河童
タチの国に入った。カスミと呼ばれる内海があり、海からの入江が伸び遠く陸まで及んでいると云う。そこは海人族の漁民の国だ。一行はもうすぐそのカスミの海が見えると云う所に来た。
時はナガツキ。辺りには紅葉が広がっている。ククリは例の如く花を探していた。つとにこの季節が好きなようだ。それは菊が咲くからだ。今も野菊を探していた。
アギバがアスカを連れてスクナの所に来た。
「見回りに行ってきます」あれ以来、猫を殊の外、気にしている。そしてアスカを決して目の届かない所へは行かせない。
スクナが頷いた。
アギバが羽を広げ飛び立った。隣には羽衣を纏ったアスカが一緒だ。しっかりとその手を取っている。スクナの視線がそんな二人を追っていた。
偵察と言いながらも、空の逢瀬を楽しんでいるのだろう。
スクナも飛びたくなった。
「ククリ。俺も行ってくる。後は頼んだぞ」天狗面を付けるとすぐさま飛び発った。
スクナの方は、ククリの事を全く心配していないようだ。狙われているのはククリの方だと云うのに……
花を愛でて機嫌が良かったククリが急に膨れた。
馬上からオコナに話しかけた。
「イカルガ。あなたの美し~い翼が見たいわ」
オコナから翼が生えた。イカルガはククリに対しては特に従順だ。
「ショウキ。後はお願い」
ククリも天馬に跨り空へ舞っていった。
残されたのは、ショウキ、ブトー、ソモン、ミヤキだ。
「今、ヒダルみたいな妖かしに襲われたらどうなるんですかね~」ブトーがそれだけで青ざめた。
「ショウキ殿がいますから、何とかなりますよ」ソモンが言った。
「私一人では、足止めがいい処です」ショウキが応えた。
「天下一の剣士がいますし……」ミヤキがおどけてブトーに近づいた。ミヤキはワタミを抱いていた。
「あんまり近寄らないで下さい。私はあの鏡を持っているのですから」それを見たブトーが慌てて離れていった。
「スクナ様が式を執ったので大丈夫ですよ」そう言って、さらにブトーに近づいて行く。
「ミヤキさん! こっちに来ないで!」ブトーが逃げる。一人で先へと走って行った。
「一人で行くと、ヒダルに憑り付かれますよ~」ミヤキがブトーをからかう。
ブトーの逃げ足が止まった。
四人は和気あいあいと歩みを進めていった。
先に一人で飛んで行ったスクナには、実は訳があった。カツラギと二人だけで話したかったからだ。
(カツラギに訊いておきたい事がある。アギバとアスカの事なんだが、村に戻る手立てはないのか?)
(その事でしたら、もう手立ては考えてあります。今度の旅が終ったら村に一度戻らせます。実は、あの掟は私くしが決めたものなのです。長の時分に女が人に捕まった事がありましたので、それ以来、あの様な掟を創らずに終えなくなりました。そう云う事ですので、私くしからナゴミに話せば、多分聞き入れてくれると思います)
(それなら安心だ。アギバの件は頼んだぞ)
(はい。お任せください)
その時、空からスクナが見つけた。この先の海岸で亀が取り囲まれている。
ククリにそれを知らせると、先に一人でそこへ向かった。
少し離れた所で舞い降りた。
その砂浜は果てしなく続いている様だった。海は凪いでいて波がほとんど無い。海の向こうには対岸が見える。ここがカスミの内海だろう。砂浜は白砂で、到る所に船小屋がある。その後ろには青松が並ぶ。海の色は透き通る碧。白砂青松の美しい景色だ。
スクナは船小屋を伝って、隠れながら亀の所に向かった。
亀を取り囲んでいた者は四匹の子鬼だった。赤、青、黄、緑と彩り鮮やかな鬼だ。こんな鬼は見た事も聞いた事もない。
亀が甲羅に閉じ篭っていた。頭、手、足、尻尾の全てが甲羅の中へ収まっている。おまけにきちんと蓋までされていた。その甲羅を鬼達が、蹴飛ばしたり叩いたりしている。
声が聞こえる所まで近づいた。
赤の子鬼が言った「どうする? トマロ」
青の子鬼が言った「こいつはもうヤト様の供物を食べちゃったからな~ ウテナは?」
黄の子鬼が言った「もうこれくらいでいいんじゃないの? ねえマロヤ」
緑の子鬼が言った「みんながいいと言うならそれでもいいよ。どうだシュロ」
「いや、そう云う訳にはいかないぞ。こいつの生き胆を代わりに抜いていこう」赤のシュロが言った。
甲羅が震えた。
「いや、それなら全部持って行こう。肉は食えるし甲羅は卜に使える」青のトマロが言った。
「おらが悪かったです。お許し下さい」甲羅が震えながら言った
「だめだな! アコヤ! おまえは今度が初めてじゃないだろう。もう赦せない!」赤のシュロが言った。
突然、甲羅から頭が出た。口が鳥の嘴の様になっていた。頭には甲羅の蓋が乗っかっている。こいつは亀でなく河童だ。名をアコヤと言うらしい。
スクナは覚った。
アコヤがヤト神の供物を盗んで食べたのだろう。すると、この子鬼達は神の使いと云う事か。懲罰の為に鬼に化身しているのだろう。鬼にしては色が彩やか過ぎるのも合点がいく……
また甲羅から何かが出てきた。今度は手と足だ。甲羅の蓋に当たる所が肘と膝らしい。
それが伸びたと思ったら、二本足で立ち上がった。
「どうかお見逃しください」すぐにひざまずいた。
スクナは思った。
間違いなく河童だ。もしかしたらクマリセの妻アマゴを知っているかもしれない。これは助けてみる価値がある……
スクナが船小屋の陰から出た。
「ヤト様の使いよ! その河童を私に売らないか?」
四色鬼が一斉にスクナへ振り向いた。
「旅の神楽のスクナと言う」
そしてスクナが懐から袋を取り出し、中から何かを出した。
それは緑色に光る勾玉だった。
「なんだそれは? そんなもんじゃ腹はふくれないぞ」シュロが言った。
「ばか! シュロ! それは玉(翡翠)だぞ!」トマロが慌てて言った。
「それは黄金よりもめずらしい玉に違いありません」ウテナが認めて言った。
「へえ~ それがねえ~」マロヤが初めて見た様子で言った。
「これ一つで供物など山の様に買えるぞ」スクナが言う。
「じゃあ、それで供物を山のように買ってこいよ!」シュロが言った。
「ばか! シュロ! それじゃアコヤが盗んだ分しか遣さないぞ!」トマロが慌てて言った。
「そうよ。後で人に化けて買いに行けばいいわ」ウテナが認めて言った。
