王子さまの墓
翌日、珠理は早朝に学舎を出た。
疾病以外の理由で授業を欠席するのも、一人だけで数日にも及ぶ外出をするのも、珠理にはこれが初めてだった。外出の際は行き先を寮監に申し出なければならないため、一応、珠理は欠席と外出の理由として、学技披露会で披露する舞踊の衣装の生地を購入するためと告げたが、それを聞いた寮監は明らかに怪訝な様子を見せた。もっとも、そうなることは珠理も承知していたが、他に適当な理由が思い浮かばなかったのだ。本当の外出理由を寮監に告げることができない以上、多少不自然でもそう言うしかない。
寮監が珠理の外出理由を怪訝に思うのは当然のことだった。学技披露会は毎年秋に行われる。したがって、まだその日までは半年近くあった。どれほど製作に手間のかかる衣装だったとしても、今の時期からそのためだけにわざわざ授業を欠席までする学生は普通いない。現に珠理の知っている範囲では誰もいない。しかも本来、学生は買いに行く必要がない。学生が学業に用いる品々は全て、学舎から支給されるのだから、衣装だって、披露会が近づけば舞踊の師範に申し出るだけで生地を用意してもらえる。学生によって、演目によっては自分で衣装を作るために街に泊まりがけで生地を買いに行く者もいるから全くあり得ない話でもないが、それでもそういう準備を始めるにはまだ時期が早すぎる。しかしこれ以外に珠理には、数日もの宿泊を伴う外出を必要と思わせられる合理的な理由を見つけられなかったのだ。そもそも、学生はあまり学舎を出て外出や外泊をしないもので、規則で街で働くことが許されず、教材も生活用品も全て支給されるとなると、買い物に行くこともあまりない。憂さ晴らしに遊びに行こうにも、規則で賭博が禁止されているから街に出てもあまり遊ぶところはなかった。そういうわけだから、披露会の衣装作りに用いる生地購入のためという外出理由を作り上げるのにも、珠理はかなり苦心した。外出理由にあまりにも不審な点が大きい時は、寮監の職権で外に出ることを禁じられることすらあるから、寮監に申し出る時はとても緊張したのだが、珠理の心配は不要になった。休んだ分の授業を全て自力で習得するのは難儀を極めるだろうが、それは最初から覚悟しているから、戻ってから努力すればいい。
珠理がここまでしても訪ねたいと考えている場所は、「彼」の墓所だった。もう一人の霊については、相性の問題があって素性がはっきりしない。だから、どこの誰なのかがはっきりと分かっている「彼」のことを調べてみることを優先することにしたのだ。珠理は「彼」がどうして死ぬことになったのか、その本当の理由を知りたかった。どう考えても「彼」が公に知られているように流行り病などで身罷ったとは思えない。本当にそうなら、あのような凄惨な記憶がこの世に残り続ける道理がないはずだ。
勿論、墓を訪ねたからといって、すぐに「彼」の本当の死因まで分かるとは珠理も思っていない。昨夜、寮監が自分の居室を退出していった後、珠理は思いついて歴史の授業で用いる近代史の史書を読み返してみた。昨夜は深夜になっても幻覚のせいで昂ぶった珠理の心には眠気など訪れず、それで消灯時間が来ても蝋燭の灯りで密かに読書に耽ったのだが、その結果分かったことは、案の定、現王の兄が、非業の最期を遂げたことをうかがわせるような記述はいっさい存在しないことだった。ならば、「彼」の墓所を訪ねたところで新たに分かることなどほとんどないだろう。しかし、何かの手がかりは得られるかもしれないと珠理は淡い期待を抱いていた。珠理の身分で「彼」のことを調べることは、実際のところほとんど不可能だが、それでも、何もしないではいられなかったのだ。今の珠理にとって何もしないことは恐怖に直結する。何もしなければ彼はいつまでも昇天しないかもしれず、そうなったらいつか「彼」の霊もまた、昨夜のように幻覚を引き起こすかもしれない。再び昨夜のような事態を起こせば、今度こそ珠理は気が狂ったとみなされてしまうかもしれなかった。昨夜はどうにか悪ふざけということにして寮監を納得させることができたが、次も同じように解釈してもらえるとは限らない。もしも同じに解釈してもらえたとしても、「悪ふざけ」が続けば珠理は確実に何らかの懲戒を受けることになるだろう。
