真夜中の襲撃
寮に戻ると、珠麗は机に向かって自習に没頭した。
今日は一日、ほとんど静養室で寝て過ごしたのだ。その間、進んだはずの法令や政治、経済などの授業の遅れを取り返さなくてはならない。自分の都合で遅れた分は、自力で取り戻さなくてはいけないのだ。学舎の授業は恐ろしいほど速く進む。珠理が休んでいる間に他の学生たちは珠理より一歩先へ進んでしまったのだ。そのことが何となく悔しい。明日までには彼らと同じ進度にしておきたかった。
「・・根を詰めすぎると、また倒れるぞ」
夕餉を摂るために寮の食事室へ下りた時、珠理にそう声をかけてきた学生がいた。珠理と同級の青年で、珠理より随分年上だったが、割合に気安い間柄の学生だった。彼は夕餉の最中も教典を手放さない珠麗を呆れたように見やる。
「そうやって無理をするから、肝心の授業中に倒れたりするんじゃないのか?」
どうやら彼は、珠理が勉学に熱心になりすぎて寝不足にでもなったのが、今日の昏倒の原因と考えているようだった。咄嗟に反論したくなったが、珠理は意識して口を噤む。うっかり言葉を発してしまわないように、あえて一口で食べるには大きな鶏肉の揚げ物を口に放り入れた。今は夕餉の時間なのだ。咀嚼によって絶えず口を動かしていれば、話しかけられて言葉を返さなくても非礼には当たらないだろう。珠理は自分の異能について、もう誰にも語らないと決めていた。言葉にすることで、他者がどう思うのかはすでに熟知している。
珠理のこの能力は常人にはない特殊な異能だ。珠理がそのことを自分で理解できたのは三年前のことで、幼い頃は、自分が夢で見ているものが自分が拾った霊の記憶で、それは自分以外の他者には見ることができないものであることや、一般に珠理以外の他者には霊を拾う能力はないものだということが理解できなかった。それは周りにしても同じことで、孤児院で子供の世話をする乳母たちは皆、珠理が霊の記憶を見た事実を訴えると、恐ろしい悪夢を見て可哀想にといって慰めてきた。だから珠理はずっと、自分が見ているものは単なる悪夢にすぎないと思ってきたのだ。どうして自分はいつもこんな怖い夢ばかり見るのだろうと、小さい頃は就寝時間が来ることを本気で恐れたこともあったほどだ。
しかし、孤児院の院長を務めていた老齢の乳母だけは違っていた。彼女だけは、珠理の異能を最初から異能として捉えていた。
なぜ彼女だけが珠理の夢を単なる悪夢ではなく霊の記憶で、珠理がこのような異能の持ち主と気づくに至ったのかは今でも分からない。いつ気づいたのかも分からない。おそらく珠理が拾った霊の中に彼女の知人がいるなどして、その人物しか知らないことを珠理が口にしたとか、そういうことがあったのだろうと思うが、確かめることはできなかった。
もしも彼女が珠理の異能を、異能であることに気づかなかったら、珠理は今でも自分の異能を単なる悪夢としてしか認識してなかっただろう。そういう意味では彼女は珠理にとって、自分の能力に気づかせてくれた恩人なのだが、彼女は自分だけが知ることができた珠理の異能を、決して善良なことに用いようとはしなかった。珠理は自分の意思で霊を捕まえるようなことはできなかったが、霊が漂っている可能性の高い場所、例えば最近人が死んだ場所や死者が葬られた墓地などに行けば、拾える確率が急激に高くなるのだ。だから彼女はあえてそういう場所に珠理を連れ出して故意に霊を拾わせようとした。そして死者の記憶を利用して金を稼ぐことを考えたのだ。具体的には霊の生前の弱みや所業などを把握して、それを元に遺族を恐喝するのである。珠理は、普段は優しい乳母のそういう姿を見て、初めて人間というのがどういう生き物なのかを知った。学舎へ入学することを希望した理由も、実を言えば単に官吏になりたかっただけじゃない。彼女と早く別れたかったのだ。学舎に入れば原則、寮暮らしになる。まだ未成年の珠理でも、学舎に入れば孤児院を出ることができた。孤児院を出てしまえば、もう乳母の言葉に従う必要はなくなる。あの乳母以外に、珠理の異能のことを知る他人はいないから、珠理が生涯、自分の異能のことを公にしなければ、もう二度と、あの時のような罪悪感は感じずに済むのだ。
