第11環 翔破の円環節69日目④
CHRONUSと共に巨大な歯車を動かした偉大なるJUPITERは、
その姿を楼刻の時計塔と四方の円環パルログへ分け、
そして鉄と銀の世界は廻り始めた。
(方舟教団聖典 3‐24 旧世界の喪失とルチア・アクシスの黎明)
かつて存在し、現在では旧世界と呼ばれている喪失した人類の先文明。
一度は滅びかけた人類が今再びこうして生き長らえているのも、すべてはルチア・アクシスを司る神々によるものだと方舟教団の聖典には記されている。
偉大なるJUPITERがその御身を5つに別ち、楼刻の時計塔――エンブリオ・エクス・ホロロギアと、各円環パルログを守護する神となった。それら五柱をDUX LO-GIAと呼び、以下に其々の名が綴られている。
楼刻の時計塔に坐する天空の釣鐘、CAMPNELLA。
ネクタリス=円環パルログを司る大いなる円環の王、YITH。
アングィス=円環パルログを司る始原にして終末、UVO。
ヴァーポルム=円環パルログを司る黒鉄大公、METALLICA。
インジェニー=円環パルログを司る遍く生命の方舟、DEUSCARNEA。
「――大いなる禍によって滅びた旧世界の人類を、偉大なるユピテルが姿を変えたその美しく巨大な方舟カルネアは遍く生命を包み込み、そうして生き残った選ばれし我らハモニカ人は今日の世界を導くため、カルネアの慈愛と意思を伝え続けるのでございます」
礼拝堂の中心、聖なる夜に差し込む光に抱かれてマリアは宣教する。祈るように両目を閉じ、願うように両手を絡め。静寂に佇むその姿には一種の神々しさが宿っていた。
首筋に添えられたナイフのような、背筋の凍る悍ましい神々しさが。
「……あはっ、神だか船だか知らねーけど大きなお世話だっつーの。ねえ、アンタもそう思うでしょう?」
絵画に描かれた女神のようだったマリアは、その口許を下品に歪めてボクを見た。
邪悪な笑みの背後に映る漆黒の双翼は、淀んだ赤色に塗れた瞳も相俟って文字通り悪魔染みている。
先ほどまで絶対的正義の使者と対峙していたと言うのに一転、お次は飢えた破壊マニアが立ち塞がるってところか。なんとも忙しい一夜となってしまったのは今さらの後悔である。
しかし不可解だ。なぜ今まで表立って動くことのなかった協会が、今夜に限ってこうも派手に立ち塞がるのか。それほどまでに教団は大聖堂襲撃を危険視しているというのだろうか。ならばなおさら、階層警備隊の介入を拒む理由など在りはしない。単純にボクを掴まえることが目的ならば、徹底的に組織という組織を使った物量戦で挑めば済む話なんだ。
つまり方舟教団とコンコルディア協会は……シルバー・ファントムがこの場にこうしてひとりで来ることを望んでいた、と言う事になる。マリアの言葉を借りれば、それこそ大きなお世話だというものだが。
「皮肉だと思わない? アンタみたいに白い肌を持った神の教えを説く者であるべきハモニカ人が、醜い異形種と蒸気人の混血女相手に裁かれるだなんて。さぞ父なるカルネアも嘆いていることでしょうね。それともこんな素敵なショータイムを前にして、お空の上から拍手しているのかしら」
誘惑するように恍惚した仕草で彼女は己の武器を抱き締める。
神を否定する気はない。マリアの存在が罪を犯したボクへの罰だと言うのならそれも甘んじて受けよう。
だが、今はまだ止まるわけにはいかない。それが例え他ならぬ神の意思であろうともだ。
マリアの目の前に座するままのカルネア像。ボクとの距離はおそらく10メートルもない。一瞬の隙を生み出しそれを手に入れ、彼女の弾丸が砕いたステンドグラスの窓から脱出する。まともな戦闘力でボクが協会の回収員に適うわけもない。チャンスは、一度きり。
何者かの意図が、未だ姿を見せていないであろう誰かさんの手がこのシナリオには加わっている。これが果たして罠だとしても覚悟を決めるなら今しかない。立ち止まることなんて許されるわけもない。ボクはシルバー・ファントムなんだ。
「ボクはそうは思わない。ハモニカ人が選ばれし者だとか、キミの姿がどうだとか……そんなものに、意味などない」
既に体力の限界となっている身体を、重たくなっていく四肢を動かし、ボクはマリアとの距離を詰める。
一歩。そしてまた一歩。
