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Red Rim 黒緋の乙女と円環世界  作者: 32➡1
黒緋の乙女編
7/41

第4環 翔破の円環節65日目②



 昼の食事会を終え、正宗、アカシャ、ナギの三人と別れたコラットは自身が見習い隊員として所属するアイオルビス天海層11階、階層警備隊の本部へと赴いていた。

 本部のロビーで待つコラットのもとに、鋭い眼光を灯し厳かな雰囲気を醸し出す蒸気人の男が歩み寄ってくる。


「紫道さん、お疲れ様ですっ」


 訓練された軍人の如く素早く立ち上がったコラットは、男に向かって敬礼した。

 男の名は火埜蔵(ひのくら)紫道(しどう)。彼こそがこのアイオルビスを日夜守る階層警備隊の隊長にして、彼自身もまた正義の体現者と云われるベテランの隊員だった。

 紫道は目を細くし、厳しい顔つきを決して崩すことはなく敬礼したままのコラットに視線を注ぐ。


「学業の合間だと云うのに、いつも済まないな」

「いえ、紫道さんのもとでお手伝い出来て私もうれしいです」


 無垢な少女のように笑うコラットに、紫道は低く「ありがとう」とだけ答える。

 ロビーの隅に設けられたソファへと紫道はコラットを招いて腰掛けた。

 対面する形で、両者は向かい合う。


「先日、アイオルビス直轄の高速路で出動があったようだが。担当はコラット君だったか」

「はい。結局お決まりのようにチャトラ絡みでしたけど」


 しかめっ面でコラットは報告する。しかしその表情からは、些か満更でもない色が紫道には感じ取れた。


「ふむ。そろそろ彼の対応にも本腰を入れねばならないな」

「え、ええっ。し、紫道さんが直接ですかっ?」


 途端に慌てるように身を乗り出すコラット。

 そんな彼女の様子を、紫道は口許をわずかに綻ばせて眺める。


「問題があるのかな」

「い、いいいえっ、滅相もないですっ。……でも、わざわざお忙しい紫道さんが向かわれる程のことじゃあ」

「なるほど」


 目の前の少女の思惑を、紫道はとっくに理解していた。

 両の腕を組ませ、視点を天井に向かわせる。

 荘厳な彼の一挙一動に、コラットは緊張しながら喉を鳴らした。


「では、彼の件に関してはキミが責任を持って担当したまえ。無論、この私の目に留まれば容赦はせん」

「は……はいっ。見習い隊員コラット、全力でチャトラの更生に励みますっ!」


 表情明るく、ロビー中に響き渡る快声でコラットは答える。

 彼らの横を行き通る隊員たちが弾けるようにくすくすと笑っていた。

 目線をコラットへと戻し、紫道は再び真面目な表情で口を開く。


「先ほど、シルバー・ファントムより新たな予告状が届いた」

「シルバー・ファントムから!?」


 コラットの顔色も変わった。如何に彼女がシルバー・ファントムのファンと云えど、実際に犯行声明が届いたとなれば話は別だ。

 階層警備隊に長年所属する火埜蔵紫道にとっても、歴史上類を見ない大怪盗シルバー・ファントムは正に因縁の好敵手と云える。紫道はシルバー・ファントム最初にして最大の事件、『結晶星都の盗まれた夜』事件以降、4年もの歳月をかけて彼を追い続けてきた。

 10年以上ものキャリアを誇り、アイオルビスに紫道在りと呼ばれた歴戦の勇士であっても、ジオ・ハモニカの誇る旧世界の喪失技術――結晶化技術を用いるシルバー・ファントムには未だ雲を掴むかのように手も足も出ない有様だった。

 優秀過ぎる紫道の信じる正道は、時に彼の上層部すらも危険視することがあり、依然シルバー・ファントムに手を焼いている紫道本人の首を絞めかねない圧力をかけて来ることも多々あった。

 しかして彼は決して屈服すること無く、それすらも正道でもって覆し、時にはシルバー・ファントムの予告状に記された犯行を未然に防ぐことすら成し遂げたこともある紫道は、アイオルビスで生活する人々にとってかけがえのない存在であると云えた。

