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シリーズ:とても簡単な発達障害と社会の仕組み(主に軽度のADHDや能力の凸凹で社会生活に困っている人向け)

とても簡単な発達障害と社会の仕組み(主に軽度のADHDやグレーゾーンで社会生活に困っている人向け)

作者: 黒長 二郎太

挿絵(By みてみん)


単発版が長くなりすぎたので、現在分割改稿中です。


以降の改稿はこちらでやります。

<<https://ncode.syosetu.com/n7749es/>>

================

発達障害(主にADHD)の話です。

軽度のADHDやグレーゾーンで社会生活に困ってる人、障害手帳持ちではなく、困りつつも、自力で生きて行かなければならない層に向けて書いたものです。


”軽度の”と書いているのは、案外軽度の方が、苦しむことも多いからです。

特に、軽度の場合、”本人が気付きにくい”という問題があります。

原因が、とても目に見えにくい障害なのです。

そんな特徴から、理由も知らずに苦しんでる人”も多いのではないかと思います。


このお話は、手帳が出ないようなレベルで、社会生活に困ってる人、生き辛さを感じている人向けに書いています。


同じ発達障害持ちでも、障害者手帳を持ってる人だと、生き方の戦法が大きく変わりますので、読んでもあまり役に立たないかもしれません。


中身は、社会はこうやってできてますから、頑張ってもそこからはみ出る人は、平均に合わせようとするのは諦めて、その社会の仕組みを理解して、その範囲内でできる最善を尽くしましょうというものです。


社会が悪いから変えろと言う趣旨のものではありません。社会は合理的にできています。

その結果、社会に非対応になってしまう人が発達障害者です。

合理化は切り捨てを伴います。


あと、別に問題提起してるわけでも、議論したいわけでもありません。

(議論はしたくないです。時間の無駄なので。私にとって、無駄なリソースの消費になります)


一般的に良いと言われる手段をそのまま実行しても効果が出ない人は、効果の薄いことをやって疲れるよりも、自分自身で考えて、効果的なことをやりましょうと言う話を書いてます。


なるべく若いうちから動いた方が良いと書いていますが、その方が良いと言うだけで、特に対象年齢があるような話でもありません。


普通の人には無用な情報であり、社会は普通の人専用ですから、学校でもこの情報は教えられません。

社会の仕組みを理解したうえで自分で考えて動きましょう。そして、少しでも改善すると良いですねという話です。

発達障害(主にADHD)の話です。


軽度のADHDやグレーゾーンで社会生活に困ってる人、障害手帳持ちではなく、

”困りつつも、自力で生きて行かなければならない層”に向けて書いたものです。


(発達障害に限らないかもしれませんが)発達障害は、手帳が出る重度の人より、手帳の出ない、軽度、或いはグレーゾーンの人の方が実際に生きるための難易度が却って上がってしまう”逆転現象”が起きやすい傾向があるように感じます。

何が障害なのかを他人にわかってもらうのが難しい障害なので、軽度である方がよりわかってもらえず生きる難易度が上がってしまうことがあります。



題名の”簡単な”は、”発生する理屈は、とてもシンプルで簡単です”という意味です。

文章自体は、そこそこ難解だと思います。誰にでも簡単に読めるとは思っていません。


でも、大した問題ではありません。

発達障害持ちにとって”誰にでも簡単”は、どうせ当てはまりませんからね!


■読める人が読めばよい。文章読めないくらいは普通の範疇はんちゅうです。

”障害持ちに、難しい文が読めるか!!”と考える人も居るかもしれませんが、実は文章の読解力と発達障害の有無には、直接的な関係は無い例も多いです。

能力が高いことが障害になることも有るわけで、難しい文を人よりスラスラ読めてしまうと、それはそれで、発達障害の理由になる可能性もあるのです。


発達障害と言ってもタイプは人それぞれ様々です。


難しい文章が読める発達障害の人も世の中にはたくさん居るでしょうし、中には読めすぎて困るという人も居るでしょう。

さらには同じ”読めすぎて困る”と言う人同士であっても、

単純に、”視界に文字が入ると、片っ端から読めてしまうために、注意力が文字に引っ張られて困る”という種類の、”読めすぎて困る人”も居れば、

自分が読める内容が深すぎて、他人と感覚の共有ができないという種類の、”読めすぎて困る人”も居るでしょう。


読めすぎるというのは、感覚過敏と似たようなものです。

感度という観点からは優れた能力でもありますが、一般的な人と感度が異なると不便なことが多い。

ある1つの能力に限って人より優れてる部分が有っても、むしろそれが不便に繋がることなんていくらでもありますよね。


”社会生活に障害を感じるかどうか”と、”文章を読めるかどうか”は、発達障害持ちには、あまり関係無かったりします。


当事者なら、それも理解できるのではないかと思います。


そもそも、発達障害でない方でも、数千文字程度の文でも、読んで内容を正しく理解できる人は多くは無いでしょうから、発達障害の有無以前の問題です。


”文字が読める”というレベルはほとんどの人がクリアできます。

ところが、1~2行程度の、短く簡単な文章を読んで内容を理解できる人は、先進国でだいたい大人の50%くらいとも言われています。

なんの捻りも無いただの文章を読むだけで確実に正解できるはずの問題を出しても、半分くらいの人は脱落します。

そのことから、恐らく、半分程度の人は、簡単な文章を読んで理解することができないと考えられています。


日本人は諸外国と比較して極端に、文章を読むことができる大人が多いのですが、それでも、1~2行の文章を読んで意味を理解できる大人は2/3程度と考えられています。

※文章を読めさえすれば確実に正解できるような簡単な問題でも正解できないため、そもそも文章が理解できないのではないかと考えられています。


--------


↓例えば、この問題正解できない大人はどのくらいいるか想像つくでしょうか?

 この画像では選択肢が表示されていませんが、正確に何%と答える必要はなく、

 大雑把に合っていればOKという感じの選択肢になっているようです。

 (グラフの少々の読みの誤差が、正誤を分けるような選択肢ではありません)

挿絵(By みてみん)

(画像がぼやけて読みにくい場合は、クリックすると原寸で見られると思います)


グラフ部分だけ切り出しました。

---------------------------------

挿絵(By みてみん)

この二つのグラフは、1960年から2005年までのメキシコ人男女の教育水準を示しています。

次の質問の答えをプルダウンメニューの中から選択してください。

1970年には、6年を超える学校教育を受けたメキシコ人男性は約何パーセントでしたか。

---------------------------------


問題の文章と、グラフが読めれば確実に正解できる問題です。

帯グラフは小学5年生で習うようです。

つまり、小学校レベルの知識で解ける問題です。


5年生で習うようなので、6年生なら正解できるはずですが、

実際に正解できるかどうかはわかりません。


大人だとほとんどの人が正解できそうです。


問題文を読んで内容が理解できて、グラフが読めれば正解できます。

グラフの読み方は習わなくても、見れば見当つきそうな気もします。

なので、文章が読める人ならグラフはテキトーに読んで正解できそうな気もします。


とはいえ、かなり簡単に見える問題でも、正解できない人は居るものです。

7人に1人は知的グレーゾーン領域に該当しますから、グレーゾーン領域の人にとって難しい問題であるなら、1割を超える人が正解できない可能性がありそうです。

他は得意でもグラフ読むのは苦手という人も、ある程度の人数居るかもしれないので、知的グレーゾーン領域の人と合わせて2割くらいの人は正解できないかもしれません……くらいのレベルに見えます。


多くの人がどう思うかはわかりませんが、個人的には、そのくらいではないかと思えます。


現実はこんな感じです。

挿絵(By みてみん)


実は、PIAACのレベル4の問題は日本でも約20%の大人しか正解できない問題です。

世界的には12.5%くらいの大人が正解できる程度という比較的高難易度の問題なのです。



”正解できて当たり前”の人から見ると、どうして正解できないのかわからないレベルだと思います。

文章読めたら正解できそうな感じなのです。

でも10人中8人は正解できない。


まあ、この問題を正解できない方が普通の大人です。

正解できる人は、これが正解できないのが普通の大人だと知っていないと、後々要らぬトラブルを起こしそうです。


普通の大人のレベルはそんなところにあります。

帯グラフ習うのが小学5年生ですから、小学生レベルには歯が立たないのが普通の大人だったりします。


これ正解できる人が2割なんて、そんなわけあるかと思うかもしれませんが、それが現実です。

小学校レベルを超えられる大人は比率的には少ないのです。


ほとんどの人が大学まで行くような国でも、日本よりもっと低いです。

大学まで行っても小学生レベルの問題が解けるようになったりはしないのですね。

正解できる人は逆に、習わなくても正解できるような気もします。


日本は8割の人が小学校に行かないなんてことはなく、先進国全般でも8人に1人しか初等教育受けないということは無いでしょう。むしろ大学まで行ってる人の方が多いわけで、正解/不正解の壁は、習ったかどうかというところには無いことは確実です。


国際成人力調査(PIAAC:ピアック) 文部科学省 とかで検索すれば

調査内容やら例題も出てくるので、興味があれば調べてみてください。


おそらく『実際に調査すると、普通の大人は、小学校レベルの問題も解けない人が多いという結果が出る』という結論に達するかと思います。


--------


たぶん、そんなのが現実であるわけがないと思う方も居ると思います。

小学校レベルのことは誰もが理解できて当然であるという思い込みで動くと、相手に理解されない場面が多く出てくると思います。


それも一種の知的障害です。現実の大人のレベルと、自分が思う大人のレベルの差を埋めることができないという障害です。どれだけ自分が、普通の大人のレベルはそんなに低くない!と思ったところで、他人のレベルは上がりません。

小学生レベルのこともわからないような相手とコミュニケーションとるのはとても難しく、無駄が多い。

時間をかけても相手は表面的なことしか理解しない。ものすごい時間の無駄になるかもしれません。


そこで発生している障害は、一種の知的障害です。知能が高すぎて、普通の人と難易度を共有できない障害です。

意外に、障害というのは身近なところにもあるものです。


--------


この問題、正解できなかった人でも、おそらく説明聞いて解き方習うと正解できるようになります。

でも、おそらく一時的に解けるようになるだけでしょう。


結局のところ、問題が読めなくても、習ったのに近い問題であれば解ける能力を一時的に会得するだけではないかと思います。

小学生の時習った時にはテストで点数とれたはずなのに大人になって解けなかったのと同様に、そのときは解けても、突然実用する機会があっても生かすことはできない。


そんな感じではないでしょうか。


実際、習った時にはテストで点は取れたのに、大人になってテストされると正解できなかった人が多いはずです(おそらく、習った当時は正解出来た人が多かったと思います。もしかしたら単に、習った問題とテストの問題が同じ内容だから正解できるだけなのかもしれません(同じ内容でもフォーマットが少し異なると正解できない可能性))。


滅多に使わないような内容であれば、それも理解できますが、文章読んだり、グラフ読んだりする程度は日頃から使う機会はあると思うのですが、正解できる大人は2割程度。


誰もができていて当たり前だと思える内容でも、正解率20%程度。

それが現実です。


--------


1~2行は読める人でも、10行だったらどうでしょうか?

1行1行は読んで理解できても、もしかしたら、各行の話の流れを掴んで、全体から何が書いてあるのかを理解できる人はあまり居ないのかもしれません。


文章を短い区切りでしか理解できないと、

学問ノススメを読んでも、

”福沢諭吉は『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず

人間は生まれながらに平等であって、貴賤・上下の差別はない』

と主張している

……という解釈になってしまうかもしれない。


※学問ノススメでは、その内容を否定するために引用しているだけです。

 ”天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず

 人間は生まれながらに平等であって、貴賤・上下の差別はないと言うが”

 から逆の内容につながっていきます。

 題名の通りで(人は平等ではなく)学問をする人が偉いという内容。

 読んだことない人は、一度読んでみることをお勧めします。

 1万円札に顔が印刷されるくらい偉い人の主張ですからね。

 (個人的には、けっこう無茶な主張だと思えます)



数千文字の文章を読んで意図を正しく理解できる人は、大人であっても、

それほど多くないのでしょう。

おそらく、多くの人は長文を読んでも、あまり多くの情報を取り込むことが、

できないのかもしれません。


読める側からすると、読めるのが当たり前に思えるかもしれませんが、

わざわざ小説読み漁ってる人の方が、文章の読解力的には少数派だと思います。

ほとんどの人は、そんなに読めない。


そう考えると、けっこう思い当たることはありませんか?

