない。
アシュレイは息を吸い切ると同時に地面を蹴って全速力で走り出した。畦道を四足獣のような低い姿勢を保ちながら、長く速い、それでいてほとんど音のしない一歩を繰り返して駆け抜ける。
警戒していた妨害はなく、あっさりと民家に辿り着いた。家壁に張り付くように身を隠し、周囲の状況を窺う。
全速力で走ったにも関わらずアシュレイには僅かな呼吸の乱れもなく思考もはっきりしていた。ただ神気の影響による興奮があるだけだ。
死体の臭いは変わらない。鼻が曲がりそうになるが、その中に生きている男女のものが混じっていることに気が付いた。物音はなし。話し声もない。聞こえるのは微かな呼吸音だけ。寝ているのだろうかと考え、中の様子を窺うために窓を探した。
視線を左右に走らせる。おかげで、その奇妙な現象にいち早く気付くことができた。
家から伸びる影が僅かに盛り上がっていた。目の錯覚かと思って凝視していると、やがてそれは見間違いではありえないほど大きくなり、上に伸び、鎌首をもたげた。
目にしたものがあまりにも想像の埒外で反応が遅れた。目の前に聳え立つ黒い円柱状の何かが縦に裂け、そこに牙のようなものが生え揃っているのを見て、初めて背筋に悪寒が走った。
アシュレイは全身から力を抜くように仰向けに倒れた。その上を影の怪物の牙が通り過ぎ、家の壁を削り取る。
砕け散った木と漆喰の破片が上から降り注ぐ。接地した肩から首にかけてを支点にして後ろへ跳ね起き、アシュレイは駆け出した。
走りながら振り返り、影から生まれた怪物の様子を確認する。日光にさらされた部分が色あせ、砂のように崩れ去っていた。体の大半を失った怪物は力なく地面に横たわり、やがて平面に戻って消えた。
安堵を覚えたのも束の間、今度は前方左の草むらから棒状の黒い何かが飛び出してきた。走りながら体を仰け反らせて避け、土を巻き上げて地面を滑る。その勢いのまま側転して立ち上がり、間髪入れずにまた走り始めた。
一瞬遅れて、倒れた位置のそばにある用水路の奥から黒い甲虫の足のようなものが生え、地面を抉り取った。
いずれも同じように日光を浴びて塵になって消える。
何が起きているのかは分からなかったが、何が牙をむいているかは分かった。アシュレイは周囲に油断なく視線を巡らせる。行く手に存在する草の影が少し動いたような気がした。千切れ雲の影が僅かに波打ったようにも見えた。どの方向にでも動けるように備えながら短剣を抜き放つ。
やはり目をつけていた影から何かが飛び出してきた。魚のようにも見えるそれを短剣の腹で受け流しつつ、雑草の影から現れた獣の顎を飛んで躱す。
飛び、跳ね、的を絞らせないように間断なく左右に動き、アシュレイは立て続けに生えてくる黒い何かの狙いを外しながら一気に盆地を走り抜けた。
盆地の出入り口として唯一整備された坂道を駆け上がり、速度を落とす。ある程度離れた時点で追跡の手は止んでいたが、念のために警戒しながら道の縁の木陰に近寄ってみた。わざとゆっくりと歩いてみる。何も起こらない。
「おい、おい、何だ今のは」
草を掻き分け、踏み潰し、ゲインが現れた。一部始終を見ていたらしく随分と慌てていた。
「何だと言われてもな」アシュレイは体中についた土を払い落とした。「それは僕が聞きたい。あんたの国の信徒で、同じ軍にいたんだろう?」
ゲインは首を横に振った。「いや、あんな奇跡があるなんて聞いたことはないし、見たこともない。そもそもやつらは脱走兵だ。軍が税金分の仕事をしているなら奇跡の行使権限なんぞとっくに剥奪されているはずだ」
「あんたは使えるようだが?」
「そりゃあ、正規の手続きに則って除隊したからな。いわゆる予備役だ」
結論が出そうにないため、あれについてはひとまず措いておくことにした。アシュレイは民家を指さしていった。
「残りはあの家のどれかにいた。この距離だが、あんたなら届くのではないか?」
ゲインは距離を測るように目を細め、難しい顔をする。
「更地にするのは、まあ、できるね。で、攫われた女はまだ生きてるのか?」
「想像通り、あの家の中だ」
「そうなると、努力を払うべきだろうな」
「最悪、"言い訳"をすることは不可能じゃないと思うが?」
アシュレイは水を向ける。ゲインはいかにも気乗りしないといった様子で槍をもてあそぶ。
「女は、被害者だ。お前こそどうなんだ」
戦火に炙られ、今なお苦しむ女。それに対して思うところはあった。
「助けられるなら、それに越したことはないと思っているよ」
「だったら下らないことを言うなよ」




