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Red Rim 黒緋の乙女と円環世界  作者: 32➡1
黒緋の乙女編
6/41

第3環 翔破の円環節65日目①



 午前中の授業終了を告げるベルが鳴った。


「んー、やっと終わったぁー」


 気の抜けた声でコラットが伸びをする。

 僕もノートをしまって、朝のうちに買っておいた昼食を取り出す。

 するとそれを見計らったかのように隣の席に座っていたアカシャが騒々しく立ち上がった。


「それじゃあ正宗、ナギ、コラット! 中庭に集合よ!」


 机の上に片足を乗せ、アカシャは啖呵を切るようなポーズで言い放った。


「先生に見つかったら怒られるぞ」


 呆れながら僕はつっこむ。が、アカシャは気にも留めず至って御行儀よくスカートを翻し優等生然とした態度で教室を出て行ってしまった。

 まったく、唯我独尊にも程があるって。


「そっか。もうお昼休みだったね」


 のほほんとした口調でナギが隣までやってくる。

 その手には彼女お手製のお弁当が可愛らしい布に包まれて置かれていた。


「わーい、ごっはんーごっはんーっ」


 先ほどまでグロッキーだったコラットと云えば、すでに活き活きと身体を弾ませて頭からはみ出た猫耳をぴこぴこと揺らしていた。

 ふたりを待たせるのも悪かったので、僕も早々に準備を済ませる。

 窓の外、アイオルビス雲海層9階にある機関技術学校の教室から見える広々とした中庭には、休み時間を過ごす生徒たちの姿がちらほらと増え始めていた。




 樹木が茂り、日陰となっているスペースで僕ら4人は円を組むようにして座り込み、各々が持ち寄った昼食を分け合って食べていた。

 中でもナギが毎日作って来ているお弁当は人気メニューだ。主にそれらはコラットによって大量に消費されてしまうのが常だが。


「それでねー、チャトラったら私がなんど止めてもぜんっっっ……ぜん、止まってくれないんだもん」


 今日のコラットは先日帰ってきたばかりのチャトラと早速一悶着あったらしく、何時にも増してハイペースに用意された食材を平らげて行く。

 ナギは彼女がいつ喉を詰まらせても大事ないように、コップにお茶を注いでいた。


「いつものことじゃない」

「そーだけどさぁー」


 サンドイッチをちいさな口ではむはむと啄むように食べながら、アカシャが云う。

 確かに、チャトラがコラットや階層警備隊の人たちの云うことを訊いて蒸気バイクを停止させたなんて話を、僕は耳にしたことがない。

 アイオルビスの下層――樹海層出身で、僕らと同い年ながらすでに運送会社三毛猫アマゾンで働いているチャトラは、機関技術学校には通っていなかった。

 だから自然と、学校に通っている僕らはこうして4人で集まることが多くなってしまう。男が僕ひとりだけになってしまうので、少々心細さもあるが、そもそも口数の少ないクールなチャトラはこの場に居たとしても僕の助けにはなってくれることはないだろう。


「チャトラ、元気そうだった?」


 大食いであるコラットがそのほとんどを完食してしまうので、ナギは早くもデザートの入ったタッパーを開きながら問いかける。ちなみに、中身はこれまた彼女お手製の蒸ケーキだ。