『なんで読んでもわからないのだろう?』 なんて感じることはないでしょうか。


今この文章を読んでいる人なら、そう感じたこともあるのではないかと思います。

”ここに書いてあるんだから読めよ!”なんて思うこともありますが、読んでいるのにわかっていない人が多いことに気付く人も居るのではないでしょうか。


実は、読んでもわからないくらいでも普通の人です。

文章読めない(読んでも理解できない)人は普通にたくさん存在しますが、発達障害を持つ人はそれよりはるかに少ないのです。


発達障害の有無に関係なく、元から長い文章を読める人は多くない。

文章が読めない理由を発達障害に求める必要はありません。


文章読めない人の多くは発達障害を持っていません。

べつに読めなくても構わないのです。

読めなくても普通であれば、それは社会生活を送るうえで大きな問題にはなりません。

読めなくても生きていけるように社会は作られるからです。


多数派に合わせられるので、文章を読んでも内容を正しく理解できない人が多ければ、説明会を開いて口頭で説明する等の、文章が読めなくても問題無いように補助する手段が用意されます。


なので、文章が読めない人(読んでも理解できない人)がごろごろいても、日頃問題になっていません。

読めない人が、そんなにたくさん居ることにも気づきません。


そして、発達障害の人が長い文章読めないかと言うと、そうでもありません。

一般的な人と少々異なる特性を持っているというだけで、マイナスの方向とも限りません。



文章を読める人はある程度限られる。

元からそういうものです。


結局のところ、単純に、”読める人が読めば良い”。


========

本作では、”アスペ”という言葉を使っています。

以前存在した区分です。会話可能で知的障害を伴わない自閉症が一時期『アスペルガー症候群』と呼ばれていたためです。

2023年現在でもそここそ通用しますが、いずれは忘れ去られる言葉(死語)になるかもしれません。

現在では、自閉スペクトラム症(ASD)に統合されてしまっています。

そのため、アスペルガーと診断されることは正式には無いはずです。


従来から知られていた自閉が知的障害を伴うのに対し、知的障害に入らないことから【高機能自閉】とも呼ばれており、どうもその”高機能”というのが誤解を生んだようで、一時期は、自称アスペがけっこう存在していました。


IQは一般人より高いのではなく、一般人並みです。


自閉は特定のことを繰り返すことを好む傾向があり、興味が受験に向いた場合、常人よりよほど受験に向いた特性になったりします。

そのためか、学力が非常に高い人も多く存在するようです。


一時期は自称アスペが大量発生した時期もありました。


学力が高い場合、学生時代は問題なく送りつつ、社会に出てから苦戦する場合も多いと思いますが、成功者にもアスペと思われる人物も存在します。


診断できるのはお医者さんだけですので、診察受けてください。

今はアスペという括りは無いので自閉と特性を持っていればASDと診断されるでしょう。


本作では、低い側で知的障害に引っかからないレベルのASDのことをアスペと表現しています。


========


本作は4万文字ほどの長さがあります。

一般的に気軽に読めると言われる長さより少々長目だと思います。

参考になりそうなところを拾い読みしていただければと思います。


文章や中身の難易度はあまり関係無く、興味の有無、共感できるか、概念の有無で、読める読めないが変わってくることもあります。


一般的には読みやすい文章ではないと思いますが、”分かりやすい”と感じる方も存在します。

そんな文章です。

読める方に、読んでいただければと思います。


----

ADHD持ちの方の中でも特に、能力の凸凹を実感している人に合うと思います。

書いている私が、そのタイプだからです。

逆に、能力の凸凹を感じず、注意欠陥や、多動の症状自体に悩まされている人には、当てはまらない部分が多いかもしれません。

同じADHDの判定がでる人でも、障害の発生要因の異なる人も多そうな気がするので、先に書いておきます。


確かに、私は子供の頃、通知表に”落ち着きが無い”とは、よく書かれましたが、私は出席日数を満たすために、仕方なくその教室に居るだけで、授業を受ける気ははじめから無かったです(学校で授業を受けなくてはならない理由がわからなかった(授業受けることと学力が上がることに関係が無いので))。

学校に行く義務があるのだと思っていたので行ってただけです。

そして、卒業の条件は出席日数です。

なので、授業で何をやったかなんて興味ありませんし、不登校でも無いのに、卒業文集も書いてません。

(書かなくても卒業できるので書く必要が無い)。


授業受ける気があるのに”落ち着きが無い”という評価を受けてる子とは、多動の原因が違っているように感じています。

※ADHDの多動は、自分が多動なのではなく、他人から見て多動に見える症状です。


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この話は主に発達障害によって、社会に対して、絶望、或いは、大きな疑問を抱えている人向けに書いています。


伝えたいことはこうです。

”人が普通だと言うことをするのに現在苦労している人は、

 普通のことさえできないと悩んでいるかもしれませんが、

 普通のことをやろうと頑張らなくても、普通を諦めても、

 意外になんとかなりますよ”

これだけです。


そして、”なぜ、普通のことをしなくてもなんとかなるのか”その理由を説明しています。



私は、小学生の頃、生きているのが嫌なほど、絶望を感じて生きてきました。


周囲の人達から、わけのわからない、”役に立たないこと”、”意味のないこと”を押し付けられて、結果が思い通りにならないと怒られるという理不尽にさらされてきたからです。


親や先生、周りの人達は、なんでこんな無意味なことを強制するのだろう? と感じていました。


その時点で十分絶望的なのに、

”子供は楽だ。大人になったら、もっと大変だ”

と言うので、今でも困ってるのに、これより酷くなるのか!!

と絶望しかありませんでした。

そんな状況ですから、当然、生きる希望なんかありません。


結果としては、当時、あれだけ無理やりやらされたことは、何の得にもなりませんでした。

(そりゃ、無意味なことなので当然の結果ですが)


その一方で、自分で、こうだ!と思うことをやっていたら、大人になったら案外なんとかなりました。

(夢が叶ったとかではなく、一見普通の人みたいになりました。

 無理に同化、同調しなくても、割切ると言う方法でも、案外なんとかなるようです)

その経験を元に書いています。


無理して普通に合わせるより、素のままで動いた方が、マシになる可能性は十分にあります。

現状が幸で無いなら、試してみる価値があると思います。


大多数の人は、普通に合わせて設けられた道を進むのが、そのまま必勝法になるので、それ以外の手段を考える必要がありません。


普通の人は、普通に努力すれば、自動的に努力にカウントされるようです。

普通でない人から見ると、すごく不公平です。


私は結果に結びつく方向に努力をしても、その過程は努力として評価されませんでした。


逆に、結果が出ると、後から”努力した”と評価されます。

努力の量と努力の評価に関係が無いのです。

どういうわけか、結果が出ると自動的に、”その結果は努力の成果として得られたもの”だと誤解されます。


なので、努力を正しく評価してもらうことは諦めた方が良い人も多いと思います。


努力は、普通の人の考える努力の方向でしか評価されませんので、独自の方法をとる場合、過程は評価されません。評価されない程度ならともかく、罵倒や妨害に散々悩まされるかもしれません。


傍から見ると、それはとても愚かな行動に見えるようです。

理解を得られないことが多いでしょう。

でも、普通から外れる人が、普通の人達の基準に沿った努力をしても、良い結果が出ません。


”元から違うので、同じことをやっても、結果が異なる”という、とてもとても簡単な理由です。



この話は、社会に対して、何の問題も疑問も感じて無い人が読んでも、意味わからないかもしれません。

当事者でないと、なかなかわかりにくいと思います。

※逆に”普通から外れた人が、何故そういう行動をとるのだろう?”

 と思っている人が、その行動の理由を知る為の手助けにはなるかもしれません。


----


当事者以外の多くの方々は、能力の凸凹で障害が発生すると聞くと、

当事者が凸凹で困っていると思うかもしれませんが、実は多くの場合、

それ自体には困ってません。


例として利き手で考えると、

左利きの人は、左手が使いにくくて困っているわけではありません。


左手の方が使いやすいのに、世の中が、右利きの人に合わせて作られているから、世の中の標準と合わなくて困っているのです。

さらに、みんな右手なんだから、右利きに矯正しようぜ!という圧力に悩まされることも有ります。


左利きの人は、左手が使いにくくて困っているわけではありません。

能力に凸凹がある人も同じです。凸凹で困っているわけではありません。


そもそも能力の場合、本人から見ると自分に凸凹は有りません。

成長と共に、他人との差を自覚するだけです。


挿絵(By みてみん)


障害の在処は、実は、障害を持つ人と持たない人とでは、かなり認識にズレがあったりします。


■0.発達障害は外見ではわからず、能力が低いとも限らない上に、そもそも名前に省略された部分があります


発達障害と言うのは、社会生活を送る上での障害が、単に(身体的ではない)能力が平均的ではないという、たったそれだけのことが理由で発生しているという障害に付けられた名前です。


障害の文字に直接現れていない、当たり前すぎて省略されてしまう部分

”社会生活を円滑に送る上での”

という部分が一番重要なのですが、その一番重要なところを、普通の人(平均的な能力を持つ人)は知りません。


社会と言うのは、普通の人にとっては障害にならないからです。

自分たちにとって障害にならない良いものが、見た目的に何の問題もなさそうな人にとって障害であると考えるのは難しいわけです。


そもそも、発達のバランスが平均と違うだけで何故、障害になるのか?

ここが理解できず、単純に能力が低いと言う判断をすることも多いようです。


”発達が平均と違うだけで障害になる理由”。これは、簡単に言えます。


社会はその社会に暮らす人の能力の平均に合わせて作られていて、そこから外れる人には自動でペナルティーが発生するからです。


そして、その理由も簡単です。

”平均に合わせるために消費されるリソースは個人の持ち出しだから”です。

”平均に合わせて作られた社会やルールに合わせるために消費されるリソース”は評価されません。


生まれ持った能力によって、平均に合わせるために消費されるリソース量は大きく変化します。

ところが、ほとんどの人は平均付近の能力を持っていますので、平均に合わせるためのリソース量は多くは無いようです。

そのためか、そこで消費されるリソースは評価されません。


思い当たることありませんか?


普通、普通と言われるので、普通に合わせるために凄く努力する。

そして、頑張った結果、こう言われます。


”そんなの普通だろ”……と。


普通にしろと言うので努力した。その結果、努力した部分がスルーされました。

凄く頑張ったのに評価外です。


物凄く不公平です。


つまり、平均から離れると、それだけで、評価外の無駄なリソースを消費することになります。

”そんなの普通だろ”これを言われると、凄くやる気を削がれます。

たぶん、言う方は気にもしていないと思いますが、何度も言われると、心が折れます。

やれと言うからやったのに、評価外。

案外、こんなことでも二次障害が出てきます。



挿絵(By みてみん)

普通に合わせたルールに従う場合、だいたいこうなります。



少数派:合わせるために凄く頑張った  多数派:そんなの普通、頑張ったうちに入らない

 (ここを含めて評価してほしい)      (その部分は評価に値しない)

       ↑     これがギャップ     ↑


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多数派が評価しないことを問題視しているわけではないです。

少数派に対して言いたいことは、”評価されないことをやる必要は無い”。

多数派に対して言いたいことは、”評価しないことをやらせるな”。

です。

----


障害者側に障害の理由を求めると非常に難解なのですが、実は仕組みが分かると、とっても簡単なものであることがわかります。


”世の中は普通の人専用にできているので、そこから外れる人には障害が発生しやすい”。それだけです。


とっても簡単ですね!



平均と違うと発達障害になるのですから、発達障害を考えるには、平均的な能力を持った人向けに作られた社会とセットでないと意味がありません。

その部分に着目した話が無いことに疑問を感じて書いたものです。


分母の話をしないで分子の話だけしても意味無いと思うのですが、何故かセットで語られることがあまりないことに違和感を覚えます。


----

※新規に読む人は、むしろ、わざわざ”社会とセットで考えろ”などと、

 何度も何度も書かれていることに違和感を持つかもしれません。

 それには時代背景が有りまして、これを書いた当時は、

 ”社会との相性の問題である”という考え方を前面に押し出した話は、

 ほとんど無かったのです。

 例えば、ADHDの場合、注意欠如・多動性障害の意味ですが、

 注意欠陥やら多動の話が多く、表面的な症状と、それに対する対処法的なもの

 ばかりが多かったのです。もちろん、対処法は今でも重要だと思いますが、

 社会との相性を考慮しないと、”障害の原因は個人の方にある”ように見えてしまうという

 根本部分にも触れられる機会が増えたように感じます。

 2年程度で、ずいぶん変化が起きたように感じます。

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挿絵(By みてみん)


セットで無いと意味が無い理由、つまり、”社会と発達障害の関係”を中心に書いていきます。

(障害者側に着目して的外れな対策をされると、障害は、改善されるどころか、余計に大きくなるため)



■1.発達障害って何?


