異能
珠理は必死で逃げていた。
周囲は真の闇だった。何も見えない。しかし濃厚な殺意だけはしっかりと感じる。大勢の人々が悲鳴を上げているのも聞こえた。辺りには血の臭いと死の気配が満ちている。
切実に感じるのは生命の危機だった。珠理は本能のまま、ひたすらに逃げ続けた。どれくらい逃げたのか、どこまで逃げたのかは分からない。感じられるのは己の生存を脅かされていることへの直接的な恐怖だけだった。それ以上のことは何も分からない。
ふいに、珠理は背に強烈な斬撃を感じた。
悲鳴を上げてそのまま前のめりに倒れ込む。背中から全身に広がっていく激痛を堪えながら、珠理は地を這うようにして必死で逃げ続けた。
そこへ再び、強い衝撃が襲ってきた。
襲撃者の姿は見えなかった。自分がどこにいるのか、なぜ襲われるのかも分からない。想像を絶する恐怖のなか、全身に走る激痛と、薄らいでいく意識だけが、珠理に感じられる全てだった。
珠理はそこでやっと、目を覚ますことができた。
瞼を持ち上げると、視界が一気に闇の世界から光の世界へ戻ってくる。
珠理は布団の中に横たわったまま、荒く息を吐いていた。気を静めようと深呼吸を繰り返す。このような悪夢は珠理にとって見慣れたものだったが、それでも慣れるということはない。
――あぁ、ひどい記憶見た・・。
珠理は思わず溜息をついた。こういう悪夢を見ることには慣れていたが、それでもここまで強烈な悪夢を見ることは滅多にない。もう長いことここまで激しい記憶は見ていなかった。それだけ珠理の暮らす世界は平和であるということなのかもしれないが。
――無事に、天の神々の御許に昇ることができましたか?
珠理は横になったまま天井を見上げると、どこの誰かも分からない先ほどの悪夢の記憶の経験者に、思いを馳せた。
珠理が見た悪夢はただの夢ではない。かつてどこかで、実際にあった出来事なのだ。珠理ではない別の誰かの記憶で、その誰かはあのような恐ろしい思いをしながら息絶え、つい先ほどまで霊となってこの世を彷徨っていた。その霊を珠理が拾ったことで見た夢なのだ。
自分に死者の霊魂を拾う能力があることに、気づいたのが幾つの時だったのか、珠理は正確には思い出せない。それほど昔から、珠理は他人には口にすることができないこの異能と付き合ってきた。
この世には死してなお、天の神々の御許に昇ることができないほどの強い心残りを抱いた者たちの霊魂が漂っている。珠理はその者たちを直接、目で見ることはできなかったが、ごく自然に彼らの霊魂を拾うことはできた。特に意識することもなく、珠理は死者の記憶を己の記憶として得ることができ、珠理に拾われた魂は、一時、珠理の中で珠理と共生し、生前のさまざまな思いを珠理に吐き出してから天に昇っていく。
つまり霊は珠理の中に入ってくると、生前の思いを断ち切って無事に昇天することができるのだ。珠理のほうも霊の記憶を受け取ることで、その人間が生前に知った知識や身につけた技術をそのまま継承することができる。どの程度まで深く記憶を見ることができるかは、拾った霊との相性によって大きな違いがあったが、これは珠理にとって最も大きな益だった。なぜなら、そもそも穏やかに天寿を全うし、愛する人に看取られて死んだ者は霊になどならないからだ。少なくとも珠理の経験ではその例から外れた者はいない。霊になるのは、必ずといっていいほど、悲惨な最期を遂げた者で、だから彼らの記憶は、自然、耐え難い苦痛と恐怖の記憶ばかりになる。そんな記憶を何の前触れもなく突然、我が身のこととして体験するというのは、とても辛い。けど珠理のほうにも得るものがあるから、こんな異能でも、持って生まれて良かったと思っていた。
気分が落ち着いてくると、珠理は寝台の上に起き上がった。顔を洗いに行いくために寝室を横切ろうとして、何気なく壁際に視線を投げる。いま珠理が制作している途中の絵が、壁には立てかけられていた。
この絵のことを、珠理自身は単に枯葉絵と呼んでいた。元々の考案者が何と呼んでいたのかを知ることはできなかったが、珠理自身は見た目の印象からそう呼んでいた。それ以外の呼称は思い浮かばない。
この絵も、珠理が以前に拾った別の死者の霊魂から得た記憶を基にして作り上げたものだ。枯れて地に落ちた葉や花びらを掻き集めてきて、それを画面と呼ぶ板の上に巧みに組み合わせながら貼り付けていくことで仕上げる絵だ。着想した絵師の晩年の構想で、その絵師はとうとう絵を完成させることができずに、この世を去ってしまった。彼の構想を体現した絵は存在せず、彼は絵を完成させることができなかったことを悔いていた。それで珠理が代わりに絵を完成させてあげようと思ったのだ。珠理でなければ、この絵を完成させることはできないから。
ただ、この絵を制作することは想像以上に難しかった。なにしろ用いる画材が枯れ葉や枯れ花だから、目当ての色を得ることが難しいのだ。しかもこの画材はとても劣化しやすく、壊れやすい。制作しては壊れることを繰り返している絵は、未だ完成にはほど遠かった。しかし珠理はこの絵の制作を面白いと感じている。他のどんな画材で絵を描くよりも楽しかった。なにしろ、一度は役目を終えて地に落ちた枯れ葉を、自分の手で美しい絵として甦らせることができるのだから。
――秋の学技披露会では、この絵を披露してみようかな?