 ある意味で正義を一貫する紫道は孤独であり、そんな孤高な戦士である紫道にコラットは憧れていた。


「シルバー・ファントムは今度はいつ現れるんですか? 私にも何か手伝えることがあればっ」

「いや、今回は――」


 云いかけた最中に、紫道のもとに他の隊員がやってきて敬礼する。


「火埜蔵隊長、お話の最中に失礼致します」

「なにごとだ」

「リインカーネーション捜査の件で、進展が」


 隊員が必要最低限の情報だけ言葉にすると、紫道は鋭利な目元をさらに鋭くさせて沈黙した。

 その場に佇む隊員は、黙って紫道の回答を待つ。

 少しの間の後、正面のコラットへと目を配る。


「すまない、話の続きは後日で構わないかな」


 厳とした口調の紫道にコラットは頭に生えた猫耳をしゅんとさせ、頷く。


「……はい。わざわざ見習いである私のために時間を割いて下さって、ありがとうございます」

「シルバー・ファントムについてはこちらで対応する。コラット君は何時ものようにアイオルビスの警備巡回に当たって欲しい」

「はいっ、承知しましたっ」


 勢いよく立ち上がってコラットはガッツポーズで返事をする。

 たとえ空元気であっても、憧れの紫道に迷惑をかけるわけにはいかない。そんな思いで、コラットは自分の気持ちを奮い立たせる。

 健気に快活を振る舞う彼女の姿を紫道は仰ぎ見た。微かに微笑み、席を立つ。

 待たせていた隊員と共に、紫道はロビーの奥へと歩いて行った。


「よっし、今日もがんばれ、私っ」


 紫道の背中を見届けて、コラットも気合を注入し歩き出す。

 本部の外に止めた階層警備隊員用の蒸気バイク。ヘルメットを被り、それに跨る。

 アクセルを捻り、蒸気機関動力機を蒸かす。轟音と共に白い蒸気が辺りに蔓延する。

 そうして今日もアイオルビスの平和を守るため、コラットはパトロールを開始した。




 黄昏時のアイオルビス各階層を繋ぐ階層路を走りながら、コラットは自身が担当する警備巡回のコースを頭に思い描いていた。


「うーん、まずは雲海層8階からかなぁー。そうだ、せっかくだしユキちゃんのところにも寄ってこーっと」


 行先を定めて、蒸気バイクのアクセルを捻る。バイクは大量の蒸気を噴き出して加速した。

 ほどなくして最初の目的地である雲海層8階、工房『7人の薄汚い小人とすてきな女王様』の前までやって来る。

 工房の前にはあたかも妖精と見紛うほどに美しく端整な横顔の、優雅にパラソル付きテーブルを広げ午後のティータイムを嗜むスノウ・ホワイトブラックが居た。


「こんちゃーっす、ユキちゃんっ」

「あれれ、コラットなの?」


 手を振りながらスノウの近くまでやってくると、コラットは蒸気バイクを停止させた。

 絶賛バカンス中だったスノウもコラットに気が付くと瞳を丸め、にんまりと微笑む。

 バイクから降りてヘルメットを外すコラット。その際、丸まっていた猫耳をぴこんっと立たせた。


「えへへー、近くまで来たから寄っちゃった」

「そっかそっか、コラットは猫だけどいい子だね。褒めてあげるの」


 そう云ってスノウはコラットの頭を優しく撫でた。

 彼女の愛撫がくすぐったいのか、身体を微かに震わせながらコラットは甘えるように頭を揺らす。


「ユキちゃん、お店の外でなにしてるの?」

「ティータイムだよ、スノウはこうして天気のいい日はお外で紅茶を飲むのが大好きなの」


 両手を開いて、スノウはご自慢のティーセットを紹介する。

 目の前に広げられた結晶製のお茶会の道具一式が、アイオルビスに生まれ育ってきたコラットには物珍しくきらきらと輝く宝石のように思えた。喫茶店ジェミニにすら、ここまで立派な道具は揃っていない。