発達障害ってどういうものか知ってますか?


今だとADHD(注意欠陥・多動性障害)が有名ですが、自閉症も発達障害の一種です。

障害と言うのは、並の努力で超えられない壁のことです。

ここで言う壁というのは、ただ1つのことを指します。


壁と言うのは”社会生活を円滑に送ることができるかどうかの壁”です。


発達障害とは、

 ①社会生活を送るのに障害があって、

 ②その原因が精神的(身体的ではないという意味)な能力が元々平均から外れているもの

のことです。


(精神的)能力ってのは、記憶力が良いとか、頭の回転が速いとか、作業を正確に素早くできるとかそういうやつです。

天才とかも本人が社会生活に障害を感じていれば発達障害です。平均から外れているからです。

(全ての能力が高すぎると、知的障害に入るのかもしれません)


逆に言えば、本人、周囲の人が困っていなければ、どんな能力であろうとも、それは障害ではありません。

テスト受けて知的障害に入るような点数だったとしても、そもそも社会生活を送る上での障害になってなければ障害者ではないのです。


ポイントは平均から外れてると障害になると言うところです。

発達障害を考える上で、そこが一番重要です。実は能力の高低ではありません。


高いか低いかは関係なく、平均から外れていることが問題になるのが発達障害です。

まずは、そこを中心に据えて考えてください。


”高くても問題になる”というところに着目すると、何が問題なのが理解しやすくなると思います。


(IQテストで測定できるような能力値が)低くて困ってる人は普通にいくらでも居ますが、その人たちは知的障害という別の分類になります。このエッセイでは扱いません。

(残念ながら、私には助言になりそうな話が書けません)