「うん、なんかいつもよりすごく張り切ってたような気がするし。でも誰だったんだろー、あの人」

「あの人?」


 ハンカチで口を拭っていたアカシャが気になるワードを見つけたようだ。


「チャトラが後ろの席に乗せてた小さい女の子。あれが前に云ってた要人輸送の人なのかなぁ」

「おんな? 小さいってことは、私と同じ鉄工人かしら」

「あーたんよりは少し大きかったかなー、蒸気人の子供くらいでさー。なんか汚れた赤いローブみたいな服を着てたんだよねー」

「ふーん」


 そこまで訊いて、アカシャは腕組みをしながら何やら唸り始めた。

 僕らがナギの蒸ケーキを順番に回して食べていると、彼女は内緒話があるように僕たちに顔を寄せてにんまり悪い笑みを浮かべた。


「……それってもしかして、チャトラの女だったり」

「「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?」」


 ナギとコラットの女子2名が僕の両側ステレオサウンドで悲鳴をあげた。

 眩暈で倒れそうになるのを必死に堪え、僕はなんとも平和そうなガールズトークを終始訊くことに徹する。


「あ、ああああ、あーたんっ。どうしてそんなこと分かるの?」

「そ、そうだよアカシャちゃん。あの滅多に私たち以外の人と話さないチャトラが」


 教壇に立つ教師のように、アカシャは人差し指を左右に揺らす。


「分かってないわねアンタたち。チャトラも男なのよ」

「僕も男ですけど」

「正宗は黙ってて」


 ……勇気を出して口を挟んでみたら火傷をしてしまった。おかしいな、僕は果たして何か変なことを云っただろうか。

 得意げになって続けるアカシャにナギとコラットも鼻息荒く食い付くようにして話を訊いていた。


「確かチャトラって生粋の獣鬼種だったわよね、獣鬼種って云うのはそもそも人類種や他の鬼人種と違って寿命が30年くらい短いから成長するのも早いのよ。その証拠に、ほれ」


 おもむろに、アカシャは目の前に居るコラットの――胸をわしづかみにした。


「あ、あーたんーー、くすぐったいよぉ」

「獣鬼種の血が半分混じってるアンタだって、私たちと同い年だってのにこんなに大きく成長しきってるじゃないの」

「な、なるほど」


 思わず僕も頷いてしまう。

 珍しくアカシャの適当なこじ付けが理に適っている。

 視界の中で淫らに揺らされるふたつの魅惑の果実。ナギは真っ赤になって両手で顔を塞ぎこんでしまった。

 その壮大な光景と、アカシャの神がかった仮説に、僕は思わず生唾を呑み込む。


「……なに興奮してんのよ」

「へっ」


 胸から手を離したアカシャが、上目使いで僕を睨み付けていた。

 まるでトイレに這っているコオロギみたいな虫を見つけたような時の目だった。


「変態」

「ち、ちがうよ」


 そう、これは珍しく、本当に珍しくアカシャの言葉に感銘を受けただけのことで。

 しいて云うなら、年頃の男子学生特有の持病発作みたいなもので。

 考えうる限りの言い訳をあれこれ思案して、あたふたとなっている僕をコラットとナギまでもが可愛そうな目で見つめていた。


「正宗はそんな人じゃないって、私思ってたのになぁー」

「チャトラはこういう時、くだらないって云ってどっかに行っちゃうよね」


 そ、そんな。

 ふたりにまで誤解された僕に、もはや居場所など何処にもなかった。

 やっぱり僕は余計なことをするべきじゃない。そんな器、最初から僕にはなかったんだ。

 いつしか僕はみんなから離れ、体育座りで石のように流れゆく時間に身を任せることしか出来なくなっていた。


「あははっ。おぉい正宗ぇー、冗談だってばぁー」

「ちょっとみんなでからかい過ぎちゃったかな……」

「いいのよ、あんな根暗放っておきましょ」


 かくして僕抜きで彼女たちは楽しい午後の一時を満喫していた。

 でも本当に、チャトラが2週間もかけてアイオルビスまで連れてきた女の子って云うのは、誰なのだろうか。わざわざ遠く離れた雪と結晶の国ジオ・ハモニカからやってきた、赤いローブの、少女。