足許に衝撃が跳ねた。マリアの持つ銃口から硝煙が揺蕩う。抉られるように床板が爆ぜていた。
「アタシが欲しいのは聖典よりつまらないアンタのお話なんかじゃない。まだお得意の手品があるのでしょう? さっさとそれを見せてみなさいよ。さもないと、次は死んじゃうからね」
裁きを下す無慈悲な黒い筒がボクの顔へと向けられる。冷え切ったマリアの表情からは苛立ちの感情が見て取れた。そうか、きっとそれが彼女の闇だ。
マリアの忠告を聞き流して、なおもボクは前進する。距離は半分にまで迫った。ここからなら、ボクにも勝機はある。
『ちょっとジョニーってば正気? ほんとにやられちゃうわよ!』
「大丈夫だ、ボクにはまだ最後の手が残っている」
屋根の隙間から見下ろしているアンゲルゼの心配そうな声が、ボクの耳元に囁いてくる。
ボクはわざとらしく口許をにやりとして、マリアへと対峙した。
「キミが神の使いだと言うのならきっとそれは正しい。でもキミはまだ幼くて、優しすぎる」
そう言い終るよりも早く、ボクの頬を弾丸が掠めて行った。薄らと真横に裂けた肌から血が流れるのが分かる。耳に付けていた結晶ピアスがその犠牲となり、幸か不幸か、アンゲルゼの声ももう届かない。
そして確信した。今の彼女では決して、ボクのことは撃てない。ボクが迎え撃つその意思を見せない限りは、絶対に。
「ほらね」
両手をあげて、軽く笑う。
唇を噛み締めるマリアの不機嫌そうな表情は、今にも決壊寸前だ。
「なんなんだよテメェは……怖くねぇのか、アタシが!」
怒りとも不安とも取れる、咆哮。文字通り泣き喚く赤ン坊のような、マリア。
幼過ぎる彼女ではまだ、ボクの相手は役不足だった。
「何故、キミを怖がる必要がある」
「だって、アタシは……アタシの身体は」
マリアの背中から生えた両翼が小刻みに揺れる。あの場所なら位置はそう悪くないはずだ。
今夜の風向きは南東に弱く、アンゲルゼとの距離から見てここら辺で良いだろう。大聖堂の建造に奏銀が使用されていないのは幸運だった。あとはボクの言葉で、『いつも通りの反応』が現れれば問題ない。
意を決し、ボクはさいごの魔法を唱えた。
「綺麗じゃないか、まるで天使のようだ」
切り取られた絵画の世界でマリアの時間は停止する。ボクが走り出す頃にはもう、彼女の視界にボクは居ない。在るのは崩れて行く聖域の欠片のみ。アンゲルゼには、あとで謝らないといけないな。
その瞬間ボクらの真上の天井が爆発し、崩壊した聖堂の屋根が瓦礫となって降り注いだ。
視界を埋める高く積もった瓦礫の山脈を前にして、ボクは傷だらけの姿で佇んでいた。その手の中にはしっかりと白金の方舟――カルネア像の御身も在る。いやはや、死ぬかと思った。
あとはこの瓦礫の中から怒り狂ったアンゲルゼを回収して逃げ出すだけだが、いかんせん派手にやり過ぎてしまったので火埜蔵隊長が飛び込んで来る危険がある。可及的速やかにミッションを遂行しなければならない。マリアの安否も心配だが、彼女とて協会の戦士たる回収員だ。ボクとは違って訓練された軍人である彼女ならそう易々とくたばったりするはずもない。今頃は彼女ひとり分のスペースが空いた瓦礫の空間で酷く退屈な時間を過ごしていることだろう。
そんなことを考えながら瓦礫のひとつへと手を伸ばした時、ボクの目許を覆う銀影の仮面が矢庭に弾け飛んだ。
すべての動作が凍りつき、刹那の内に思考が巡る。
……誰だ。マリアなはずがあるわけがない。礼拝堂の建築構造、風向き、ボクのマリアに対する発言の嫉妬で暴発するアンゲルゼの位置、崩れてくる瓦礫の一片それぞれを視野に入れてこの崩壊を計算したのだから。
火埜蔵紫道か。そんな馬鹿な。今の遠距離から放たれた衝撃は銃を使用したものに違いない。このルチア・アクシスにおいてそんなものを所持している存在はたったひとつ、コンコルディア協会の関係者だけだ。
ボクの脳裏に先ほどまであった違和感が蘇る。まるでボク個人を誘き出すような不自然とも言える教団と協会の動向。動くはずのないアイオルビス中央エレベータの駆動。それを成し得る程度の身分を持つ存在。派遣された検閲官。ドーピーが言っていたスノウ・ホワイトブラックの、友人。
「なるほど、これがあの悪名高いシルバー・ファントムの素顔か」
