第6環 翔破の円環節66日目②
薄暗くなった夜霧の路地を、マリア・桜庭・キスティルは歩いていた。
短く外側へとはねた桃色の髪。黒く染まった被膜。薄汚れ、乱雑に裂かれた修道衣からは、健康的な内腿が大胆に覗く。
数時間前、鍛冶屋ショート・ピースの店先で勃発した殺し合い。
その当事者であり、加害者であり、被害者とも云えるマリアは、運命レベルでの敵対者、キリンジ・ゴールドフィストとの戦闘で負った腹部の痛みを堪えるように、片手で摩りながらふらふらと千鳥足の如く両脚を左右に揺らしながら彷徨っていた。
黄昏の都市アイオルビスに形成された細く入り組んだ路地には、夜になると昼間とはまた違った多様な人種が出没する。胡散臭い占い師、怪しげな露天商、家族も財産も住む家すらも持たない者、違法薬物の密売人、逃げ延びた犯罪者……そのほとんどは日の目に堂々と姿を晒すことを好まない人物たち。
路上に胡坐で座った彼らの横を、マリアは無表情で、視点を浮つかせたまま通り抜けた。
興奮冷め止まぬ、恍惚としたように開いた唇。
今のマリアにとって夜のアイオルビスに蔓延る彼らの存在など、視界の端にも望まないほど至極興味のない事だった。望みはただひとつ、自らを苛む破壊衝動の欲求解消。
異様な雰囲気を醸す道の中央を、異質そのものであるマリアは進む。
そんな彼女と云う灯にまんまと引き寄せられた羽虫のように、ふたりの蒸気人の男がにやにやと口許を緩ませ近寄ってきた。
「やっほー、おねーさん。彼氏と喧嘩? なら俺たちと遊ぼうよ」
「あれれ、もしかしてキミ、大聖堂のシスターちゃんじゃない? へー、鬼人種でもシスターってなれるんだ」
前方を立ち塞ぎ、男たちは醜悪な笑みで以ってマリアの肢体を舐めるように見定める。
キリンジほどではないにしろ、ふたりの男たちには自身の欲望を満たすための暴力が備わっている程度には屈強な体躯をしていた。
対してそのふたりより数でも体格でも圧倒的不利なマリアは、帰路を遮られたにも関わらず言葉もひとつ介さず浮上した意識のまま強引に間を割り抜けようとする。
当然、男たちは道を塞いだ状態でマリアの肩へと腕を回し、彼女の繊麗な身体を抱き寄せた。
「うはっ、やべーこの子、超大胆」
「ばーか、お前のこと嫌がってんだよ。ほら、そんな無視しないでさ。キミもそーゆーつもりでこんなとこ歩いてたんでしょ? 俺たちが優しく慰めてあげるよ」
男たちのげらげらと笑う声が路地に響く。誰も彼らに目を配る者はいない。
病的と思えるほどの虚ろな瞳でマリアは男たちを見上げた。
「お、やっとその気になった? さっすがシスター、人類平等愛ってヤツ? じゃあそこら辺で――」
「邪魔なんだよ、アタシの身体に触れるなゴミ」
男の言葉を遮り、マリアは抑揚のない単調な声で言葉を放った。
一瞬、男たちの挙動が停止する。そしてすぐさま、それが自分たちへと向けられたものだと理解した。
「だっさ、フラれてやんの。そんな奴放っておいて俺と楽しもうよ」
「うるせぇ、黙ってろ。あのさキミ、自分が今どういうところでどういう状況になってるか理解してる?」
男たちのやりとりにマリアは溜息を吐いた。肩に回された腕を叩いて、退ける。
そのまま彼らの横を素通りしようとするが、男たちは再度、今度は確かな暴力によって強引にマリアの肩を掴んだ。
「生意気な子は好きだけどさ、あんま調子に乗ってると痛い目見るぜ」
「大人しく云う事訊けばすぐ済むんだから、そっちのが良いでしょ。お互いにさ」
台本通りとも取れる使い古された薄っぺらい謳い文句を、男たちは交互に吐き出す。
しかし、目的はどうであれ彼らは『力』を行使した。それは、マリアの最も愛する暴力と云う名の力だ。ふたりの蒸気人の男たちは、そのご自慢の暴力で以って、自分たちの欲求を満たすためにマリアの肉体を支配しようと目論んだのである。
ならば、マリアにとってはそれがすべてだった。
「あはっ」
マリアは笑う。虚ろに濁っていた紅の瞳には光が灯り、不完全燃焼だった身体が熱く火照った。
掴まれた肩を震わせ、利害の一致した相手に興味が生まれた。マリアはそれが嬉しかった。