夕餉が済むと、珠理は湯浴みを終えてから再び寮の居室に戻った。孤児院にいた頃の珠理は大部屋で他の子供たちと雑居していたが、学舎の寮に入ってからは専用の居室が与えられている。しかも居室には寝室だけでなく専用の居間や自習室まで付属しているという贅沢さだ。広さだってそれなりにある。王都でこの程度の部屋を借りようと思ったらそれなりの賃料が必要になるだろう。それが寮では学生一人一人に与えられ、しかも費用はかからない。寮での生活費はすべて国費から出ていて、学生は無償で暮らせるのだ。本当に恵まれていると、珠理はいつも思う。学舎では学費も生活費もすべて無償、制服や必要な教材の類いは筆の一本に至るまで全て支給される。学生は勉学だけに集中できるよう、あらゆる環境が万全の状態で整えられているのだ。無償で環境をここまで整えてもらえる場所など、いかに広い国内でもここより他には存在しないだろう。
そのことを思い出すとなおいっそう、学問への意欲が湧いてくる。珠理は自習室の机で経済の教典を広げた。定められた消灯時間までに財務統計についての理解を確かなものにしておこうと頁をめくっていると、唐突に誰かが上げる凄まじい悲鳴が聞こえた。
反射的に珠理は立ち上がって悲鳴の聞こえたほうを振り返る。何事が起きたのだと思った。外が妙に騒々しい。悲鳴だけではなく、大勢の人間が駆けまわる足音もする。
尋常の事態が起きたとは思えなかった。珠理は狼狽しながら自習室を出て居間を駆け、廊下に走り出る。廊下はまだ灯火が灯されていて明るい。辺りの様子はよく見えたが、見渡す範囲には誰の姿も見えなかった。
悲鳴が聞こえたのは、近くの居室の中だろうか。珠理はそう思って、手近な居室に駆けつけようとした。しかしそのとき、再び誰かが逃げまわるような足音と共に、大勢の人々が上げる悲鳴が廊下の果てから聞こえてくるのを耳が捉える。
珠理はそちらに駆け寄った。大勢の人々が上げる悲鳴と混乱した気配、それに混じってなにやら時折、硬質の物音も響いてくる。廊下を走り、その果てに設けられた階段を駆け下りると、それらの騒然とした気配はどんどん大きくなっていった。どう考えても只事とは思えない。いったい何事が起きたというのだ。
言い表せぬほどの緊張を感じながら、珠理は異常な物音のする階下に駆け込む。すると、一階はすでに想像を絶する事態になっていた。
この世の光景とは思えなかった。寮の一階は学生のための食事室や大浴場、談話室などが連なっている場所だが、そこに至る廊下が、まるで戦場のような有様になっていたのだ。
血まみれになって横たわる大勢の人々や、突然の襲撃に断末魔の悲鳴を上げる者、武器を手に取って応戦する者。そういった阿鼻叫喚の様相が、珠理の視界に入ってくる。
珠理は怯えた。いったい何が起きたのか分からなかった。どうしてこのような事態になってしまったのか分からず、だから勿論、自分がどうすべきかも分からないでいた。呆然と辺りの光景を眺め、そしてふいに足下で呻き声がしたのを聞いた。珠理はそちらに視線を向けた。
兵士のような姿をした若い男が、血まみれの状態でこちらに向かって助けを求めていた。
珠理は驚いて彼に手を差し伸べた。いったい何が起きたのか分からないが、彼の状態だけは、珠理にも一刻も早く救命処置をしなければならないほどの重傷だと分かる。早く、適切な処置をしなければ――。