「わぁー、おっしゃれー。やっぱハモニカ人の女の人って違うなー」

「ねぇねぇ、コラットも一緒にどう?」


 こなれた手際でスノウは空いていたカップに紅茶を注ぐ。赤茶色の液体から上がる湯気はまるで、アイオルビスを彩る黄昏の蒸気に似ていた。

 じゅるりと口内に分泌された涎を啜り、コラットは瞳をぱちくりさせた。


「いいの? ありがとうユキちゃんっ。それじゃあ、ちょっとだけー」

「ずっとスノウのところに居てくれてもいいんだよ。コラットのことはスノウが独り占めしちゃうの」

「あはは、でも一応仕事中だしなぁー」


 他愛ない言葉を交え、ふたりきりのお茶会が催される。

 テーブルに広げられた紅茶とお茶菓子。菓子のどれもが、スノウの得意とする林檎を使用したパイやケーキなどで甘酸っぱい芳醇な香りを辺り一面に放っていた。


「ユキちゃんの作る林檎料理ってどれもおいしいんだよねぇー、中でもこのアップルパイ!」

「林檎はクオンの大好物だったの。だからスノウ、頑張って料理を覚えたのよ」

「クオン?」


 昼間にしこたまナギのお弁当を喰らっていても、コラットの胃袋は底知らずにアップルパイを受け入れて行く。ふと傍らのスノウが発した名前は、コラットの記憶にはない人物の名だった。


「クオンはスノウの一番お気に入りのわんこなの」

「へぇー、ユキちゃんペット飼ってるんだぁ。私も観てみたいなぁ」

「帰って来たよ、ほらあそこ」


 透き通るほどに白い指先でスノウは路地の先を指し示す。それに釣られるようにお菓子を頬張るコラットも頬を丸く膨らませながら視線を向けた。

 赤黒いローブを纏った少女。肩まで伸びた金色の髪を揺らし、狼の耳を彷彿とさせる獣耳を立てている。

 獣鬼人の血を引くコラットはすぐに、少女が己と同じ血を引く者であることに気が付いた。


「おや、客か。ずいぶん可愛らしいじゃないか」


 黒緋の少女は工房前に陣取っていたふたりを見るや、なんとも似つかわしくない淡々とした口ぶりで云い放った。

 近くで見ると少女の姿は鉄工人の持つ特徴も含んでいることが分かる。なによりその雰囲気が、コラットの友人である鉄工人の少女アカシャのものと似ていたのが一番の理由だった。