「彼」の墓がある街までは馬車を使っても三日はかかる。王都のほとんど外れに近い辺境の街なのだ。最初はそのことを知って意外に思ったものの、墓は本来家の裏手の目立たない辺りに作るものだから、それについては不思議に思うことはないのかもしれない。名君と謳われたかつての国王や、国の偉人と名高い人物なら市街地の中に墓所が作られて、ちょっとした観光地のようになっているものだが、「彼」にはそれは当てはまらなかったのだろう。
珠理は目的地に向かう馬車に揺られながら、車窓から街路を眺めていた。一人旅で話す相手もいないなかで、単調な揺れだけを身体に感じ続けていると、珠理の思考は次第に眠気に侵食されていく。昨夜ほとんど眠れなかったせいだろう。思わずうとうととまどろみ、思考がとりとめのない方向に進んでいくのが分かった。しかし完全に眠りに落ちる前に、珠理の耳が声をとらえ、意識は覚醒に向かっていく。
「・・お嬢さん、学生さんかね?」
珠理は声が聞こえたほうを振り返った。珠理に話しかけてきたのは、珠理の隣に座った同乗の老女だった。
珠理は頷いた。老女とは偶然に同じ馬車に乗り合わせただけで面識はなかったが、珠理はいま学舎の制服を着ている。学生は外出する際も、学舎にいるときと同様に支給された制服を着ることが義務づけられているのだ。だから老女にも珠理の身分を察することは容易なはずだ。
「そうです。私に、何か御用がおありでしょうか?」
珠理は老女に訊き返した。老女は微笑んで首を振る。
「いや、特になんもないさね。学生さんと会うことは滅多にないさに、ちょっと話しかけてみたかっただけさ。気にせんといてくれさ」
珠理は老女の言葉の訛りの強さに一瞬だけ辟易したが、どうにかそれが表情に出るのを堪えた。街ではこれが当たり前なのだ。この国は元々、数多くの民族や部族や小国が乱立していた地域を、現王の始祖が統一することで建国した国だから、今も国土のあちこちで、かつての乱立時代の民族や部族の風俗や習慣や言語が、形を変えて残っている。平民の言葉に多く含まれる訛りもその一種で、言葉を聞けばその者が国のどこで生まれたかだいだい推察できた。この老女も、訛りから推察するに恐らくは国土の西に広がる山岳地帯の出身だろうと思う。珠理のいた孤児院の乳母たちは皆、訛りを矯正した言葉を話していたし、学舎でも学生は卒業までに訛りを矯正するよう指導されるから、ここまではっきりと訛っていると分かる言葉を聞いたのは久しぶりだった。平民の言葉が地域ごとにどのように違うのかについては、すでに学んでいたが、実際に自分とは違う言葉遣いをする者を間近に見ると、何とも不思議な気分がする。
老女は用事などないと言っていたものの、その後も何かと珠理に話しかけてきた。それほど学生が珍しいのだろうか、珠理は怪訝に思ったが、特に不快であるわけではないので問題のない範囲で老女の問いに答えていた。授業内容などに関する質問には規則で答えることはできないが、珠理個人のことについてなら何の問題もない。
それで珠理はしばし老女と閑談をして時を費やし、馬車が目的の街に着くと代金を払って馬車を下りた。目的の街といっても、珠理の旅の目的地はまだずっと先だ。「彼」の墓所がある街までは遠く、そこまで直行してくれる馬車は存在しない。なので途中に通る街で何度か馬車を乗り継がなくてはならないのだ。乗り合い馬車の車主は皆、自分の住んでいる街とそこに隣接する街の間しか馬車を走らせないから、珠理のように遠方まで旅をする者にとっては街の境を越えるたびに馬車を乗り換えなくてはならず、これはけっこうな手間だった。