その瞬間だった。風を切る音がして、何かがこちらに飛んできた。
珠理は咄嗟に飛んできたものを避けた。かろうじて避けることができたものの、その時、こちらに向かって攻撃態勢をとる襲撃者の姿が見えた。
襲撃者の姿形は窺い知れなかった。完全に闇に溶け込んでおり、かろうじてそこに誰かがいることと、こちらに向けられる白刃だけが見て取れる。
闇色の襲撃者は珠理に向かって白刃を振り上げてきた。珠理は悲鳴を上げて、本能的にその場から逃げだした。
階段を駆け上がって二階に逃れようとしたが、二階からも混乱した戦地の気配が漂ってきた。そちらに行くことなど到底できず、必死で廊下を白刃から逃げまわりながら、珠理は手近にあった扉を開け放って中に駆け込んだ。扉を閉めて、鍵をかけようとしたが、そもそも掛け金がないらしく鍵がかからない。それでもなんとか扉を楯に身を守ろうとしたところで、扉を何かで強打する音が響いてきた。薄い扉が大きな音とともに震える。珠理は悲鳴を上げて扉から離れた。襲撃者からできるだけ遠ざかろうと、遮二無二駆け出す。
珠理が逃げ込んだ部屋は食事室に付属している厨房のようだった。食事の前後にはここは寮に雇われている料理人たちが食事の支度や後片づけをしたりして忙しく立ち働いている場所だが、今は勿論、誰もいない。
珠理は大急ぎで無人の厨房を物色し、きちんと整頓された棚から包丁を取り出すと、構えた。これでも武器の代わりにくらいはなるはずだ。
珠理が包丁を構えたところで扉が破られるのが視界に映った。闇色の襲撃者が厨房に侵入してくる。換気のための窓から射し込む月の光で白刃がきらりと光ったのが見えた。
厨房には出入り口が二箇所しかない。寮の裏庭に出る裏口と、食事室に通じている扉だけだ。珠理はそのうち裏口を目指して包丁を構えながら少しずつ後退していった。
珠理の心は極限まで緊張していた。今まで十三年間の人生を生きてきて、死ぬかもしれない、殺されるかもしれないなどと感じたことは今が初めてだった。夢の中でならいくらでも経験があることだが、現実にこのような事態に遭遇したことはない。かつて、珠理の中に入ってきた幾多の霊も、その死に際しては皆、今の自分のような思いをしていたのだろうか。
全身のあらゆる感覚を研ぎ澄まし、必死で生き残るための道を探った。裏口の向こうには、敵の気配は感じられない。ならばとりあえず、この建物を出れば何らかの活路が見出せるかもしれない。そう考えたのだが、珠理が裏口に辿り着くよりも、襲撃者がこちらに飛びかかってくるほうが早かった。
珠理は絶叫した。無我夢中で手にした包丁を振りまわす。だが、必死の抵抗も虚しく、誰かに腕を摑まれ、包丁を奪われるのが分かった。武器を奪われ、絶望したのも一瞬、珠理は足をとられて床に倒され、押さえこまれた。背を床にしたたかに打ちつける。だが殺されまいと必死で抵抗する珠理に、その痛みを感じる余裕はない。とにかく逃げるために必死になったが、珠理を倒した誰かは、倒れた珠理の手足を押さえつけて動きを封じてきた。手足の自由が利かなくなると恐怖は増す。悲鳴を上げながら自分の動きを封じる何者かの拘束を振り解こうとした時、ふいに珠理の横面に痛みが走った。それと同時に聞き慣れた声がする。
「おとなしくしてください。私は学生に危害を加えるつもりはありません」
珠理は目を見開いた。その声は、寮の管理を任されている寮監の声だった。
「どうやら、お酒を嗜んではおられないようですね」
酒の匂いがするかどうか確かめるためだろう、寮監は珠理に顔を近づけて吐息のにおいを嗅いでから、そう言った。
「酔っておられないのなら、いったいなぜ、あのような行動を起こしたのですか?」
