第1環 翔破の円環節64日目①
インジェニー=円環パルログの首都環都市、結晶星都ジオ・ハモニカを発って7日目。
コンコルディア協会の検閲官である私――リム・リンガルム・クオンと、その私を後ろに乗せて蒸気バイクの規定速度を遥かにぶち抜くスピードで飛ばしている運送会社三毛猫アマゾンのドライバー、獣鬼種の少年チャトラは間も無く目的地であるヴァーポルム=円環パルログ、黄昏の都市アイオルビスの入り口まで差し掛かっていた。
……はずだったが。
「こらーっ、前のバイクー止まりなさーい!! って云うかチャトラでしょーっ。止まれーこらぁ!!」
階層都市であるアイオルビスの中層と結ばれた高速路を爆走する私たちの後ろから、なにやら警備隊らしき制服に身を包んだ猫耳少女が怒鳴り声を上げて迫って来ていた。
彼女はどうもこの獣鬼種の少年とは浅からぬ因縁のある様子だが、果たして。
「おい、本当に大丈夫なんだろうな」
私は振り落とされそうになるのを必死に堪え、決して振り向く素振りも速度を落とす気もない――むしろこの状況下でも加速し続ける猫少年に確認する。
「……予定時刻よりも3日早い、問題あるか」
いや、私はないけど。お前はそれでいいのか。
アイオルビス所轄区域に入って早1時間、あの猫耳少女はそこからずっと追いかけ続けてきている。
しかしなんだ、壮絶なチェイスを続けるふたりが随分と楽しそうにも見えるのは私の気のせいだろうか。
「もーっ、せっかく2週間ぶりに逢えたって云うのにまたこんなのだしぃーっ!! 訊けよ、おいーっ」
「……さっきから後ろの子がなんか云ってるけど」
「いつも通りだ」
聞く耳も答える口も持たないチャトラに、私はこれ以上踏み込まないことにして黙り込んだ。到着早々、厄介事に巻き込まれるのは御免被りたい。
目の前にアイオルビス雲海層7階の入り口が見えた。全13階層で出来たアイオルビスをさらに4つに区分けされた中間に位置する雲海層7階は、この巨大な空中にそびえる蒸気機関都市の玄関口となっている。
疲れ知らずの都市動力部からは絶えず蒸気が噴出され、マルエ=セレニタティスより放たれる光を複雑に屈折させている。常に夕陽の陽炎よろしくゆらめき続けるため、それがアイオルビスは黄昏の都市とも呼ばれる由縁となっていた。
「中で追い掛け回されると面倒だ、振り切るぞ」
「え、……おわっ」
チャトラはここに来て、さらに加速した。後ろの女の子の悲痛な叫びが遠くなっていく。
「うわわ、はっや。……うー、こんの馬鹿チャトラぁーーーーーーーーっ!!」
そして、いつしか彼女の声も姿さえもが遥か後方の彼方に消し飛んで行ってしまった。
私はこの暴走少年を追いかける少女の想いは、いつか報われる日は来るのだろうかと邪推せずにはいられなかった。
アイオルビスの雲海層7階にある喫茶店ジェミニと書かれた店の前で、チャトラは私を下ろした。どうやらここが目的地として伝えられていたらしく、中には協会との仲介役である人物が待っていると云う。
7日間世話になったことを伝えると彼は、
「……まいど、今後とも三毛猫アマゾンをご贔屓に」
と、ぶっきらぼうに云って再び蒸気バイクに跨り走って行った。
私はこの7日間のほとんどを彼のバイクの荷台に座っていたせいでずきずきと痛む尻を摩りながら、店の扉を開いた。
からんからん、と涼しげな音が鳴る。
カウンターの奥から店主と思わしき影が姿を現わす。
「あら、いらっしゃいませ」
「外からのお客様は珍しいですね、どうぞごゆっくり」
……鬼人種、それも結合双生児の、姉妹。
私が云うのも何だが、ジオ・ハモニカではまず目にする機会などない姿の者だ。
彼女たちがこうして笑顔で接客業を営む姿を見て、私はなんとなくアイオルビスと云う街の実態が分かったような気がした。少なくとも、この店の雰囲気は嫌いではなかった。
店内を見渡し、私を呼び付けた担当者を探す。そしてそれは、驚くほど呆気なく見つかった。
「おや、いらっしゃいましたなぁ。いやぁおつかれさんですぅ。ささ、こっちこっち」