「あ、お邪魔してます。……初めまして、ですよね?」

「そうだな、初めましてだ。まさかこのじゃじゃ馬姫に私以外の友人が居るとは思いもしなかったよ」

「おかえりなさいなの、クオン」


 クオン。その名を訊いて、コラットは瞼をぱちくりと閉じたり開いたりした。

 この少女がスノウの話していたわんこ、クオンなのか。確かにわんこのような耳が頭から生えてはいるが。


「どうかしたか?」

「い、いえ。その、ユキちゃんから訊いてた名前の人と、だいぶ雰囲気違うなーって。えへへ、すみません」

「また何か余計なことを云ったのかスノウ」


 呆れた様子でクオンはスノウを睨み付ける。

 対するスノウは能天気にぽかんとした表情でわざとらしく首を傾げていた。


「スノウはクオンはスノウのわんこだよって云っただけなの」

「私はお前の犬になった覚えはない」


 溜息をつきながら、クオンはふたりの間に空いていた席へと座る。

 そして勝手にスノウのティーセットを使い、カップに紅茶を注いでちいさく一口だけ啜った。


「リム・リンガルム・クオンだ、昨日からここで世話になっている。キミは?」

「あ、私、階層警備隊の見習い隊員をしてるコラットって云いますっ」


 正真正銘の軍人であるリムの放つ気迫に、いつもの癖でとっさに敬礼してしまうコラット。

 その挙動にリムは瞳を丸くさせ、後からそれに気付いたコラットは照れ隠すように笑ってごまかした。


「警備隊……。そうか、キミは確か昨日の……」

「はい? あの、どこかでお会いしましたっけ? ……ああっ、もしかしてっ」


 大袈裟に反応して、コラットは立ち上がった。

 先日の、アイオルビス高速路でチャトラが制限速度をぶっちぎるスピードで輸送していた人物。

 紅のローブを纏ったその姿は、今でもコラットの目に焼き付いている。

 渦中の人物に酷似した少女が、今まさに目の前でこちらを見ながら紅茶を嗜んでいた。


「縁とは奇妙なものだな、そのまさかだ」

「チャトラの運転する蒸気バイクの後ろに乗ってたの、リムさんだったんですか!?」


 あまりにもさりげない再会。想定外にも程がある。

 確かチャトラが受け持っていた仕事は、要人の輸送。それはこのアイオルビスにとって、極めて重要な人物を乗せていたと云うことになる。つまり目の前の少女は、階層警備隊見習いの身であるコラットなどには想像も及ばないほど、位の高い存在の可能性があった。

 そう考えた矢先、自身の発言はすべて査問会行き待ったなしの大失言になってしまう恐れもある。コラットは途端に体をぷるぷると震わせ慄いた。


「あわっ、あわわわわわわわわっ。ず、ずびばぜんっ。私、全然気が付かなくてっ。……あれ、と云うことはリムさんと友達って云うユキちゃんはひょっとして、ジオ・ハモニカのお姫様? ……あ、あわわわっ」


 慌てふためきながら、コラットはリムとスノウのふたりにぺこぺこと地面にひれ伏しながら頭を下げた。

 蒸気省の直属である階層警備隊は云うなればルチア・アクシス世界を統括する円環奏府お膝元の組織だ。そんな組織の末端が、よもやハモニカ人の貴族やそれの関係者に失礼を働いたとなった暁には正真正銘の大問題である。

 涙目で額を汚すコラットを、リムとスノウは呆気にとられて眺めていた。

 すると突然、スノウは獲物を見つけた夢魔の如く妖艶に舌を覗かせ唇を濡らす。


「あのね、訊いてコラット。スノウはコラットのこと大好きだし、クオンともきっとすぐお友達になれるの」

「で、でも私、知らぬ存ぜぬとは云え、おふたりに失礼なことをっ」

「平気よ」


 ひれ伏したままのコレットの頭を、スノウは土に膝をついて優しく抱きしめた。

 ふたりの様子を傍観しているリムは小声で「始まった」と溜息と同時にぼやき、ひとりアップルパイを口に放る。

 リムの憂鬱などつゆ知らずスノウは顔を上げるコラットの頬を両手で包み込み、あらゆる人々を魅了してきた魔性のサファイアブルーの瞳で見つめた。


「だって、コラットはスノウの大切な玩具(おともだち)だもの」

「ゆ、ユキちゃぁぁぁんっ」


 息の根を止める必殺の一言だった。

 これにより完全に陥落したコラットの心は、スノウの甘く温かい胸の内へと吸い込まれていく。

 ひしっとスノウの華奢な身体に抱きつき、コラットは涙目ですりすりした。

 感涙している猫耳少女の頭を撫で、スノウの口許は邪悪な三日月を作り出す。

 これこそが、スノウ・ホワイトブラックと云う女の――すべてを統べるべくして生まれた彼女の持つ力であった。

 理屈もへったくれも、種も仕掛けもありはしない。彼女は生まれ持った空前絶後の美貌と、森羅万象を包み込む抱擁力を武器に、内に秘めた劣悪な欲望を満たすため、他者の心を支配し生きてきたのである。

 かつて一時は呑み込まれかけたリムも、彼女の危険性を十二分に熟知していた。そんなリムですら恐れるスノウの力に、何の抵抗力も持たないコラットが赤子の手を捻る以上にいとも容易く堕ちてしまうのも無理はない。

 これでこの純粋で活発な猫耳少女も骨となり皮となるまで、生涯スノウの退屈を紛らわすための道具とされてしまうのだろう。哀れむ眼差しで傍らの抱き合う少女たちを見つめるリムは、心の底から同情せずにはいられなかった。