「そうだ。そうだ」マロヤも同調して言った。
「解かった。それで手を打とう」シュロが決断した。
「それでは、アコヤをお好きなように。できればここから連れ出して下さい」トマロが指図した。
その時、その隙を突いてアコヤが逃げ出した。
慌てて四色が追いかけて取り囲んだ。
「今、逃げられたら玉が貰えなくなる」シュロが咎める。
「いやだ! いやだ!」アコヤが駄々をこねる。
「おまえはもう食われたと思え」トマロが追い討ちを掛けた。
「勝手に売るなんて、ひどいよ~」
その様子を見ていたスクナが鬼面を前に被った。
スクナが突然、鬼になった。
四色が驚いて、一目散に逃げて行った。
「アコヤ! 俺の言う事が聞けないか?」
アコヤが甲羅に閉じ篭った。
「俺は鬼の力を持った巫だ。今度逃げたら、甲羅ごと捻りつぶすぞ」スクナが留めを刺した。
「もう二度と逃げません! 一生付いていきますから、殺さないで~」震えて言った。
「一生付いてこないでもいいから、一つ頼みを訊いてくれないか?」
丁寧な口調に代わったので、アコヤが首だけ出した。
「はい。おらができる事ならば」
「おまえはアマゴを知っているか?」
アコヤの首が伸びた。ろくろ首のようだ。
「もちろん。アマゴ様はおら達の女王ですから」顔を近づけて言った。
「そこに、案内してくれ」
「けど、海の中だから人では辿り着けませんよ?」
「それなら大丈夫だ」
スクナが河童に代わった。
(クマリセ。アマゴに会いに行くぞ)
(……私は何も言いませんので、全てスクナ様が話して下さい)
(やはり、喧嘩しているのか?)
(…………)
……船小屋の陰では逃げた四色がその様子を覗いていた。
「俺達だって鬼じゃねえか! 畜生!」赤鬼が聞こえないように叫んだ……
「そう云えばトマロ。玉は貰ったっけ?」
「いいや。その前に逃げた」
「畜生~!」
スクナとアコヤが海へ入って行った。
クマリセの体となったスクナはすいすいと泳げた。まるで魚になったと錯覚してしまいそうだ。
ちょっと強く掻くと、たちまちアコヤを追い抜いてしまう。アコヤは必死に泳いでいた。まさかこんなに速く泳げるとは思ってもいなかったようだ。
アコヤがどんどんと底へ向かった。
余裕で後に付いて行くスクナは妙な事に気がついた。
かなり深くまで潜った筈なのに、全く暗闇を感じないのだ。これは海の水が澄んでいると云う理由だけでは考えられない。クマリセの目で見ているからとしか思えなかった。河童の目は少しの光で遠くまで良く見えるのだ。
周りを見ると、そこは海草が生い茂る森だった。中には綺麗な珊瑚もあり、色とりどりの美しい景色だ。
そこで泳ぐ魚も、赤、青、黄といった色とりどりである。
スクナが右手を伸ばした。瑠璃色の鯛が逃げた。それを右手が追うと……するりと伸びた。また魚が逃げる。するともっと伸びた。気づくと右手が体の何倍もの長さになっていた。その代わり、左手と足がその分だけ縮んでいる。
右手がいつの間にか魚を掴んでいた。スクナは魚を放した。河童の体とは妙なものだ。
その内に底まで着いた。前方に河童の集落が見えた。
そこは河童の国だった。
住処は岩をくり抜いたものだ。到る所で宴を開いている。
いつもの事ですとアコヤが言ってきた。
その中でひときわ大きな群集があった。
その中心では蟹が闘っていた。賭け事でもしているのだろう。アコヤがそこに向かいそうになったので、スクナが急かした。
目の前に海中の山が見えてきた。山の頂きは見えない。きっと地上に突き出しているのだろう。
アコヤがそれを察して説明してきた。
「この山は浦の島に立つ宮で、おら達河童の神様が祭られている聖なる山です。地上の頂きは絶えず霞が立っていて見えません。そこからは入口もないそうです。そして、その中に巫女をしている女王のアマゴ様がいます。アマゴ様は、少々年季が経っていますが……乙な姫様です」
山の途中には沢山の洞穴があった。その中のひときわ大きな洞窟に入って行った。
少し進むと、突然水がなくなった。そこは空気に満ちた空間だった。その空間はずっと上まで続いていた。そこから風が流れてくる。地上まで繋がっているようだ。
アコヤがまた説明してきた。
「おら達だって息をしないと生きていけないですから、水を掃って上から空気を送っているんです。これがアマゴ様の水を扱う力です。いちいち地上へ息継ぎをしに行かなくて、助かってます」
スクナが頷いた。水がこの場所に進入しない術を使っているのだろう。スネがクマリセは水を扱う術に長けていると言っていたが、こう云う事であったのだ。
(クマリセ。おまえもこの術を扱えるのか?)
(この程度は造作もない事です)
(少しおまえの事を侮っていた様だ)
(いいえ。私は只の飲んだくれです)
(解かった。そう云う事にしておこう)
アコヤが先へ進んだ。着いた所は、かなり広い場所だった。
奥には雛壇があり、その上に珊瑚の玉座があった。脇に一匹の河童が控えていた。
アコヤがその河童に話しかけた。
「乙な姫様にお目通りをお願いします。客を連れて参りました」
控えの河童が頷くと、脇の潮溜まりへと入って行った。
しばらくすると、その河童が戻ってきた。
その後ろには……大業な格好をした、とても若くは見えない、乙な姫が現れた。
姫が玉座に着いた。
「アマゴ様でいらっしゃいますか?」クマリセの成りのスクナが言った。
姫が頷いた。すると……くすっと笑った。
そして、控えの河童に何か合図した。すぐにその河童は出て行った。
アマゴはじっとスクナを見ていた。
「そなたは何処の河童じゃ?」威厳のある声で言った。
「私は河童ではありません。人の巫でスクナと申します。河童の面の力で今は河童の成りをしているだけでございます。このたびはレイキの力をお借りしたく参りました」
「何の事やらさっぱり解からぬ。どう見ても河童ではないか」
スクナは面を取ろうと思った。
その時、先程の河童が戻ってきた。
手に盃を持って、アマゴに渡した。
「まあ一杯お飲みなさい」とスクナの前へ差し出す。
スクナが結構ですと断って、手を差し出した。
それが……勝手に手が盃を受け取って……一気に飲み干してしまった。
(何をしてるんだ! クマリセ!)