寮監は心底不思議そうに言う。珠理は返答に窮した。珠理には、寮監に答えるべき言葉が見つからない。いったいどう言えば、自分の行動に不自然な点はないと、寮監を納得させることができるだろう。
珠理は厨房で寮監に取り押さえられて、そのまま自室に連れ戻された。それから彼によって珠理は酒を飲んでいないかどうか、徹底的に調べられた。吐息から酒の匂いがしないかどうか、居室内に酒瓶が置かれていないかなどを細かく検められる。学生が学舎で飲酒することは規則で禁止されているから、寮監の対応はごく当然のことだった。珠理の事情を知らなければ、珠理の行動は酒で酩酊したためと疑うのは普通だろう。それ以外に説明のつく理屈はないのだから。
珠理は尋常でない悲鳴や物音を聞いて、寮で何かただならぬ事態が勃発したのだと判断した。それで一階に駆けつけ、そこで戦場のように混乱した有様となった空間を目撃した。負傷した若者を助けようとして、何者かに襲われた。襲撃者から逃れるために厨房に駆け込み、棚に収納されていた包丁を手に取って応戦しようとした。それが珠理にとっての事実だった。
しかし実際には、寮でそんな事態は起きておらず、寮監にとっては突然に珠理が血相を変えて一階に下りてきて、一人で悲鳴を上げながら辺りを駆けまわった挙句、厨房で包丁を持ち出して暴れたというのが事実であり、そしてそれが真実だったのだ。
珠理は寮監に自室に連れ戻されてからその事実を知って、愕然とした。つまり珠理の見聞きしたものは、完全に現実ではなく幻覚であり、そんな幻覚を見た原因は、珠理自身が直前に霊を拾っていた以外にないからだ。珠理が見たあの光景は全て、その霊の記憶であり、それ以外には考えられない。だが、なぜあんなことが起きたのだろう。
今まで数限りなく霊を拾ってきた珠理にも、こんな経験はしたことがなかった。起きている間に霊を拾うこと自体は、不思議なことでも何でもないが、珠理が拾った霊の記憶を見るのはいつも夢の中だったからだ。なのに今晩に限って、その記憶がまるで現実に目の前で繰り広げられているかのような幻覚となって現れた。なぜそんなことが起きたのだろう。昼間の法令の授業の時に、霊が体験した痛みを起きている間に自身の身体に甦らせた、あの時にも前例のない事態に大きな驚きを覚えたが、今回の現象はあの時の驚きをはるかに凌駕する。いったいなぜ、今日に限って、これまでになかったことばかりが起きるのだ。今までは、どれほど霊と相性が深くても、こんなことはなかった。しかも、と珠理は思う。
珠理が現実の出来事として見た誰かの記憶は、昼間も見た「彼」の記憶ではなかった。それは断言できた。記憶の内容を思い出すまでもなく、昼間の「彼」と、今晩見た霊では見たものが明らかに異なる。「彼」の記憶も、いま見た霊の記憶も、状況から考えてどちらも死の直前の記憶であるはずだ。ならば、同じ人物の記憶だった場合、昼間に学舎で見た情景と、寮に帰ってから見た情景は、同じものでなければおかしい。しかしそんなことはなかった。どう考えても別人だ。
珠理はそのことを認識すると戦慄を覚えずにはいられなかった。「彼」の霊はもう昇天しただろうか。珠理には分からない。これまでなら、すでに昇天したと確信をもって断言できただろうが、前例のないことが立て続けに起きた今となっては、そう断言できる根拠を珠理は持たない。だがもしも「彼」の霊が未だ昇天していないのなら、いま珠理の身体の中では、「彼」の霊と誰か別人の霊が共存していることになる。二つの霊を同時に拾ったことは今まで一度もなく、しかもその霊の両方がまだ目覚めている珠理の意識に干渉してきたこともまたない。こういう事態が起きることは今まで珠理も考えたことがなかった。そしてそのことが、珠理に言い知れぬ恐怖を与える。もしもこのまま霊が昇天しなかったら、いったい自分の身体は、自分の意識は、どうなってしまうのだろう。