だがその手間さえ気にしなければ、珠理にとって初めての一人旅に支障は全くなかった。昼間は馬車で移動し、夜になれば手頃な安宿に宿泊する。宿に泊まるのも珠理には初めての経験だった。目指している街を訪れるのが初めてであるだけに、学舎から離れれば離れるほど辺りの景色は目新しさを増していく。時間が経つごとに、珠理にとってこの旅は面白さを増していくものになった。時折、旅の本来の目的も忘れて珍しい景色を楽しんだりもしながら、三日後には無事に、珠理の目的とする街に到着することができた。
「彼」の墓所は、王都の外れの、山に囲まれた小さな街に作られている。
ほとんどの住民が林業で暮らしている街で、その規模の小ささは街というより付近の家々を「街」の名の下に繋いだだけ、といったほうが似つかわしかった。高い山々に囲まれた谷間に医院や役所などの公共の施設や店が立ち並んでいちおう街の体裁はなしているが、住民たちの家は周囲に広がる山のなかに散らばっているのだ。
山に囲まれたこの街には、主要な街道が一本も通っていない。王都を出ると、その周囲は国王の縁戚である貴族階級の者たちが、各々に領主として統治している地域になる。そのため、この街の近隣にも大きな都市はあるのだが、そこに行く街道はここから少し離れた平野のなかを通っているのだ。商人たちは皆、その街道を使うから、この街は取り残されたようにあまり活気がない。店の数は最低限、かろうじてここで暮らす者が日々の暮らしに不自由することがない、という程度の品々しか、手に入れることはできそうにない。専業の宿屋は一軒もなく、珠理が滞在することにしたのも酒場の裏手にあった客室だった。こういう小さな街では普段、近隣の住民に食事や酒を提供することで暮らしている店が、裏手に数室の客室を用意して宿屋も兼ねることが多いからだ。
どうして「彼」の墓所は、これほど寂れた場所に築かれることになったのだろうか。
珠理は街路を歩きながらその疑問を抱かざるをえなかった。
墓は普通、死者の出た家が、その家の敷地の片隅の目立たない辺りに作るのが普通で、事情があって自宅に作れない者の墓や、弔う者のいない墓は、その死者の出た街の役所が、街の外れの寂れた界隈にまとめて墓地を作るものだ。だからこの街に来るまでは、珠理も「彼」の墓所が王都の外れに築かれていることをそれほど疑問には思わなかった。国王の墓だって、国土の外れの海岸沿いや山間部に築かれていることは多い。しかし実際に訪れてみて、この街が想像以上に閑散としていることを知ると、どうしても疑問が出てくる。「彼」の、生前の身分にあまりにもふさわしくない気がするのだ。いくらあまりに若くして身罷り、たいした功績もないとはいえ、「彼」の身分ならばもっと大きな街に、立派な霊廟が作られていてもよさそうなものだ。実際、ここに来る途中で見た「彼」と同じ身分で、同じように夭逝した、いくらか昔の人物の墓は、たいそう立派な造作で、それなりに参詣客も訪れていて賑やかだった。珠理には過去の君主や偉人の墓を参詣するような趣味はないから断言はできないものの、名の知られた人物や、位の高い人物の墓所なら、どこもそういうものだと聞いたことがある。「彼」の墓所のある街だけ、なぜこれほど小さく寂れているのだろう。たまたま珠理が、人の来ない時期に来てしまっただけなのだろうか。
珠理が内心で首を傾げながら歩いていると、ふいに呼びかけられた。驚いて思わず声がしたほうを振り返る。
この街の住民と思しき少年が、珠理のほうを見ていた。珠理と同じ年頃の少年で、どうやら珠理に呼びかけたのは彼のようだった。彼は何やら大きな布包みのような荷物を肩の上に担いでいる。自分の荷物のようには見えなかったから、誰かの仕事を手伝って小金を稼いでいる途中なのかもしれない。