ふいにそんなことを思った。珠理の学んでいる学舎では、毎年秋になると学生たちが学んだことの成果を披露する学技披露会が開かれる。学生たちが授業で作り上げた、主に芸術系の作品を披露するための恒例の行事だ。披露する作品は学生によって異なり、絵や彫刻、それに音楽や舞踊や演劇など多岐に亙る。学舎は常には閉鎖的だが、この日ばかりは学外の者も自由に見物に訪れて良いことになっていた。そのために毎年、大変な賑わいとなる。珠理が初めて学技披露会に参加した去年も、学舎は見物客で大混雑だった。学生でなければ、この日は楽しい催事なのだろう。
だが、珠理たち学生にとっては、決して楽しい催事ではない。
なぜなら学技披露会で披露される作品は、学舎の師範によって審査の対象となるからだ。作品を完成させるために用いられた技術の水準などが審査され、審査結果は個々の学生の成績に記録される。学生の卒業する時期や、卒業後に配属される役所や官位はその成績を元にして決まるのだ。芸術系の教科への評価は学技披露会での審査がほとんど全てだから、この日に緊張しない学生などいるはずがない。楽しみなどは存在しなかった。
珠理が学んでいる学舎は、正式には国務仕人育成所と呼ぶ。しかしこの名称で呼ぶ者は、学生や師範の中にもあまりいない。誰もが概ね単に学舎と呼んでいた。この国では他に学舎と呼べる施設はないから、それで意味は通じるのだ。この国では子供の教育はその子を庇護する各家が行うのが普通で、各自が家業に応じて必要な知識や技能などを教授していく。年齢によって性別によって、出身階級によって必要とされる知識や技術は異なるから、他国のように学校を設けて子供の教育を一括して行うことはしないのだと珠理は授業で聞いたことがあった。学舎に入るための試験に合格するための教育を行う私塾はあるし、親のいない子ばかりを集めて養育する孤児院では、子供の教育はまとめて一斉に行うものだが、それは学校ではない。
国務仕人育成所はその名の通り、国のための務めを行うことによって、国王や重臣たちに仕える中下位の官吏を育てるための場所だ。入学の条件は、試験に合格することだけで、生まれや職業、年齢、性別は問われない。塾ではないから学費を請求されることもなく、無事に卒業できれば無条件で官吏になれる。入学のための試験は難しく、簡単には合格できないが、ちょっとでも知恵の回りに自信がある者ならば、誰でも一度は受験を試みているだろう。なにしろ官吏になれば常に一定の収入が得られるから暮らしは安定するし、平民の出身であっても国政に参画できるようになるのだ。国王の側近になることだって、決して夢ではない。学舎に入ることは、この国の平民にとって立身出世の象徴なのだ。
その学舎に珠理は十二で入学した。学舎への入学に年齢の制限はないが、普通はどれほど若い者でも入学する時には十代後半に達しているものだから、珠理の入学は異例なほど早いといえる。実際、同じ年に入学した学生たちは、誰もが珠理より十歳以上も年上の者だ。中には二十歳以上も年の離れた者もいる。だから、入学のその日から珠理は神童だ、早熟の逸材だと騒がれたが、珠理はそのことを実はあまり嬉しく思ってはいなかった。珠理がこれほど早くに入学することができたのは、この異能に由来するところが大きいからだ。
当時のことを思い出し、珠理は思わず苦笑した。それで、自分がこの絵を披露してはならない、と直感する。頭を振って、一瞬であっても思わず考えてしまった不埒な企みを追い払った。
目の前のこの作品は、他人の着想を元にこしらえたものだから当然、珠理の作品とはいえない。自分の頭で考え、自分の手で自分の思いを込めて作品を作らなければ、自分の作品とは呼べないはずだ。自分の作品を全て自力で作ることができない者が、優れた芸術の担い手であるはずがない。たとえ学技披露会の日だけでも、自ら芸術の担い手を名乗るなら、自分の作品くらい自分で作るべきだ。いくら死者とはいえ、他人の着想を元にこしらえた作品を自分の作品として披露するなど、最低の行いだろう。
だからこの絵の制作は、あくまでも遊戯に留めておいて、学技披露会ではちゃんと自分で構想した自分の作品を披露するべきなのだ、珠理はそう決心した。去年はそうしたのだから、今年できないはずがない。入学の時に感じた、あの何となく後ろめたいような妙な感じは、二度と経験したくなかった。これからは異能の力に頼ることなく、珠理は珠理の力だけで、珠理の人生を生きていくのだ。
決意を込めて珠理は制作中の枯葉絵を眺めた。純粋に絵の仕上がり具合を見て、出来上がりを想像して楽しむつもりで鑑賞する。だがそうして思考に余裕が出てくると、珠理の脳裏を再びあの悪夢が侵食してきた。思わず眩暈を感じて、珠理はその場にしゃがみこむ。
生臭い血の臭いを未だに鼻腔に感じるような気がした。目覚めた今も、身が竦むような恐怖を感じる。ああいう思いをして死んだ者の霊魂が、たった今までこの場にいたのだ。
その誰かが己の死に際して感じたであろう恐怖と苦痛に思いが及ぶと、珠理自身も切迫した恐怖感を感じる。いつもそうだった。とても平然としていることなどできない。霊の記憶が蘇ってくると悲鳴を上げて逃げ出したくなる。自分が経験したことではなくても、自分に危害が迫っているわけではなくても、怖くて怖くてたまらなくなるのだ。この異能は珠理と霊と、双方に益があるものだと頭では理解していたが、本当は珠理とてこんな異能は抱えていたくない。悲惨な最期を遂げた死者の記憶など、見たくはないのだ。
どうして、と珠理は時々、考えてしまう。どうして自分は、こんな能力を持って生まれてきてしまったのだろうか。