7-2
心臓が限界を迎えた。吐き気と眩暈で立っていられなくなり、地面に倒れこんで激しい呼吸を繰り返した。堪らず胃の中のものをぶちまける。胃液の味で涙が出た。震える腕で目と口元を拭い周囲を見渡すと、そこには自分と似たような状況であると一目で分かる人間ばかりが集まっていた。
時間が経ち、息が整ってくる。頭が働きだした。指揮官はいない。敵地でただ呆然としているわけにもいかず、誰ともなく帰還の提案がなされた。
敗残者同士で寄り添うようにして地図を頼りに人目につかない場所を進む。幸運にも敵に見つかることはなかったが、携行していたものはほとんど投げ捨てていたため、道中、時折見つかる川で喉を潤すことしかできなかった。歩く力を無くした者、空腹に耐えかねて野草や樹の皮を口に入れて倒れた者、半数以上が脱落した。誰も救いの手を差し伸べてやる余裕はなかった。
橋頭堡として設営された宿営地に戻るためにアドラー達は数日を要した。そして、帰り着いた矢先に同行していた者達も含めてその場で拘束された。
困惑し、震える声で理由を尋ねると、部隊が潰走したと思っていた段階では先任者が生きていて指揮権を継承し、少数ながらも統制を取り戻して戦闘を継続していたとのことだった。つまり、生き残りの報告により敵前逃亡と見なされた。軍規に疎い者でさえ、それがどれほどの罪なのかは知っている。
その場で即時処刑されてもおかしくはない重刑。世界が傾いたような錯覚を覚えた。決して、疲労のためだけではない。恐怖で膝が崩れそうになっていた。
同時に、別のものが体を震わせていた。燃え盛る炎のような怒りだ。それは胸の内から沸き起こり、一瞬で脳天にまで達して体中に力を漲らせた。
これは甚だしい裏切りだった。国に強要される形で兵士になり、過酷な訓練に耐え、軍務についても手を抜いたことなど一度もない。戦争が始まってからも同様で、決して少なくない戦果を上げたはずだった。任期を終えれば十分な褒章を与えられ、故郷に帰って自分の田畑を持つこともできたはずだ。自分が支払った涙ぐましい努力や健気な献身だけでなく、ささやかな未来すら踏みにじられようとしていた。それが自分の失態であればまだ諦めもついたかもしれないが、それは指揮官でありながら兵法のなんたるかを欠片も知らない無能のせいだった。
憲兵が腰から抜いた剣を向けて収容所に向かうよう指示する。考える時間はなかった。アドラーが懐に手をやり魔道書を取り出すと、丸腰であることだけを見て安心していた憲兵達は驚愕に目を見開いた。彼らはアドラーが大隊付きの魔道兵であることを知らなかった。魔道書がかさばらない紙であることが幸いした。
閃槍を発現。圧縮されていた神気が復元し奇跡が起こる。
静止の声を上げる間もなく、憲兵たちは大きな火柱に飲み込まれた。
アドラーはその場から無我夢中で走り去った。そこに居合わせた他の脱走兵もそれに続いた。混乱に乗じて備品庫を襲う。見張りを燃やし、目に付くものを持ち出した。食料。武器。医療品。
宿営地が突然の火災で混乱に包まれたこともあり、脱走自体は簡単に成功した。しかし状況は予断を許さない。未だ自分たちは敵地の真っただ中にあり、体はいつ限界を迎えてもおかしくなかった。
どうしようもないほどの不安に駆られた。冷や汗でぬめる顔を手で覆う。化鳥のような叫びが喉の奥から漏れ出たが、それを気にする人間などその場に居なかった。誰も彼もが同じような有様だった。
耐え切れず、医療用の鎮静剤を取り出し、震える手で半分こぼしながら口に放り込んだ。周りから伸びてきた無数の手に引きずり倒され、薬を奪われる。別の誰かが離れた場所で同じものを飲んでいるのが見えた。殴って奪い、飲み下した。殴られて、また奪われた。
次第に不安が薄れ、思考が明瞭になる。急速に醒めてきた頭を回転させて、何をするべきかについて考えた。自国に戻ろうにも、そのためにはまずもって国境を越える必要がある。そこにはカルマムルの守備隊がいるはずだ。素通りできればいいが、今日のことが全軍に通達されていれば今度こそ終わりだ。そうでなくても身分を検められることは間違いない。サルタナ軍であれば言わずもがなだ。
彼らは相談した。このままサルタナから防衛網の薄い場所を見つけて第三国に抜ける。そこから海に出て、どこか遠い国に渡る。仮の身分を手に入れるか、密航する必要がある。そのための金も伝手も無かったが、それしかまともな案が出なかった。ビーシャフ、アライン、どちら側に抜けるにせよ、目下戦争中の国同士の国境を越えるよりはまだ成功の見込みがあるように思われた。
不意に父と母、兄弟の顔、故郷のことが頭に浮かんだ。自分を犠牲にして平穏を享受している者たち。何の感慨もわかない。今そんなことを考えても何の役にも立たなかった。
