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孤独な人々(ビートルズ『エレナリグビー』へのオマージュ)

作者: 安藤優

 十五の時に父が自殺、二十の時に母が病死すると、恵令奈えれなは天涯孤独の身となった。大昔に金銭絡みのトラブルがあったせいで、親戚とのつながりはない。頼るべき人間は周りにいなかった。


 奨学金と、両親の遺した雀の涙ほどのお金でなんとか大学は卒業したが、恵令奈は頭の出来が良くなかったので、大学を卒業する意味があったのかはわからない。


 また、不景気の風が世に吹き荒れていたのも間が悪かった。借金と引き換えに恵令奈が手にしたのは、三流大学の卒業証書と、コンビニバイトの職だけだった。


 そして、それも長くは続かない。人間関係がうまくいかなかったのだ。それはおそらく、恵令奈の側に問題があると言えた。なぜなら恵令奈は強欲で意地が悪く、まるで自分本位の人間だったからだ。おまけに妙なところに細かいこだわりを持っていた。


 その内面を映し出すように、恵令奈の容姿は醜い。頬は灰色にくすみ、顎下の肉は垂れている。それでいて眼光だけは鋭く、攻撃的な言葉を相手に対し次々投げるので、彼女と話す者は、五分と持たず嫌悪感を覚えてしまうのだった。


 そんな彼女が次に選んだのは、派遣社員としての仕事だった。派遣会社へ登録し、一か月ほど経ってから、大企業の事務職に派遣社員として潜り込むことが出来たのだ。


 彼女はその晩、いつもは買えない缶のビールを家で一人開けた。








 風間健二かざまけんじは比較的恵まれた家庭に生まれ、比較的恵まれた人生を歩んだ。大学入学を機に上京して以来、東京で暮らしている。


 風間健二の人生は、ある時点まで決して悪いものではなかった。一流大学を卒業し、誰もが知る大企業に就職。一般的に言って、誰からも羨まれる人生だ。


 だが、人生は一般論では語れない。


 実際のところ、風間健二を待っていたのは、過酷な労働と過度なプレッシャーだった。給料は思ったほどには上がらず、税金や社会保険料は思った以上に取られていく。何度辞めようと思ったことかわからない。


 それでも風間健二が会社を辞めなかったのは、どこへ行っても似たようなものだと知っていたからだ。下手すれば給与が下がる可能性だってある。そんなことを考えながら年を経るごとに、風間健二の重い腰はまずます重くなっていった。


 彼にとって風向きがさらに悪くなったのは、恵令奈がきてからだった。彼と恵令奈は徹底的に合わなかった。というより、恵令奈に合う人間を見つける方が難しかった。


 風間健二の接待申請書を見咎めて、恵令奈が言う。


「風間さん、金額が間違ってます」


「すいませんが直しておいてください」


「駄目です。書類の中身を記入するのは社員の仕事。派遣はその後の起票処理、総務部への書類提出を請け負うだけですから」


「それはそうですけど」


「駄目なものは駄目です」


 恵令奈は風間健二を睨みつける。近くの席の人間たちは、二人の会話にじっと耳をひそめる。


 目の前には両手に余るほどの仕事が積み上げられていた。どれもこれも、十億円、二十億円という単位の仕事だ。ちょっとしたミスで、風間健二の生涯年収分くらいはあっという間に吹き飛んでしまう。


 出来ることなら雑務は全て恵令奈に投げ、目の前の仕事に集中したい。全てに全力投球というのは土台無理なことだから。


 しかし恵令奈のことだ。きっと、派遣契約か社規か何かに、「書類の中身の訂正は社員が行う」とでもいう記載を確認してあるのだろう。少しくらい融通をきかせてくれても良さそうなものだが、恵令奈にそれは通じない。


 風間健二が思わずため息を吐くと、恵令奈の目尻がさらにつり上がった。


「規則は規則です。風間さんは正社員で、わたしは派遣社員。正社員なんだから事務仕事くらいきちんとこなしてください。わたしはボーナスはもちろん、交通費だってもらえていないのですよ? 身寄りだってないから、贅沢だってほとんど出来ません。それに比べ風間さんは恵まれ過ぎています。甘えています。正社員なのだから、それくらい理解してください」


 恵令奈は、ほとんど息継ぎもなしにそれだけ言うと、あとは黙り込んで風間健二を睨みつけた。


 風間健二は、今度は口には出さぬよう、心の中でため息を吐く。


 恵令奈の人生の失敗を言われても知ったことではない。派遣に成り下がったのは、恵令奈が取ってきた行動の結果だ。自分の責任ではない。その一方で自分は、努力の結果高い学歴をつかみ取ったし、それに恥じないだけの能力もある。いまのポジションは楽して手に入れたわけではないし、維持するのも大変だ。なぜ派遣の人間にここまでいわれねばならぬのだ。


 ただ、風間健二がそれを口に出すことはない。そこには学歴や身分と言った差別的な要素が多分に含まれていたからだ。


 職場の同僚たちは、目の前のモニターに向かい、キーボードを無言で叩き続けていた。巻き込まれては面倒。他の社員たちも恵令奈には辟易していて、出来る限り接触を避けていた。


 恵令奈はやがて音を立て席に着席すると、キーボードを乱暴に叩き仕事をし始めた。








 だから、会社が恵令奈との契約を更新しないとわかった日、社員たちはみな心の底から安堵した。表情は柔らかく、恵令奈との別れを喜んでいる。悲しむ者は誰もいない。


「お世話になりました」


 恵令奈はそう短く区切ると、早足でフロアを去りかけた。


 同情心か義務感か、それとも好奇心か。風間健二は「下まで送りますよ」とその背中を捕まえた。恵令奈は怪訝な顔を見せてから、「どうも」と小さく呟いた。


 だが、二人の間で語るべきことなど一つもない。エレベーターが来るまでの時間が異様に長い。二人はエレベーターの階数表示を無言で見た。


「今後は何を?」


 沈黙に耐えられず、風間健二が話しかける。そして、話しかけてから後悔する。そんなこと聞くべきではなかったのだ。


 恵令奈は微動だにせず、エレベーターの階数表示を見つめていた。


 風間健二もまた、神にも祈る気持ちで、同じ場所へ視線を向ける。


 到着を告げる音が鳴り、風間健二が息をつく。エレベーターへ乗り込むところで、恵令奈は唐突に口を開いた。「まだ何も」


「まだ何も」風間健二は繰り返す。


「次の仕事は少しお休みしてから探します。わたしは貯金もほとんどないので、あまり余裕はありませんが」


「そうですか」


 二人だけを乗せた箱は、機械的な速度で静かに降りていく。下へ下へ、ゆっくりと。階数表示の数字は淡々と切り替わり続けた。


 エレベーターが下降を止める。


 恵令奈が口を開く。


「ここで結構です。お世話になりました」


 風間健二はかけるべき言葉を探るが、そんなものどこにもない。出来損ないの言葉だけをかけ、頭を下げた。


 恵令奈はセキュリティゲートを通り抜けると、そのままどこかへ消えて行った。


 風間健二は、恵令奈が通り抜けたあとをしばらく見つめてから、なにげなく携帯を取り出した。画面には山のようにメールが表示されている。ため息が呼吸のように胸に湧く。


 オフィスへ上がるボタンを押すと、エレベーターの扉はゆっくり閉じた。

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