雪路に蕩けて数珠の音
週に数回、男に食事を運ぶ。それは多少、面倒ではあったが紗綾の楽しみであり、生きがいでもあった。
特に今宵の晦日は、特別の夜である。紗綾は念入りに髪を整え、唇に美しい紅を引く。
床は痛いほどに冷たいが、彼女は構わず立ち上がった。そして小さな棚に手を伸ばし、中に転がる一つの鍵を握り締めると素早くそれを袂に落とす。
彼女は息を詰め、周囲を探った。大丈夫だ、誰もいない。紗綾の行動は、誰にも見られていない。
「……」
小さく息を吐き、紗綾は懐から小さな手鏡を取り出した。
覗けば、そこには20歳となったばかりの紗綾がいる。白い顔、黒い瞳、赤い唇。幼い頃の利かん気の強さは、いまだに目元の鋭さに残されている。
鏡の隅に映り込むのは、紗綾ばかりではない。紗綾の後ろにそびえ立つ、錆びた色の巨大な仏像も映り込んでいる。
仏像が紗綾を見つめるはずもないというのに、なぜか見られている。そんな気がした。
真ん中に鎮座するは釈迦如来、左右に控えるは普賢菩薩に文殊菩薩。周囲を囲むは、恐ろし顔の四天王。
紗綾は腕に巻いた数珠をたぐり寄せると、仏像に向かい合い静かに手を合わせ目を閉じる、頭を下げる。冷たい床の上、いつまでも彼女はその姿勢を崩さない。
外からは、雪の滑る音がした。
「今宵は冷えますね」
「晦日ですもの」
手に小さな灯りと大きな重箱を捧げ持ち、紗綾が静かに蔵の扉を開けると中の闇から声が聞こえた。
そこは広く寒々しい庭の片隅に作られた、小さな蔵である。いつ作られたものか、紗綾にもとんと検討が付かない。ただ、扉は重厚で、開くだけで悲鳴のような音が響く。
白い壁は、すでに半分ほど朽ちている。
「今年も一年が終わる、そんな夜は毎年ひどく冷えますね。去る年を惜しむように、雪が降るのです」
「まあ詩人。そんな特別な夜ですから、特別なお食事をお持ちしました」
暗闇の中から、長身の男が姿を見せる。それは、真っ黒の着流しを着込んだ男である。背は、素晴らしく高い。しかし、細い。
黒の袖から見える手首も、裾から見える足首も恐ろしいほどにやせ細っている。
しかし動きは俊敏である。重箱の重さによろめいた紗綾の手を掴み、彼は優しく腰を支える。
「ひどく豪勢なお弁当ですね。しかし、こんな重い物を持って歩けば、危ない。ここは暗いのですから」
「慣れてますもの、ここの場所は」
その手の大きさに、紗綾は耳朶を赤く染めた。
しかしそれを見せつけるように、顔を上げる。すぐそばに、男の顔があった。いや、正確には男の顔ではない。
「……あら……今日は、七福神のお面ですの?」
男の顔には、七福神の面が付いているのである。
男はいつも、面を付けている。それは狐面であることもあれば、おたふくの面であることもある。昔は恐ろしい鬼の面などを付けて紗綾を脅かしたものだった。
しかし20を迎えた紗綾は、もう怯えることなどない。
晦日、今宵のお面は七福神の恵比寿様。ふくふくしい顔を見て紗綾は吹きだした。
「可愛らしい」
「ええ、明日が正月ですから、新春らしいでしょう」
「どれだけお面をお持ちなの」
「あぁ、暇に任せて彫っているので、いくらでも」
男が指さすのは、蔵の奥。そこにはぼうっと、灯りがある。小さな机、木のくず、使い古したノミ、そして面の数々。
鬼、狐、恵比寿、翁。そして美しい女の面は、作りかけのままいくつもそこに並べられている。
「色々な面を付けていると、あなたが喜ぶでしょう」