(すみません。懐かしい酒の匂いについ……)
そこでスクナは気を失った。
「乙な姫様! 眠り薬を入れましたね?」アコヤが言った。
「ええそうです。こいつはクマリセでしょうが!」
「いいえ! いいえ! 違います! おらは人が面を付けて河童になったのを見ましたよ~」
「これはクマリセに違いありません! 変な面を被って顔を隠してるつもりらしいが、その体を見間違えるものか! それならその面を取ってみよ!」
それならとアコヤがその面を取ってみた。
それが……ぴったりと貼り付いて取れなかった。
「ふん! こいつを牢へ入れときなさい!」控えの河童に命じた。
……スクナは牢の中で目覚めた。岩をくり抜いた穴に格子がはめ込まれている岩牢だ。
面を取ってみた。すると、異様な臭気に思わず口を抑える。生臭さが立ち込めていた。河童の鼻には臭いと感じないのだ。
柵の外を見た。隅に鳥の卵の殻が散乱している。その脇に鳥の糞が山となっていた。海鳥の巣でも上にあるのか。卵の殻は河童が食べた跡だろう。
その先に河童が一匹寝ていた。人の目でははっきり区別がつかないが、多分、アコヤだと思える。
「おい! アコヤ! 起きろ!」
アコヤが寝ぼけ眼で顔を上げた。
「……スクナ様! すみません。アマゴ様はクマリセ様と勘違いしているようです」
「そうか、それで眠り薬を仕込んだのか。それはあながち間違えではないな。この河童の面にはクマリセがいるのだ。だからクマリセで違いはない」
「ふえ~! クマリセ様だったのですか? 本当に~!」
「こんな事になるのなら、はなからそう言っとけばよかったかな。クマリセは俺の式になった」
「クマリセ様は行方知れずだったのですよ。そんな事になっていたのですか。アマゴ様は大層、夫のクマリセ様を邪魔にしてました。酒ばかり飲んで何もしないと……政は全てアマゴ様がしてました。いなくなって清々したと言ってました。だから戻ってきたと思って、眠らせて牢に入れたんです」
「事情は解かった。それなら人の姿で出直そう」
スクナが鬼面を前に被った。
(スネ、何で助けてくれなかった?)
(おいおい。そうやってすぐに宛てにするな。別に危ない事もなかったじゃないか。アマゴは邪な奴じゃないぞ。今回の事は、おまえが軽率だったんだ。それから、今後の為にも言っておく。俺からは、余程の事でない限り何も言わないぞ。逆に何も言ってこない時は、好きにやったらいい)
(解かった)
(俺やヤスが何も言わなくなった時が……おまえ達が一人前のカタカムナギになった時だ)
スクナは甘えていた事を素直に反省した。
すぐに反省を終え、それより、どのぐらい時間を無駄にしたか気になり、行動に移す。
鬼のスクナが牢の柵に体当たりした。牢を軽々と破った。
さっと鬼面を後ろに戻す。
「アコヤ! アマゴの所に案内してくれ」
アコヤが頷いて先へ進んだ。
「アコヤ? アマゴは、玉は好きか?」
「もちろんです。光物は大好きです」
「それなら良かった」
先程の大広間に来た。
「アコヤ。おまえはここまででいいから、一つ用を頼む。連れが先の海岸で俺の事を探している筈だから、行って無事を知らせてきてくれ。俺の連れは……左目が金色の巫女、天狗、一角の白馬、どれも目立つ者ばかりだから、すぐに判るだろう。頼んだぞ!」
「はい。ひと泳ぎしてきます」アコヤが去って行った。
スクナが大広間に入って行った。
アマゴは玉座にいた。
卵を殻ごと丸飲みした後、殼だけを吐き出した。それを見たスクナは、あの殻の山は全てアマゴの食った跡だと思った。
アマゴがそのスクナの姿に気づいた。人がここまで来れる訳がないと驚いた顔になる。
スクナが警戒される前に話しかけた。
「乙な姫様にお伺いします。私はコシの国のキリン党霊がスクナと申します。この度は乙な姫様に贈り物を携えて参りました」
スクナが懐から緑色の勾玉を取り出した。
アマゴの目の色が変わった。
その輝かせた目で、スクナを前に誘う。
スクナが玉を差し出した。
「まあ~! こんなに大粒の玉は初めて見ました。これを我に?」
「はい。コシのクシイ産の一品です。どうかお納め下さい。その代わり、一つ教えて頂きたい事がございます」
「なんじゃへ?」
「レイキの行き先です」
「レイキがいなくなった事を存じているのか?」
「はい。実はレイキを探してここまで来ました。道すがら、レイキが盗まれたとお聞きしましたが?」
アマゴが話の出所を危ぶむ表情になる。しかし、玉の魅力には勝てなかった。
「その通りじゃ。唯一の御先が捕られてしもうたのじゃ」
「それは誰にですか?」
「クラゲ(海月)じゃ! 奴はまんまと我らを騙して、今では、不老不死の仙人となっている」
「その仙人は、今何処に?」
「遥か東の海のホウライ山にいる。しかし、そこには行けぬのじゃ。ホウライ山は絶えず動いている島じゃ。その上、島の周りには鰐(鮫)が住み着いて、河童は近づけぬ」
「……そうですか。私が何とかしてみましょう。島は今、何処か判りますか?」
「ええ、判りますよ。しかし……」
「それはこれから考えます。それよりレイキを取り戻す事ができた暁には、しばしお借りしたいのですが、よろしいですか?」
「それはもう。今もいないと同じじゃからな」
「それではレイキの居所を教えて下さい」
「解かった。しばし待て!」
そろそろとアマゴが脇の水鏡へと向かった。それは海水の張った小さな潮溜まりだった。水は透き通り、底に真っ白な塩が敷き詰められていた。
アマゴが水鏡に向かって呪文を唱えた。
「はりゃ~、ひりゃ~、ほりゃ~!」
すると、水鏡の底から塩の塊が飛び出した。
それが翁の姿になった。
「シオツチ(塩土)のヲチ(長老)よ。ホウライ山は何処じゃ?」
翁は微動だにせず反応が無いように見えたが、口が少しずつ動き始めた。
「……ホウライは……今は……ここの真東……こちらに向かって動いています」
「スクナ! 東じゃぞ!」
「それでは、さらば!」スクナがあっと言う間に去って行った。
クマリの成りのスクナが、瞬く間に先の海岸に辿り着いた。