彼らがマリアを欲するために力を用いるならば、マリアはその力を欲するが故に彼らを求めた。
「だったら、アタシを満足させてね」
眼前にある男の頬を指先で一撫でし、悪魔染みた笑みでマリアはウインクする。
「はっ、やっとその気になったか。云われなくて、もぐっ!?」
男の鼻の下が伸びきるよりも早く、彼の身体は固い地面へと堕ちて行った。
いとも容易く組み伏せられた男の腹部へとマリアは跨った。
「おいこら、なにしてんだテメ……ッ!?」
相方の男が腕を伸ばしマリアに迫る。しかし、その指先がマリアの身体へと触れることはなかった。
喉元に突きつけられた、刃。
「焦らないでよ、順番に相手してあげるから」
目の前で友人を子供のように組み伏せ、さらには自分へとナイフの刃先を向ける異形種の女。
彼は確信した。この女は危険だと。自分たちはとんでもない奴に声をかけてしまったのだと。
「……くそっ、なんだよコイツ。おい、そんな子供騙しの得物にビビッてねーで、この『化け物』をなんとかしろ!」
彼の心配事などつゆ知らず、地面に強打された友人は後頭部を摩りながら罵声を吐いた。
結晶化技術で作られたナイフが子供騙しなんかであるものか、と男は思ったことだろう。余計な言葉を云って挑発するな、とも思ったかもしれない。
そして、そんな彼の心配通りに友人の言葉は、マリアの機嫌を損ねるのに呆れるほど充分に役立った。
「……アンタ、今、何て云った?」
「はぁ? テメェ、鬼人種かそのハーフなんだろ? だったらテメェは人類生存圏外からやって来た『化け物』じゃねーか。『化け物』を『化け物』っつって何がわるひぃぃっ!!」
つい今まで傍らの友人に向けられていたナイフが、自分の頬を掠めて耳元で地面と衝突した。
両の瞳を限界まで見開き、文字通り鬼のような形相でマリアは眼下の男を見下ろす。
「あ、ああおお、おい! 今だ、なんとかしろよお前っ」
尋常ならざる殺意が幾らか鈍い方の男にも伝わる。咄嗟に友人へと助けを求めるが、すでにその彼はと云えば路地の向こうへと逃げて行く最中だった。
「おい、おいおいおいっ! 置いてくんじゃねーよ、ふっざけんなこらぁ!」
「それで、化け物ってのはアタシのこと?」
ただの喚くだけ喚く子供のように男は声を張り上げる。無論、彼らの行いを止める者など此処には居やしない。
夜泣きの赤子を静める母の如く、マリアは結晶製ナイフの刃を男の頬に何度も触れさせた。子供騙しの玩具を使ってよしよしとするように。何度も。ひた、ひたと。
「ねぇ、アンタにはアタシが化け物に見えるの?」
「ひっ。お、おおお、俺はあのリインカーネーションにも顔が利くんだぞ。こんなことしてタダで済むと思うなよ。こ、この奴隷階級の成り損ない化け物女がっ」
頬に触れる冷たいナイフ。恐怖で歪み、くしゃくしゃとなっていく表情。それでも男の口からはこれまたどこかで訊いたような言葉が紡ぎ出される。
あれほど昂揚していたマリアの興奮は、すっかり冷却してしまっていた。
男に馬乗りした体勢のまま、男の顔面高くにナイフを振り上げる。
「や、やめ」
「――もういいよ、サヨナラ」
無情な別れの宣言と共に、一閃が流れ落ちる。
切っ先が男の皮膚へと到達する寸前に、凶刃は止まった。
「……なにか用?」
顔を上げ、座り切った瞳でマリアはその先へと視線を向けた。
路地の暗闇から、黒緋の衣を纏った観客は姿を現した。
「続けないのか? ……と云っても既にそっちの彼は満足してしまったみたいだが」
「その服……検閲官」
泡を噴いて気絶した男の上から、マリアは少女を仰ぎ見る。
「なるほど、お前がアイオルビスの常駐回収員か。確かに、こいつは問題児だ」
コンコルディア協会の検閲官、リム・リンガルム・クオンはそう云って嘲った。それは現在目の前で繰り広げられていたマリアの行動に対するものではなく、彼女を『少し特殊』と揶揄した同僚に対する価値観の相違だった。
「ジェダの奴、どこが『少し』だ」
「紅い瞳……」
ぼやくリムを見つめながらマリアがぽつりと呟く。
自身を指す通り名に、リムは鋭く不機嫌そうな表情で反応した。
「こっちでもその名で呼ぶ奴が居るのか。ていうか、紅眼ならお前もそうだろうが」