男は声に笑みを滲ませそういった。紗綾はその言葉に胸を押さえる。
「酷いわ。いつまでも私の事を子供扱いして」
「ええ、ええ、そういう風にいじける所も、愛らしいものですよ」
男はからからと、楽しそうに笑う。そして紗綾の頭を優しく撫でた。
じっと紗綾を見つめる優しい面。しかし、その面の奥の顔を、紗綾はいまだかつて一度も見たことがない。
紗綾はゆっくりとその面に手を伸ばすが、その寸前に男に逃げられた。
「……10年経てば、面を取って素顔を見せてくださるという約束、覚えていらっしゃいますか?」
必死に問いかけた言葉だが、男はあっさりと首を傾げる。
「……残念ながら、私は覚えていません」
蔵の外、雪の散る音がした。今年の晦日も、雪が深い。
「10数年前、私はあなたと出会いました。蔵で隠れん坊をしていて、見つけたのです。あのころ、私は子供でした」
それは10年前と少し前、晦日の日。けして立ち寄ってはならないと、父と祖父に言われた言葉を破り、紗綾はこの蔵を開けた。そしてこの場所で、狐の面を付けたこの男に出会ったのだ。
「あなたは、私を怯えさせないように、愛らしい雪だるまを作ってくださいましたね」
怯えて泣く紗綾を宥めるように、男は小さな雪玉で雪だるまを作って見せた。男の手の上にあると、なぜか雪は溶けないのである。面白さに惹かれ手を伸ばすと、紗綾の手の熱で雪だるまは溶けて消えた。
泣きそうな紗綾を見て、男は何度でも何度でも雪玉をこねてみせた。この間、二人の間に会話などなかった。
「あの時、私は、けしてあなたが悪い人ではないと、そう思ったのです」
父たちには酷く叱られたが、紗綾は懇願し続けた。この男に料理を運びたい。どのような事情があるにせよ、このような蔵に男を閉じ込めておくのは非情のことである。
この場所は、阿弥陀如来に縋る寺院ではないか。如来の光は全土に行き渡るという。蔵の中にも光は届けられてしかるべきである。
幼いながらに知恵を絞って願った結果、週に数回の食事を運ぶことを許可された。
最初、紗綾と男の間に会話は無かった。しかし、男は冷たくはなかった。紗綾が来るたび、面を取り替える。愛らしいもの、怖いもの、おかしなもの。様々だ。
紗綾に辛い事があれば、面を何度でも取り替えて紗綾を慰めるのである。
悪い男ではない。優しい男である。物静かで物知りで、雪より冷たい膚を持ち、けして紗綾には触れようともしない。
そして10年前の晦日の日。いつまでも顔を見せない男に焦れて、紗綾は無理矢理約束を取り付けた。
10年。紗綾が10年ここに通えば、きっと顔をお見せしましょう……。
「ねえ、10年経って私は大人になりました」
一歩近づくと、一歩引く。二人の関係は、10年の間そうであった。
「紗綾、あなたはまだ子供ゆえ、好奇心が強いのでしょう。よくよく考えて見てください。このような蔵に閉じ込められた男は、極悪人に決まっています。極悪人の顔を見て、いかがします」
「このような蔵に閉じ込められて10年以上。なぜあなたは……お姿も声も一つも変わらないの?」
紗綾は男の顔をじっと見つめた。顔といっても、ただの面であるが。しかしその目の奥に、確かに彼自身の目があるのだ。
そのまなざしも、身体も、手も足も、出会った時からひとつだって変わった所がないのである。紗綾は成長を続けているというのに、男は肌つやさえ変わらないのである。
「……」
面の男は無言である。ただ、光採りの窓から手を伸ばし、その手に雪を受ける。
彼が歩くたび、その足下から重い金属の音がした。