 コラットは落ち着きを取り戻し、3人の少女たちによるティータイムが工房の軒先で再開する。


「チャトラはキミの友人だったのか、あれはきっと苦労するだろう色々と」

「そうなんです、私が何度注意してもルールは違反するし、話は訊かないしで」

「スノウとはどう云った経緯で?」

「あーたん、友達がこの工房に住んでて。綺麗なハモニカ人のお姉さんが突然やってきたって訊いて。それで遊びに来たときにご馳走してもらったアップルパイが美味しくて、それ以来時々こうしてお世話になってます。えへへ」

「コラットは猫ちゃんだけど、スノウと遊んでくれるからお友達になったの」


 ぽかぽかとした午後の陽気が、談笑する彼女たちを照らす。

 警備巡回の途中だったことなど当に忘れてしまうかのような楽しい時間に、コラットは夢心地だった。

 ――時間?


「あっ、やばっ。私、警備巡回の仕事の途中だった!」

 気付けば時刻はお茶会を始めて1時間近くが経過していた。

「すみませんっ、そろそろ私次の見回りにいかないと」

「えー、もう行っちゃうの? スノウ、つまんなーい」

「ごめんね、ユキちゃん」


 眉尻を下げて、申し訳なさそうな表情でコラットは立ち上がる。

 冷静さを欠かさない抑揚でリムは不満をたれるスノウに割り込んで、掲げた掌を左右に揺らした。


「スノウのことは気にするな、引き留めてすまなかったな」

「いえっ、こちらこそ。リムさんとお話出来て良かったですっ。……また、お邪魔しても良いですか?」

「もちろんだとも」

「いつでも会いに来ていいの、歓迎するよ」


 ふたりの金髪の少女はそう云って、笑った。

 それに影響されてコラットも、照れながらはにかむ。


「それじゃ、お邪魔しましたっ」


 元気よく敬礼してコラットは蒸気バイクを発進させた。

 次なる巡回路は、雲海層7階。

 円外部をゆるやかに下降する坂道の階層路から、アイオルビス直下、ヴァーポルム=円環パルログの広大な大地が夕陽を反射し真っ赤に燃えていた。




 アイオルビスの雲海層7階。ここは階層都市であり黄昏の都市とも呼ばれるアイオルビスの玄関口として、最も賑わい栄えている階層だった。

 世界を縦横無尽に駆け廻る大企業、運送会社三毛猫アマゾンのアイオルビス支社や、ヴァーポルム=円環パルログ内において最大の人気を誇るスポーツとして有名な蒸気バイクレースが行われるデジョン・サーキット場、知る人ぞ知る隠れた名店喫茶店ジェミニなどもこの雲海層7階に存在する。

 故に人混みも多く、日々混雑することの多い雲海層7階では階層警備隊が出動する機会も増えるのが自然であった。

 蒸気バイクの公道速度を遵守しながら巡回を続けるコラットの視界に、よく見知った3人の姿が入り込む。


「ゲンさーん、マリアさーん」


 路肩に派手なペイントを施した蒸気バイクを止めてコーヒーを飲んでいた3人組み。

 見るからに頑固一徹と云った顔立ちの蒸気人の老人、黒嶺(くろみね)源次郎(げんじろう)。紅の瞳と漆黒の翼を持つ竜鬼種(ドラゴ)と桃色の髪をした蒸気人の混血種(ハーフ)、マリア・桜庭・キスティル。そして獣鬼人の少年、チャトラ。