■2.社会とセットで話す必要がある理由


障害と言うのは、”社会生活を円滑に送る上での障害”です。

ですから、社会から離れて生活する際に発生する障害は発達障害とは関係有りません。


つまりこういうことになります。

発達障害とは、基本的には、本人単独の問題ではなく、社会との相性によって発生する障害なのです。

実際には親子間でも発生しますので、社会から離れて一家族で暮らしても発生します。

家族も社会の一種だからです。

ただし、多くの人が絡む大きな社会が無ければ、困る範囲は大幅に少なくなります。


発達障害の話をしたいのですが、一気に話しても伝わりにくいので、”目に見えやすく、わかりやすい例”として、目の見えない身体障害者に例えて説明します。



例えば、目が見えない人が居た場合、何が障害かと言うと、一見、目が見えないことに思えますが、実は見えないという体側の問題ではありません。


迷ってしまったり、物に躓いたり、本や説明書を読むことができなかったりと、普通の人には必要ない助けが必要になります。

目が見えることが前提で社会が作られているからです。


全員目が見えなければ、障害は発生しません。目が見えない人向けに社会が作られるからです。


家の中に照明も無く、夜暗くても人々は平気で行動するでしょう。

道で迷っても何の問題もありません。道で迷うのが当たり前なのであれば。


道で迷っても、それをマイナス評価する社会ではないからです。

その集団の中で、普通の人が普通にやってしまうことは、マイナス評価になりません。


~~~~~~~~~~~~~~~~


こんな話があります。

※又聞きですが、実話ベースの話です


盲学校出の人の結婚式だったかで、視覚障害の人もたくさん出席し、そうでない人もたくさん出席する結婚式がありました。

途中でビデオ放映で会場が真っ暗になり、ビデオが流れていました。

そして再び照明がつき、明るくなった時には料理が無くなっていました。


健常者(普通の人)は驚きました。いつの間にか料理が無くなっているのです。


そのとき、視覚障害の人はこう言いました。

「なんで食べなかったのですか?」と。


まず、そもそも、その人は元から見えないので、会場が普通の人が活動するのに十分な環境かどうかは、わかりません。

さらに、暗いと普通の人は、食事をすることができないということも、わからなかったのです。

健常者(普通の人)と共に、暗い中で食事をする機会が無かったからです。


そのため、気付かず食事をしていたのです。

盲人の方が多数派の世界では、こういうことが起こります。


つまり、盲人が大多数で、見える人が滅多にいないとしたら、見えることがさほどメリットにならないわけです。

社会的に無視されるのです。

建物の中に照明は設置されません。真っ暗です。

世の中は、目が見えない人に合わせて作られるからです。


見えなくてもできることだけが、評価対象になります。

そして、見えることが直接評価されることもありません。


”普通の人ができないことは試験に出ない”のです。

つまり、評価対象になりません。社会生活に必要ないからです。


なので、人より優れた部分があっても評価されません。


”社会生活を円滑に送る上での障害”がある場合に障害者となります。

上の食事の例でわかりますが、障害があったのは健常者の方です。


一見、目が見えないことが障害に見えますが、そうではありません。

見えるか見えないかは、べつにどうでも良いことなのです。

”社会生活を円滑に送る上での障害になってるかどうか”が全てです。


ほとんどの人が目が見えない場合の社会では、見えないのが前提でルールが作られます。

相手が勝手にぶつかって来て怪我した場合でも、「見えてたから止まった」と言っても単なる言い訳。

実際にどのような能力があるかは関係無しに、見えないことが前提で作られたルールに縛られます。

見えている人には、そのルールは苦痛に感じることもあるでしょう。


例えば、見えていない人は止まらないところで、障害物が見えているから止まったとき、後ろの人が気付かずぶつかってきた場合、見えないのが前提の社会であれば、『なんでそんなところで止まるんだ』と、見えている人が悪者になります。


先を見通せている人が、正しく動いても、先を見通せない人が普通の社会では、先が見えていないのに合わせて行動しないと、なぜ皆と同じことができないんだ!と怒られるわけです。

なので、能力的に優れていることがプラスにならない場面が多くなります。


逆に、その集団の中の普通の人ができることが、できないと大きなペナルティーが発生します。

上の例で言うと、暗いところでの行動です。

全ての人が、明るくても暗くても同じように行動できることが前提で社会が作られているからです。


能力の凸凹が大きい人の場合、凸は生かしにくく、凹部分に足を引っ張られる機会が多いのはそのためです。


普通の人の持つ物差しは、能力の凸凹が少ないことを前提としているので、結果として凸凹の大きい人の能力は凹のところで引っかかり、これが評価になります。

なので、そのルールが強く適用されるところで勝負するのは不利です。


評価基準は、社会や評価する人の勝手ですから、それは仕方ないと放置すれば済むのですが、困ったことに、有害な助言や無駄な努力の強要をしてくることがあります。


要約するとだいたいこうなります。

”凸凹の凹を改善すれば評価が上がる。だから、その部分を改善しろ!”

それは確かです。

そのため、多くの場合助言として凹を持ち上げるための手助けをしてくれたり、凹の強化を強制してきたりします。


ところが、病院に行くと医者はこう言います。


”一般的に、凸凹の大きい人は、苦手な部分を強化するよりも、得意な部分でカバーしていくのが良いでしょう”

ほとんどの場合、こっちが正解です。


素質レベルで低いところに労力を費やしても、上げ幅が少なく、数値的な評価が一時的に多少改善する程度で、長い目で見た場合は、武器になりません。

そもそも、日頃からその部分には力を注いで生活しているわけで、さらにどれだけの力を追加投入するか。


もちろん、”状況によりけり”ではありますが、基本的には、そこに労力を費やすのは、長期的には得策では無いことが多いように思います。


投資と一緒です。

延々赤字を垂れ流すことがわかっているところに、わざわざ追加投資し続けるのは悪手です。

そこに投資すれば確実に儲かる!実際ほとんどの人は儲かっている!と言われたところで、本人にとっての赤字部門を黒字化するために、他の部門のリソース削りまくっても、トータルの黒字は減るばかりという例が多いのではないかと思います。

赤字部門は切り捨てて、別の手を考えた方がマシな結果を得られる可能性も高いでしょう。


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目が見えない人の例で説明したところ、”目が見えない人の社会が存在しないのは、生き残れないからだ”と言うコメントが付いてめんどくさいので、もう1例追加します。


あくまでも例です。

ここで説明したいのは、”目に見えている障害の原因と、実際の障害の原因は別である可能性があり、それを説明するためには社会とセットで話す必要がある”ということです。


実際にそのような世界が存在するかどうかは話に関係ありません。

そこが気になって先に進めない人が居るようなので、実際に存在する別の例を追加します。


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世の中にはけっこうな割合で、先天的、生まれた時から赤と緑の色の見分けがつきにくい特性を持った人が存在します。

日本では男性の5%程度です。男女半々の共学の40人クラスに1人くらいという身近なところにいくらでも居るくらいの人数です。女性の場合は0.2%で滅多にいません。

劣性遺伝で染色体のXに存在しているためです。

女性はXを2つ持ちますので劣性は出にくいのですが、男性はXを1つしか持ちませんので劣性でも発現するためです。


この人たちには、赤と緑がはっきり別の色として見えている人と見え方が異なります。

絵を描く人だと、肌色だと思って緑っぽい色で塗ってしまったりします。

理由は簡単です。その人には肌色とその色は同じ色に見えているからです。


多数派が赤緑青の色を判別できるため、テレビやモニターはRGBで作られています。

印刷物はYMCです。色の3原色とか光の3原色とか言うやつです。

あれは光や色が3原色なのではなく、一般的な人の目が3原色なのです。

※黒を入れて4色、或いは別の色インクの色数増やしたりしますが、きれいに見せるためで原色が増えてるわけではありません。


多数派が赤と緑を見分けにくいタイプであったらどうでしょう?

テレビやモニターの画素は青ともう1色の2種類になるでしょう。


そして、大部分の人には同じ色に見えている色が、3原色見えている人には全く違う色に見えるのです。


色が目印になっている場合、普通の人には同じ色に見えているものが、ある人には様々な色に見えます。

日常生活で不便な場面が出るかもしれません。

上で書いた肌色の話と同じです。

肌色と緑が同じ色に見えてるのが普通という世界では、それが別々の色に見えたら不便なのです。


不便するのは赤と緑が別の色に見える人の方であり、見分けがつくから能力高い!とはなりません。


多数派に合わせて社会は作られます。

赤と緑の見分けがつきにくい人が居るからテレビやモニターは2色で作りましょう!とはなりません。

多数派に合わせられます。


3原色が多数派の社会で2原色の人が困ったり、或いは、2原色が多数派の社会で3原色の人が困ることはあると思いますが、社会の外で個々で暮らす場合の生存率に大差は無いでしょう。


現実社会でも、赤と緑の見分けがつきにくい人の比率はあまり変化していません。

かなり明確に遺伝するものですから、自然淘汰されるなら減っていきます。

減らないということは、生存率とあまり関係が無いのです。


優れているか劣っているかどうかではなく、世の中は常に多数派に合わせて作られると言う例として書いています。

わざわざ生存率に言及した話を追加で書いた理由は、目が見えなければ自然淘汰されるとコメントがついて、めんどくさかったからです。

2原色より3原色の方が能力が高いからそっちに合わせてるだけだ!と言うのであれば4色覚持ってる人も居ます。でも4色覚には合わせません。

普通の人には見分けがつかないのでコストかけて4原色テレビ作っても付加価値にならないからです。


ある程度人数比率に大差があると、少数側は無視されることが多いです。


社会にはそのような性質があります。


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発達障害は、身体障害のように見えやすいものでは無いので、理解しにくいと思いますが、同じです。


アスペは空気が読めないとか言いますが、じゃあ逆はどうなのかと言うと、普通の人はアスペの空気を読めません。

空気を読めないのはアスペの方ではありませんね。


正しくは”お互いに空気が読めない”です。


挿絵(By みてみん)


ですが、少数派の方が、一方的に空気が読めないと言われます。

とっても理不尽です。


そして、多数派が入れ替わると逆になります。


世の中の多数派がアスペだったら、アスペでない人の方が空気の読めない人になります。

考え方や嗜好(誤字ではなく好みのことです)が違うからです。普通が変わるからです。

つまり、空気を読むと言う能力が高いわけでは無く、単なる多数決の問題なのです。


普通の人は、その当たり前のことを知りません。


頭が悪いからではありません。そんなことを考える必要が無いからです。


多数派に属さないだけで、空気が読めないとか言われてしまいます。

とっても理不尽です。


周りの人に何度も言われると、きっと自分がおかしいのだろうと思って、自分を責めてしまいます。

でも、逆に考えると、多数派が居なければ、そんなことを一方的に言われることも無いわけですから、自分だけが悪いと考えても、答えが出ません。

多数派も含めた範囲の話をしないと出口が見えてきません。


障害は社会生活を円滑に営むことが難しいかどうかが基準なわけですから、社会の話をセットで考えないと意味が無いと思うのです。

ところが、なぜかそこは放置して障害者にばかり着目する。

そうすると、間違った解決策が出てきて、ますますおかしくなっていきます。


挿絵(By みてみん)


発達障害の場合、障害者側に障害はありません。

障害は社会との相性にあります。


なので、発達障害者だけに着目しても、根本的な問題が見えてきません。


障害を考えるなら社会とセットでなければなりません。

社会と障害者の関係をよく知ることで、対策が立てやすくなります。


挿絵(By みてみん)


”自分が社会に適応するために頑張る”のではなく、”社会との関わり方を考える”方が良いと思います。



■3.能力が平均から外れていると障害になる理由は、多数決で負けるから。負けた方が悪だから。


なぜ、平均から外れていると障害になるかと言うと、これはものすごく簡単です。


”社会は平均の人専用に作られているから”です。ただそれだけの理由です。

その唯一の理由を平均の人は知りません。知識として知ったところで経験できません。

だから理解しにくいのです。

実際にこのエッセイを読んでも意味が伝わらない人も多いようです。

実際に体験できないからです。


社会は普通の人専用に作られている。

だから、頭の善し悪しではなく、普通から外れると障害になりやすい。


そこを理解するのが、第一歩となります。


普通に属する人たちは、数字の高低を優劣で考えることが多いのですが、数字の高低はあまり関係ありません。


発達障害の診断をする際、IQテストを受けることが多いと思います。

数字が高いか低いかを調べるわけではありません。

一定の範囲内に入っていれば、問題無い数字になります。


普通の人が考えるIQ高い人は、IQが並み(IQ100付近)の人をベースにして、それを数十%拡大したようなものを想像するようですが、実際は違います。

数字が離れると、物事の捉え方の種類が変わるような感じになることが多いと思います。

※普通の人の能力を高くしたようなタイプの人も存在します


平均的なIQの人からは、IQ高い人が頭の悪い人に見えたりします。

話が通じなかったりするからです。


逆のパターンを考えてみると良いでしょう。

平均的なIQを持つ人は、知的障害者の考えてることを想像できるのでしょうか?

できませんね。何か問題があった場合に、それを解決する能力は知的障害を持つ方より高いと思います。

ただし、何を考えているかわかるかというと、わからないと思います。


むしろ『何がわからないんだかわからない』と思うのではないかと思います。


それと同じです。

アッパ-コンパチで、数字が高い人は、低い人の考えがわかる……なんてことはありません。


そして、IQ高い人に話が通じなくても、IQ普通の人は、IQ高い人の頭が悪いと考えます。

日頃ほとんどの人に対して特に工夫せずとも伝わる話がその人には通じない場合、その相手が特別頭が悪いと考えます。

さて、頭が悪いのはどちらでしょう?


IQが高い=頭が良い ではありません。

それにしても、IQ高い人が頭悪いと思われた理由は、頭が悪いからでは無いように思います。

単にIQが離れていたからです。


なので、あまり高いか低いかは関係ありません。

特性が離れてると、お互いに相手の考えがわかりにくくなる。

ただそれだけです。


このように、能力をスライドして相手の考えることを予想する機会は、圧倒的に普通から外れた人の方が多く、日頃から慣れています。

なので、この話も比較的理解しやすいのではないかと思います。

逆に”何故、世の中の多くの人はそれに気付かないのか?”

と不思議に思うかもしれませんが、理由は簡単です。