珠理はそう考えたが、勿論、少年は珠理の知っている人物ではなかった。
「・・何か、御用でしょうか?」
珠理は訊ねた。すると少年は珠理の行く手を見やってから、珠理に視線を戻す。
「・・おまえ、そのなりで山に入る気か?」
珠理は思わず自分の服装を見た。足首までを隠す丈の絹の衣装は、袖も裾もゆったりとしている。履いている靴も上物の絹でできていた。学生の制服だが、たしかに山を歩くのに適している服装ではないだろう。そもそも授業に山歩きなどないのだから、そんなことを想定して制服を作るはずがない。だが――。
珠理は首を振った。
「私は山に入るわけではありません。聡英さまのお墓にお参りするだけです」
聡英というのが「彼」の名前だった。珠理は他の街ではよくいる物見遊山の旅人を装おうとしたのだが、少年は珠理の言葉を聞いて、なおさら呆れたような顔をした。
「だったら同じことだろ?あんなとこまで行く道なんてねえんだから。行くとなったら藪を掻き分けるようにしなきゃならないはずだぜ?おまえみたいな格好でそんなことしたら、遭難するぞ。そうなっても俺は知らねえからな」
「道が、ないのですか?」
珠理は驚いて少年に訊ね返した。思わず彼の顔と自分が歩いていた街路の行く手を見比べる。この先にはもう林道しかない。山に入るつもりがないのなら、これ以上先まで行くことはないだろうから、見ず知らずの少年が、珠理がどこに行くつもりなのかを察したとしても何の不思議もない。しかし道がないと断言する彼の言葉には驚きと疑問しかなかった。聡英の墓所はこの街路の果てに聳える山の中に築かれているはずだ。史書にもはっきりとそう記されている。道がないなどということはありえないだろう。なにしろ聡英は現王の実兄なのだ。夭逝した人物であるからさほど有名ではないにしても、かつての王族だった人物の墓である。絶えず参詣客が訪れるようなことはないにしても、墓所の手入れや管理を行う者たちが通る道だけは、必ず整備されているはずであり、警備の兵士だって常駐しているはずだ。そうでなければ、金銀や宝石を使った豪華な装飾が施されることが多いらしい王族の墓所など、あっという間に盗賊の標的にされて荒らされてしまうだろう。
唖然とする珠理に、少年は露骨に顔をしかめた。
「そんなことも知らねえのかよ。まあ、獣道ていどの道だったらあるかもしんねえけどな。猟師なら、あの近くだって通るかもしんないし・・」
少年がそこまで言いかけた時だった。街路の一隅から何やら怒声が聞こえてきた。珠理が通ってきたあたりだ。何だろうと、珠理がそちらを見やるより早く、少年が振り返って応答する。
「すんません。いま行きます。――じゃ、俺はもう行くから。山に入るならそれなりの用意をしてからにしろよ」
少年は早口で珠理に忠告すると、慌てたように街路を駆け戻っていった。珠理は何となく彼を見送ってから、振り返って再び街路を歩き出す。ほどなくして道は整えられた街路から、舗装もされていない林道に変わった。
わざわざ見ず知らずの自分に忠告してくれた彼には申し訳ないが、珠理にはのんびりと自分の装束を調えている時間などなかった。珠理は寮監に外出の期間を七日と告げていて、その間に学舎に戻らなければ、珠理の身に何事かが起きたとみなされて騒ぎになる恐れがあるのだ。当初の予定どおり、今日のうちに調べられることは調べておいて、明日の朝には学舎に向けて出発しなければならない。そう考えるとあまり時間に余裕はなく、仮に時間が充分にあったとしても、そもそもどんな装束で山に入るのが適切なのかを珠理は知らない。知らないのだから用意の整えようもなかった。そんなことを教わる機会は今までなく、誰に訊いたらいいのかも分からない。ならばもう、少年の忠告は無視してもこのまま行くしかない。そのことで何か困難が生じたとしても、それは仕方がなかった。
