師範
珠理が聡英の墓所に辿り着いた頃、学舎で主に法令についての授業を行っている師範の明玲は、珠理を追って王都の外れの街に到着していた。
珠理の唐突ともいえる外出を、明玲は当初特に疑問には思わなかった。彼は寮監から連絡を受けると、珠理の欠席を彼女の成績記録簿に記してから通常どおりの授業を行い、その後で、近所に授業で使う最新の法律書を買いに行くために学舎を出た。疑念を感じたのは、その途中の街路で一人の男に呼び止められた時だったのだ。
明玲を呼び止めたのは近くの乗り合い馬車の車主で、彼は明玲の姿を見て、学舎の師範かと訊ねてきた。明玲がそうだと答えると、彼は明玲に学章を手渡して、これをうちの馬車の中に落とした学生の女の子がいるから返してやってくれと申し出てきたのだ。学章は学生が制服につける徽章で、学生の身分を公的に証明する大事なものだ。明玲はその学章を受け取りながら、彼の「学生の女の子」という表現を聞いて、すぐにこれの持ち主は珠理だと直感した。学舎には女子学生も大勢いるが、ほとんどの学生はすでに成人している。女の子と呼ぶのが適当な学生は彼女くらいしかいない。案の定、明玲が彼女の容貌の特徴を述べると、彼は安堵したように頷いてその娘だと答えた。きっと困っているだろうから学章を届けてやりたいが、自分には学舎は敷居が高いから訪ねにくい、師範の方から表に出てきてくれて助かった、と。明玲はその時に特に深い意味もなく珠理は馬車でどこの街に行ったのかと訊ねてみた。そうしたらこの街の名を教えられたのだ。彼によると珠理はこの街まで直行する馬車を捜していたらしいが、これほど遠くまで行く乗り合い馬車は存在しないため、彼は珠理に馬車を乗り継ぎながら旅をするように教えたのだという。そのため珠理が彼の馬車に乗っていたのも、ごく短い時間のことにすぎなかったが、山林以外に何もないような街を、わざわざ他所から訪ねる者は少ないために彼は珠理のことをよく覚えていたのだ。明玲はこの街の名を聞いた時に初めて珠理の外出理由に強い疑念を抱いた。王都の外れのその街には、わざわざ何日もかかる旅をしてまでも手に入れたい生地を売っている商人などいないからだ。この街は住人のほとんどが林業で暮らしている街で、衣装や布地を専門に取り扱う商人は存在しない。この街では衣服など自分で作るか、さもなければ隣接する他の街まで出向いて買うかしなければ手に入れられないのだ。地理の初歩的な知識があれば、たとえこの街の出身でなくても容易に推察できるその事実に、あの聡明な珠理が気づかなかったとは思えなかった。彼女は本当にそのことを推察できなかったのだろうか。そのことへの疑念が、明玲に言い表せぬほどの不安を与えた。仮にそのことは分かっていて訪ねたとすれば、珠理が寮監に告げた外出理由は虚偽だった可能性が高い。しかし、今の彼女に、そこまでしてあの街を訪ねなければならない理由はないはずで、何のためにそこまでしなければならなかったというのだろう。
――まさか、あの娘はすでに気づいているのだろうか?