「ふ、うふふふふふふ」
不気味に笑いながらマリアは男の身体からふらふらと立ち上がる。
右手には、結晶製ナイフをしっかりと握ったまま。ようやく、満足できる相手と出逢えたと云わんばかりに、それはそれは楽しそうに口許を綻ばせて。
「コンコルディア協会所属の回収員、マリア・桜庭・キスティルです。出逢えて光栄ですわ、リム先輩」
借りてきた猫を掻っ捌いて引き剥がした生皮を被るかのように、溢れ出る欲望を惜しみなく放出してマリアは名乗る。鋭利な透明の刃は、リムへと向けられていた。
「赤ん坊、か。まったく、ジェダといいスノウといい、私の周りにはろくな奴が居やしない」
ぶつくさと不満を垂れ流すリムだったが、そんな彼女の苦悩など微塵も考えずマリアはひとり身悶えた。
「あぁ……あのレッド・リム……先輩なら、きっと。キリンジのように……ううん、もしかしたらそれ以上に、アタシを愉しませてくれるかもしれない。やっぱりこんなゴミみたいな奴らじゃダメなんだ。先輩なら、アタシの事を受け止めてくれるはず! 先輩なら、思う存分アタシを気持ちよくしてくれるはず!!」
「悪いが、私にそっちの趣味はないぞ」
至極冷静に、徹頭徹尾頑なな意思で以ってリムは否定した。
マリアの足元に転がる男に視線を向ける。
「でもまぁ、少し安心したよ」
「あらん、何がですか?」
「所詮アイオルビスも、ジオ・ハモニカと変わらないってことが分かってさ」
分かってはいたものの、リムはアイオルビスに来て3回目の夜となる今、ようやく黄昏の都市と呼ばれる多種族が入り乱れる社会の暗部を実際に垣間見た。
人類種も、異形種も。ハモニカ人とそれ以外も。そんな世界のルールなど、このアイオルビスでは関係ないものなのだと、どこか夢想染みた想いが在ったのかもしれない。
しかし、これが現実だったのだ。結局は誰しもが、巨大なピラミッド型の思考に憑り付かれ生きている。優位と劣位に隔された、交わることを否とするルール。だとすれば、リムにとってこの街は途端に仕事のしやすい現場となる。彼女は、そういう世界で今まで生きてきたのだから。
そしてきっと、目の前のマリア・桜庭・キスティルと云う翼を生やした人鬼種の女も。
「……銃はどうした、見たところ不携帯のようだが。仮に紛失したりすればそれこそ、お前は死ぬまで協会に追われることになるぞ」
「『レシスト』は大きくて持ち運びに不便ですので、普段は大聖堂に」
「長銃使用者か。黄昏の亡霊事件に関しての調査依頼が協会から出ているはずだが、何故一向に報告を挙げてこない?」
「あら、それを調べるために検閲官である先輩は派遣されてきたのでしょう?」
売り言葉に買い言葉、マリアはリムをからかってくすくすと笑った。
「御安心を。協会と教団、ふたつの組織に属するアタシでも、リインカーネーションとの繋がりはありませんから」
「リインカーネーション……人類生存圏内最大の巨大犯罪組織」
「ええ、この生ゴミみたいな彼は多少面識があるみたいですけれど。こんなんじゃあ、お話は訊けそうにありませんね」
そう云って、マリアは男の顔を踏みつけた。
「お前のせいだろう」と、リムは云いかけたが、恐らくその言葉はマリアにとって意味をなさないものだったので諦めた。協会直々の依頼ですら自己の欲望の捌け口にし兼ねない彼女にしてみれば、後悔などもっての他だ。
だが、こうして亡霊の所在まではしっかりとつき止めてある辺り、一概にマリアが任務に対して怠惰な無能でないことをリムは理解した。否、むしろ彼女は非常に優秀な回収員なのだろう。惜しむらくは、その倒錯しきった人柄だった。だからこそ、ジェダも手を焼いていたのだ。だからこそ、リムはこうして彼女のもとへと送られてきたのだ。
とどのつまり、リムは貧乏籤を引かされたに過ぎなかった。
黄昏の亡霊。家出少女の捜索。裏切り者の父の抹殺。そしてこの問題児、マリア・桜庭・キスティルの監視と教育。
幾ら何でも割に合わないのは、たとえリムでは無くともそう感じたであろう。
額を指で押さえるリムの姿に、うずうずと身体を震わせたマリアが堪らず踵で地面を蹴った。
「――ねぇ、質問タイムはもう良いでしょう先輩? そろそろアタシ、我慢するのも限界なんですよぉ」