 もしかして、ハモニカ人だろうか。


「――あ、やばっ。もうこんな時間だぁ。ごめーん、私そろそろ階層警備隊の仕事に行かなくちゃ」


 後ろの方でコラットの声が聴こえた。

 顔を上げるともうすでにお昼の食事は片付いており、コラットは帰り支度を始めている。


「じゃあ、また明日ねコラットちゃん」

「あんま張り切り過ぎて空回りするんじゃないわよ。ほら正宗、いつまでうじうじしてんのこのダンゴ虫っ!」


 ナギとアカシャがコラットを見送っている。

 僕らは午後の授業が少し残っているので、警備隊の仕事があるコラットとは今日はここで別れだ。

 立ち上がって、ズボンの裾を払う。


「気を付けて。……そ、その。さっきはごめん」

「あはは、正宗も男の子なんでしょー? そんなこといちいち気にすんなっ。それじゃみんな、またねーっ」


 元気にそう云って、コラットは僕の腕にぽんっとタッチすると持て余した体力で駆けて行った。

 踊るように去っていく彼女の後ろ姿が、ちょっとだけ羨ましく思えた。




 放課後。僕とアカシャとナギの3人は、帰りに雲海層6階にあるナギの家に寄って行くことにした。

 夕焼けの海に沈んだ蒸気の街を、3人並んで歩く。

 別に意識したわけじゃないけど、この編成だと僕は決まってふたりの真ん中へと送られてしまうのが定例となっていた。


「昨日はナギの家に泊めてもらっちゃったからね、荷物を取りに行かなきゃいけないのよ」

「ナギの家ってことは、鍛冶屋ショート・ピースに?」


 右側をちまちまと歩くアカシャ。こうして並んで歩くと、彼女は本当に幼い少女くらいの身長しかなかった。多分それを云ったらふくらはぎとか、脛とか下段諸々を蹴られるんだろうけど。


「アカシャちゃんのパジャマ、可愛いんだよ。ちいさい子が着るような感じの、もこもこーってしたやつでね。普段のしっかり者なアカシャちゃんも好きだけど、あっちの可愛いアカシャちゃんも好きだなぁ」


 左側で肩を並ばせるナギは平然とそんなことを云ってのけた。いやはや、人柄とは凄まじいもので今の発言が僕だったらまず間違いなく急所を一撃必殺されてもおかしくはない。

 それでもアカシャはナギの言葉にはいちいちつっかかるはずもなく、自然と会話が成り立ってしまうのだから驚きだった。


「でも、アカシャのパジャマは僕も知ってるけどね」

「なっ、なんでアンタが知ってんのよ!?」


 しまった、どうやら余計な言葉を云ってしまったらしい。

 顔に熱を孕ませたアカシャが僕の横っ腹をグーで殴って来る。うぅっ、これは予想以上に痛い。


「そっか、正宗とアカシャちゃん幼馴染みだったもんね。なんかそういうのいいなー、私ちいさい時はアイオルビスに住んでなかったから」

「機関技術学校に入学するために、こっちに来たんだっけ?」

「そうなの」


 ナギの住んでいる鍛冶屋ショート・ピースはコンコルディア協会の認可を受けていない個人経営店のちいさな工房だった。

 おじいさんの黒嶺源次郎さんが昔から営んでいたお店で、いわゆる下町の修理屋さんってところらしい。

 源次郎さんはかつて蒸気バイクのサーキットで優勝し、チャンピオンとなった経歴も持っている元気なおじいさんで、今の歳になってもチャトラとはまるでライバルのような関係を築いている。

 その孫娘であるナギ――黒嶺ナギは、ゆくゆくは源次郎さんの跡を継いで、凄腕の職人になるのが夢だと語っていた。


「でも私、蒸気機関の扱いより結晶化技術の方がやりやすいんだよね」

「だったらいっそ、ジオ・ハモニカに留学しちゃった方がいいんじゃないかしら」


 さりげなく、アカシャはそんなことを云った。

 ナギは困ったように笑ってなにも答えない。


「アカシャ」

「……あっ、ごめんなさいナギ。私全然、そんなつもりなくて」


 そう。アカシャに悪気はまったくない。ただ彼女は、そういう考え方をしてしまうだけなんだ。

 友達や家族と離ればなれになってしまうだとか、それと自分の将来を天秤にかける悩みだとか。そんな非効率的な考えを、鉄工人である彼女は持ち出さない。

 でも。それでもアカシャはアカシャなりに、ナギや僕らの気持ちを理解しようと必死に頑張っている。それは他でもない、彼女と一番長く一緒に過ごしてきた僕だから分かることだった。

