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何となく気分が沈むのを自覚しながら、珠理は授業に臨む準備を整えると、寮を出て学舎(がくしゃ)に向かった。

 学舎の教室は、いつも静寂に包まれている。早朝から夕暮れまで、常に大勢の学生が勉学に励んでいる場所だが、響いてくる物音といえば、教典の頁をめくる音か、紙に字を書きつける微かな音だけだ。師範が教授する声、学生が師範に質問する声以外の声がすることもほとんどない。音楽や体操を習う教室であればもっと騒々しいが、それでも授業や自習に関係のない物音や声が発せられることはまずなかった。珠理が学舎に入るまで暮らしていた街の孤児院では、授業が始まる前の教室など、子供たちが勉学とは関係のない雑談を楽しむ声で煩いほどだったが、ここではそういうことはない。入学の当初は、こうした状況の違いに珠理は驚いたが、すぐに珠理もこの様子を当然と感じるようになった。学舎では学ぶべきことが山のようにある。孤児院の時のように時間が空いたからといって油断していては、すぐに取り残され、授業にはついていけなくなるのだ。授業の前後に生じる僅かな空き時間も、学生にとっては貴重な自習時間だ。

 だから珠理も、空いている席につくとすぐに教典を取り出して数学の自習にとりかかった。今日の最初の授業は法令だったが、珠理は数学が最も苦手なのだ。決まった定理や定義を覚え、それを用いて解を求めるという行為自体は決して不得手ではないのだが、なぜか使われている言葉が文字から数字に変わるととたんに理解が難しくなるのだ。数学は必修の教科の一つであり、師範から修了の申し渡しがなされなければ卒業はできない。したがって珠理は空いた時間を見つけては常に過去の授業の復習に取り組んでいた。何としてでも、学舎は無事に卒業せねばならない。身寄りのない珠理は、大人になればどうしたって誰かに雇われることでしか生きていけなくなる。どうせ雇われるならば、官吏になって国に雇われるほうが、豊かな暮らしが送れるというものだ。

 教典を開いて定理のひとつを紙に書きつけ、それが生み出されるまでの過程を書いて理論を確認していると、法令の師範が教室に入ってきて授業の開始を告げた。静寂に包まれた教室の空気が途端に緊張を帯びる。珠理は急いで数学の教典と数式だらけになった紙を片づけると、法令の教典を取り出して机の上に広げた。

 今日の授業は刑法の運用の仕方についてだった。珠理は師範の教授を聞きながら紙に要点を書きつけていく。

「・・つまりこの、第五十二条の条文が表しているとおり、国内で混乱が生じた際は、国王の監督の下、軍事を司る国守(くにのもり) が事態の鎮静化を図ることになる。実際に混乱を鎮めるのは国守が統率する兵士たちであるが、この時に用いる手段や方法は、起きた混乱が争乱なのか、それとも単なる騒乱なのかによって大きく異なる。――きみ、国守の対応が、争乱時と騒乱時でどのように異なるか、答えてみなさい」

 師範が自分を指名したのを見て、珠理は立ち上がった。法令の師範は時折、このように学生を突然に指名して授業の理解を試すことがある。問いの内容はいつもそれほど難しいものではない。いま問われているのも、以前の授業で習ったことだ。珠理はその時のことを思い起こし、解答しようとした。

 しかし、答えることはできなかった。珠理が言葉を発するよりも前に、背に突然、何かで刺されたような激痛が走ったからだ。

 思わず悲鳴を上げてその場にしゃがみ込む。周囲が驚いたようにざわつくのが分かったが、しかし珠理にそれを気にする余裕はなかった。机に手を突き、痛みを堪えながらどうにかして激痛の正体を確かめようと振り返ろうとしたが、そうする間もなく視界が歪むのを感じる。身体が均衡を保っていられなくなり、珠理はその場に倒れ込んだ。周囲の音が遠ざかっていく。すぐに意識が闇に包まれていった。


 珠理はまた記憶(ゆめ)を見ていた。

 霊の記憶を見ているとはっきりと認識できていた。それも、昨夜と同じ人物の記憶だと分かる。霊と珠理の相性が良くなったらしく、昨夜よりもはっきりと情景が見渡せた。霊がどこの誰なのかも、今は朧ながら理解できる。そのことが珠理に驚きを与えた。珠理が拾っている霊は、およそ霊として彷徨っていることなど想像もできない人物の霊だったからだ。