一同が丁度揃っていた。アコヤから事情は聞いている筈だ。
「ククリ、レイキを見つけたぞ! すぐに助けに行こう!」
「何処に参るのですか?」
「ホウライ山だ! 山は今、東の海だ! 大船を借りるぞ! アコヤ、大船がある港はどっちだ?」
「それなら、おらが供物を盗んだヤト様の方です。南のフサの国のウナカミの津が一番近いです。トネの澄江を下って行きます」
一行は丸木船に分乗してウナカミの港に向かった。
そこは海に突き出た岬で、東国一の大きさを誇る華やいだ港街だった。
沖まで行ける大船が何艘も停泊していた。
港に上がると、海夫達が異形の一行にちょっかいを出してきた。そう云う奴らも異形だった。殆どが河童や人魚だったが、荷担ぎ人夫はゴズ(牛頭)やメズ(馬頭)だ。皆、お調子者ばかりだ。
そう云えば、河童の国の周りでは何故か半人半獣の異形が多く住んでいる。
一人の馬頭が大船を持つ網主を教えてくれた。ここにはカリマとカトラと言う兄弟の大網主がいるそうだ。岬の切っ先に館があると言う。スクナ達はその館に向かって岬の高台へ登って行った。
それは館と云うより船だった。船を模した館だ。そして巨大な帆柱が一本伸びていて、天辺に灯火の台がある。夜はそこに灯火が点くのだろう。入口は船尾の部分だった。
門があり、その前に門番の牛頭と馬頭がいた。そして、その上に大きな掛け軸が掲げられてある。「カシリ(呪者)求む」と「ツワモノ(強者)求む」だった。
スクナが「カシリ求む」を指差した。牛頭が無言で頷いて門を開けた。
中に入ると無数の屋敷が奥へと連なっていた。舟形は大きな塀であったのだ。正面に巨大な庭石がある。その前には小屋があり、中で待ち構えているように男が一人居た。ここの案内役のようだ。顔が魚の様で、おまけに二本の長い鯰髭が伸びている。その二本の髭がスクナとククリへ伸びてきた。髭の先が反応して震えだした。
「おお! これは凄まじいマナ(呪力)じゃ~! カリマ様に相応しい! 二人は下へ参れ!」
鯰男がそう言うと、後ろから平べったい尾が出た。それがぱしんと叩く音を響かせる。
突然、後ろの庭石とばかり思っていた巨大な岩が震え出した。良く見るとその岩は顔の形をしている。目、鼻、口が付いていた。その口が生きている様に開いて……洞窟が現れた。そこから下へ行けと言う事らしい。
「それではククリと一緒に行ってくる。皆はここで待っててくれ……そう云えばブトーは強者だったな。求めに応じてもいいぞ!」スクナがブトーを試そうと云う腹だ。
「私くしもお願いします」ショウキが自信たっぷりに言った。
「それでは二人で行ってこい」そう言って、洞窟へ入っていった。
洞窟の中は、下へと降りる長い階段が続いていた。所々に灯火があって暗闇ではなかった。灯火は蝋のようだった。スクナが先頭で降りていった。
スクナが蝋の一つを見て言った。
「これは漆でできた物ではないな?」
「たぶん、イサナ(鯨)の脂ではないでしょうか? この辺りの人魚が作ると聞いた事があります」
階段は終わりが見えぬ程、長かった。
「足を滑らせない様に気をつけて行こう」自然とスクナがククリの手を取っていた。
時間を掛け一段一段降りていった。久しぶりに、二人きりのひと時だった。
いい機会とばかりにスクナが話始めた。
「ククリはアスカがお気に入りの様だね?」
「ええ。初めてできた友達だと思っています」
「そのアスカとアギバの事だけど、篭目封じの方が付いたら、一度天狗の村へ帰そうと思っているんだ」
「そんな事ができるの?」
「実は……もうカツラギとその話ができているんだ。カツラギがナゴミに執り成してくれるそうだ」
「そうだったの……寂しくなるわね……」
「二人にとってはその方が幸せだと思うんだ。村に戻れば子供も産めるだろうし……」
「そうね。天狗は対で産まれるらしいから、天狗の村でなければできないのかもね……」
「別に、アスカとは二度と会えなくなる訳ではないんだし、少しの辛抱だ!」
「解かったわ! 辛抱する事にする! その代わり……私も赤ちゃんがほしいな……」顔をうつむけ赤くなった。それを聞いたスクナも同じになった。
「私には……血の繋がった親兄弟がいないの。思い出したらいるかも知れないけど……今はいないの。だから……早くこの手で子どもを抱いてみたい……」
「俺もそうだ! 長い間、父と母と離れて暮らしてきたんだ……俺もこの手で抱いてみたい! そして……子供とは決して離れない!」
「私も離れない!」
この静寂の世界に二人の声だけが響いていた。
その内にやっと階段が終った。
降り立つと、そこには空間が広がっていた。全体が奥に傾いていた。その奥からは潮の匂いがする。海水が入り込んでいたので、海と繋がっている様だ。高台から海まで降りたのだ。
そこにも無数の灯火があった。それが突然風が起こり一斉に消えた。何も見えない闇となった。
スクナとククリは動けずに立ち止まった。闇に時が止まったように感じる。
静寂に中に二人きりで佇んでいると……突然、前から足音が近づいてきた。子供の様な足音だ。歩幅が小さい。
ククリの繋いだ手が震えた。
「邪なモノか?」スクナが小声で訊いた。
「いいえ。そうではなくて……霊魂がない者だわ! 何も見えないの!」左目で見ているらしい。
すると、ぱっと灯りが一つ点いた。足音の主が姿を曝した。小人が蝋を一本持っていた。
「ククリ! こいつはヒトカタ(人形)だ! 大丈夫」人形には糸が着いていた。
「いいや。人形じゃないよ」人形が口を開いた。
その瞬間、ククリがはっとして何かに気づいた表情になった。
ククリには見えたのだ。後ろから魂が一つ飛んできて人形に宿った所を……
そして人形の後方をじっと見つめている。そこに何かが居るのだろう。
ククリがそっちに向かって叫んだ。
「カリマ! お遊びはいいから早く姿を現しなさい! そこに居るのは判っているわ!」
すると、先程と同じ風が起こった。今度は一斉に灯火が点いた。
男が一人立っていた。ククリが見つめていた所だ。奥の海の前だった。
目の前の人形が口を開いた。