少年が告げていたとおり、墓所へ向かうはずの道はほとんど整備されていなかった。林道に入ると、いくらもしないうちに獣道になり、すぐにそれすらなくなって繁みを掻き分けるようにしないと進むことができなくなる。珠理は帰り道で迷うことがないよう、肩掛け袋から紙切り用の小刀を取り出して方向を変えるたびに手近な幹に刻み印をつけていったが、そうすることで珠理の不安はいっそう強くなった。この状況では、聡英の墓所に参詣する者など、いないのではないか。人の全く足を踏み入れない場所にたった一人で足を踏み入れる行為には、頭で考える以上の恐怖がある。いま何か事故が起きれば、珠理を助けてくれる人間は誰もいないのだ。
ひたすら自分の不安と闘いながら苦心して道なき道を進んでいく。やっと目的地に辿り着いた時には、すでに時刻は夕刻に迫ろうとしていた。案の定というべきだろうか、「彼」の墓所は単なる廃屋にすぎなかった。
建物自体もとても小さい。平屋の霊廟は、学舎の中庭に設けられた東屋よりも少しばかり大きい、という程度にすぎなかった。見回した感じでは警備兵の姿もなく、参詣客の姿もない。そもそも人の気配を感じなかった。山奥に捨て置かれた無人の廃屋、それが目の前に存在する建物への印象の全てだった。
珠理は建物に近づいた。建物は木造だった。半ば朽ちかけた壁に屋根に、珠理にはよく分からない植物の茎や葉が伸びている。粗末な造作で、珠理が暮らしていた孤児院にあった物置小屋とそう変わらないように見えた。盗賊に荒らされた結果、粗末になったようには見えない。最初からあり合わせの木材などで粗雑にこしらえたのだろう。そうとしか思えない造作だった。もしも建物の正面にここが「彼」の墓所であることを示す文字が記されていなかったら、珠理もまさかここが「彼」の墓所だとは思わなかっただろう。
珠理は建物の正面に設けられた扉を見た。扉は普通の引き戸で、勝手に開けられないようにするためだろう、錠が取り付けられた上、さらに板まで打ちつけてあった。どちらもすっかり古びている。この様子では長いことこの引き戸は開けられていないだろう。聡英が身罷ったのは、史書によれば今から十三年前のこと。ちょうど珠理が生まれた頃のことだ。ひょっとしたら、その頃からこの建物はこうして放置されてきたのかもしれない。
扉が打ち付けられていたので珠理はとりあえず周囲をぐるりと歩いてみたが、正面の扉以外に開口部は存在しなかった。仕方がないので珠理は扉を壊す方法を考えてみる。扉は何の変哲もない板戸だが、斜めに交差するように板がしっかりと打ち付けられていて珠理ではこの板は引き剥がせそうになかった。珠理は釘抜きは持ってきていないし、釘抜きの代わりになりそうな道具もない。紙切り用の小刀ではたぶん板を切るのは無理だろう。ならば、多少危険でも火を使うのがいちばん早いはずだ。幸い、この引き戸を封じている板は扉を斜めに交差するように打ち付けられているから、扉の下のほうは板で覆われていない。ここに穴を開けることができれば、自分の身体なら通り抜けられるだろう。
珠理は肩掛け袋の中から万一に備えて用意してきた手燭と火付け道具を取り出した。素早く手燭に灯火を灯すとその場に屈み込んで引き戸に炎を近づけ、戸板を焦がしていく。珠理は慎重に手の力加減を調整していた。戸板は焦がすだけにしておかなければならない。うっかり炎を燃え移らせてしまえば、これだけ古い建物のことだ、扉が壊れるどころか瞬く間に全焼してしまうだろう。場所を考えれば山火事が起きる可能性さえあった。そうなったら何をしにここまで来たのか分からない。