 だから僕らもアカシャの気持ちを理解しようと思っているし、アカシャの催すドーナツ集会も大好きだった。僕らが間違えそうになった時はアカシャが、そのアカシャが間違えそうになったなら今度は僕らが、彼女のためにしてあげられることをしてあげれば良いんだ。


「ううん、アカシャちゃんの云うことも一理あるよね。どうしよっかなぁ、まだ私フィズさんとフォズさんからドーナツの作り方教わってないし」


 肩にかかる黒髪を揺らして、ナギは笑いながら云った。

 それを訊いて安心したのか、それとも単に神経図太いのか。アカシャはもういつもの得意げな顔に戻って僕の身体から顔を覗かせる。


「それじゃあチャトラとコラットの予定も訊いて、近々またドーナツ集会を開くわよ!」

「うん、賛成っ」


 ふたり揃って中央の僕にぴったり引っ付いて来る。これを役得と呼ぶか天災と呼ぶかは専門家の意見に任せよう。少なくとも今の僕にとっては非常に歩き難いことこの上なかった。




 区間エレベータを乗り継いで雲海層6階までやってくると、ナギの住む鍛冶屋ショート・ピースはもう目と鼻の先だった。

 3人並んだままそちらへ向かっていると、なにやら店先で鍋を掲げた蒸気人のおばさんが喚いている姿が見えた。


「あのねぇあぁた、私は穴の空いたお鍋の修理を頼んだのよ。それをどーしたらお鍋を真っ二つにしちゃうってのか説明してちょーだい!」

「すまねぇ奥さん、俺の技術不足だ。本当に、すまねぇ!」

「謝ってお鍋が直るんならそもそもあぁたたちみたいな鍛冶屋に頼まないわよ!」


 おばさんはぱかっと綺麗に割れた鍋の残骸を振り回して、無精髭を生やした大きな男に文句をぶつけまくっていた。あれは……。


「もう、キリンジってばまたやってる」


 傍らのナギが溜息をついてふたりの間に入っていく。


「ごめんなさいおばさま。お鍋、うちの新しいやつと交換しますので」

「あぁら、ナギちゃん。いやねぇ、私もお鍋ひとつでこんなこと云いたかなかったんだけどねぇ」

「すまねぇ、次はこんなミスはぜったいに……」


 店の中から新品のお鍋を持ってきておばさんに渡すナギの横で、鍛冶屋ショート・ピースの職人見習いであるキリンジが必死に土下座していた。

 ナギから商品を受けとったおばさんはキリンジを一瞥して、


「あぁた、鍛冶屋向いてないんじゃない?」


 と、一言告げては割れた鍋を店先に投げ捨て満足げに帰って行った。

 キリンジはおばさんが路地の端に消えて行くまで、顔を上げることはなかった。


「やっほー、壊し屋さん」

「おいアカシャ。……ど、どうも」


 けらけらと蔑むような笑みで、アカシャがふたりの元へ近付いて行く。それを慌てて僕も追いかける。

 苦笑しながらナギはこちらを振り向いた。

 ようやく立ち上がったキリンジは僕ら3人を見下ろし、深く重たい息を豪快に吐き出した。


「悪ぃなお前ら、恥ずかしいところを見られちまった。ナギもすまねぇ」

「いつものことじゃない」

「うぐっ!!」


 あれ、なんか昼間にも訊いた台詞だな。

 でもそれはアカシャの口からではなく、あのおとなしいナギの口から洩れた台詞だった。


「でもこれはおばさんが怒るのも無理ないわね」


 店先に放って行った鍋の残骸を、アカシャは手に取り呟く。

 改めて確認してみると、穴は綺麗に塞がっているのに鍋は2つに分断されていた。