 珠理の視界には、どことも知れない豪奢な部屋が映っている。

 霊となった人物が、生前に暮らしていたであろう部屋らしいことは分かっていた。大勢の人間がいる気配がするが、どういう者たちが周囲にいるのかまでは確認できない。細かいところが、未だ曖昧模糊としていた。相性は良くなっても、まだ完全には霊と意識が同調していないのだろう。珍しいことではない。そもそも完全に霊と意識が合うことなど滅多にない。

 珠理は、霊を拾った時にはいつもそうしているように、あるがままに視界に映るものを眺めていた。霊を拾った時は、できるだけ珠理自身は何も考えず、霊の意識に己の意識を合わせるようにしている。たとえ霊の記憶がどれほど恐怖と苦痛に満ちたものだったとしても、抵抗してはならないのだ。あるがままに身を委ねていれば、しばらくして霊は勝手に珠理から出ていく。抵抗すれば霊はそのぶんだけ早く出ていくが、目が覚めてから珠理の身体に何らかの不調が出ることが多い。無理に抵抗するよりあるがままでいたほうが苦痛は一時で済むのだから、珠理は霊を拾った時は自分の意思を放棄する習慣がついていた。

 しばらくは何もない穏やかな時間が続いた。単調な時が流れ、珠理がその平穏に安心しかけた時、突然にどこからか甲高い悲鳴が聞こえた。悲鳴を発した誰かの、切迫感と恐怖感だけが、妙に生々しく伝わってくる。

 珠理の視界が動いた。どうやら今までどこかに座っていたのを、急に立ち上がったようだった。どこかに駆け出そうとする。視界が揺れる。すぐに全身に圧迫感を感じた。一瞬の間をおいて、誰かに羽交い締めにされているのだと分かる。

 悲鳴を上げて抵抗した。必死で身をよじり、襲ってきた相手をなんとか引き離すと、相手の顔が見えた。珠理よりも黒い肌をした、若い男だった。珠理にはその男が誰だか分からなかった。

 男は珠理に引き離されると、慌てたように腰に佩びた剣を抜き放った。珠理の手も咄嗟に剣を抜こうと動いたが、佩刀はしていなかったらしい。身を守る武器が何もないことに珠理は恐怖を感じた。武器がなければ、珠理にはひたすらに男の構えた凶刃を避け続けること以外に、この急襲を逃れる術がない。

 逃げる途中で何度も裾に足をとられて転びそうになった。衣服がひどく動きにくい。それでも珠理は必死で逃げ、どうにか部屋を出て、廊下に駆け出すことができた。

 そして、珠理はそこで戦慄した。

 廊下はすでに戦地のような有様になっていた。大勢の人々が血を流して倒れている。まだ呻き声を上げている者もいたが、ほとんどの者はぴくりとも動かなかった。誰もが手のかかった立派な衣を着ている。相応の身分の者たちばかりに違いない。彼らはどういう人物なのだろうと珠理は一瞬だけ疑問に思ったが、その疑問とほぼ同時にどの人物がどこの誰で何という名前なのかを全て把握することができた。「彼」の霊が、心の底から彼らの身を案じていることも、珠理に伝わってくる。

 珠理は咄嗟に近くに倒れていた血まみれの若い男を助けようとした。彼はまだ呻き声を上げており、生きていることが明らかだったからだ。しかし彼を助け起こすよりも前に、背後に殺気を感じた。反射的に避けると、珠理のすぐ真横の床に白刃が突き立ったのが見えた。珠理は恐怖を感じて逃げ出した。彼を助けなければという意思は綺麗に消し飛んでしまった。己が生き残ることしか考えられなかった。

 廊下をひたすらに駆けた。どこへ逃げればいいのかなど分からなかったが、とにかく追跡してくる襲撃者の凶刃が届かないところへ逃れようと必死に足を動かしていると、廊下の端が見えてきた。階下に向かって階段が延びているのが見える。