まるで世紀の大事件に偶然居合わせてしまった観光客のように、黒緋の少女はボクの顔を見つめてそう言った。
黒とも赤とも違う、黒緋の衣を纏った少女。肩まで伸びた選ばれし民の金髪。異種との混血を決定付ける獣の耳と紅の瞳。そして再びボクへと向けられる禁じられた力の象徴たる、銃。
「奏銀……ハーモニー・シルバーで加工された仮面。確かにそれなら同じ奏銀で製造された弾丸を弾くことも出来る。その趣味はともかく、良い品だ」
それは何の感情も含まない、ただ有りのままの感想。
この少女の姿をした検閲官はマリアとは違う。ボクは悟った。彼女こそが介入者だと。ボクの描いていたシナリオに勝手に落書きをして狂わせた張本人だと。
そして彼女は間違いなく、何の迷いも無くこのボクを撃てるのだと言うことも。
いや、もはや彼女の目的だとか命の危険だとかそんなことは関係ない。素顔を見られた。だとしたらもうそこに選択肢など存在せず、道はひとつしかなかった。たとえ刺違えようともボクは彼女を――
「待って、お願い!」
おもむろに瓦礫の中からアンゲルゼが飛び出し、ボクと少女の間に割って入った。
まずい、これではボクだけではなくアンゲルゼまでもが。シルバー・ファントムの存在そのものが瓦解してしまう。力も、アンゲルゼも、なにもかもを……失ってしまう。
「なぜ出てきた、その選択は間違いだとキミなら理解出来ただろう!」
「うるさい、貴方は黙ってて!」
「あ、……うん」
アンゲルゼの有無を許さぬ叫びに怯んでしまう。彼女の鉄鋼製である身体は、オーバーヒートした影響で仄かに赤く熱を帯びていた。居た堪れなくなったボクは、言葉を呑み込みそのまま黙り込んだ。
そんな様子を――まるで愉快な喜劇でも観賞するように微笑みながら、目の前の少女は銃口を構えたままボクらを眺めていた。
「マルエ=ヌビウムの件も驚いたが、それ以上に歯車人がハモニカ人のために自我を揺さぶって奏対反応爆発を起こすとはな。どうやらキミたちは本当の意味で、お互いを信頼し合っているようだ」
「貴女の目的はなに? 彼を掴まえること? それとも……殺すこと?」
アンゲルゼの無機質な問いに、少女はそのどちらにも首を真横に振って否定した。
「ひとつ、取り引きをしたいと思ってね。私はどうやら偶然にも世界で初めてキミたちの正体を知ってしまった運のいい人間らしい。だからその口止めとして、キミたちには私の仕事を手伝ってもらいたいんだ」
白々しくも勝手な条件で要求を述べる検閲官の少女。もはやそれはおおよそ取り引きと言うものではなく、完全な威圧による脅迫に違いなかった。
「取り引き相手に銃を向けるのが協会のやり方なのかしら、これじゃあとてもフェアだとは思えないけれど」
皮肉めいた口調ではあったがアンゲルゼの言う通り、この状況は仕組まれたものに違いない。ましてやそれを偶然と言い張る少女には並々ならぬ不信感が付き纏う。正義の体現者や破壊の申し子などとは比べるまでもない、己が敗北する条件をすべて排除し切った上で行われる手段。なんとも単純明快、このボク、シルバー・ファントムが得意とする茶番と同じ原理だった。
だからきっと、次に彼女が口にする言葉がボクにはとても自然なものに思えたのだ。
「フェアである必要はないよ。私にとってキミたちがこのまま捕まろうが力尽きようがそんなことはどうだっていいんだ。世間を賑わすシルバー・ファントムの正体にも、まるで魔法のような手品の種明かしにも興味なんてない。重要なことはただひとつ、キミたちの命運という名の決定権は私が握っているという事実だけ。だから難しいことなんて何もない。私との取り引きに応じるか、否か。キミたちはただ選べばいい」
そう、彼女にとってボクらは……シルバー・ファントムの存在などは最初から視野に入っていない。だからこその、違和感。なんてことだ、ボクとしたことが。このシナリオの主役がシルバー・ファントムなのだと、まさかジョニー・センデルス本人が、そう思い込んでいたからこそ、こんな部外者の介入を許してしまったのだ。ボクは自らの浅はかさを呪わずにはいられなかった。
だからこそ、この舞台の結末は自力で幕を下ろすしかない。そのやり方は、既に明白だ。
「……取り引きの内容を訊かせてほしい」
「ジョニー!?」