甘えるような猫撫で声でマリアは一歩を踏み出した。
もはや云うだけ無駄。我儘な赤ん坊を叱るには鉄拳制裁の他にあるまい。リムがそう判断しかけ懐の銃へと手を伸ばそうとしたその時、激しい爆音と共にふたりの横を蒸気バイクが高速で走り抜けていった。
一瞬の事だったが、その茶色い縞々模様の毛むくじゃらにリムは見覚えがあった。
「……チャトラ?」
細く入り組んだ路地だと云うのに、そんな事など一切合切お構いなしで、毎度お馴染み三毛猫アマゾンの凄腕ドライバーは巧みな操縦技術を用いて夜の帳へと消えて行く。
チャトラの背中が遥か路地の向こうまで消えてから間もなく、再度狭い路地の壁と壁に反響する蒸気バイクの動力機関駆動音が近付いてくる。
マリアが苦々しい表情で舌打つ。
リムも自身の後方から響く音の方へと振り向いた。
蒸気バイクを操り、ヘルメットを被った男の姿が視界に収まる。
男はチャトラと同じくふたりの横を通り過ぎたが、チャトラとは違ってその数メートル先で急ブレーキで停止し、蒸気バイクから下り立った。
厳格な顔付きをした男のヘルメットには、階層警備隊を象徴する紋章が象られていた。
「……火埜蔵紫道」
またしても余計な邪魔者がと云わんばかりに、マリアは苛立ちを隠すことなくその男の名を放つ。
アイオルビスの夜、影と暗闇に支配された土地に生きる者たちにとっての天敵。天罰。
善も悪も、男も女も、老いも若きもこの街に生きる者が知らぬことなど決して在り得ない。
黄昏の都市を守る正義の体現者、火埜蔵紫道と云う男の名を。
紫道はマリアとリムのふたりと、その間に気絶して転がっている男の姿を鋭い眼光で順番に見つめた。
「――すまないがふたりにはこの状況に関して任意の聴取に協力して頂きたいのだが、構わないかね?」
厳かでありながらも悠然とした口調で、紫道はヘルメットを外した。
「お断りだ、地方の警備隊如きが協会の事情に口を挟むな。……とアタシが云ったら?」
睨み付け、完全に剥き出しとなった敵意をマリアはぶつける。紫道は指先で顎に触れながら、暫し考え込むように両の瞼を閉じた。
「止むを得ん。そうなれば私は円環奏府の法に則り、この身命を賭してでもキミたちの拘束と本部への連行を強制執行しなければならない。場合によっては円環奏府からコンコルディア協会への回収員処分提起が検討される。それと、マリア君。すみやかにそのナイフを降ろさなければ、状況は今後キミに取って非常に不利となる可能性がある、とだけ伝えておこう」
「……ちっ、糞堅物野郎が」
苦虫を噛み砕く想いで、マリアは刃を退けた。
既に長い期間に渡ってアイオルビスに常駐してきたマリアは、紫道の存在を知り尽くしている。力を持ちながらそれを拒絶するキリンジとは別の意味で……否、まったくの真逆だ。紫道は力を否定しない。彼は正真正銘の、正義と云う名の力で以って己が正道を築きあげてきた男だった。その矛先は、たとえ身内であろうとも容赦なく向けられる。それが火埜蔵紫道と云う男の、根源。
それはこのマリアですらも埒が明かないほどに、彼の意思は堅牢であり、同時に相手にすればただひたすらこちらが損をするだけの、なんとも厄介な相手に違いなかった。
少なくとも、今この男の言葉を退けてまで得る利益はマリアに無かった。
「協会の検閲官殿も、それでよろしいか」
マリアの意思を確認して、紫道は初見のリムに対しても釘を打った。
「リム・リンガルム・クオンだ。リムでいい」
「承知した」
簡素なリムの自己紹介に、紫道も同じく簡素に対応する。
「遅れて申し訳ない、火埜蔵紫道だ。アイオルビス階層警備隊の隊長を務めている」
「階層警備隊には後日伺うつもりだったから、ちょうどよかったよ」
「協会が、階層警備隊に?」
調書用の手帳を開きながら、紫道は眉根をひそめた。
溜まりに溜まったフラストレーションを発散させるように、マリアはぶつぶつ文句を唱えながらナイフの切っ先で地面を抉っている。そんな彼女を無視してリムは紫道と対面し、視線を持ち上げた。
「黄昏の亡霊事件とリインカーネーションの関連性について、提供してもらいたい情報があるんだ」