明玲の頭にふいにそんな考えが浮かぶ。慌ててそれを理性で追い払った。彼女が自力で気づけるはずがないし、そんなことが可能になるよう、彼女に過去を示唆する者も、彼女の周囲にはいないはずだ。しかし、そうは思っても明玲の不安は消えない。もしも彼女がすでに気づいていたら、あるいはあの場所に赴いたことで気づいてしまったとしたら。そう考えだすと明玲は不安を抑えきれなくなる。明玲は彼女が自分の過去を把握してしまうことを恐れていた。そんなことになれば、彼女の人生は根底から変わってしまう。それだけでない。場合によってはこの国の有り様すら、大きく変わってしまうことだって、充分にあり得たから。
いったん不安に思い出すと、明玲は激しい焦燥を抑えることができなくなった。それで急いで学舎に戻ると、厩係に馬車を出させてここまで珠理を追ってきたのだ。彼女が何を思って突然にこの街を訪れようと考えたのか、そのことは早急に確かめておく必要があった。もしも彼女が全てを承知したうえでこの街を訪ねようと考えたのだとしたら、今後、明玲が彼女に対してとるべき対応が大きく変わってくる。
明玲は御者に命じて馬車を可能な限り最速で走らせたが、それでも彼が珠理の所在を把握することができたのは、この街に到着してからのことになった。途中の街で彼女を見つけることはできず、この街に来て初めて街の酒場の主人が、自分の店の客室に彼女が宿泊していると教えてくれたのだ。今は客室にはいないが、今夜一晩はここに泊まると言っていたからじきに戻ってくるだろうと。それで明玲も同じ酒場に宿泊を決めた。彼女が戻ってきたら自分の宿泊を教え、自分が戻るまでここに留まるよう伝えてくれと頼むと、明玲は御者を酒場に残して単独で街路に出た。これだけ小さな街のことだ、子供一人を捜そうと思ったら酒場で待ち続けるよりも自分で捜しに出たほうが早く見つかる可能性が高いだろう。それに、もしも彼女が全てを把握したうえでこの街を訪ねたのなら、行くところはたぶん、一か所しかない。
明玲はそう考え、とりあえずそこへ向かおうと街路を歩きだした。一人の少年に呼び止められたのはその時のことで、明玲が振り返るとその少年が路傍でこちらを窺っていた。この近所の子供だろう。
「・・おっちゃん、あいつの親父?あいつを捜してるの?」
明玲は酒場に辿り着くまで、この近辺の街路を歩く者に片っ端から珠理のことを訊ねていた。この少年はその様子を見ていたのだろう。明玲は頷いた。明玲と珠理は無論、父娘ではないが、捜しているのは事実だから相手の認識に合わせたほうがいい。すると少年は何かを納得したような顔をしてから、街路の一隅を指し示した。
「おれ、昼にそこで会ったぜ。山に入るって言ってた。墓参りするんだってさ」
明玲はそれを聞いて思わず街路の果てを振り返った。さほどの驚きはなく、やはり、と思う。やはり珠理はあそこに赴くためにここに来たのだ。そしてそれは、明玲の危惧が現実のものと化している可能性が高いことを示している。
「墓ってのは、あの山の中にある昔の王族の墓のことだよ。あんなとこ、ろくに道もねえってのに、いかにもお嬢さんな感じの絹のひらひらした服で行こうとしてたから声をかけたんだ。山に入るんなら、ちゃんとそれらしい用意をしろってな」
「道がないのか?」
「俺はそう聞いてるよ。ずいぶん前に近所の猟師があの付近を通ったことがあって、その時に聞いたんだ。道もない山奥に、忘れられたようにして昔の王族の墓があるって。聡英って奴の墓らしいけど、どんな人物の墓なのかは知らない」
明玲は内心で少年の言葉に頷いた。そうだろうと思う。聡英の墓に充分な供養などあるはずがない。公式な墓所が設けられていることすら、彼にとっては意外なのだ。そして、その彼の墓所を訪ねにきた珠理は、昼前に宿泊している酒場を出た後、夕刻が迫った現在まで戻ってきていない。街路を歩いても彼女の姿を見た者はほとんどいなかった。珠理はこの少年に会った後、そのまま山に入っていったのだろう。きちんとした道が整備されていない山中を歩くのは難儀はうえに危険だ。山歩きの経験がない者でもその理屈は理解できるはずで、にもかかわらず山に入っていったのならば単なる物見遊山ではあり得ない。彼女は明玲が危惧しているとおり確かめにきたのだろう。聡英がどのように弔われているのかを。そして、なぜ彼が身罷ることになったのかを。
明玲はそう確信すると、少年に礼を言って、珠理が向かったはずの山に向かって足を踏み出した。