それから程なくして脱走兵たちは賊徒化した。逃げるためには食いつなぐ必要があったが、初めは外道に堕ちる踏ん切りが付かず、人目を避ける意味もあって山や森の奥底に潜んで自給自足をしようと試みた。しかし数十人の集団がろくに経験もない狩人の真似事で生活を行うなど土台無理な話だった。
素知らぬ顔で難民のふりをしてどこかの街に逃げ込むべきだという声があがったが、結局はできなかった。自分たちの有様をよく見ろ。異邦の地に溶け込めるのか。ばれたらそこで終わりだ。断頭台に自ら首を置きに行くのとどう違うのか。疑念は尽きない。不安は拭えない。
飢えと乾きは良識を剥ぎ取り、やがて恐怖を払拭させる麻薬と化し、彼らに大胆な行動を取らせることになる。
そうして悪事は容易く行われた。平時は人気の無い場所に潜み、あたりを付けた小規模な村や集落を闇夜に乗じて襲撃する。腹と獣欲を満たした後はすぐに移動し、居場所を気取られぬように細心の注意を払う。各人役割を決め、隊列の前後で警戒を行い、整然とした足取りで誰ひとり脱落することなくまとまって行動を行う。まさに軍における訓練の賜物だった。
そして彼らの不断の努力の他に、運も味方をした。実質的に敗れかけていたサルタナ軍が、国内の治安維持のために割く人員をできる限り惜しんだためだ。襲撃された村が軍に出動要請を送っても、それは常に曖昧な返答、期日を定めない了解によって答えられた。道中、戦争がとうに終わっているとの話を誰かが小耳に挟んだと言っていたが、誰も気に留めた様子はなかった。話していた本人ですら、他人事のようだった。彼らはもはや後戻りのきかないところに立っていた。
その日もいつも通り、野盗の類にしては整然としすぎた隊列を組んで目標となる小規模な集落目がけて進んでいた。
数日前に別の場所から拠点を移してきた直後、周囲に手ごろな獲物がないかと探っていた折に、荷車を引く一団を偶然見かけた。行き先を見定めたところ、集落と呼ぶのも憚られるようなみすぼらしい家々の集まりを発見するに至る。
襲撃は危険を冒す価値があるかどうかを十分に吟味してから行われる。そう仲間内で決められていた。その家畜すらろくにいない集落から得られるものなど何もなさそうだったが、男たちの決断は早かった。そこには若く、美しい女がいたからだ。
数人を送り込む。目論見はあっさりと成功した。僅かばかりの食料と共に女を奪い去り、ねぐらに連れ去って一巡や二巡ではきかないほど散々に犯し尽くした。
暫くのあいだ巧妙に身を隠し、その地域から離れる準備を進めつつ、追っ手がかかるかどうか様子を窺う。幸運にもそれがないことを確認すると、行きがけの駄賃とばかりに再度の襲撃に踏み切って今に至る。
何度も繰り化してきた行為に今さら罪悪感など沸きようもない。目標はもう目と鼻の先にあり、全員が息を荒げて走っていた。今度は全て奪うつもりだった。飢えは、より一層強さを増している。
異変が起こったのはその時だった。不意に、鳥の鳴き声にも似た甲高い音が鳴った。アドラーは嫌な予感に足を止めて周囲の様子を窺ったが、薄闇には自分たち以外には何も見えない。何人かは聞こえなかったのかあえて無視したのか、そのまま目標を目掛けて走っていた。
更なる異変が起きた。
集落から幾筋もの光が伸びてきた。それは家々を避けるように蛇行しながら、水平にこちらを目掛けて飛んできていた。
とっさに地面に伏せたアドラーの真上を、無数の光る球が尾を引いて飛翔していく。前を走っていた者、避けそこなった者達が光に打たれて悲鳴を上げる。地面に倒れ、痛みにもがき苦しむ。
一度では終わらない。再び飛来した光の球は高さを変え、左右に曲がりくねり、更には上から降り注いだ。立っている者は皆無だった。ひとり残らず地面に叩き伏せられている。あの日と同じ光景。ほうほうのていで逃げ出した記憶がよみがえり、吐き気が喉の奥からせりあがってきた。
光の驟雨は終わらない。眩く、圧倒的だった。それが延々と続く。闇が千々に裂かれる。通りすぎた光弾が木々に当たって表面を削り取る。すぐそばに着弾したものが地面をえぐり、砂が耳に入る。
びちゃり、と何かが飛び散った。アドラーは頬にへばりついたものを拭う。最初の光弾で倒れた仲間の頭が追撃で砕け散っていた。
光導索。光のひとつひとつは投石程度の威力しかないが、生身の人間ならこれで十分に死ねる。見知った奇跡だった。これほどの規模のものを目の当たりにしたのは初めてだったが、間違いなく、カルマムルで用いられている奇跡のひとつだった。
利用し、切り捨てた上で処分しようとしている。これ以上ないほどふざけた話。怒りが湧いた。力が漲る。耐え忍ぶべきか、激すべきか。
どちらにしろ碌な結果にならないことだけは分かっていた。