その人たちには、そんなことを気にする必要が無いからです!


結果として、”平均から離れている側が一方的に歩み寄る”と言う構図になります。



感性や能力が近いほど、言葉を省略して会話することが可能になります。

省略して意思疎通できる間で、やり取りできた方が効率的です。

だから、外れる側が邪険に扱われるのはある程度仕方ありません。

意思疎通のために、無駄なリソースが消費されることになるからです。


学歴社会と言うのもある意味、無駄なリソースの消費を抑える仕組みとして役立っています。

近い能力を持った人たち同士で交流する機会が増えますので、無駄なリソース消費が少なくて済みます。


ところが、能力の凹凸が多いと、どの階層にも入れません。

これも凹凸が大きいだけで発達障害になる理由の一つです。


障害者から見ると、障害は社会の方にあります。

そりゃ当然ですね。

社会が自分に対応していないから障害者なわけですから。


そして努力で乗り越えることもできない壁が、生まれた時からそこに存在しているわけです。

本人は別に何も悪くありません。


挿絵(By みてみん)


じゃあ誰が悪いかというと、誰も悪くありません。

だから困るのです。戦争とかと同じです。

どっちが悪いかと言うと、どっちも悪くありませんが、結果としては負けた方が悪い。

勝てば官軍です。

ですから、多数派は常に勝者であり正しい……となってしまいます。

少数派は、何も悪いことをしなくても、良いことをしても、常に悪なのです。


平均から外れる少数派の人は、”お互いに”という言葉に対する不信感を、少なからず感じていると思います。

”お互いに”なので、両方から歩み寄るのかと思うと、結局何故か一方的に譲歩を迫られるので意味が分からないのです。


でも、簡単です。

”社会は普通の人専用なので、普通に合わせなさい”と言ってるのであって、”両方から歩み寄りましょう”という意味では無いのです。


生まれたときから、そんな状況に置かれるとどうなるでしょう?


もう少し想像しやすいパターンで考えてみます。


例えばです、普通の人がある日、ぜんぜん風習の異なる土地に強制的に引っ越しさせられたとします。

そこで、よくわからない暗黙の了解に縛られて生きることになったら、ストレスで落ち着きがなくなったり注意力散漫になったりすることもあるでしょう。


普通の人が注意欠陥多動持ちになっちゃいましたね!


この人は、障害が注意欠陥多動ではありません。

障害が社会で、結果として出ている症状が注意欠陥多動ですね!


実はADHDは、それなのではないかと思うのです。

能力の凸凹自体が、本人の障害になっているわけではなく、社会に対する拒絶反応と戦ってる姿が、他人からは注意欠陥や多動に見えているのではないかと思うのです。


能力の凸凹が正反対の人も、同じくADHDになって、同じ診断に引っかかります。

能力の凸凹が直接症状を引き起こしているのであれば、凸凹が逆の人同士は、逆の特性を示すはずです。

凸凹が真逆の人同士は、お互いに、得手不得手が最も大きく異なる人になるのです。


ところが、実際はADHDの同じ症状が出ます。


同じADHDネタに対して共感して、いいねを押してしまったりするわけです。


特性が真逆で同じ症状が出るのは何故でしょうか?


ADHDの診断の場合、先に注意欠陥やら多動が有って、テストを受けると凸凹があることが判明して、ADHDの判定を受るというのが普通のパターンだと思います。

逆に、何もないのにテスト受けて、数字がおかしいからADHDの検査受けるというパターンはあまり無いのではないかと思います。他の障害や病気を調べてるうちに順番が逆さになる例もあるとは思いますが。


私がWebで見た範囲でも、凸凹が逆の人もADHD判定が出ています。


”IQテストは目安に過ぎない”……にしても変ではないでしょうか?


生まれつきの能力の凸凹で起きている障害が発達障害ですが、能力の凸凹による直接の得手不得手ではなく、別の障害が発生していて、それがADHD。

ADHDは一次障害ではなく、二次障害がADHDではないでしょうか?


物心がついたころには発症しているので、先天的なものと区別がつかないだけで、本当は後天的なものである可能性もあるように思います。


ここでひとまず、一次障害か二次障害かは置いておきます。


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次は、普通の人から見て、発達障害の障害がどこにあるかを見てみましょう。


社会は平均的な人専用に作られているので、平均的ではない人にとっては社会が障害になっています。

ところが、平均的な人にとっては社会は障害になっていません。

なので、障害は障害者にあると考えます。


立ち位置がちょっと変わるだけで、ものの見え方はずいぶん変わります。

これを読んでる方も、下から見たらたいしたことのない段差が、上ってみると意外に高く感じたりすることを経験したことがあるのではないかと思います。


立ち位置によって感じ方は大きく変わることがあります。

そのこと自体を知っていても、実際に経験できない場所からの見え方を正確に想像するのは案外難しいものです。



なので、普通の人が考える障害者の救済策は、頓珍漢なものが多くなります。


挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)


まあ、多数決の問題なのである意味正しいと言えば正しいのですが、障害者を普通の人にしてあげよう!と頑張ってくれたりします。

でも、それは、鬱病の人を頑張れ頑張れ励ましてるようなものです。


注意欠陥や多動自体を止めるために、いろいろやるのは逆効果です。

原因があって出ている症状で、それを止めさせるとさらに重大なダメージに繋がります。

”注意欠陥多動”を止めるのではなく、”注意欠陥多動が出る原因”の方を治さないと意味無いです。


ですが、多数派は少数派自身に問題があると考えますので、頑張ってより症状が悪化する、ダメージが大きくなる方法を好んで押しつけてきます。

むしろ、殺す気か?と思いますが、それが正義だと思って、仲間にしてあげよう!と親切でやってくれたりするわけです。


挿絵(By みてみん)


普通の人のアドバイスは、普通から外れる人にとっては毒になることも多いのです。

評価されない(リターンの無い)部分への投資を勧めてきます。

断っても強要してきたりします。

食物アレルギー持ちの人に対して、それは甘えだ、食べて克服!と食べることを強要するのですね。


とっても親切なのですが、死んだりしちゃうわけです。

まあ、死ぬ例は少ないとしても二次障害を負ってしまう例は、とても多いでしょう。


危険なものに対して正しく学習した結果、心が危険なものに近付くのを避けようとすることになります。なので、集中できなくなります。注意欠陥やら多動が出ます。


だとしたら、正しい学習結果として出ている現象が注意欠陥やら多動のようにも思えます。


注意欠陥多動は、気が散るのではなく、集中できないという症状です。

能力に凸凹があっても、それが直接、多動や注意欠陥の原因になってるわけでは無いでしょう。

処方される薬は、興味を持ちやすくする、楽しく感じやすくするというものです。

(ドーパミンの効きを直接的、間接的に良くするもの)

この薬は、結局のところ、”社会に対する拒絶反応”を抑えているのではないでしょうか?


凸凹自体は、本人からすると、それ自体は、特に問題は無いのです。

本人からすると、他人から見て凸凹と言う、そのパラメータこそが凸凹の無い平坦なものです。

他人と関わらず1人で生きている限り、それが普通、自然であり、さほど不便を感じないでしょう。


実際に凸凹を自覚できずに、生き辛さに悩まされている人も多いでしょう。

(自覚してても受診させてもらえない、抵抗があって受診できない人も多いでしょうし、凸凹が具体的な形で見えていない人は多いでしょう)


経験によって、社会が危険だと学習し、その結果出ている症状が注意欠陥やら多動なのではないかと思います。


もしかしたら、全く別の原因で、注意欠陥や多動の症状を持つ人達が、ごっちゃにされている状態なのかもしれません。

一次障害が注意欠陥多動という人も居ると思います。

でも、そう言うタイプの人は、能力の凸凹は関係ありません。


なぜ能力の凸凹があると、特性が真逆でも同じように注意欠陥多動の症状が出るのか?と考えると、社会生活を送る上で凸凹が障害となり、その二次障害として出ている症状が注意欠陥やら多動と考える方が自然な気がします。


なので、逆に、注意欠陥やら多動を持っているのに、能力の凸凹はほとんど無いというタイプの人も存在すると思います。

一次障害が注意欠陥多動という場合は、能力の凸凹は大きく出ない場合も多いのではないかと思います。


少なくとも、凸凹で見たら私よりマシなのに、私よりも注意欠陥多動の症状に強く悩まされている人は非常に多いように見えます。

(私の凸凹の大きさは、滅多に居ないくらい極端に大きいです)


感想で書いてくださった方もいますが、能力の凸凹の大きさと注意欠陥多動の症状や、生き辛さは、必ずしも比例するわけでは無いように感じています。


注意欠陥や多動が出るほど困っていても、説明したところで、実感できない人たちに理解してもらうのは難しい場合が多いと思います。


それを説明するために費やす労力も、持ち出しになりますので、頑張るほどに、リソースを消費してしまいます。

相手に合わせたり、理解を求めるためにリソースを消費するより、社会はそう言うものだと割り切って、なるべく、社会に合わせるために消費するリソースは減らした方が良いと思います。


評価されない部分にリソースを費やしても無駄ですから。



■4.急に大人のADHDや大人の発達障害が話題になるようになった理由

※本作は2018年の作品です。時と共に状況は変化しますので、

 書かれた時期を考慮して読んでください。


発達障害は、”先天的なもの”、”持って生まれた能力によって社会生活に問題が出る”という障害ですので、ほんの数年前までは、子供のうちに判定を受ける必要がありました。


(2018年現在の)ごく最近までは大人になってからADHDの判定が出る例は、ほとんど無かったのではないかと思います。

”生まれつきのものなので、大人になってから発達障害が発症することは無い”という理由からです。


最近になって、子供のころ見落とされていたADHDが大人になって判明するパターンが認められて、大人が治療を受けるためのハードルが大きく下がりました。


そのため、最近になって、大人のADHDとかいう話が出回るようになったのです。


なぜ今頃そんな話が出るかというと、たぶん、ネットの普及で生き辛さを感じてる人の話を聞きやすくなったとか、新しい薬ができたとか、労働力不足を補うために投薬で労働力化できるなら、労働力として使おうと言う判断があったのか、そんなところでしょうか。


メディアで目にする機会が増えた理由は、宣伝する予算が生まれたからです。

新たな市場ができたのです。


ADHDが増えたのではなく、ADHDに認定されるハードルが猛烈に下がったのです。

保険適用で治療が可能になったのです。

(基本的には、治るわけではなく、薬で症状を緩和するだけですが、治るケースも有ると言う説もあるようです。先天性の能力の凸凹自体は治らないと思います)。


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※お前の話なんて聞きたくないと言う方は、読み飛ばしてください。

 この、”受診するまで”、”診断受けるまで”のところが役に立つと言う方も居るので残しています。


そこで、私もADHDの簡易チェックシートをやってみると、ADHDの疑いありなので病院に行くことにしました。

いえ、べつに、チェックシートで初めて知ったとかではないです。

わざわざ、こんなチェックシート用意するほど、大人のADHDのハードル下げてるのか!と思ったのです。


弱者救済の公共サービスは、多くの場合、むしろそのサービスの存在を隠しているのではないか、使われると困るのではないか?などと疑ってしまうくらい使いにくいものが多いです。


問い合わをせしても、たらい回しで、そのサービスを受けるのは、弱者には無理なのでは無いか?なんて思います。これを読んでいる方の中にも、実際、そんな経験した方も居るのではないでしょうか。



病院でも同じで、今までは、わざわざ病院行っても、「ああそうですか」でスルーされる予感しかしなかったので、行く気なかったのですが、このときは行ってみようかなと思ったのです。


薬が出たら、後回し癖などが少し改善するか試してみたい、というのもありましたが、何より、”そもそも何がおかしいのか知りたかった”のです。


病院行くと言うと、妻には”お前のように働けてるやつに障害の判定出るかボケ(意訳)”的なことを言われましたが、私は何かしらが出るだろうと思ってました。


私は子供の頃から、明らかに普通と違うと感じていたからです。


それに、これはフラグだと思ったのです。何かが起きるはずと思いました。


私は基本めんどくさいので何もしません。

今日行かなくても構わない状況で病院なんか自分から行きません。

でも行こうと思ったのです。


しかも一度も行ったことも無い精神科です。ハードル高いです。

(でも歯医者に行くほどの勇気は必要無かったです)


どの病院行くか調べるとか、凄くめんどくさいです。


しかも、予約入れないと診てもらえないところです。


そこに営業時間中に予約するとか、凄くめんどくさいです。

しかも1件目は空き無しで断られました。凄くハードル高いです。

いつもなら既に心が折れてます。


でも、このときは凄く頑張ったのです!

幸い2件目で予約とれましたが、行かなくても死なない状況下で、わざわざ1ヶ月、2ヶ月先の予約入れて、その日に病院行くとかADHDの人には相当難易度高いです。


死にそうなら病院行きますが、別に死なない状況下で、そんなめんどくさいことしてまで自分から病院行こうと言うわけです。

これは明らかに異常事態です。


だから、何か起きるだろうと思ったのです。

昔からこういう異常事態になると何か起きる事を経験的に知っていたからです。



診てもらったら、あっさりADHDになりました!

(正しくは”ADHDの診断が出た”です)


1回目は軽くカウンセリングみたいなのをやって、たいした話はしませんでしたし、聞かれたこと答えた程度で、自分から異常行動を報告したつもりもないのですが、明らかにおかしかったようです。

あんな些細な会話でバレちゃうのかと思いました。


2回目がIQテストで3回目が診断でした。


おかしいのは即確定しました。

単にIQテストの数字が猛烈におかしかったからです。


たぶんドラゴンボールで例えたら、サイヤ人におけるベジータくらいのエリートです。

もちろん、悪い方向でです!


滅多にいないほど酷いレベルだったのです。


よく凸凹と言いますが、WAISというIQテストでは、全体のIQの他に、群指数という4つの数字が出ます。

どれも、平均を100、標準偏差15として出された数字です。

この4つの数字をグラフにした時の凸凹が大きいという意味です。


普通の人は高いなら高いなりに、低いなら低いなりに、すべての項目の数字がだいたい揃っていることが多いそうです。

低すぎれば知的障害ですが、項目ごとの差が激しい、つまり凸凹が大きいと発達障害になります。


一番高いところと一番低いところの差をディスクレパンシーと言います。

これが15以上だと発達障害になりやすいそうです。30だと確実くらいの勢いのようですが、私の場合は45以上差があります。

元が正規分布しているものなので、平均に近いところが多く、離れるに従って極端に少なくなるという二次曲線のようなグラフになるかと思います。

正規分布の場合、±15以内に66%、2/3の人が入ります。±30以内に95%。

それ以上はエラー値レベル(集計から外す)です。