「私はしもべのケイヤだよ」そう言って、ケイヤが男の所に案内していく。
スクナとククリがその後を付いていった。
客をケイヤが誘ってカリマの前まで連れて来ると云う趣向であった様だ。
人形を恐れたククリがその趣向を台無しにしてしまった。
男は上から下までの黒い一繋ぎの衣を纏っていた。顔にも黒い襷が巻かれ、上半分を覆っている。見えるのは口だけだ。そして、両手を上に挙げて、指が人形を操る様に動いている。しかし、糸はもう無かった。
「お嬢さん! これはお遊びではないよ」黒い男が言った。
「お嬢さんではありません! ククリです!」
「それより俺がカリマだと、よく判ったな?」
「あなたの霊魂が見えます。これ程の霊魂は網主のカリマだろうと……そして、今のあなたは三つ魂です」諱が見えるとまでは言わなかった。
「それは凄い眼力だ!その左目かな?」
「あなたはその人形で見ているのですね」
「その通りだ、ククリ。私は遊んでいる訳ではない。見ての通り、私は……盲で聾だ。だからケイヤの目と耳を借りているだけの事だ」
「そうでしたか……それはごめんなさい……」
「それはいいとして……よく来たな、両面スクナ! 噂は聞いているぞ。大したマナを持っているそうじゃないか?」
「俺もおまえの事は聞いている。灯火のサキモリ(埼守)のクグツ(傀儡)は、海人族で一番の呪者だと……それはカリマ! おまえの事だな?」
「そうだな。互いの名乗りはいらないようだ……」
そして右手をくいと引いた。人形のケイヤがカシロの足元へと飛んだ。
ククリは既に傀儡の秘密を知っていた。ケイヤの中にカリマの魂が一つ入っている。幸魂だった。
ケイヤの目はずっとスクナを見ていた。そして口を開いた。
「ここからの話は長くなるから、とりあえず、そこら辺に腰掛けたらいいよ」
「そうだな」カリマが腰掛けた。その膝にケイヤが乗っかる。
スクナとククリもそれに応えて尻を着けた。
カリマがまず口を開いた。
「それでは、俺から話そう。おまえ達の用件と俺の用件は、たぶん同じだと思うからな……まずは……何故、呪者と強者を求めているかだが……」ここでカリマが一呼吸おいた。
「ここの石は温かくはないか?」用件を切り出すと言っておきながら、突然関係ない事を言い出した。
スクナはそれがどうしたと思わず言いそうになった。スクナは急いている。
しかし、大船を借りにきた手前、相手の心証を悪くはしたくなかった。仕方なくカリマの話の具合に会わせる事にした。
尻の下が石だった。確かに暖かさを感じる。そう云えばここは階段から全てが石だった。まさかここ全部が一枚岩ではないだろう。
そんな事を考えていると、カリマが一転して核心を突いた。
「ここはレイキの腹の中なんだ!」
これにはスクナとククリが驚愕した。
確かに入口の大岩は顔だった。生きてる様に口を開けた。そうなると長い階段は首だ……
カリマの話が続いた。
「レイキはヒルコ様の御先だ。ヒルコ様はこの現世で一番古い霊長の生き物の神だ。その最初の御先が今ここに居るレイキで、産まれてから一万年は経つらしい。今ではこの通りほとんど石になっている。おまえ達が入ってきた所が口で、階段が首、ここが腹、尻が海へと繋がっている。このレイキは今は神だ。オキス様と言う、我が埼守の神だ。そして、二代目のレイキが……おまえも知っている通り……今はホウライ山に連れ去られている。そこの処は俺より詳しい奴がいるから、直に話を聞いてくれ」
そう言うとカリマが叫んだ。
「イチル! こちらに来てくれ!」
後ろの海中から女が顔を出した。渚に現れると下半身が魚の人魚だった。
「イチルです」ぺこりと頭を下げた。
イチルが詳しい話を始めた――
「まず始めに、私がどう云う係わりかをお話しします。私は河童のクマリセの片割なんです。クマリセが産まれた時に、河童は三つ魂ですから、離れた和魂が鯛の雌に憑り着きました。そこで産まれたのが人魚の私です。河童の周りに異形が多いのはそのせいなんです。
そして……クマリセが王になった時……その片割に目をつけたのが……大海月でした。海月は私を攫いました。
すぐに、クマリセが助けにきてくれました……そのクマリセに海月が言ったのです。助けたければレイキを連れてこいと……私が殺されると云う事は、クマリセも死ぬと云う事です。クマリセは仕方なくレイキを連れてきました。たぶん、一人で勝手に借りてきたのです。
私が浅はかでした……海月の狙いは初めからレイキだったのです。
その入れ替わりの時、レイキが私にそっと言いました。後は任せろと……
すると……レイキが近づき様に大海月を一飲みで飲み込んで食べたのです。
私はその時、海月がまんまと退治されたと思いました。海月は海亀の餌ですし……
レイキもクマリセもやったとばかりに喜んでいました。
しかし……違っていました……海月は初めからそのつもりだったらしいのです。
レイキが急に苦しみだしました。そして痺れているのです。
飲み込まれた海月が、腹の中で毒を出しているようでした。
その内……レイキの姿がどんどんと大きくなっていき、最後には大きな島になりました。
それが……ホウライ山です。
海月はそのホウライ……ホウライとはそのレイキの名ですが、そのマナを吸い取って不老不死になりました。魂を仙人の姿に化かして島に居るそうです。
今でもホウライはマナを吸い取られ続けています。かわいそうに……毒に苦しみながら……涙を流し続けています。
クマリセは何もできなかったようです。それからなんです! クマリセが酒に溺れだしたのは……政もせず、暴れまわっては妻とは喧嘩ばかりして……挙句の果てには行方知れずになって……そして今、スクナ様と戻ってきたと聞きました。
スクナ様! どうかクマリセに一目会わせてください。言っておきたいことがあるの」
「イチル! それは後にしろ!」カリマが止めた。
「いいや! 会わせてやる!」スクナがそれを止めた。
スクナが河童面を出して鼻を三回擦った。クマリセが姿を現した。
「イチル、もうその事は忘れていいぞ! 後はスクナ様が必ず取り戻してくれる」クマリセが言った。