まるで店のインテリアかと見紛うほどに巨大な黒猫が、奥の席に座って私を手招いている。
その上胡散臭いくらいにハイテンションだ。よもや誰かと勘違いしているのではあるまいな。それとも新手のキャッチセールスかなにかの類か。
疑いつつも私は彼……? の席へと近付く。
するとそいつはぬうっと立ち上がり、ハモニカ人の子供並みしかない私を悠々と見下ろす形で会釈した。
「わたくし、こういうもんでして……」
巨漢な黒猫が差し出したのは名刺だった。【運送会社三毛猫アマゾン名誉執行委員 いつでもどこでも、アナタのココロに ユビキタス】と書かれている。なんだこの取ってつけたような役職は。それにどっからどこまでが名前なのかすらも分からなかった。
「ユビキタスと申します」
途端に、狂ったようなハイテンションから一転して紳士然たる低く筋の通った声で名乗り上げた。
どうやら彼こそが、コンコルディア協会とアイオルビスを繋いだ仲介役で間違いないらしい。
旧世界の喪失技術の管理と保全を名目に、独自に調査・保護の権限を有した半ば地上げ屋商売をしているコンコルディア協会が、その喪失技術の権利を独占出来なかった数少ない企業、運送会社三毛猫アマゾン。彼らの所有している【エンジン】と呼ばれる喪失技術は、万能原動機とも呼ばれ、この巨大なアイオルビスを形作り今やインジェニーとヴァーポルムを含む人類生存圏内においてもメイン世代駆動技術とされている蒸気機関の完全上位互換だと云われている。その気になればエンジンの技術ひとつで、都市を大地から切り離し上空に浮かび上がらせることすら可能であるらしい。
事実、運送会社三毛猫アマゾンは既存の蒸気バイクでは絶対に為し得ることの不可能な、空を駆ける浮遊式バイク、スカイリヴァーと云う乗り物まで有しているのだ。
かつてこの運送会社と協会は一悶着あったとの話は訊いたことがあるが、現在のところお互いに関与はせず、こうして必要な時は両者が手を取り合うことに話はまとまっているのだから不思議なものである。
「それでリムさん。さっそくですみませんが、例のお話と云うのがですな……」
先方がぎっちりと巨体の肉を詰まらせてソファへと座る。私もその正面へと腰かけた。
無言で対面する私を、異形種特有の紅い瞳がじいっと見つめる。私は彼の言葉を待った。
「実はですな……ここのドーナツって云うお菓子がそれはもう美味くて美味くて! リムさんにも一度その感動を味わって頂きたく想いましてな! こうしてこちらにお招きした次第でございます。ほれほれ、遠慮せずに……ささ、どーぞ」
「はぁ?」
素っ頓狂な声をあげてしまった私に、これまたタイミングよく先ほどの結合姉妹が皿を持ってきては並べ始めていた。
「いやあもうほっぺが落っこちてひとりで歩き出すほどに美味いんですな、堪らんのでわたくしもお先に一口……うん、美味い」
狐色に揚がった輪っか状のお菓子……ドーナツ、と云ったか。をユビキタスは一口でぺろりと平らげた。
何がなにやらと云った様子の私に姉妹の右側が、
「どうぞ、食べてみてください」
続いて左側も……。
「私とお姉ちゃんの自信作なんです、お口に合えば良いですが」
てな具合だったので、まあ郷に入っては郷に従えと云うものでもある。これがユビキタス流のもてなしだとするならば、協会員である私はそれに従わなくてはならない。さっさと要件だけを伝えて済ませて欲しいのが本音だったが。
「……じゃあ、一口だけ」
ナイフとフォークを使い、輪っかを小さく一口大に切断する。
その一片……奇しくもルチア・アクシスを模ったようなその輪っかを、4つに切断したそれはまるで4つの各円環パルログその物のような、それを私は口に放り込んだ。
「あ、……美味い」
「でしょう! いやぁ、リムさんにも分かって貰えてわたくしも嬉し恥ずかし奇奇怪怪ですわ。どはははは」
ユビキタスの豪快な笑い声は耳障りだったが、いかんせん絶妙な甘さと、ふっくらと、そしてかりっともしっとりとした口当たりは、今まで経験したことのない感動があった。