おそらくそれに近い比率だと思いますので15くらいはたくさん居ると思いますが、30となるとそれなり少なく、45超えは、滅多に居ないというレベルです。


これだけ差が大きいと、まあそりゃ日常生活で苦労するよねという感じでした。


私は、ぱっと見では、”思ったよりまともだな”と思いましたが、実際はそう滅多にいないくらいおかしい数字でした。


平均は適度で割と良い数字なのですが、凸凹が激しいのです。

別にインチキしたわけじゃ無いです。

素でそういう数字なのです。

だから子供のころ死んだほうがマシだと思うほど困っていたのです。

15で発達障害とか言ってる数字が45超えなので、普通の人と物事の難易度を共有することができません。

学校行っても、何が目的なのか全然わからん(目的と手段が合っていないように見える)という感じでした。


ただ、医者は診断で結構困っていました。

私のは、典型的なADHDっぽい凹凸と違っていたからです。

(症状も典型的なADHDとは少々異なっていたということもあるでしょう)


私自身が低いと言う自覚のあったワーキングメモリが平均的な数字だったのです。

ADHDだと普通この項目はその人の他の項目より低目に出るのです。


細かく見ると、確かに単純なテストは低いのですが、ワーキングメモリの項目の中に算数と言う項目があります。その項目のせいで低く出なかったのです。


私は暗算は苦手です。

計算自体得意ではないです、100円程度のものを5個買ったら500円少々だろうという、どんぶり勘定しかしないです。割り勘とか計算機使います。

しかも数字を紙の上ではなく、話を聞いて暗算です。

ワーキングメモリの低さと計算の両方で苦手意識を持っている私にとっては、苦手に苦手を掛け合わせたような項目なので高い数字が出るわけが無いのです。

それが私の認識です。

でも高いのです。

なんであの程度で算数高く出るんだよ!!と思いました。


つまり、私が低レベルだと自覚しているレベルが、人並みより上だったりするのです。

逆に私が普通だと思ってることが人並みより遥か下ということもあるでしょう。

そもそも私にとっては、わざわざ調べて予約とって病院行くことは、本人が異常事態発生と認識するほど、とても難しいことなのです。


つまり、人と難易度の感じ方が違いすぎるのです。


私にとってはわざわざ調べて病院予約して通院するより10万文字書く方がずっと簡単なのです。

この話も、元は30万文字くらいありそうな話の一部です。


ちなみに、私はライター(記事書く職業のことです)になるまで文章書いたことが、ほとんどありませんでした。

エッセイはもちろん、読書感想文とか日記とか作文とか卒業文集とかもです。

ほとんど書いたこと無いです。宿題もやらないしノートも取りません。


理由はもちろん興味無いからです!


インターネットもケータイメールも普及する前は、一般的な人は、仕事などで最低限必要なこと以外で文章書くのは年賀状くらいのものでした。

感想文とか、学校卒業したら一生書かない人が殆どだったのです。


そのため、文章書ける人は少なかったのです。書かないからです。

書いても人に読んでもらう方法があまりありません。

極一部の人が、雑誌の読者ページに投稿して載る程度です。


私は学校には出席とるために行ってました。

公立の小中学校は、出席さえすれば、あとは卒業と関係が無いのでやらなかったのです。

成績に関係無く卒業できますから、卒業に必要なのは出席日数だけです。


なので、卒業文集に私のは入ってないと思います。

(題材は将来の夢だったと思いますが、将来に絶望してる子に、将来の夢とか書かせるな!!という怒りを感じます)


でも、ライターになれば書けます。書く必要があるからです。


必要性というのは非常に重要で、特に雑誌ライターだと、その雑誌を買って読む読者に向けての記事を書く。

これは、非常にわかりやすい。

自分自身が好きな雑誌だったので、ターゲットもわかっているし、内容や方向性も決めやすい。


何よりわかりやすいのが、私からすると文章が売り物で、それを書くのが仕事だというところ。

1日で書いても、1か月かけても、貰える金額は変わらない。

(私は、特に初期は凄く時間をかけて書いてました。

 それまでろくに文章書いたことが無いというのもありますが、

 何よりも、日本語入力が、ほぼはじめてだったという、凄い壁がありました。

 日本語打てるPC買ったのと、ライターになった時期が、ほぼ同時だったので、

 はじめて、まとまった量打つ日本語が、雑誌の記事という状態で、日本語入力に苦戦しました)


それに対して、学校の宿題で読書感想文を書く……これは意味が分からない。

誰も読まないし、読みたいと思わないもの。ごみとして捨てるだけのもの。


なので、私は、ほぼやってません。

それでも、おそらく真面目にやってた”並レベルの人”と同程度くらいは文章書けるわけで、私にとっては、効果的では無かったように感じています。


※学校以外の場所で触れる機会が無いものは、貴重です。


私には、手段や練習より、意味や需要が大事なのです。

知りたいのは理由の方で、手段を教えられても意味がわかりません。


何故勉強しなくてはいけないのか理由を聞いたのですが、わけのわからないものでした。

受験用の学力は、私には必要の無い(受験以外に用途が無い)ものですし、

結局は良い会社に入るためらしいのですが、そもそも、企業は学力を直接必要としていません。


はじめからやらなかったわけでも無かったです。

しばらくは疑問を持ちつつもやっていました。


でも、全力でやっても努力が足りないと言われます。

それで足りないなら無理なので諦めました。


やる意味のわかからないことを、やらされても理解できません。


やってもできないので、当時、私は自分はただの落ちこぼれだと思ってました。


私が知りたかったのは、なぜこんな無意味なことをさせようとして周りの人間が大騒ぎするのかという、その理由であって、学校そのものや授業なんて何の興味も無かったです。


そんなのが普通の人のわけがありません。


お気づきかと思いますが、この話は私が小学生のころ、疑問に思っていたことがベースになっています。



子供のころの話や、ワーキングメモリの項目で算数だけ妙に高いのも変なので、総合で判断してADHDになりました。


IQテストはかなりテキトーなテストです。

傾向を見るだけです。

すべての人でそれなりに正しい数字が出るわけではありません。

そもそも平均から外れた人では顕著です。


私の場合は、考えれば答えられる項目すべてにプラス補正が入ってしまうので、苦手項目が数字に素直に出にくいのです。

元々凹凸的におかしいのは確定なので、あとはどのグループに振り分けるかってだけの話です。


ADHDになり、薬は出ました。

(薬は、良し悪しは別として、効果はあります。共感覚の出方が変わりました ← 薬飲むまで共感覚だと気付いていませんでした)


で、医療費が安くなる書類持って行ったら実は私は自分が障害者だと言うことに気付きました。

※正確には手帳持っていないと障害者にカウントされないようですが


窓口が障害で、書類も障害者自立支援の書類だったからです。

(べつに、”障害”が”障がい”になっても、私は良い印象は持たないです)


ちょっとびっくりしました。


でも、問題ありません。

子供のころから自分は、何か人とは違うと感じていたからです。

ただし、死ぬほど困ってた子供の時に助けてくれよ!!と思いました。


そして薬には副作用があります。食欲無くなるし気持ち悪くなるし。

さらに、想像力が落ちるからクリエイターは飲むと困ることがあるという話もありました。


私はクリエイターでは無いので困りませんが、とりあえず、どれだけ想像力が下がったのか試してみることにしました。理由はせっかくだからです!!

そして、通勤中でも文字なら打てるので小説を書くことにしました。


なので、本当に処女作です。そもそも、それ以前に小説書こうと思ったことが無いからです。

 ↓

加齢臭と転移する竜 ~ 異世界で終活はじめました!…… ~

<<https://ncode.syosetu.com/n8898ej/>>


でも、書きはじめると読んでくれる人が居るわけです。

途中で連載辞めたら、終わるのを前提に途中まで読んでくれた人の時間が無駄になってしまいます。

なので、最後まで書く。そこだけは守ろうと思って書き始めました。

そして、それを最後まで投稿しなければなりません。


どんな理由で書き始めたとしても、人の時間を消費する以上は、ある程度話の通った、まともなものにしなければなりません。


何故なら、私自身、期待して読んでた話が途中で終わったら腹立つからです!


なので、先に一通り最後まで話を書きました。

普通は簡略化した流れ、プロットと言うのを書くらしいのですが、私の場合は、小説書いたことが無いので、そもそも自分が小説書けるかわからなかったのです。なので最後まで荒っぽく話を書きました。

そして、ちゃんと話が繋がって終わることが確認できました。


小説の方は、4ヶ月くらいで終わるつもりが半年超えても終わりそうもありません。ちょっと困りました。

(2018年のうちに100万文字超えました。長くなってすみません。暑くなる前に終わらせたいです)


内容は異世界テンプレチートハーレムモノの要素がそのままなのですが、トイレの神様が終活する話になってしまいました。敵と戦うより、まずはトイレ問題の方が気になりますよね?


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小説ですが、書き始めて1年半近くになりました。

100万文字を超えても、まだまだ終わりそうもありません。

困ったものです。


”薬を飲むと想像力が衰えるか試してみよう!”と、思い付きで書き始めたものですが、

今のところ、

”想像力は、あんまり衰えない”

または、

”前よりは衰えたけれど、書く速度がボトルネックになっているので、差が見えてこない”

のどちらかのような気がします。


延々こんな馬鹿話書き続けられるのもADHDの特性が発揮されているように感じます。

頭の中で、常時無駄に走りまくる裏タスクが、この無駄話を延々量産しているのです。


どうせ無駄に消費されているものなので、読んで楽しんでくれる人が居るなら、無駄に消費されるリソースの有効活用になるというものです。


日常生活では、あまり役に立つ能力ではありませんが、生かす方法があれば、何か武器になったりするのかもしれません。


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■5.社会が平均にしか対応しない理由


発達障害と言うと、ADHDが有名ですが、自閉も発達障害の一種です。

よくアスペ、アスペと言われるやつも自閉の一種ですから、発達障害に含まれます。

アスペは天才が多いという意味で、俺アスペだからという自称アスペが発生しますが、アスペは知的障害が無く言葉の発達に遅れのない自閉のことです。

知的障害に入るほど低くないというだけで、頭が良いという要素は含まれません。

カナーさんが知的障害を伴う自閉を見つけたのに対し、アスペルガーさんが、知的障害を伴わない自閉を発見してアスペルガー症候群と名前がついただけです。


ただし、特性的にただひたすら繰り返し黙々と勉強するのに向いていたりするので、高学歴にアスペルガーが多かったりすることはあります。

ただ、高学歴でも企業には面接とかで落とされますよね。



自称アスペ。一時期けっこう大量発生したことがありました。

アスペルガー症候群の名前があまり知られていなかった時代、天才にはアスペルガーが多いという話があり、当時は自称アスペが大量に居ました。


類似例として、2023年時点でも、天才にはADHD持ちが多いという話のせいか、ADHDの症状に当てはまると自覚しているためか、自称ADHDの人が多いように見えます。


ADHDかどうかは医者が決めます。

それが誤診であっても決めるのは医者であって、自分で勝手に決めることはできません。


そして、注意欠陥、多動を持っている人が診察受けてもADHDと診断されないことも多いと思います。



ADHDの判定基準で重要なのは、”本人がどのように認識しているか”ではなく、”一般的な人が見てどう見えるか”です。

周囲からは、注意欠陥、多動と見える行動が、先天的な能力特性を要因として発生しているものがADHDです。


先天的な能力が標準から離れている場合、その人の行動は、標準的な人から見ると非合理的で不可解なものとなります。その特徴を持つ人をADHDと定義しているように思えます。


例えば、学校は多くの人が授業を受けると学力が上がるように作られていると思いますが、能力的なばらつきが激しいと、授業を受けることと学力の相関が全く無くなるか、著しく相関が低くなります。


つまり、授業を受けても学力的なメリットは無い。


そういう人は、真面目に授業を受ける価値を感じにくい。

「なんで勉強するんですか?」と訊く子は勉強をしない理由を探しているのではありません。

役に立たないことが見えているから、何のためにやっているのですか?と聞いています。


どんな説明されたところで、少なくとも自分に当てはまらないことは明白な場合、本人の感覚としては、”義務で通っているだけで、真面目に授業を受ける気は無い”だったりします。


が、先生から見ると落ち着きがないやる気がない子に見えます。


全く役に立たないので授業を受ける気は無い。でも出席しなければならない。

授業中暇なので暇つぶしをしている姿が、傍から見ると多動に見える。


本人は注意欠陥や多動であるとは認識していないかもしれない。

でも、先生や親から見て、注意欠陥多動な子です。


普通の子供がおとなしくやることを、集中せずに真面目にやらないように見える。

そういう子がADHDです。注意欠陥多動を持っている人がADHDではありません。


なお、普通の大人の能力の中央値は数行の文章を読んで意味が理解できるかどうかあたりにあるので、ほとんどの人にとって学校の授業で習っている内容そのものはほとんど役に立たないと言えそうです。小学校レベルを超えられる大人はあまりいません。

(おそらく、発達障害を持たない人も含めて、ほとんどの人にとって授業の中身はあまり重要ではないのではないかと思います)


学校の真の効果は、それ以外のところにあるような気がしています。

※小学校は別として、中学校以降で習う内容はほとんどの人は真の意味で理解できない。

(1割の人しか理解できなくても日本全体で1千万人規模になるので、数的には結構多い)


学校に通うと、通わない場合と比べて、人生のヒントを得る機会が増える、或いは、卒業したという実績が、その人の心の支えとして、その後の人生の後押しをするのかもしれません。


※私は学校の存在意義を否定しているわけではありません。

 大人の能力の中央値を見る限り、少なくとも半分以上の人は小学生レベルを

 超えることができないことを考えると、中等教育以上をすべての人が受ける

 必要性を学力に求めるのは、いくらなんでも無理があるという当たり前の

 指摘をしています。

 学校に通うとメリットがあると仮定した場合、メリットは学力以外が主に

 なるはずです。

 ほとんどの大人は小学校レベルの知識で解ける問題を正解できません。

 そもそも、テスト問題を読めたら上位者の仲間入りです。

 簡単な文章がろくに読めなくても学校に行くメリットがある。

 そのメリットを学力に求めるのは無理がある。


仕事であってもなんでもそうですが、普通の人がこうするのが効率が良いと思うことをやらずに、一見わけのわからないことをやりだす人がいます。

本人にとってはそれが一番効果的であっても、傍から見ると注意欠陥多動に見える。


それが本来の発達障害の注意欠陥多動であり、一般的に思われている注意欠陥多動とは別のもののような気がします。注意欠陥多動の症状の方を見ていて、その注意欠陥多動が発達障害由来のものであるという観点が抜けているような気がします。