慎重に扉を焦がし続け、あるていど焦げて脆くなったなと思えると、珠理はいったん手燭の炎を吹き消した。それから立ち上がって扉を勢いよく蹴る。珠理の企みは成功し、一撃で焦げた下部に穴が開いた。そこに再び屈み込むと手を使って周囲の戸板を剥ぎ取っていく。穴は徐々に大きくなり、やがて珠理一人が屈めば楽に通れる程度の大きさの開口部ができあがった。珠理はそれを確認すると、再び手燭に火を灯してから穴を潜った。
霊廟の中は意外なことにさほど暗くはなかった。珠理が無理やり開けた戸口以外からも光が入り込んでいるようだ。おそらく屋根か壁に僅かな隙間ができていて、そこから光が侵入してきているのだろう。そのおかげで、珠理は室内を歩き回らなくても内部の様子をひと通り把握することができた。
室内には見事に何もなかった。ここは一応、霊廟であるはずなのに祭壇すらない。床はなく土がむき出しで、本当にただの小屋のような有様だった。花や供物のような死者を弔うための物も何一つない。がらんとした空間には荒廃した気配が漂い、何のものともしれぬ臭いが充満している。
珠理はそのなかに歩を進めていった。自然に、かつて見た聡英の最期の記憶が脳裏に甦ってくる。あの時の記憶と、この霊廟の有様を知ってしまえば、彼がごく当たり前な身罷り方をしたのではないことは珠理にも分かった。聡英は史書にあるように、流行り病などで死んだのではない。珠理が見たとおり、突然に自室に乱入してきた何者かによって、惨殺されたのだ。そして、恐らくはそれを行った誰かが、その事実を隠すために史書に偽りを記したのだろう。ならば彼を殺したのが誰なのかは考えずとも明らかだし、なぜ彼が殺されることになったのかも何となく推測がつく気がする。聡英は夭逝したが、彼はそもそも先王の嫡子であり、しかも第一子として生まれた人物だ。この国では男だろうと女だろうと、国王の第一子が第一王位継承権を持って王太子となる。生まれながらに心身に重大な障害があるとか、生母が他国の出身であるとか、よほど特殊な理由がない限り、その例から外れることはないし、ほとんどの場合で第一王位継承権を持った者が玉座に就くから王太子の弟妹や、その他の親族などは継承権を有していてもまずそれを行使することはできない。そして継承権を行使できなければ、たとえ王子に生まれても婚姻や成人などを契機として単なる貴族に落ちることになる。それを嫌って十三年前に彼を討ったのではないのか。そして、王太子が殺害されていたのなら国王の崩御だって偶然とは思えなくなる。なぜなら、先王が崩御したのも十三年前のことだからだ。史書によると、先王の死因は、当時国中で流行っていた流行り病で、聡英の死因と同じということになっている。偶然にしては都合が良すぎるだろう。当時、流行り病が蔓延していたのを好機と捉えて謀反が起きていたのではないのか。今のままでは自分が玉座に就くことは不可能と感じた人物が、国王と王太子を討ち取って玉座を奪ったのかもしれない。そしてそれが真実ならば、そんなことを行った人物は、現王以外には考えられない。聡英の妹で、先王の第一王女の麗理。彼女が謀反の首謀者だろう。
だが今上の国王が正当な王位継承者から王位を奪って玉座に就いた反逆者だとしても、一介の学生にすぎない珠理にはどうすることもできないことだった。ひょっとしたら彼が無事に昇天するためには、その事実を公にして現王の権威を失墜させる必要があるのかもしれない。しかしそんなことが珠理一人にできるはずがない。ならば、彼を自分の身体から離して昇天させる方法はないということになるのだろうか。ないとしたら、自分はこれからもずっと、彼の霊と付き合っていかなければならない恐れがある。
暗澹たる思いがした。霊との共生を永続していくことなど、かつて珠理は一度も想定したことがなかった。これから自分が巧く彼の霊と付き合っていけるのか、そうすることで自分の心身に何の異常もないのか、などあらゆる不安が心中を交錯する。