 その階段を下りようとそちらへ足を向けたが、下から聞こえてきた誰かが階段を駆け上がってくる音に、その場で踏み止まった。階段は途中で一度折れており、駆け上がってくる誰かの姿は見えなかったが、聞こえてくる足音が耳に馴染みのあるものではなかったのだ。このまま下りて、駆け上がってきた者が味方でなかったら、敵に前後を挟まれてしまう。

 だが躊躇している余裕などあるはずがなかった。階段が使えないのならば他に手段はない。すかさず身を翻して階段とは反対側に設けられた窓を開け放つ。真下に人がいないことを一瞬で確認すると、何も考えずに飛び下りた。

 一瞬の浮遊の後、珠理は綺麗に足から着地する。足に強い痛みが走ってよろめいたが、動くことに支障はなかった。珠理は休む間もなく駆け出した。

 下りたところはどこかの庭園だった。周囲は夜の闇に包まれていたが、それでも随所に灯された篝火の灯りで美しく整えられていることは分かる。かなり広い庭園で、ここから見ただけでは全体が分からない。その庭園の中を通る小道を、珠理は襲撃者のいる建物から離れるために駆け抜けた。そのさなか、珠理の心にひとつの言葉が浮かぶ。

――なぜ、あいつらはあそこから入ってこれたのだ?

 「彼」の言葉だ。珠理は考えるまでもなくそれが分かった。霊の記憶を見ている時に、霊が生前に感じていた思いが言葉として珠理の中で甦ってくることがある。だから珠理は、この言葉によって「彼」が最期に感じていた思いの理解が容易になった。「彼」は襲撃者がどこから入ってきたのか、ある程度の見当をつけていたのだ。外部の者には存在すら知ることのできない出入り口から、どうやって侵入することができたのかという疑問は大きく、その疑問の大きさを考えれば、いかに「彼」がこの襲撃を予測することが難しかったかが分かる。

 唐突にどこかで悲鳴が聞こえた。珠理は驚き、思わず足を止めて声の主を捜してしまう。生命の危機を訴えるような切実な響きをしていた。さほど遠くない。自分と同じように逃げていた人物が、ついに追いつかれて襲われたのかもしれない。

 そう思うと珠理は恐怖を感じた。咄嗟に近くの植え込みの中に隠れる。そっと辺りの様子を窺い、自分には危険が迫っていないかどうかを確認した。とりあえず、付近に敵の姿が視認できなかったため安堵はしたものの、そのときまた悲鳴が聞こえた。先ほどよりも近い。思わずそちらのほうに視線を向けてみると、暗闇の中、誰かが背後から突き飛ばされたようにして倒れるのが見えた。

 珠理は息を呑んだ。倒れた誰かを、助けに行こうかどうしようか迷った。だが、珠理がそのことに結論を出すよりも前に、珠理の背後で怒号が響き渡った。

「いたぞ!こっちだ!」

 すぐ近くだった。珠理は恐怖から反射的に立ち上がり、声のしたところから遠ざかろうと闇雲に駆け出した。逃げることしか考えられなかった。吹きつける風に血と死の臭いが混じっていることに気づく。まるで野戦地にいるようだった。

 珠理の心は信じられない思いでいっぱいだった。なぜこんなことになってしまったのか、珠理には全く分からない。考えることもできない。身内にあるのはもはや死への根源的な恐怖だけだった。冷静に原因を分析することなどできるはずがなく、自分が逃げることだけで精一杯だった。

 だがその努力も実らなかった。背後から、珠理は背に強烈な斬撃を感じた。

 珠理は体勢を崩してそのまま前のめりに倒れた。倒れた時にさらに痛みが襲ったが、そんなことを気にかけてはいられなかった。背中から全身に広がっていく激痛を堪えながら、なんとか起き上がろうとする。しかしそれを防ぐように再び斬撃が襲ってきた。珠理は悲鳴を上げた。地面を這うようにして逃げようとするが、それすら叶わない。次々に衝撃と激痛に襲われ、そのたびに珠理の意識は薄らいでいく。