「話とはその事じゃないの……クマリセ、こちらに来て!」
イチルが海中へ入った。クマリセが後を追う。
イチルがすぐに戻ってきた。両手で海亀を抱えていた。それをクマリセに渡す。
「レイキではないか!」クマリセが手に取って言った。
「ここのレイキの腹の中に、石になっていた卵があったの。運良くそれを孵す事ができたの。御先にはまだまだだけど……だから、これで私達の罪の償いができるわ!」
「そうか……償いをしていたか……しかし、スクナ様が必ず取り戻してくれる。それに……連れ去られたレイキを取り返せねば、本当の償いにはならない。だからもう忘れろ……」
「ごめんなさい、クマリセ。こんな事になってしまって」
「いいや。俺とおまえの根は一つ。おまえの過ちは俺の過ちだ。だから俺の事はもう気にするな」
イチルが頷いた。
話は終ったとばかりにクマリセが戻ってきた。
「カリマ! おまえにも苦労を掛けたな」クマリセが序でに言った。
その言葉にカリマは応えなかった。何か申し訳ないような仕草だ。
クマリセが面に戻った。
「その続きは俺から話そう。今、クマリセが言った事だ」カリマに語り役が代わった。
「クマリセがヒルコ様に頼んだ様だ。そしてヒルコ様がオキス様に命じた。その御先が俺の所に来た。因みに俺はイルカ(入鹿)党霊だ。一角の白鯨に命ぜられ、ホウライを助ける事になったが……未だに囚われたままなのだから、その答えは言わずにも判るだろう……
長い話となったが……それが呪者求むの理由だ。
そして、強者求むの方はこの事とは関わりはない。あれは弟……血の繋がりがない義弟が好きでやっている事だ。あれより強い者は、いまだ現れていないようだが。
話が反れたが……スクナ! 頼む! ホウライを救ってくれ! もちろん船は出す」
それを聞いたスクナが突然、笑いだした。
「俺は船を出してくれと頼みにきたんだ! それが逆に頼まれるとはお笑いだ。始めに言っていた通り、本当に用件が同じだったとはな……もちろん応だ! その前に一つ訊きたい。おまえ程の傀儡が何故負けた?」
「それをこれから言おうと思っていた処だ。
奴は仙人の姿になって山の頂きに居た。奴は俺が近づいても、向こうを向いたまま、気づかない素振りだった。気にせずそのまま術を喰らわせた。
しかし……奴にはそれが全く効かなかった。そればかりか、代わりにレイキが苦しみだした。奴に向けた術がレイキに作用したんだ。
もう術は使えなかった。それは奴を倒す手立が無いと云う事だ。何故か奴は、一向に気づかぬ素振りを装っていた。仕方なく……最後の手を使った。
傀儡の術で海月の生身を操って、奴を追い出そうとしたんだ。
その時、奴は生身を危ぶんだのか、初めて攻めてきた。
下から突然、海月の足が出てきて、俺の顔に巻き付いた。
その足には毒があって……その時に俺は目と耳を失った。結局俺は……何もできずに逃げ帰った……
俺の考えを言おう。
海月とレイキの体は一つになっていて、奴に全て占められている。
もしかしたらそのまま仙人を殺すとレイキも死ぬかもしれない。だから手は一つだけだ!
奴に害を及ぼさずに封じるのみ! 俺にはできない事だが、おまえなら得意な方法だろう?」
「いや。封じの術はまだ扱えない……そうだ! ランの力で何処かに飛ばすと云うのはどうだ?」ククリに訊いた。
「それはだめです。いずれ戻って来られるかもしれないし、それだと、すぐにホウライが解き放たれるとは限りません。それより、もっといい手があります。絶対に戻って来れない所に封じましょう」
「ツクカガミ(月鏡)か?」アスカが封じられていた鏡を月鏡と名付けていた。
「ええ。今の話だと、それが一番だと思うわ」
「あれは、鏡と目が会わないと吸い込まないのだろう?」
「そう云えば、仙人の奴は一度も振り向かなかった!」カリマが思い出して言った。
「諱が判れば、振り向く筈だわ」ククリが応えた。
「カリマ! 仙人の名は?」
「聞いた事もないな。誰も知らないだろう。奴は、はぐれ者だからな」
スクナがククリの顔をじっと窺った。
「見てみないと何とも云えません」ククリが応えた。
カリマにはこの遣り取りの意味が判らない様だ。
そんな事は気にせずスクナとククリが立ち上がった。
「カリマ。戻ったら、その目と耳を治してやるよ」
「それは足玉の法だな。無事に戻ったら頼む。案内にケイヤを連れて行ってくれ」
人形のケイヤがカリマの膝から立ち上がった。
「それでは船まで案内するよ」
ケイヤが階段に向かうと同時に、カリマの手が動いた。
風が起こり、階段の蝋の全てに灯火が点いた。
「火を消す風より、灯す風の術は難しいのだぞ」
「知ってるよ! 俺の式にそれが扱える奴がいる」スクナが応えた。
カツラギの事だが厳密に云うと風の術ではない。スクナは見栄を張らずにはいられなかった。
ケイヤに先導されて階段を登りきると、そこで全員が待ち構えていた。
ブトーが一人で何か話している。
スクナに気づいたブトーが、真っ先に近づいてきた。今にも何か言いたそうで得意げな顔だ。
しかし、それを制して先に口を開いたのはショウキだった。
「ブトー殿は、天下一の剣士でした! それは凄まじい強さで、カトラを破りました」
先に言われたブトーが面食らった。
「そうか」スクナは呆気なかった。
逆にケイヤが奇声を発した。
「なに~! それは本当か? カトラに勝ったの~!」
そう言ったケイヤを、スクナがカリマの分身だと紹介した。
そして、今度こそと言い出そうとしたブトーを遮って言った。
「それは後でゆっくり聞こう。今は船に乗るのが先だ」
「ケイヤも急ぐぞ!」
ケイヤは船を忘れて聞きたそうだったが、すぐに全ての手配に奔走してくれた。
ケイヤがカリマの分身である事は、港中が知っていた。目と耳を失ったカリマは人前に出なくなっていたのだ。
全員が大船に乗り込むと、海夫達がケイヤを囲んで集まった。
船の柱の前に居たケイヤが儀式を執るようだ。
その柱の下部にツツと呼ばれる溝があり、それがケイヤの形をしていた。
海夫達が祈る中、ケイヤがその溝にぴたりとはまった。