カウンターの向こうで、姉妹がにこにこと微笑んでいる。私は残った3つの欠片も平らげて、グラスに注がれた水を飲み干した。……正直、あとは久方ぶりの煙草が吸えれば何も文句はない。
「そんじゃま、満足して頂けたところで……本題に入りましょうか」
テーブルに肘を付いて、ユビキタスはその細い眼を開く。
……なるほど。このユビキタスと云う獣鬼種、見かけはともかくとしてあのコンコルディア協会と三毛猫アマゾンの間を取り持つだけの器を持っているようだ。
このアイオルビスに来てから僅かな時間で私は、ハモニカ人による権利と地位に塗れたジオ・ハモニカ社会に染まりきった自分の見識の狭さを思い知った。
「リムさんにはここ、アイオルビスで活動を再開したとされるネーヴェ街の亡霊……今では黄昏の亡霊とも呼ばれておりますな。それの早期解決に努めて頂きたい、と云った次第でございます、はい」
「……それは本当に12年前の事件と関連性があるのか」
私は鋭く切り込む。私にとって最も大事なのがそこだった。果たして本当に、今回の食人事件の犯人と、12年前のネーヴェ街の亡霊は同一人物なのか。それが知りたかった。
「確証はありませんな、犯人の姿を目撃した人物もおりませんし。なにしろ亡霊ですから。……しかし」
ユビキタスはそこで一度止めた。おそらく、演出だ。私を乗せる気が満々の、選りすぐりの謳い文句を検索しているに違いない。ジェダのやり口そっくりだ。
彼の、大きな猫顔に視線を注いだまま、私はその言葉の続きを待ち続けた。
「……被害者はどれも、鋭利な爪と牙で以って、食い殺されていたとのことです」
「分かった、善処する」
決まりだった。犯人はあいつに違いない。かつて、私の……獣鬼種であった祖父の身体を使い、祖母と他5人もの被害者を出した、ネーヴェ街の亡霊そのものだ。
「いやはや、ありがたい。リムさんが居ればこのアイオルビスも安泰ですな。どはははははは」
「階層警備隊では解決できないのか」
もう幾つか、私は気になっていた質問をぶつけてみることにした。ここアイオルビスには円環奏府直轄の蒸気省と呼ばれる行政機関が存在する。その蒸気省に属する階層警備隊は、云わば円環奏府の先兵部隊だ。
先ほど私とチャトラを追いかけ回していた猫耳少女も、そのひとりだろう。
「彼らも調査はしとるようですがな、なにぶん上下関係の厳しい奏府直属ゆえ。時間がかかっとるのが現状です。その間にも、無惨に亡霊の餌食となる被害者は増え続けるわけですな」
「そこで、協会か」
コンコルディア協会は基本的に奏府や教団からは独立した位置に居る。世界を3分割した場合に大きく分けられるのがこの協会、奏府、教団の3つだった。まあ、奏府と教団は協会よりはお互いが近い位置に存在しているが漠然と世界の常識ではその様に成り立っている。
「しかし協会の最優先事項はあくまで旧世界の喪失技術確保と歯車協定の監視だ。任務期間中にこれらの事案が発生した場合はそちらを優先することになる。それでも構わないか」
「心得ております、ええ」
にたぁっと大きく口を左右に裂いて、ユビキタスは笑った。
これで、面倒な話はすべて片付いたことになる。あとはアイオルビスで過ごすに当たっての宿と、工房の確保が必要だった。
私は腰にかかった銃、クラヴィスを見つめた。
「そう云えばリムさん、すでに協会認定の工房は目途が立ってるんで?」
「いや、これから探そうと思ってたんだが」
「それなら丁度、ここの真上の雲海層8階に腕のいい鉄工人がやってる工房があるんですな!」
指先をピンと鳴らし、ユビキタスはテーブルに備え付けられていた紙を1枚取って簡単な地図を描いてくれた。工房の名は、7人の小人。初めて訊く名だったが、アイオルビスに精通した彼が云うのなら間違いないだろう。
その地図を受けとり、礼を云った私はユビキタスにここまでの運賃代とドーナツ代を支払った。