 珠理には襲撃者の姿は見えなかった。自分がなぜ襲われるのかも分からなかった。疑問だけが大きく膨らんでいく中、珠理の意識は激痛の中で闇に落ちていった。


 珠理は自身の悲鳴で目を覚ました。

 思わず飛び起きて逃げ出そうとしたが、駆け出すと同時に落下する感覚があってどこかに身体を打ちつけた。ふいに走った痛みに思わず呻く。しかしそれで、珠理はいま自分がいる場所があの庭園ではないことに気づいた。今は霊の記憶は見ていない。

「大丈夫ですか?」

 恐る恐るといった感じで話しかけてくる者があった。珠理がそちらに顔を向けると、医者の装束を纏った青年が、しゃがみ込んでこちらを覗き込んでいる。

 珠理は彼の問いに頷いて、その場に起き上がった。医者が慌てて手を伸ばして珠理を支えようとしたが、助け起こされなくても立ち上がることはできる。立つと少し眩暈がしたが、立てない、というほどのことはない。

「急に悲鳴を上げられたので、驚きました。いったいどうなさいました?悪い夢でも見られたのですか?」

 珠理はその問いに曖昧に頷いた。霊の記憶を見ていたことなど、医者に話せるわけがないが、悪夢を見ていたのなら、突然悲鳴を上げて飛び起きても不思議なことはないからだ。事実、医者は怪訝に思った様子も見せず何かを納得したように頷くと、寝台を指し示して珠理にまだ休んでいるように告げた。それで珠理は医者に指示された寝台に座る。寝台には寝乱れた跡があった。今まで自分はここに寝かされていたのだろう。珠理は顔を上げて室内の様子を見渡した。一見しただけでここが静養室だと分かる。授業中や授業の前後に体調を崩した学生を休ませるための部屋だ。医者も常駐していて設備も薬も整っているから、ここで治療ができない疾病はほとんど存在しない。突然に倒れた珠理を心配して、誰かがここへ運んでくれたのだろう。霊の記憶を見る前、自分がどこで何をしていたのかは、はっきりと思い出せる。

 珠理が無言で寝台に座っていると、医者はしばし珠理の熱を測ったり、腕をとって脈を診たりといった診察を行った。それが済んでから珠理に訊ねてくる。

「身体に異常は、特に出ていませんね。――どうされますか?授業に戻られますか?それとも、まだここで休まれますか?私としては、まだここで休まれるのをお勧めしたいところですが、身体にはもう異常はありませんから、貴女がどうしても授業に戻りたいということでしたら、お止めすることはいたしません」

 医者の問いにふいに珠理は今の時刻が気になった。室内に射し込む陽光はすでに翳り始めている。自分が倒れてから、すでにかなりの時間が経っているのではないか。

「・・いま、何時ですか?」

 珠理は医者に訊いた。案の定、医者が口にした時刻はかなり遅かった。今から慌てて教室に戻っても今日の最後の授業に間に合うかどうか分からない。

「・・ここで、休んでいても、いいですか?」

 この時刻から急いで教室に戻っても、ほとんど授業には参加できないだろう。ならばここで休んで、霊を拾ったことで得た心への衝撃を、少しでも癒したほうがいい。珠理はそう考えて医者に静養室で休養していたいと申し出た。医者は何も言わずに頷き、それならばまだ寝台で寝ていなさいと告げた。また気分が悪くなることがあったら、すぐに申し出なさいとの言葉を添えて、彼は寝台の傍らに据えられた机に向かう。何か書き物を始めたのが、珠理にも見えた。

 珠理は医者に言われたとおり寝台に横になりながら、ついさっきまで見ていた霊の記憶のことを考えた。意識して記憶を見たことそのものは思い出そうとせず、記憶を見たという事実そのものを考える。

 ――同じ霊だった・・。

 いま見た霊の記憶は、昨夜と同じ人物のものだった。それも昨夜に比べてずっと情景が明瞭で、霊が生前、どこの誰であったのかも分かるようになっていた。つまり、霊は珠理に拾われて、昇天するどころか留まって相性を合わせてきたのだ。

 ――どうして・・?