「いつ見ても酷い……こんな鎖」
紗綾は地面に手を伸ばす。男の細い足に、太い鎖がくくりつけられているのである。それは、蔵の更に奥へと繋がっていて、男をこの蔵に縛り付けている。
解いて欲しいと紗綾は父に、祖父に、何度も懇願した。しかし、二人ともけして頷くことはなかった。普段は紗綾に甘いほどだというのに、である。
「そういえば、あなたは昔からこの鎖を解いて欲しいと、住職様にお願いしてくださっているのでしたね。紗綾のお父様である現住職様にも、お祖父様である前の住職様にも……」
男は声に優しさを滲ませた。窓の外に手を伸ばし、積もった雪は彼の手の中では溶けない。それを丸め、木くずをもって顔を作る。
まるで子供のような愛らしい雪だるまが彼の手の中で生み出された。
「紗綾の優しさは、10年前から変わっていない。私はその優しさに、生かされてきたとそう思います」
その雪だるまの顔は、幼い頃の紗綾に似ている。
「紗綾、もうここに来るのは最後にしてください。あなたは、二十歳。二十歳となれば、お嫁に出るのでしょう」
「……」
男は手の中の雪玉を、そっと紗綾の掌にのせた。それは、紗綾の熱にあてられてすぐに溶けてしまう。
「きっと綺麗で幸せな、花嫁になるのでしょうね」
この家では、娘は20を迎えると嫁に出る。それがしきたりであった。この正月が明ければ、いずれ見合いの話が持ち上がる。
紗綾に断る権限などない。伯母も、姉も、従兄弟も、皆そうして顔も見たこともない男に嫁いでいった。
「ああ。晦日もまもなく終わる」
あなたと過ごす、最後の晦日だ。と、男は言外にいった。紗綾もそれを感じ取り、雪に濡れた手で、男の手を掴んだ。
「……人には108の煩悩があるとご存じですか?」
紗綾の言葉が合図であったかのように、雪冷えた空気がゆるやかに震えた。
それは、闇を震動させる清らかな音である。音といっていいものか、空気を割って人の心を震わせる音である。
「煩悩とは、貪欲、瞋恚、愚痴……」
紗綾の手を離そうとする男を許さず、彼女は掴み続ける。男の手は冷たい。それは、彫像に似た冷たさである。痛いほど冷たいその皮膚を掴んだまま、紗綾は男の身体に近づいた。
「寺では清らかな音を、晦日の夜に散らすのです。その音は煩悩をかき消して、明日からの初春を、言祝ぐのです」
「紗綾」
「しかし私には、深い煩悩があるのです。その煩悩は、あの音でも振り払えないのです。あなたの、その素顔を見たいと願う煩悩です」
紗綾はじりじりと男ににじり寄る。彼はもう、逃げようとはしない。二人の頭上を、煩悩を払う晦日の音が、高く低く響いている。
音が10回を数えたとき、彼は重苦しく言った。
「……あなたはその手でこの面を外せますか? 外せるのならばやってごらんなさい」
その声には嘲笑もかすかに含まれている。10年前、姿を見て怯えた紗綾への当てつけのような笑いである。
しかし、紗綾は10年前、彼に怯えた子供ではない。
「……」
紗綾は男の膝に体重を預けると、面に白い指をかける。男が怯えたが、構わず面を剥ぎ取った。それは、思ったよりも軽く細く、柔らかい面であった。
面を剥ぎ取った瞬間、天の采配か嫌がらせか、明かり採りの窓から光が差し込む。月が雪を照らす、雪明かりであった。
「……ああ」
紗綾が声を漏らせば、男が顔を背ける。
雪明かりに照らされたその顔は、醜悪であった。
「……遙か昔のお話です。あなたのお祖父様のまたお祖父様、それより前のお祖父様に調伏させられた邪鬼……そうです。私は、調伏された鬼なのです」