アンゲルゼの戸惑いは正しい。誰かの軍門に下ってその支配を受けるなど、シルバー・ファントムには在ってはならないことだ。だがボクだってわけも分からずに単なる観光客相手に商売を奪われるわけにはいかない。退路は無く、手品の種も残っていない。言ってしまえばもう、シルバー・ファントムを演じることすらこの状況では無意味だった。それに今さら、力を得る代償に失った自由など。たとえみっともない姿を晒してでも、ボクはここで終わるわけにはいかないのだから。
台本通りであるはずのボクの答えに、少女はそこでようやく銃を下げた。
「リインカーネーションに関連していると思われるネーヴェ街の亡霊……今では黄昏の亡霊か。私はそいつを追っている。その捜査に、キミも協力してもらいたい」
「怪盗相手に探偵ごっこの手伝いをしろって言うのか。そんなことをボクに頼むために、貴女はわざわざこんな大袈裟な罠を張ったって?」
「それはお互い様だろう。むしろキミの最も得意とするやり方じゃないか、シルバー・ファントム。いや、もうこれから私たちは共犯者となるのだから、ジョニーと呼んだ方がいいか?」
こちらの神経を逆撫でするための言法。なるほど、これには反論の余地もない。圧倒的なまでにボクと彼女には与えられた情報量の差が大きすぎる。ボクはまだ、彼女の名前すら知らないのだから。
だとしても二つ返事で了解することをためらうのは、ボクの往生際の悪さに違いなかった。
「そんなもの、ボクでなくとも火埜蔵隊長にでも協力してもらえば済む話じゃないか」
「無論、彼にも協力は依頼している。だが私はもう二度と奴を逃す気はないんだ、如何に亡霊と言えどもね。だから手駒は多いに越したことはないんだよ。それが優秀な人材ならば尚の事」
不思議な言い回しだった。ボクや火埜蔵隊長を手駒と言い切ってしまうこともそうだが、それに加えて敬意すら感じさせる口調。見ず知らずと言っても良いのに、彼女は実際その眼で、その耳で、その身体全体を使って見極めているかのような。決して交わることのない道だったはずのボクと火埜蔵隊長のふたりを、こうも淡々と手中に収めんとする彼女の力が。ボクにはなんだか、とても羨ましく思えた。
「おかしいか?」
たぶん、どこか表情に出てしまっていたのだろう。笑っていたのか、はたまた悔しがっていたのかはボクには分かる術もないが。
検閲官とはとても思えない表情で疑問符を浮かべる少女に、ボクは再度問うた。
「いや。それは、ボクではないと駄目という意味かな」
「当然、キミでなくては駄目だという意味だ」
最初に現れた時と同じ顔、同じ口調で、少女は肯定する。
だとすればもう、ボクに道は残されてはいなかった。
「分かった、取り引き成立だ」
茶番に茶番を重ねた、あっけない幕引き。心配そうな目でアンゲルゼがボクを見つめる。
「ジョニー、いいの?」
「良いんだ、ありがとうアンゲルゼ。それと、さっきはごめん。キミ以外の女性を、天使だなどと呼んでしまって。もう二度とあんな馬鹿な真似はしないよ」
傷だらけの身体で、愛しのマイエンジェルを抱き締める。冷え切った彼女の身体が、熱くなっていくボクの体温と相反してとても心地良い。
「なんだか毎回な気もするけど……貴方がそう言うのなら」
耳元を擽るアンゲルゼの声。彼女を守るためならボクは、どんな手段を使ってでもシルバー・ファントムを続けなくてはならない。それは力とともに授かった呪いとも呼べるべきもの、だがボクにとっては誇りに違いなかった。
「――ねえ貴女、共犯者なら名前くらい知っていてもいいわよね。私はアンゲルゼ。彼はジョニーよ」
「リム・リンガルム・クオンだ。急げ、愛しの彼氏はもうふらふらだぞ。過激な後輩と表の警備隊の後始末は私がする。キミたちはさっさと裏口の中央エレベータを使って下層に向かうがいいさ」
「……見逃してくれてありがとう、と言うべきなのかしら」
「さてな。私はそもそもキミたちを捕まえにきたわけでも、見逃したわけでもないんだ。じゃあな、またそのうちどっかで会おう」
足音が遠ざかっていく。
コンコルディア協会の検閲官、リム・リンガルム・クオン。
突如襲ってきた睡魔と朦朧とする意識の中、アンゲルゼと少女の声だけがボクの耳にこだましていた。