 彼ら3人は蒸気バイクをこよなく愛する同好会のメンバーであった。


「コラットじゃねぇか、毎日お勤め御苦労なこったな」


 御年71歳になるゲンさんこと源次郎が、その人生経験の長さを物語る重低音を発して声をあげた。

 3人の前で、コラットは蒸気バイクを止めヘルメットを外した。


「あははっ。ゲンさんこそー、ほんと元気だよねー」

「あたぼうよ。男源次郎、死ぬまで現役の蒸気バイクレーサーを宣言しとるんでな!」

「なっちんがいつも心配してるよー、ゲンさんももう歳なんだから気をつけてよねー」


 孫娘であるナギの名前を出すと威勢の良かった彼は途端に小さくなる。


「あ、ああ。それもそうだな、ナギに迷惑はかけられねぇ。それにまだ何時まで経っても使いもんになんねぇ弟子も残っとるしな」


 源次郎は孫のナギと弟子のキリンジが暮らす鍛冶屋ショート・ピースのオーナー兼職人でもあった。


「でも、元気じゃないゲンさんの姿を見たらナギちゃんもきっと悲しむんじゃないかしら」


 おっとりとした口調で修道衣を着た方舟教団所属のシスター、マリアが云う。

 彼女は人類生存圏内(エウゴ)において最も信仰を集める宗教機関、方舟教団――別名カルネアの使徒とも呼ばれる組織のアイオルビス聖堂に勤めるシスターのひとりだった。


「うーん、それもそっか。マリアさんの云うことも一理あるかも」

「なあに、ナギには心配かけねぇ程度にやりゃあ良いだけの事よ」


 好々爺然とした態度で、源次郎はかっかと笑う。

 どれだけ歳を重ねても変わらないその様子に、コラットとマリアは顔を見合わせて苦笑した。


「……さぁて、そ・れ・よ・り・もっ!」


 唐突に、コラットはチャトラの方へと振り向く。

 壁に寄りかかったまま目を瞑る獣鬼種の少年、チャトラは自身に投げかけられたコラットの威圧に物ともせず、毛先の一本も微動だにしなかった。


「チャトラぁ、昨日のこと忘れてないでしょうねぇ?」

「……なんのことだ」

「んにゃっ!?」


 元来、口数の少ないチャトラは必要最低限の言葉のみでもって返答する。冗談や回りくどい言い回しを苦手とする彼の言葉は常に本音でありストレートだった。それ故に、彼は先日の要人輸送の際に速度制限を軽々ぶちぬくスピードで爆走した事案をこれっぽっちも気にしていないのだった。

 拳を握りしめ、猫耳を覆う毛を逆立たせながら、募らせた怒りを必死に堪えコラットはゆっくり口を開く。


「リムさんを後ろに乗せて高速路を制限速度オーバーで走ってたでしょー。あれだけ止まれって警告しても止まらないし。私さっきリムさんに会ってちゃんと話訊いたんだからねっ。いい加減にしないと、こんな注意だけじゃ済まなくなっちゃうんだよ?」


 口酸っぱくコラットは警備隊として真剣な面持ちで厳重注意を促す。

 それでもチャトラは訊いてか訊かずか、不機嫌そうな苦い表情で細く切れ長の眼を開いた。


「……お前には関係ないだろう」

「にゃにゃっ、にゃにおぉうっっ!?」


 彼の放った一言は、コラットの感情を爆発させるのに十分過ぎるほど有効だった。

 唇をぎりりと噛み締め、憎き仇と対峙したかのようにコラットはチャトラを睨む。


「こっちは何時も心配してるから云ってるのにぃ、それをアンタって奴はぁ」

「……頼んだ覚えはない」

「――ばかっ、まぬけっ、茶色縞々のけむくじゃらぁぁっ!!」

「こらこら落ち着けコラット。ったく、チャトラも少しは言葉を選ばんか」


 今にも飛びかかりかねない勢いのコラットを源次郎が必死になだめる。

 緊迫した様子の両者をマリアもおろおろとしながら眺めていた。


「ううぅぅ、本当にもう知らないんだからっ」

「落ち着くんだ。こいつには後で俺からもきつくお灸をすえてやる。それでひとつ、な」

「ゲンさん。……うん、ごめんなさい」


 固く結んだ拳を解いて、コラットは俯き答える。

 あいも変わらずチャトラは無言でそっぽを向いていた。


「ねえコラットちゃん、お仕事の方は順調?」


 荒んだ空気を変えようと、マリアは微笑みながらコラットに問いかける。

 潤んだ目元を腕で拭って、無理矢理にでもいつもの調子に戻ろうとコラットは破顔して頷いた。


「機関技術学校の授業と階層警備隊の任務両立も大変だろうに。紫道はしっかりとやっとるか?」

「はい。紫道さんも忙しいのに見習い隊員である私なんかのために合間を縫ってお世話してくれるし、ちょっと怖かったり厳しい時もあるけど。でもそんな紫道さんのこと、私凄い尊敬しているんですっ」


