第0章 -出逢い-
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
髪は黒髪ショートカット、顔は丸顔に色白で一見すると幼く見られがちだが、その目には凛々しさを浮かべている。身長160センチくらいで引き締まった身体に控えめな胸、黒いスーツに純白のシャツを覗かせ、ピタッとしたスカートにすらっとした足を伸ばしている。ネームプレートには藤原美香の文字。年収は優に1000万円を超え、社内では重役を担い、言うならば司令塔だ。朝は8時から出勤し、日付が変わるまでオフィスにいることも珍しくない。
そんな完璧に見える彼女にも悩みがあった。その優秀さ故に、会社では一目置かれていて、いい意味でも悪い意味でも男たちは皆距離を置く。大学を出て独り身で仕事を続けて早7年。あと2年で30を迎える彼女はどこか焦りを感じ始めていた。帰りが遅いため、コンビニ弁当や外食が当たり前。部屋の中は女性の部屋には似つかわしくない簡素な佇まい。
そんなある日のことだった。それは、彼女が珍しく定時で帰る金曜日のこと。横浜駅西口の入り口に差し掛かったときだった。「お疲れ様です。お帰りですか?」ふと、そんな声が聞こえた。今まで知らない人に街で声を掛けられることなどなかったので、状況を理解するのに時間が掛かった。少し間を置いて「…ハイッ」と頓狂な声が出てしまった。恥ずかしさに少し赤面していたかもしれない。そんな私に笑顔を向けたのは小柄で優しそうな青年だった。背は165センチくらいと言ったところであろうか、年は二十歳前後に見える。黒髪のパーマに黒縁の眼鏡を掛け、赤色のジャンパーに黒いシャツを覗かせ、紺色のジーンズに真っ白なスニーカーを履いていた。
「ごめんなさい。びっくりさせちゃいました?」彼は心配そうに私の様子を伺っているようだった。その瞬間、私はやっとこの状況を把握できたと思った。ナンパだ。スタイルは良いが、ナチュラルメイクに控えめな胸、私服も地味なものしか持っていない。極め付けは今年28にもなる女が男性経験ゼロ!子供の頃から塾に習い事、大手予備校に通って旧帝大に進学し、首席で卒業して大企業に就職。本当に今まで勉強と仕事だけで生きてきた。そんな私が始めてナンパに会う。今になって思えば、正直、あの時の私は心の中で、2週間飲まず食わずのラクダに乗った商人が、顔をふと上げたらそこにオアシスがあったかのような心持ちになっていたのかもしれない。いや、なってた、絶対(笑)でも、その時の私の理想は高かったし、何よりも恋愛なんて程遠い存在だった。それに、そんな心の弱さをついさっき会ったばかりの男に見せたくなかった。
私は男を無視して帰ろうと決めた。小走りで立ち去ると、東急東横線に飛び乗っていつもの帰路につく。久々の5時帰りなので、夕日ってこんなに綺麗だったんだと車窓をぼーっと眺めていた。
東白楽駅で電車を降りると、坂を登ってアパートへ向かう。今日は珍しく早帰りのはずなのに、なぜだかいつもより足が重い気がした。アパートに着くといつものようにパソコンを広げて、来週の会議の資料作りを始めようとしたときだった。目頭が熱くなるのを感じると、ツーと頬に生暖かい水が伝う。え?私、泣いてるの?もういい歳だっていうのに、情けない。そんな事はよそに、胸がキューと苦しめられる。思えば今まで無理してきた。上司にたくさんの仕事を依頼されたときは、同僚は怒られながらも皆んなで協力してなんとかこなしてた。でも、私は東大卒というプライドで、できるはずもない仕事を請け負っては、夜の3時くらいまで書類の作成に追われ、モンスターエナジーが手放せなくなり、翌朝は頭痛に悩まされた。上司からのセクハラは始めは別の同僚がターゲットだったけれど、部長に報告して解放された。次の標的になったのは私だった。遅くまでオフィスに残っていると襟が曲がっているじゃないか、なんて言って私の胸を触ってくる。プライドの高い私は誰にも相談できていない。そんなのみっともなくて誰にも言えるわけない。最近はエスカレートして、一昨日太ももを触られたときは本当に気持ち悪くて、トイレで少し吐いてしまった。
—もう、死んでしまったらいいんじゃないか—
そんな考えがふと心に浮かんだ。私はすぐに紙とペンを用意した。今まで育ててくれた両親、小中時代に仲良くしてくれたえっちゃん、お世話になった予備校の先生、色んな人への感謝の気持ちを綴った。申し訳ない気持ちになったけれど、もう限界だった。そして、キチッと封筒に入れて、丁寧に封をして、机に置いた。ここは、マンションの12回。飛び降りれば即死だろう。ベランダに出て下を覗き込む。高所恐怖症のはずの私が、何も感じなかった。——ごめんなさい。そう、心の中で呟いて柵に手を掛けたときだった。
——ピンポーン
部屋のチャイムが鳴る。もう死ぬのだから関係ないけれど、最後に誰が来たのか分からないまま死ぬのは、なんだか後味が悪いので出てみることにした。急ぐこともなく玄関へ向かい、ドアを開けるとそこに立っていたのはなんとさっきの青年だった。
私は驚きのあまり声が出なかった。青年は軽くお辞儀をした後に、「あの、これ、落としましたよ」と言う。彼の色白で華奢な手の中にあったのは私の免許証だった。「ありがとうございます。」そう私は言うと、ゆっくりと頭を下げた。青年はにっこりと笑うと、照れ臭そうに左手の指をもぞもぞと動かしながら目線をそらした。私はなぜだか分からないけれど、心が安堵の気持ちで満たされていくのが分かった。彼が急に驚いたような表情になったので気がつくと、私はまた泣いていた。両手で顔を覆って泣いていると、温かなものを感じた。彼が私を抱きしめていたのだ。小柄な見た目の割に、筋肉質な腕の感触。やっぱり男の人なんだな、なんて思う。
そして、彼は言った。
――「ここに住まわせてください。」