ケイヤが船と一体になり、船霊になった。
海夫達が持ち場に散ると、船が出航した。進路は東へ取られていた。
沖へ出ると……たまらずブトーが口を開いた。
それではスクナ様と別れた処から始めます――
ブトーが受付の鯰男に名乗った。
「天下一の剣士ブトーだ! 強者の求めに応じるぞ!」
「こっちは別にどうでもいいのじゃが……それに、わしはそちらの方は得意ではないのだ……」
「どうでもいいとはどう云う事だ? それなら、こんな大層な物を掲げとくな!!!」
「解かったからそう怒鳴るな。カトラ様の命だからしょうがないのじゃ。とっととその階段を上がってくれ」髭が上を指している。
左隣に道場らしき建物に繋がっている階段があった。ブトーが頷いた。
「それで、そちらは?」髭がショウキを向いている。
「私くしも一緒に」
ブトーが先頭で階段を上がった。そこは吹き抜けの玄関の二階だった。真っ直ぐ伸びた渡り廊下が宙に浮いている。その廊下の終わりに観音開きの扉があり、両脇に石像が置かれている。
中空の廊下に手摺はない。それに向こうの扉までが長く感じる。実際の扉までの目算と廊下の長さに違和感がある。廊下の長さからすると扉の大きさは途轍もなく大きい事になる。扉を見るとそれ程大きいとは思えない。
「ショウキ、何か仕掛けでもあるのかな?」
「判りません。私くしも目が騙されている様です。念の為、飛んで行きましょうか?」
「いや。これも試しているのかもしれぬ。このまま騙されてみる……ん! おまえ飛べるのか?」
「はい。少しなら。……ブトー殿は騙されやすい方なんですね」
「そうだ。俺は、人を騙すより、騙される方がいい」
良く解らない事を言って、ブトーが廊下を渡って行った。進んで行くと……何の事はなかった。
廊下の幅が先に行くに従って狭くなっていたのだ。終わりの方は足の幅しかなかったが、二人は臆する事なく渡り切った。扉はそれ程大きくもなかった。
扉に近づくと、脇の石像が話し掛けてきた。
「ここから先は修羅の国だ。死んでもいいなら通って行け!」左の石像が言った。
「ここから先は修羅の国だ。腕に自信がなくば戻って行け!」右の石像が言った。
「賽の神まで揃えているとは、大したお出迎えだ」ブトーが扉を押し開いた。
そこには十人ばかりの強者が、横一列に並んで座っていた。全員が完全武装して待ち構えている。
その真ん中のひと際大きい偉丈夫が唐突に言った。
「好きな得物を取って、一人ずつ来い! 但し、腕試しだから殺し合いはなしだ!」右手が壁を指していた。
その壁には、木製の業物がずらりと並んでいた。剣や矛が立て掛けてある。
他の業物には目もくれず、ブトーが木剣を手にして戻った。
「防具はいいのだな?」
「邪魔だ! いらない!」
ブトーの準備が整ったとみて、端の木剣を携えた男がすくりと立ち上がり前に出た。
剣を取ったら剣の奴が立ち向かうと云う決まりが、あらかじめにあった様だ。その方が腕を計るのに都合がいいのだろう。
虚を突いて相手が突進してきた。
ブトーがするりと避けた。と思ったら、相手の背中を剣が叩いた。
あっと言う間に方が付いた。
敵陣からどよめきが起こった。
次は長柄を持った奴だった。
ブトーが間合いを気にもせず、ひと飛びで踏み込むと、面が割れていた。逆に、相手にはそこに油断があったようだ。
次の……
「ちょっと待った!」スクナがブトーの話を遮った。
「その相手は余りにも弱すぎじゃないか?」
「いいえ! とんでもありません! 皆かなりの強者揃いでした。私くしが強過ぎたのです」
「そうか。それならおまえの強さは解かったから、もう終わ……」
そこにショウキが泡を食って割り込んだ。
「そんな御無体な! 話はここからですから!」ショウキが懇願した。
「……そうか。それなら残りは八人か? それもあっと言う間に片付けたのだろうな?」ショウキの抗議にはあっさり折れたのであった。
「後の方はあっと言う間ではありませんが、まあ、大体その通りです」
「それでは……そこは飛ばせ!」
ブトーが渋々と頷いた。後ろから笑い声が響いた。
それでは、そこの処は飛ばしまして……
最後の一人、偉丈夫だけが残った。
ブトーの前へ悠々と立ち上がったその態度には、怖気づいた様子もない。それ程、腕には自信があると云う事だ。
上背があるが前屈みの姿勢だ。背中が膨らんでいるので猫背のようだ。そして顔に二本の角を生やした面を被っている。
「なかなかの腕前だな。名を訊こう!」
「天下一の剣士! ブトー!」
「何を自惚れている! それはわしを倒してから言へ! わしの名はカイマトだ!」
今度の相手は、なかなか仕掛けてこなかった。
ブトーは予測が付かないので探りをいれた。剣を喉元へ突いた。
避ける事もせず、上段から払われた。
もう一度同じ速さで突いた。同じく払われた。
三度目は本気で突いた。前の二回とは比べ物にならない速さだった。
カイマトが同じ様に払おうとして対応が遅れた。避けきれずに面で受けた。
面が真っ二つに割れて下に落ちたが、角は落ちない。
現れた顔が角の生えた猪だった。
カイマトが鎧を全て振り解いた。本気になったようだ。
「真剣だったら今ので勝負は着いたぞ!」ブトーが挑発した。
「うるさい!」完全に頭に血が昇っている。
カイマトが猪突してきた。
ブトーが正面で受け止めた。二人の動きが止まった。
離れ際に打ち下ろした上段は同時だった。これも相打ちだ。
十合程の激しい打ち合いが続いた。組打ちは互角のようだ。
この組打ちで、ブトーがカイマトの剣筋を見切った。
実は互角の様に見せたのはこの為だった。そして勝負に出た。
ブトーが下段に構えた。
すぐにカイマトが上段から打ち下ろす。
ブトーは受けずに見切りでかわしながら足を払った。
カイマトが飛んだ。それで勝負が決まった。
振り払った勢いで、ブトーが一回転した。
剣先がカイマトの顔に届いた。角が一本飛び散った。
「参った」カイマトが膝を着いて言った。
「それではカトラに会わせろ!」
「カトラはここに居るぞ」カイマトから声がした。しかしカイマトの声ではない。