 いきいきとした口調で、コラットは断言する。

 それを訊いて源次郎は、自分のことのように誇らしげに頷いていた。

 源次郎と紫道もかつては、只ならぬ因縁を持つライバル同士と云える仲であった。

 無論それは犯罪者と警備隊と云う間柄などではなく、蒸気バイクを愛する者同士の意地とプライドを賭け、しのぎを削り合った戦友として。

 12年前の楼刻暦1655年にアイオルビスで開催された蒸気バイクレースの大会で20年間連続優勝を果たしていたグランドチャンピオンの黒嶺源次郎と、当時彗星の如く現れた新進気鋭の天才蒸気バイク乗り火埜蔵紫道。この年のチャンピオンを決める最終レース、源次郎と紫道ふたりの一騎打ちとなったレースは、後に数多の蒸気バイク乗りたちに伝説として語り継がれるほどの白熱した激戦だった。


「今日もシルバー・ファントムから予告状が届いたとか、リインカーネーションの件でどうたらーってあっちこっちに動き回ってて……あっ」


 つい2週間ほど前に、アカシャに己が口の軽さを注意されたことを思い出す。

 咄嗟に口を塞いだ時には既に遅く、源次郎とマリアのふたりは知らん顔でごまかしていた。


「またシルバー・ファントムか。奴も話題に事欠かない男だな」

「リインカーネーションって、確かルチア・アクシス最大の巨大犯罪グループの名称でしたよね」

「あ、あのふたりともっ。今の話は訊かなかったことに……」


 自身の招いた損失ながら、狼狽えて両者に懇願するコラットの姿に源次郎とマリアはくつくつと含み笑う。

 ただひとり。チャトラだけは無言のままであったが、居心地悪そうにそそくさと愛用の蒸気バイクに跨って挨拶を交えることもなく走り去ってしまった。


「……なによ、馬鹿チャトラ」


 先ほどの騒ぎもあったので、コラットは不服な表情で唇を尖らせる。


「放っておけコラット。さて、それじゃあ俺たちもそろそろもうひとっ走りしてくるか」

「そうですね」


 ヘルメットを被り直し、ふたりも蒸気バイクへと跨った。


「そんじゃ、くじけず頑張れよ若人!」

「またね、コラットちゃん」


 そう云ってふたりもチャトラの後を追うようにアクセルを蒸かして走って行った。




 コラットが本日のパトロールを終える頃にはマルエ=セレニタティスの放つ光も消え、辺りはすっかり暗くなっていた。


「やぁー結構遅くなっちゃったなぁ。ユキちゃんとこに寄ってお菓子はご馳走になったし、リムさんにも会えたし。ゲンさんとマリアさんも元気そうで良かったぁ。チャトラは……」


 今日起きた出来事を振り返り、家路を歩いていた足を止める。


 ――……お前には関係ないだろう。


 頭の中に響く、チャトラの声。

 不思議と胸に鋭い牙が立てられたかのように、ちくりと痛んだ。


「ふんっ、……ばぁか」


 虚空に向かってちいさく罵声を飛ばす。

 見上げると、折り重なった階層プレートの合間から蒸気で薄く濁った夜空が見えた。

 刹那、その隙間を煌めく銀色のマントが横切る。


「あっ」


 声を上げたコラットに気が付いた、一筋の銀星。ふたりの視線が交錯する。

 派手な装飾が施された仮面で目許を隠したそれはニヤッと口許を歪ませると、そのまま複雑に絡み合った歯車仕掛けの街並へと消えていった。

 ぽかんと口を開けたまま、コラットは蒼然としてその場に立ち竦んでいた。


「シルバー……ファントム」


 次の瞬間、階層警備隊の鳴らすけたたましいサイレンが夜のアイオルビスに響き渡った。



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