巨漢の黒猫は景気良く「まいど! 今後とも三毛猫アマゾンをご贔屓に!」と、ついさっきどこかで訊いたことのある台詞を返してきた。
カウンターに居る姉妹に会釈し、店を出る。
店の奥からはユビキタスが、にやついたままこちらを眺めていた。
アイオルビスの街並は黄昏の都市と呼ばれるその名の通りに、定期的に噴出する蒸気が視界を覆い、きらきらとそこかしこに光が揺蕩う朧を作り出していた。
上下13の階層に分けられたこの広大な蒸気機関都市を移動するのに、住人たちは市販の蒸気バイクが通れる階層通路か、もしくは区間ごとに設けられた蒸気圧式エレベータを使用することになる。都市中央を貫通する中央エレベータはお偉いさんか、もしくは緊急時に限ってのみ解放される仕組みとなっている……と、以前に目を通した資料には記載されていた。
検閲官と云う権限を使用すれば、私もこのお偉いさん各位の仲間入りを果たせるのだろうが、ひとつ上の階層に行くだけなら徒歩で区間エレベータを使用する方が手っ取り早い。なにより後々細かい関係書類をチェックして一枚一枚にサインをする行為が私は苦手だった。
剥き出しの骨組みで建設されたエレベータの前で私は立ち止まった。アイオルビスに住む人間にとってみれば無くてはならない生活の支柱。それは一日中、休むこともなく上へ下へと行ったり来たりを繰り返す機械仕掛けの箱型運転手だ。
街中の至るところにこの箱型運転手は存在するが、そのどれもが日夜忙しなく駆動し続けているのでこうして運転手の到着を待つことも多々あるのだろう。
気付けば私の後ろにはエレベータの順番を待つ人たちの列が形成されていた。
手先が器用で背の低い鉄工人、最も一般的な人類種として扱われる蒸気人、獣人間である獣鬼種や翼を持つ竜鬼種……それに漆黒の身体を持ち両性具有である暗鬼種など多様なバリエーションを持つ異業種の総称、鬼人種。
鉄工人と蒸気人、ここにハモニカ人を足した総称を人類種と呼び、この人類種と鬼人種の混血を人鬼種と呼ぶ。
ジオ・ハモニカにおいて人類種以外の存在を見かけることは珍しい。鬼人種や人鬼種がまったく居ないと云ったわけではないが、それでも同じ人類種である蒸気人や鉄工人などですら下等種とされるハモニカ人至上主義社会の中で、彼ら異形種はそれらよりもさらに過酷な扱いを強いられる事となる。誰もそんな扱いを受ける場所で好き好んで生活する奴はいないだろう。
だが、このアイオルビスと云う街は違う。いや、きっと誰の目も見えないところではジオ・ハモニカと同じ事が行われているはずだ。そんなのは分かりきっている。
しかし、今こうして私のちいさな背の向こうに順序良く並ぶ彼ら……中には蒸気人の女と鬼人種の男が仲良く談笑している声も聴こえる。
そんな彼らを身近に感じると今までこの依頼があまり乗り気でなかった私は、『まあちょっとくらい頑張ろうかしら』と思わずにはいられなかった。
「まもなク、雲海層8階行き区間エレベータが到着しまス。まもなク、雲海層8階行き区間エレベータが到着しまス」
「うわっ」
突然、目の前に灰色の、鉛の身体を持つ物体が現れてガチャガチャと音を鳴らしながら片言の台詞で以ってエレベータ到着の報せを告げた。
……これは、歯車人?
そうか、ヴァーポルム=円環パルログ内であるアイオルビスには……彼らが居たのか。
「この区間エレベータは雲海層8階行きでス。なオ、駆け込み乗箱は大変危険でス」
歯車で出来た機械男の案内に従って、私と他の乗客たちはぞろぞろとエレベータに乗せられる。
この時間は特に混み合うようで、私は人混みに潰されながらも心細くがたがた揺れる剥き出しの箱から外を眺めた。
「それでハ、出発しまス。大きく揺れますのデ、お気をつけくださイ」
一際大きく、がこんっと震動した後、エレベータは上昇した。
アイオルビスに重なり合った巨大な歯車の隙間から見える7階層の街並。その家々どれもが、徐々に小さくなっていく。
その遠く地平の果てのさらに向こうにぼんやりと、悠然と佇む楼刻の時計塔の像が儚く蹌踉めいていた。