「最後の最後で手順をミスっちまった。そしたら、こんな騒ぎだ」


 悔しそうに表情を歪めるキリンジ。

 彼は別名、壊し屋キリンジと呼ばれ、このアイオルビスではちょっとした有名人だった。

 ナギの祖父、源次郎さんに弟子入りし職人を目指す彼は、職人として生きて行くには致命的なほどに、手先が不器用な蒸気人だったのである。


「おばさんが云ってたとおり、キリンジは鍛冶屋に向いてないのよ。私自分の荷物取って来るわね」

「うぐぐっ!!」


 お決まりのアカシャ節がキリンジに突き刺さる。流石にこれには僕もナギもフォローのしようがなかった。


「あ、アカシャちゃん手伝うよ」


 あ、ナギも逃げた。

 キリンジは店先にどかっと座り込み、煙草に火を点けて煙を燻らす。

 こう云った時、僕はどうするべきだろうか。

 そもそもどうして、キリンジは鍛冶屋になろうとしたのだろう。自分がこの仕事に向いてないことくらい、彼ならとっくに気付いていると思うのだけれど。


「災難だったね」


 僕は煙を吐き出すキリンジの横に座ってふたりが戻って来るのを待った。

 キリンジは僕らよりもずっと年上のお兄さんだ。不器用で大雑把でがさつな人だけど、そんな彼に僕は少しだけ憧れている。境遇はさておき、僕のような人間とはまるで正反対だから。


「なに、次は失敗しねぇ」

「それ、前にも同じこと云ってたよね」

「ぐぐぐ……」


 煙草をくわえたまま、キリンジは再び塞ぎ込んだ。

 ほどなくして店の奥から、ナギとアカシャがぱたぱたと姿を現す。


「正宗、これ持って」

「え、……おわっ」


 アカシャはおもむろに自分の荷物をまとめた大きな鞄を僕へと放る。

 どうやらこれより僕は荷物持ちとして、8階層の彼女の家までお供させられてしまうらしい。まあ分かってたけどさ。


「ねえキリンジ、おじいちゃん知らない?」


 きょろきょろとナギは店内を見渡す。

 吸い終わった煙草の火を靴でもみ消し、キリンジは立ち上がる。


「師匠なら蒸気バイクのサークル仲間と出かけて行ったぜ」

「そっか、じゃあもうすぐ帰ってくるかな。お鍋のこと、伝えないと」


 ナギが呟くと、キリンジの大きな身体はびくっと小さく震えた。

 たぶん、彼がこの世でもっとも恐れる人物が他ならぬ源次郎さんだった。


「それじゃ私たちはそろそろお暇しましょ。ナギ、キリンジ、世話になったわね。行くわよ、正宗」

「あ、うん。それじゃお邪魔しました」


 相変わらずアカシャはひとりで決めてはとっとこ先に行ってしまう。

 僕もふたりにお辞儀をして、彼女の後を追いかけることにした。


「アカシャちゃん、正宗、またねー」


 ナギの声が響く。

 僕とアカシャは振り向いて、手を振った。

 先ほどまで黄昏を纏っていたアイオルビスの街並には、既に夜の暗闇が差し掛かっていた。




 暗くなった雲海層8階の路地を、アカシャとふたりで歩く。

 この時間になってもこの雲海層ではそれなりに人通りは多い。

 アカシャは手ぶらで、僕は片手に彼女の重たい荷物を持ちながら、工房『7人の薄汚い小人とすてきな女王様』を目指す。

 半年ほど前まで工房の名前は『7人の小人』だったはずなのだが、突然現れたハモニカ人のお姉さん、スノウさんによって事実上乗っ取られた形になる工房は現在その名でもって営業している。