 珠理は今までに経験したことがない事態に動揺した。同じ人物の同じ記憶を続けて見るなどこれまでになかったことだ。霊は珠理の中に入るとそこで記憶を解放する。その後は勝手に昇天して、二度と戻ってはこない。それが珠理にとっての常識で、今まで例外はなかった。事実、同じ記憶を繰り返して見ることはなかったし、霊が昇天してしまえば珠理のほうで意識して記憶を思い出そうとしない限り、思い出すこともない。だが今日、珠理は意識して記憶を思い出そうとはしていない。にもかかわらず、昨夜と同じ記憶を見た。しかも、それだけではない。珠理は授業中に背に受けた激痛を思い出す。あの痛みは、間違いなく、霊が体験した痛みだろう。実際の珠理の身体には何の異常もなく、珠理が起きている間に霊の記憶を甦らせたことによる錯覚なのだ。だが、そんなことはこれまでに一度もなかったことだ。霊の記憶を見るのはいつも珠理が眠った後のことで、起きている時に記憶が甦ってくるようなことは今までになかった。どうして、今日に限ってそんな例外ばかりが起きるのだろう。

 考えられるのは未だ霊が昇天せず珠理の身体で共生を続けているということだ。どんなにあり得ないと思っても、それ以外は考えられない。だが、なぜだろう。

 「彼」の死に様は確かに悲惨の極みだった。突然自宅に押し入ってきた何者かによって、惨殺されたのだから。「彼」の無念が強くて、霊がなかなか昇天できないことには何の不思議もない。だが、悲惨で無惨な死を遂げた者の霊ならこれまでにも珠理の中に入ってきたことがある。というより、珠理の中に入ってくる霊はそんな霊ばかりだ。だが、いずれもすぐに昇天していった。この霊だけがいつまでも残る道理はないはずだ。

 ふいに珠理は恐怖を感じた。霊はまだ昇天していない。もしもこのまま霊が昇天しなかったら、いったいどうなるのだろう。

 それは想像もできないことだ。そもそも珠理は、未だに自分と同じ能力の持ち主に会ったことがない。だから、霊が昇天しなかった場合、どういう事態になるのか分からず、分からないことがいっそうの恐怖を掻き立てた。

 ――お願い。

 珠理は、自分の中に未だ留まっている、「彼」の霊に対して懇願した。

 ――お願いだから、出て行って。天に昇ってください。


 授業の終了を告げる鐘が鳴り響くと、しばらくして珠理の様子を見に静養室を訪れた者があった。法令を教授している師範だった。自分の授業の最中に倒れた珠理を心配して来てくれたらしい。珠理が師範に迷惑をかけたことを詫びると、彼は微笑んだ。

「そんなことは気にしなくてよい。それより、もう身体の調子は良いのか?」

「はい。もう平気です」

 内心は大きく動揺し、決して平気ではなかったが、珠理は別に疾病を患っているわけではないのでそう答えた。師範に不要な心配をかけるべきではない。

 珠理の思惑どおり、師範は珠理に異常がないことに安堵した様子だった。それでも彼は珠理を寮まで送ると申し出てくれて、珠理は師範とともに静養室を出た。

 学舎を出ると、珠理は何となく学舎の表庭に建立されている彫像に目をやった。いつもはあまり関心を持たない像だが、今日は少し事情が違った。思わず時間が経つのも忘れて眺めてしまう。

「・・どうした?」

 師範が声をかけてきた。やはりまだ気分が悪いのかと、訝しんでいるような声だった。表庭で突然に足を止めたのを見て、心配になったのかもしれない。何でもありません、と珠理は告げて歩きだした。師範は僅かに気にする素振りをみせたが、すぐに珠理に並んで歩きだす。

 珠理は歩きながら、表庭に建てられた彫像のことを考えていた。正確には、その彫像が表している人物のことを。

 学舎の表庭に飾られたあの彫像は、この国を治める国王の姿を表したものだ。今の国王は女王で、本来王位を継ぐはずだった兄が若くして流行り病に倒れ、世を去ったために、先王亡き後王位を継承することになったのだという。少なくとも、珠理はそう聞いていた。それを疑ったことは今までなかったし、疑う理由もまたなかった。だが今、「彼」の霊を拾い、「彼」の素性を知った今となっては、そのことに疑問を覚える。国王の兄が死んだのは、本当に流行り病だったのだろうか。


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