彼の顔は鬼の顔である。邪鬼の顔である。皮膚はただれたように赤く、瞳は鋭く、巨大な口からは牙が漏れる。頭には、醜悪な角が二本。
……しかし、その瞳は今にも泣き出しそうに歪むのだ。
「自分でも、どのように抜け出したものか……もう記憶にもありませんが、増長天の足下に踏みつけられた邪鬼が私です。いつか抜けだし、彷徨っていたところを囚われました。あなたのお家の金堂に祀られた像の一つをご覧なさい、ひとつだけ、邪鬼の抜けた像があります。像の姿にも戻れず、私はこの蔵の中で……」
紗綾を押しのけようとする鬼の手を、彼女はしっかと掴んだ。冷たい手に、一瞬熱が浮かぶ。
視線を反らそうとするので、紗綾は無理に男の顔を掴んだ。冷たい、そうだ。この感触は仏像の感触。夏でも冷たく、冬には雪よりも冷たくなる。
「紗綾……?」
紗綾が逃げ出さなかった事がさも意外であるように、鬼は彼女を見つめる。
「……もう、何度……逃げだそうと思ったか……しかし、この鎖が重く……」
「それだけですか」
鬼が動けば鎖の擦れる音が響く。じゃりじゃりと、冷たい大地を金属が擦れる音が響く。その音に重なるように、煩悩を払う音も響く。
「逃げ出さなかったのは、それだけ?」
「……数年前からは、私も、煩悩が邪魔をして」
鬼が呻くように呟く。
紗綾も熱に浮かされたように呟いた。
「……奇遇ですね。私も、数年前から煩悩が付きまとって離れないのです。それは、父が鳴らすこの音でも振り払えず」
紗綾は男の足に触れ、その凍ったような鎖に手を伸ばした。
そして袂を探り、中に潜ませていた鍵を取り出す。それは錆びていたが、鬼の鎖に取り付けられた鍵穴に、ぴたりと収まる。
煩悩祓いの音と、鍵穴の開く音が同時に響いた。
「紗綾」
「しかし、恋情を煩悩と言われてしまうとつまらないわ」
鬼の顔の側に、落ちていた面を紗綾は拾い上げる。それは作りかけの女の面。それは紗綾の面影によくにている。
それを顔に付け、紗綾は鬼の身を抱きしめた。
「これは、私の顔ですね」
「……紗綾」
鬼の声は、責めるようであり慈しむようであった。解き放たれた鬼の足に、紗綾は素早く腕の数珠を絡めた。
そして鬼の手を引く。弁当と称して持ち出した重箱の、中を開ければ男と女の2着の旅装束。真っ白の、巡礼服である。
着物の上からそれを纏わせて、紗綾は微笑んだ。
「ご存じ? 数珠は108の玉を持ちます」
捨てきれない煩悩は持っていけばいいのです。と、紗綾は言う。鬼は戸惑うように紗綾の手を握り、離し、逡巡し……やがておそるおそると紗綾の身を抱きしめた。
「どこへ、行こうというのです。鬼の私と」
いずこへも。紗綾は囁き、鬼の手を取る。
「108の音がなり終わるまでに、早く」
闇を切り裂き煩悩を祓うその音は、いまや100を数えた。
二人は雪より白い装束を身にまとい、雪路へ飛び出していく。
「おお、寒いこと……さあ、祓われぬうちに、はよう、はよう」
紗綾は鬼の手を取り、音に追われるように駆け出す。鬼はもう、物も言わず紗綾の肩を抱いた。指の先から恋情が溢れ出し、抱かれた肩からも愛おしさが滲み出た。
二人駆けゆく雪道に、ぽつぽつ残る足跡2対。やがて雪が積もり、その形跡さえ消していく。
宙を舞う音は、二人の足跡に追いつけず悔しがるように雪の中で離散した。
雪路の奥、108の数珠の触れ合う乾いた音だけがただただ楽しげに鳴り響くのである。