 スノウさんの事が苦手らしいアカシャは以来、こうして友達の家で外泊することが多くなった気がする。……まあ、それだって無理もないか。アカシャもきっと、心細いんだ。


「ああ、家に帰ったらあの女が居ると思うと憂鬱だわ」

「でも案外、スノウさんも良い人だよ。確かにちょっと……いや、かなり変わってるけど」

「正宗まであの女に洗脳されたわけ? 美人のハモニカ人ってだけで男はすぐこれだもの、あーやだやだ、不純、不埒、汚らわし――」


 こちらを見ながら文句を云って来るアカシャ。前方不注意極まりない彼女が、道を歩く大人とすれ違い様に接触しそうになる。

 僕はとっさに彼女の腕を掴んで、その小さい体をぐっと引き寄せた。


「あ、すみません」

「いえ、こちらこそ」


 相手と軽く会釈して、アカシャとの衝突を避ける。

 ふと目下のアカシャを見ると、なにやら視線を泳がせごにょごにょと口を動かしていた。


「……ご、ごめん、なさい」

「いいよ、慣れてるから」


 僕が掴んでいたアカシャの手を離そうとする。すると彼女は、離れたばかりの僕の手をすぐさま再び掴み直してきた。


「こ、こうしていた方が安全でしょ。私、小さいし」

「そっか。そうだね」


 声色は小さく威勢はそのままの彼女の意見に、僕は頷いて手を繋ぐ。

 こうしてしばらく、工房までの道程を僕らは無言で歩いた。

 円外部の方まで近付き、彼女の住む家が見えてくると繋いでいた掌が解放される。


「アカシャ?」

「だ、大丈夫。もう、平気」


 恥ずかしそうにオレンジ色の髪を指先でいじくりながら、アカシャはそっぽを向いて云った。

 工房からは灯りが漏れている。


「ねえ、正宗」

「ん?」

「――今夜、久しぶりに泊まって行けば?」


 ……。

 …………えーーーーーーーーーー!?

 それってのはつまり、今夜はこの工房で過ごすってことで。

 いやでも、この工房にはアカシャ以外にも彼女のお兄さんや、たくさんの鉄工人のおじさんたちも住んでいるわけで。そこには今、スノウさんも居て。

 あ、それはそれで楽しそうだなぁ。どうしよう、今日は母さんになにも伝えてないし……。

 僕が考えあぐねていると、アカシャはくすくす笑ってこちらを見ていた。


「馬鹿、冗談だってば。……うん、大丈夫。じゃあ、またね」


 健気にアカシャは笑って……意を決したようにずんずんと進んでは、扉へと手をかけた。

 一呼吸おいて、彼女は扉を開く。


「とりゃぁぁぁ、ただいまぁぁぁぁっ…………えっ?」


 工房の玄関先で、アカシャは固まった。

 僕は硬直する彼女の後ろからそっと中を覗いてみた。


「あ、おかえりなさいなの」

「おや、もうおやつの時間かのぉ」

「アカシャ、サン。オカエリ、ナサイマシ。オヤカタ、オヤツハサッキ、タベタデショ」

「ごらぁ糞ガキ、今何時だと思ってんださっさと入れ!」

「薬……薬を……夢の、世界にっ」

「わし、喋りながら眠れる。ほらこのようにぐごごごご」

「スリーピー、それは枕ではなく私の腰巻です。嗚呼、そんな股間のところに涎まで垂らしてっ」

「…………」

「なんだ、誰かと思ったらアカシャと正宗か。――あーすみませぇん、ボクの妹がお騒がせしてしまってぇ」


 いつも通り、アカシャの愉快な仲間たちが勢揃いしていた。

 しかし、そこにひとりだけ。


「キミがドーピーの妹とそのお友達か、邪魔してるぞ」


 見慣れない、金髪で、犬みたいな耳を生やし、赤い眼をした女の子が、壁に寄りかかりながらこちらを眺めていた。


「ふ、増えてる……」


 気絶するようにアカシャは僕の方へと倒れ込んだ。


「おい、大丈夫か」


 例の女の子が僕らの方に駆け寄ってくる。

 彼女の身に纏うローブは血のように赤黒く染まった――黒緋の衣だった。




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