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私は高学歴アスペルガーは学者に向いてるのではないかと思います。

ここで言う学者とは、教育者ではなく学問を究める専門家のことです。

他の分野に少々苦手な分野が存在しても、そこだけでは誰にも負けないと言う人材が居れば登用するような障害者枠でもあると、幸せになれる人が増えるかもしれないと思います。

好きなことに関しては、勝手に頑張ります。おそらく高給でなくても生活に十分な給料であれば望んでやるでしょう。

他のこともできる人より、それしかできない人を割り当てた方が、トータルで見るとお得です。

それなら、社会保障的にも経済的です。そういう枠作りませんか?


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ADHDとアスペはよく混同されますが、特性的には逆の傾向があります。

アスペを含む自閉は同じことの繰り返しが好きな傾向が強く、急に予定が変わるとパニック起こしたりします。

ADHDは同じことを繰り返すのが苦手です。

毎日やってるつもりが実は2日に1回しかやってなかったりします。


急に予定が変わってもあまり気にしない人が多いでしょう。

予定のことなど頭から消えてますから。


予定通りに事を進めることができないという点で結果が同じだったとしても、理由は逆です。

自閉はどこかで予定が狂ったせいで、そこから先に進めない。

ADHDは予定自体忘れてるか、他のことやってたら時間が過ぎてたって感じです。


ただし、アスペルガーとADHDは併発もあり得ます。


結果的な症状で見ると、両方に当てはまることもあるからです。

現在はアスペルガー自体が無くなって、自閉症スペクトラムという自閉症の一部として扱われるようになりましたが、名前はともかくとして、以前アスペルガー症候群と呼ばれていた人が、同時にADHDを持っていることも多いです。


よく見てるとわかりますが、同じ多動も、逆の理由で発生ししているように見えます。


ADHDはスクリーンセーバーが0.5秒で起動するので仕方なく常に動いているのです。

刺激が足りないから動いて刺激を作っています。

ASDは逆に、刺激が強すぎるので、気を逸らすために動いているように見えます。

私はADHD側の気持ちはわかりますがASDは持ってないので誤解かもしれません。

でも、そのように見えます。


でも、ADHD、ASD(自閉、アスペルガー)、そんな名前を覚える必要はありません。

発達障害と言うのはとっても簡単なものなのです。


単純に、社会生活を送る上で障害となっている理由がその人が平均的な発達をしなかったと言うだけのことなのです。

繰り返しになりますが、社会は平均的な人以外には対応していないからです。


そして、どうも社会に適応できないと言う人が病院に行きます。そこで、診察やらテストを受けます。

その結果が一般的な人と違うと発達障害です。

単に平均からずれてる。ただそれだけのことなのです。


平均からずれてるだけで、なんで障害なんだ?と思うかもしれませんが、これにもとっても簡単な理由があります。



社会は平均に合わせて作られていて、そこから外れるものには対応していません。


そう言うと、「一人一人の個性を伸ばせる教育を!」とか言い出す人が多そうですが、そこがまた面白いところなのです。


社会が平均から外れるものに、なんで対応しないのか?

これにも、とても簡単な理由があります。


挿絵(By みてみん)


人間の能力は正規分布していて大部分の人は中心付近に居るからです。

真ん中あたりに合わせて集中してリソースを投入する。つまり人や金、時間を集中して投入するのが効率が良いのです。


目安として、±1σ、学力偏差値なら1σは10、IQなら1σは通常15(例外有り)なので、偏差値40~60の人、IQであれば85~115の範囲に68%の人が±1σの範囲に含まれます。

ほぼ3人中の2人です。


この範囲の人、つまりIQで85~115の間の人は、至って普通の人です。


そこにターゲットを絞れば、少ないリソースで多くの人が大きなリターンを得ることができるわけです。さらに広げて±2σまで広げると95%がカバーできます。


この領域外、特に下側に関しては知的障害者として扱われます。IQの場合は70未満です。


その領域の人達を普通の人として扱うために投資するよりも、障害者として社会保障払う方がずっと安くて効率的だからです。

経費削減、効率化のために障害者扱いしてるわけです。


IQが130以上の人も異常値なので知的障害だと思いますが、守ってくれる法律は無いようです。

もしかしたら、本人困っていても誰も助けてくれない、何の診断も出ないという不幸な生活を送ってる人もいるのかもしれません。

※本作の感想でもIQが高いけど困っている方のコメントがあります。


理論的には、効率を無視すれば、ほぼ全員を救うことができるでしょう。

それは僅かな人を救うかわりに、大部分の人にとってはマイナスになります。

数字はテキトーですが、5%の人を救うために、教育費20倍になっても良いですか?ってことですね。

税金もドカンと上がるでしょう。


当然多くの人は反発します。


そのとき”一人一人の個性を伸ばせる教育を”言ってた人と、”なんで税金払わなきゃならないんだ”と言う人はけっこう重なっていたりするのです。


良き理解者のように話をしていても、実際には物事をよく考えず、感情で話をしているだけだったりします。

社会は継続可能な仕組みでなければなりません。


可哀そうだから救いましょうと言うなら、それ相応の負担も覚悟する必要があるわけです。


そして、莫大な金を投入して今より教育レベルを上げても生産性はほぼ上がりません。

障害の有無にかかわらず、(中等教育以上の)学力と生産性にはほとんど関係が無いからです。


なので、教育に費やすリソースを増やすと、社会全体の生産性は下がります。

生産性の向上に影響しないことに消費されるリソースが増えるからです。

(高学歴が増えると、学歴に見合う仕事が枯渇して、高学歴が必要無い職にまで、高学歴の人が就くようになるだけで、全体の生産性はあまり上がらない)

オーストラリアが大学進学率96%ですから、知的障害スレスレ位の人でも大学に行ってることになります。

そして、オーストラリアは生産性の低迷に苦しんでいる国でもあります。

皆が大学に行くと、かかる学費もGDPに含まれますから見かけ上のGDPは上がります。

介護費が上がってもGDPは上がるわけで、実際の生産性は上がったのでしょうか?



学力と生産性についてはこっちで書いています

 ↓

受験勉強における努力とはランク分けのための言い訳でしかありません。真に受ける必要はありません

<<https://ncode.syosetu.com/n3217et/>>

 ↑

この話は削除しました。

”職歴の無い新卒を学歴で判断するのは妥当である”という前提で書いているものなのですが、何故か、書いてある内容を無視して”学歴社会の否定”だと思う人が居るようで、正直、文章読めてない人の相手をするのがめんどくさいです。


私は社会は合理的にできていると考えています。

だから、社会に合わない人は、社会に文句を言うのではなく、自分がやり方を考える必要があるということを書いています。

一般的では無い人が一般論的な正攻法を使うと良い結果が出せない可能性が高いから、そこで勝負するのは不利だと言う話を書いています。根本は、この話と変わらない内容なのです。


……が、何故か、学歴と言う言葉が出ると、学歴社会を否定していると解釈する人が居るようなので、めんどくさいので消しました。


成績の良し悪しの理由を、その人の努力の問題にするのは辞めろというお話です。

成績が悪いと、努力が足りないと言いますが、本当に努力が足りなかったのでしょうか?

同じように努力しても、結果は変わります。

努力の量と学力は必ずしも比例しないという当たり前の事実を無視して、本人の努力の問題にするなという話を書きました。


統計上、学力と最も関係が深いパラメータは、親の年収です。勉強時間などの本人のパラメータですらありません。

※教育費ではなく、年収です。年収の高い親を持つ子は、教育費をかけずとも学力が高くなりやすい。

 これは遺伝の影響が大きい可能性があるように思います。

 後天的と思われる要素としては、母親の学歴の方が父親の学歴より子供の学力に対する

 影響が強いようです。遺伝であれば、父親と母親の影響を同程度受けるはずですので。


初等教育はともかくとして、中等教育以降教育の効果と言うのは、非常に小さいです。


教育の効果が十分高ければ、同じ授業を受けた人は同じ結果を示すようになるので、成績を付ける意味はありません。

同じ教育を受けた結果を測定しているのですから、それは”教育効果が小さいことを利用して、個人差を測定している”のです。


国内に限らずOECD加盟国で大人の理解力を調べたPIAACという調査がありますが、その結果見るとわかるように、一般的な大人は10歳で習うくらいの内容を理解できていれば普通くらいのレベルで、小学校レベルを超えたら相当優秀な人というくらいです。

大卒者が過半数を占めても、その傾向は変わりません。大学進学率96%のオーストラリアよりも50%程度の日本の方がPIAACの結果は高いわけで、進学率とあまり関係無いことがわかります。

かんたんな文章読んで内容を正しく理解できる人の割合はOECD加盟国全体で、ほぼ大人の50%程度です。

大人の半分くらいは文章盲ですし、10歳で習うレベルが理解できていれば中央くらいのレベルになります。


つまり、さほど高い能力は必要とされないのです。

普通の大人のレベルは、それほど高いところにはありません。


能力が低いから問題になっているわけではない場合が多いのではないかと思います。


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■6.社会が障害になる理由


社会が障害になってしまう理由を説明します。

社会は平均に合わせて作られていて、皆が平均に合わせて動いています。


そこでのポイントは、平均に合わせるためのリソースは個人の持ち出しというところです。


一般的な人は平均10%くらいを平均に合わせるために消費してるとします。残りの90%は何か他のことに使えるのです。

ところが、平均に合わせるために80%の力を使っている人が、残りの20%で何かをやっても評価されるレベルに至りません。

普通に合わせるのに500%必要な人は、全力で頑張っても普通の人が望む普通の20%しか達成できません。


結果として、努力してる人ほど、努力が足りないと言われてしまうわけです。

労力のほとんどが評価外の部分で消費されてしまうからです。


そして人は言います「努力が足りない」と。


実際に努力してるのはどっちなのでしょうね?


”努力が足りない”と言うのは、さらに努力しろという意味ですが、既に日々疲弊するほど努力している状態で言われるのであれば、足りないのは努力ではありません。

なので、その人から評価を得るために努力しても効果はありません。



普通に合わせる労力は、生まれた場所、とりあえず首都圏で例えるとこうなります。

前提として、生まれた場所から引っ越しができないと言う縛りのある社会があったとします。


皆で集まって作業をしましょう。と言ったとき、場所は東京駅近辺と決まっています。そこを中心に町が広がっているからです。


作業場所の近所に住んでるAさんが、Bさんに向かって、お前はなんで遅く来てすぐ帰るんだ!と言っても、Bさんが凄く遠くから来てたら、来るために時間も交通費も多く払ってるわけですが、そこは何も考慮されません。

Aさんは、人は皆、近所に住んでいて、たいした負担も無く作業場所に来れることを前提に話をしているわけです。

ところが、CさんもDさんもEさんもFさんも、大した負担なく作業場所に来れると言う共通認識を持っています。

遠くから来てるのがBさんだけどころか、もしかしたらBさん以外は、栃木や群馬は名前を聞いたことがあるというレベルで、来るのに時間と運賃がどれだけかかるかまったく知らないかもしれないのです。

そんな状態でBさんは文句言われるわけですが、実際は誰よりも多くの時間と金を使っているわけです。その結果が文句言われるわけです。


生まれ持った能力を、産まれた場所に例えて説明しました。


平均に合わせるために払っているコストは人それぞれに異なるのです。

そして、全財産を投入しても交通費に満たないような人も居るわけです。


そして、さらに酷いシステムがあります。

本人がこれは無理だと思っても、何度も何度も挫折を繰り返し味あわされます。


人は産まれた時から社会に組み込まれていて、親には義務が発生します。

例え、それが子供本人にとってまったく意味が無いとしても、学校に行かせます。


それが親としての義務だからです。


学校は脱落を良しとしません。

先生には先生の義務があります。


子供本人にとって何の得にもならないことでも、周りの人の義務を果たすためにやらされるわけです。


折角頑張って教えてるのに話聞かない子供に先生は腹を立てるかもしれません。

周りの子供とも話も合わないでしょう。

そんなところに無理やり行かされて、いじめられることも多いでしょう。

ますます学校や社会が嫌いになります。


でも親には親の、先生には先生の義務がある。


もしかしたら周りの子供の足を引っ張ることにもなってるかもしれない。


だからいじめられてるのかもしれない。


誰が悪いのでしょうか?


結果として、子供本人にとってはマイナスにしかならないことをやらされて、嫌がったりすると、悪いのはその子になります。


それが障害です。


勝てば官軍、多数決では多数派が勝つ。少数派は常に敗者であり、悪なのです。




■7.リソースは効率よく投入する必要がある。切り捨ても社会にとって必要なことである。


次は、発達障害で苦しむ理由を書きます。


平均に合わせてそこに集中してリソースを集中するから、低コストで高レベルの教育が行えるのです。100%の効果を出すのに100の金がかかるとした場合、20の投資で80%の効果が出ます。

私は二割八割の法則と呼んでますが、パレートの法則と言うそうです。

これは、少しの投資で大部分の効果を得ることができると言う法則です。


挿絵(By みてみん)


確かに人間の特性は一人一人違いますが、並べると正規分布しています。

なので、ほとんどの人は真ん中付近にいます。


真ん中あたりに大部分の人が居るのですから、そこに合わせて投資するのが効率的であり、そこから外れる部分は控えるというのは合理的です。

現在の何倍のコストかけたところで、効果はたいして上がりません。追加投入するコストと向上が比例しません。


上ですでに書いたとおりです。


平均から外れる人は捨ててしまえば良いわけです。

捨ててくれれば、まだマシなのですが、困ったことに、捨ててもくれません。

産まれたときから誰かの義務の対象になっちゃってるからです。


親は学校に行かせる義務が、先生には脱落させない義務が。

本人には何の得もなくても、周囲の人が役目を果たすために犠牲になるわけです。


それでさらに被害を受ける。それが障害なのです。


皆が真面目に、やるべきことを真面目にやればやるほど、障害者の被害が大きくなります。

社会は平均の人にしか対応していないからです。


被害が広がるくらいなら切り捨てた方が両者にとって良い結果が出る可能性があります。

これについては、できれば改善を期待したいです。


少なくとも、誰かの義務のために、本人が被害を受けると言う状況は改善して欲しいです。




■8.まとめ


どうでしょうか。仕組み自体は簡単ですね。

全ての人が幸せに暮らせる社会に!ってのは無理です。

相反する要素があるので、すべてを満たすことはできません。