珠理は思わず溜息をついた。そしてふいに疑問を感じる。珠理はこれまで、先王や王太子が謀反で斃れたのではないかという話を、噂としても聞いたことがなかった。少なくとも国民は皆、自国の国王と王太子が同時期に流行り病で死んだという事実を当たり前のように受け入れ、そのまま何事もなく十三年もの年月が流れている。どうしてそんなことが可能になったのだろう。謀反の首謀者が現王で、彼女が手下か側近を使って王宮内で秘密裏に討ち取ったから、そのことが下々にまで知られることがなかったのだろうか。そうだとしても、なぜ十三年もの間、この国は騒乱の一つもなく平穏だったのかがよく分からない。聡英の記憶によれば、彼が襲撃されたのは本当に突然のことで、そのことは事前に予測することが全くできず、襲撃を受けてから彼が絶命するまではいくらも時間が経っていない。だからその当時は、特に争乱が起きなかったことに特に不思議はない、と思う。しかし、その後は違うのではないか。先王を支持する地方の貴族や、生き残った官吏たちがその死に疑問をもって、先王の死後に叛旗を翻すことが一度や二度はあってもおかしくはないはずだ。にもかかわらずそんなことは一度も起きていない。それはなぜだろう。現王は、よほど人心の掌握に長けているのだろうか。
首を傾げながら珠理が室内を手燭片手に歩きまわっていると、ふいに何かが手燭の灯りを反射して微かに煌めいた。
怪訝に思って珠理はそちらに目を向けた。本当に微かな光だった。そちらに注意を向けていなければ、壁の隙間から夕陽が射し込んできただけとしか思わなかっただろう。だがその光は、夕陽の光などではなかった。小さな煌めきは土の上に見える。夕陽などであるはずがない。
そちらに歩み寄った。土の上に何か落ちているのが分かる。珠理はごく小さな、それを拾い上げた。
珠理が拾い上げたそれは、金属製の小さな飾りのようなものだった。珠理の小指の先に乗るほどの大きさしかない。形状からしておそらく元々は女性用の首飾りか耳飾りの一部だったのではないかと思われた。壁の隙間から射し込む夕陽が当たると、その時だけまだ黄金色に美しく煌めく。
どうしてこのようなものがここに落ちているのだろうと珠理は首を傾げ、そしてすぐに非常に嫌な想像が沸き起こった。思わず自分の立っている土の上を眺める。確かめておくべきかどうか、珠理はしばし逡巡したが、決意を込めて肩掛け袋をさぐった。穴を掘ることは想定していなかったからそのための道具は持参してきていない。それで何か代わりに使えそうなものはないかと探して、珠理は常に携帯している筆入れから、幾何学の授業で使う定規を取り出した。代用品としてもいささか頼りないが、今は仕方ない。いったん下山して街の店に立ち寄ったのでは、今日じゅうに調べ終わることはできない。
珠理は定規を持って飾りが落ちていた辺りの土を掘っていった。自分がたったいま想像したことが本当に単なる想像にすぎないのか否か、そのことをどうしても確かめておきたかった。
しばらく定規を使って穴を掘ることに専念する。そのままどれくらい時間が経ったのか、手燭を掲げてやっと手元が見えるくらいにまで周りの光が失われた頃、ふいに定規の先端が何か硬いものに当たるのが分かった。響いた音からすると地中に埋まった石の類いではない。珠理は息を呑んで慎重に辺りの土を払っていく。やがて表れたそれに、不覚にも珠理はその場で悲鳴を上げた。自分の想像が的中したことは自覚したが、勿論そのことに対する喜びなどない。思わず珠理は逃げ出した。一目散に室内を駆け、入った時と同じ開口部から転がるように外に出る。
その瞬間、唐突に辺りの景色が歪んだ。
珠理は自分の身に突然に起きた異変に、身体の体勢を崩してその場に倒れ込んだ。頬の下に草の匂いを感じる。前に、法令の授業で経験したものと同じ感覚だ、と気づいた時には、珠理の意識は闇に落ちていった。