効率面から言って、外れ者に対応しないのはある程度仕方ないと思います。


救ってくれとは言いません、と言うか、中途半端なことはやめてほしいです。

せめて、周囲の人が役目を果たすための犠牲者にするのは辞めて欲しいです。


周りの人が悪い人だから辛いのではないのです。


単に、社会は平均に合わせて作ってあって、平均に合わせる義務が発生して、その結果不幸になっていくのです。

皆正しいことをしているのに、どんどん酷い目に遭うわけです。


どうでしょうか。仕組みはとっても簡単なのです。


普通に合わせようとすると、常に莫大なリソース持ち出しを伴いますので、普通は関係無いと割り切るのが良いのですが、既に書いた通り、その最も効率的な選択肢を選べない場合も多くなります。

子供のうちは、自分の人生を自分で決める決定権を持っていないのです。



結局、この仕組みのせいで、人生の最初の20年は捨てになります。

20年間は親の義務に縛られるからです。

そこでやっと自由になっても時既に遅し。

どうやって挽回します?人によっては二次障害まで付与されちゃってます。


誰かの義務にならないところで生きた方が楽なのですが、だいたい普通の人が考える障害者の救済策は、誰かの義務を増やすことであり、その義務が障害を増やしていきます。


挿絵(By みてみん)


普通の人にしようと頑張ってくれますが、それが無理だから困ってるのです。

頑張っても無理だから困ってるのですが、さらに頑張れ頑張れ言ってくるわけです。

結果が出ないと努力が足りないと言います。


親切でやってくれるのですが、それは鬱病患者に頑張れ頑張れ言ってるのと大差ありません。



コスト度外視で網羅して完全対応できるのなら救済という視点からは良い結果が出るかもしれませんが、予算や効率の面から言って無理なので、中途半端なものになります。中途半端に増えてしまうと、結果として、無駄な義務を負う人が増えて、その無駄な義務の犠牲者が増える。


以上が発達障害と社会の関係、発達障害で苦しむ理由の説明でした。




ほとんどの人は、能力のバラツキが少ない。

そのため、社会のルールや、手順書、評価基準はバラつきが少ないことを前提に作られている。


なので、バラツキの多い人は、ルールや手順書に従って評価されるのには向かない。


だから、そこで勝負するのは不利です。

普通の人枠で勝負すると、凸凹の凹で足を引っ張られる機会が多くなります。

なので、その評価基準で動くところで勝負するのはなるべく避けた方が良いと思います。


挿絵(By みてみん)


親の義務に縛られてる期間に関しては、無理なら無理でなるべく速やかに競争から脱落しなさい。と言うのが、私の個人的な見解です。

もちろん脱落しない方が良いです。でも無理ならさっさと脱落した方が良い。


小学校、中学校は義務教育です。無理やり敷かれたレールの上を走らされます。

”良い高校に行って、良い大学に、そして良い就職先に入る”

↑ 昔よく言われていた言葉です。今使われているかは知りませんが、要は正攻法の意味です


そうやって繋がったレールの上を走れる人は、それをすれば良い。

でも、無理ならさっさと諦めて、無理せず行けるところに行けば良いです。


脱落してどうやって生きていくんだよ、と思うかもしれませんが、レールに乗れない人は、それに合わせて行動した方が良いのです。

レールに乗ればどれだけ楽か考えても意味無いです。

そもそもレールに乗れないのですから。



脱落すると学歴が酷いことになります。絶望ですね。

でも心配する必要はありません。

元から絶望的なので、たいした問題ではありません。

気にする必要が無いのです。


しても意味が無いからです。


ただ、案外絶望でもありません。

学歴は無くても、仕事ができれば入れてくれる会社はけっこうあるのです。



まず、そもそも、企業は直接学力を求めてるわけではありません。

そこを理解する必要があります。

”学力を必要としていない。だからこそ、学歴に意味が有る”のです。


学力が重要なら学歴とか面接とか関係無く入社テストを学力テストにして、その結果で決めれば良いのです。

でも、会社は学力テストで採用を決めません。


理由は簡単ですね。

別に学力は重要では無いからです。


じゃあ学歴で選んでるかというとそれも違います。高学歴でも落ちる人が居ます。

学歴が目的なら、学歴で決めれば良いのです。面接なんか必要ありません。

既卒でも構いません。既卒だからと言って学歴は減りません。

でも既卒だと、就職の難易度が一気に上がります。


学歴フィルタは採用の効率化の手段です。

平均値で見る限りは、学歴と社員としての能力の高さはだいたい比例します。

個人個人で見るとそうでない場合もありますが、期待値としてはある程度比例するのです。


書類選考で期待値の高い集団を優先して通し、面接等で不要な人材を選別して落とす。

学歴が目的ではなく、選別の手段の一つです。採用の効率化です。



何が言いたいかと言うと、学歴無くても入れるのです。

企業が求めているのは、学力でも学歴でもないからです。

(案外どこかしらに入れるというレベルの話です。採用の効率化をする必要があるような企業、つまり人気企業には、新卒でいきなり入ることはできないことが多いでしょう。後々転職で入る機会はあるかもしれません)


新卒には職歴が無いから、”学歴で代用”してるのです。

既卒の難易度が上がるのはそのためです。

学歴が職歴の代用になるのは”新卒時の特例措置だから”です。


なので、職歴、職歴の代わりになるもの、或いは能力を証明する別のものであっても構わないのです。

学歴無いなら、学歴のかわりに、何かしらの実績を作る必要があります。

学校行けないのに働けるか!と思うかもしれませんが、学校行くより働く方が楽な場合も多いのです。

学校ではやることが決められていますが、仕事には幅があります。

悪いことしない限り、結果さえ出せば良い。

発達障害者にとっては学校行くより楽な場合も多いのです。


皆が学歴を作ってる時間を使って、何か他の実績を作るのです。

そのためには、早めに動きださないと駄目です。


私がライターをやりはじめたのは学校を卒業するよりずっと前です。

そして、その時既に、実力を証明できる成果物を持っていました。


早めに、そして、効果的に行動する必要があります。


発達障害は、能力の凹凸が大きいと言われます。

本人から見ると、べつに凹凸なんてありませんが、普通の人を丸と定義すると、普通の人から見て凹凸があるように見えるわけです。

その出っ張りの部分が使えて、凹んだ部分をあまり使わずに済む仕事を見つけて、そこに向かって全力で進むのです。

凸凹が大きいと言われる人であれば、凸の部分はそれなり優れていることも多いでしょう。

出っ張っている部分が人並みであっても同じです。

多くの場合、凸を使って生きるのが、その人にとって楽なことが多いと思います。

なるべく凹を使わず、凸を生かせることを探して、そこに向かって進むのが良いでしょう。


(凸部分が人並み以上とは限らないと言う話もありますが、例え人より不器用であったとしても、右利きの人は、左手を使うよりも右手を使う方がストレスは少ない。凸部分を使える方が、ストレスが少なくて済むことが多いと思います)


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私は早々に学歴や普通は諦めて、落ちこぼれとして生きていました。


その上、新卒で入った会社が早々に潰れ、中途枠もろくに無かった時代、氷河期に新卒カード無しで、就活する事態に(おちい)りました。

※昔は、新卒で入社し、自社の新人教育を経たものだけが職場に配属される資格を持っていたので、

 新人教育の制度があるような、ある程度まともな会社には、若い人の中途採用枠自体が無かった。


けっこう酷いところからの再スタートです。


世の中、職場自体はいくらでも存在するはずなのに、募集を検索しても求人が無い!


(就職)氷河期なので、職を探している人はたくさん居ます。

そんな中で、経験もろくに無く、新卒でも無い人材を雇うような会社は、多くはありませんでした。


そういう時代でしたので、入れるところは、年中求人出してるようなところです。

つまり定着率の低いところ。人が逃げ出すようなところですね。

俗に言うブラックだけでした。


そんなところからスタートしましたが、どういうわけか、普通の人が一般的に良いとされる方向に努力して、良い高校、良い大学に入って……とやっていくと行き着くような、凄く普通の仕事に行き着きました。


自分で”目指して努力して入った”わけでも無いです。

何かを克服したり、誰かと競争したりすることを避けて通ったら、そこに着いた。


一般的には、新卒の時に入った会社から、上に上がるのは難しいと言われています。

私の場合は、そうなりませんでした。


歳と共に、普通であることが重要視されなくなってきます。

時間が経過するだけで、苦手部分が重要視されなくなるのです。


そのため、一般的な尺度で、”入るのが簡単な会社”から、”入るのが難しい会社”へと移って行きました。

そういう部分でも、あまり常識が通用しないのではないかと考えています。


常識が通用しない例として”新卒カードを失っての失職”で説明すると、こうです。

当時の常識では、新卒で入った会社が、その人の職歴で、1番一般的評価が高い会社となり、転職すると、それより格下になることが多かったです。


そのため、学歴第一でやってきた人だと、これやられると相当酷い精神的ダメージを受けるのではないかと思います。

私の場合は、元々、プラスになるような学歴有りませんので、精神面ではあんまりダメージ無かったです。

失うものが少ないという、まさかのメリットです!


私は良い会社に入ろうとして頑張ったわけではなく、やりたくないことを避け、やりたいことをやっていただけです。

普通を避けて、一般的に言われるような必勝法は、一切何もしてこなかったのに、行きついたのは意外にも、普通の会社で普通の仕事でした。

普通の仕事に就くために、普通の手段を選択しなければならないということは無いようです。



もちろん、普通に合わせるという無駄を省くだけで、皆同じ結果が出るなんてことは無いです。

運もありますし、能力は一人一人違います。そう言う人も居るという程度の話です。


でも、”普通と違うと即ダメだ、なんてことは無い”くらいは言えると思います。


私は、小学校の卒業文集さえも、(興味無いので)書かなかったというレベルの人間です。


周りの人達は、決まって、”当たり前のことができないやつが、まともに仕事なんかできるわけない”と言ってました。

普通の人は、そういう感覚なようです。

でも、それも、普通の人が普通の人を測る尺度であって、普通から外れている人には当てはまりません。

その尺度自体が、我々には対応していません。

なので、あまり気にする必要はありません。気にせず、スルーしましょう。


必ずしも、普通でなければならないということはありません。

普通に合わせるためのリソースを、別のことに使っても、結果さえ出れば案外評価されることが有ります。


無駄なことにリソースを消費するのはなるべく避けましょう。

勝負は勝てるところでするべきです。


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人には、生まれ持った特性があります。

多くの人は、ある程度の範囲内に居るわけですが、そうでない人も存在します。


特性を考えずに、レールに乗ろうとすること、乗せようとすることが間違っています。

誰かの義務が存在するから苦しんでるのです。

さらに誰かの義務を増やすことで救済しようと言うのは間違っています。


そのあたりを知っておいてほしいと思ってます。


もちろん、この話が役に立たない人も多いでしょう。

でも、役に立たないなりに、部分的にでも、何かしらの参考にでもなれば、嬉しいです。


私は大変ひねくれたおっさんですが、一応根底には、無駄な絶望感は感じずに済むならその方が良いと考えています。中身はそんなに悪人ではないと思ってます。単に捻くれてるだけです。


最後に一言

”ご自分にとっての最善を尽くしてください”


元々私は、積極的にADHDに関して何か書いて、この場、(小説家になろう)に投稿しようとは思っていませんでした。投稿したときも、どうせ、極僅かな人しか読まないだろうと思って、軽く書いたものだったのです。


ところが、予想外に大反響がありました。当初は、むしろ困りました。


私自身がADHD持ちで、”発達障害持ち本人向け”と言うことを明記していなかったためか、当事者の事情や気持ちを理解できない人からのコメントが付き、その対応が大変だったのです。

※理解できないことを悪としているわけではありません。

 ターゲット外に届けてしまったという失敗です。


当事者以外には理解が難しいということは、もちろん当初からわかっていました。


”当事者以外が読んでも理解できないのが普通”だと思うので、意味の説明を求められるならともかく、反論されても、そもそも書かれている内容が理解できないのではないか?と思うのです。


それなりに評価して貰えているようなので、役に立つなら書いて良かったと思っています。


余計な話も入っているかもしれませんが、良いと評価してもらえる部分が、見事にばらけていて、削ることができないので残しています。


私は小学生の頃、生きていたいと思わないほど絶望していました。

あれは地獄です。同じように絶望して生きていく子供は減って欲しいと思います。


========


社会を改善に関しては、ちょっとだけお願いがあります。


中途半端な救済策より、キリの良い所で切り捨ててくれた方がダメージが少なくて済む分まだマシなのです。

その部分に関しては、比較的少ない予算で改善可能だと思うのです。


頑張って普通の人に改造しようとするのは辞めてください。

結果その人は壊れて、将来の社会保障費が増えます。


あと、幼児期の療育は効果が大きいと思います。10歳から始めても効果は薄いのです。

なので早めに始めることが大切です。

療育は親の能力、努力で辿り着くものではなく、子供の状態で判断してください。

現状は親が賢いか、よほど運が良くないと療育受けられません。

かなり重度でも、「様子を見ましょう」としか言いません。


だいたい、「様子を見ましょう」を繰り返して手遅れになります。


そして、療育はその子が幸せに生きれるように行ってください。

無理に社会に適合させようとか、普通の人に改造しようとかはやめてください。


できないから困ってるのです。鬱病の人に頑張れ頑張れ言ってるのと同じです。

その結果二次障まで持つことになります。そうなると将来の社会保障費が増えます。

どうせ後で出費増えるのなら、その金は二次障害の予防のために使ってください。


この話が広まって、普通の人がいろいろ考えてくれれば、二次障害受ける人が減るかもしれないな……減ったら良いなと思います。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 将来は障がい者支援に携わりたいと思っているため、読ませていただきました。本人が必要としていない部分にアプローチして、結果当事者も支援者も疲弊する問題は心に留めておかなければと思いました。 …
[良い点] かなりの共感を抱きながら、読みました。 『わからないことが、わからない』 そう、自分に言い聞かせながら、生きています。 自分に対しても、周りに対しても、そのように。 『障害』ということ。 …
2021/11/21 20:34 退会済み
管理
[一言] 本文読ませていただきました。 すごく、すごーくわかります。 私も病院でIQ検査を受けましたが、思ってた通りものすごく偏ってました。いわゆる国語系の能力だけ異常に高く計算や暗記は最低レベル…
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