カイマトが地にひれ伏すと、背中がもぞもぞ動いた。
そこから小人が姿を現した。猫背に見えたのは小人がいた為であった。
「わしがカトラだ! カイマトはわしが操る傀儡だ。だから既にわしは負けている。おまえが天下一の剣士だ!」
ブトーが破顔した。その通りの変な顔だ。
「何か褒美をやらねばならん」カトラが言った。
「俺が欲しいのは……霊を絶つ剣だが、そんな物はないのだろう?」
「そんな物はない!」
「それでは証しとして、カイマトの角を貰っていこう」
「そんな物でいいなら構わないぞ。またすぐに生えるからな……」
「そう云えば、おまえ達はレイキを探しにホウライ山に行くのであろう? それならこれがいいな」
そう言うとカトラが角を手に取った。その手には入墨が入っていた。
左手に持って右手が糸でも操るように動いた。そして聞き取れない呪文を吐いた。
今度は持ち代えて左手を動かし、また呪文を吐いた。
「今、この角を鰐の笛にしたぞ。これを口に当てれば鰐に話し掛けられる。耳に当てれば鰐の言葉が聞ける。ホウライ山には鰐が沢山集まっているから何かの役に立つぞ。因みにわしはワニ党霊だ」
ブトーが鰐の角笛をスクナに見せた。
「鰐か……これは使えるかもしれないな……」
「ブトー! 今度は俺と手合わせをしてみないか? おまえが本当に天下一か試してみると云うのはどうだ?」
「滅相もありません! スクナ様の神の速さには、人では太刀打ちできません」
「それなら、俺の方が天下一の剣士と云う事になるが?」
「いいえ。スクナ様は剣士ではありませんので、私くしが天下一です」屁理屈を言った。
「そうか。それなら今回の敵は生身を持たない奴らしいが、それでも大丈夫かな?」
そう言って、スクナがカリマとの出来事を皆に語った……
案の定、聞き終わったブトーの顔が変わった。
その時、ケイヤが叫んだ。
「ホウライ山が見えたぞ~!」柱の中から口だけ動かした。
皆が一斉に前方を見た。しかし、霞が漂っているだけで島は何処にも見えない。
「あの霞の中にホウライ山がある。ホウライ山はいつでもこうだ」ケイヤが説明した。
霞の中へ入ってみると、島陰が朧げに見えてきた。
唐突にスネが語った。
(スクナ。この霞はクマリセに任せろ。この霞はホウライの熱で、海の水が沸してできている。クマリセを使え!)
スクナが河童面を着けクマリセに成った。
(クマリセ。霞を取り払え)
(承知しました。それでは、しばしお体を借ります)
クマリセが船の艫へと行くと、振り向いて海を背にした。
両手を掲げて天を仰ぐ格好になると、その両手のちょうど真ん中へ霞が集まってきた。
吸い込まれた霞は、クマリセの後ろで海水に戻り滝の様に海に落ちていった。
その内に霞がどんどんと薄れて島がはっきりと現れた。
それは途轍もない大きさだ。これが一匹のレイキだとはとても信じられない。しかし、島の形は確かに海亀の甲羅の様相だった。そしてゆっくりと動いているので前後が判別できる。後ろの尾の方がなだらかな斜面となっていた。島全体は木に覆われ森になっている。そこは鳥の楽園だった。
「アギバ。上から見て探ってきてくれ」スクナが命じた。
しかし、アギバがアスカを気にする素振りをして渋った。
「アスカは俺達と一緒にいるから心配するな」
アギバが頷いて飛び立った。
その様子を見ていたソモンとミヤキが、私達も一緒に付いていくと言いだした。この二人とアスカ、アギバは、島には行かず船に残していく手筈である。それをスクナが、アスカを一緒に連れて行くと言ったからだ。スクナはアギバに偵察させるだけのつもりだった。それを二人が勘違いしたのだ。
「ソモン。今度の敵は危ないのだ。あのカリマでも逃げ帰ったのだから。やはり船にいた方が安全だ。残っていろ!」
「いいえ。私くしは何処が一番安全か解かりました。それは……スクナ様とククリ様の側です。お二人は憑神に護られています。だから一緒に連れて行ってください」
「確かにそうだが……今度ばかりは判らないぞ。俺の憑神でもできない事はあるのだ。護るにしても俺だけで手一杯になるかもしれない。もちろんそうはならない様にするつもりだが……」
「私もそう思います」ククリも説得に加わった。
「それでも構いません! 本当の事を言えば……スクナ様の為され様を全てこの目で確かめたいのです。だから覚悟の上です!」
「私くしは、ククリ様と供にする覚悟でございます」ミヤキも言った。
ククリはミヤキの覚悟に驚いていたが、何も言わなかった。
「おらも一生ついていくと言いましたので……」アコヤも居残り組みだった。
「それでは……全員で行くとしようか!」スクナが決断した。
それを脇で聞いていたブトーが、一人で気を入れ直して発奮していた。
今度の敵に少し怖気づいていた処で、二人の覚悟を聞いてしまったのだ。
鬼の形相であった。海月の足が出てきた時は、絶対に身を張って守ろうと誓った。
スクナがその顔を見ながら言った。
「今回は怖気づいていない様だな?」スクナは怖気づいていたのを知っていて言った。
ブトーは頷いただけだった。
「どうやらモノノフになったようだ。それでこそ天下一の剣士だ!」
また頷いただけだった。そして益々、顔が強張った。ブトーの汚名返上が成ったのだ。
「それより、例の角笛を早速試してくれ。周りに鰐が沢山見えてきた。海月仙人の名を知らないか聞いてみろ」
ブトーが鰐の角笛を吹く格好をした。誰もその音色を聞き取れなかったのだ。しかし、鰐の背鰭が続々と集まってきた。
ブトーがまた角笛を吹いている。今度は少し長く。用件を語っているのだろう。
角笛を口から放すと、鰐の背鰭が一斉に散った。
そこでアギバが偵察から戻ってきた。
「島は海亀の甲羅の形です。頭の方は険しく、尾の方はなだらか。大きさは人の足で一回り、凡そ日傾み四分一(よわけのひとつ・昼の四分の一)。頂きには木がなく、そこに庵があり、中で仙人が一人眠っていました。他の生き物は鳥だけの様です」アギバが報告した。
「解かった。頂きの庵に居るのか。やはり飛んで行った方が楽だな~!」
それを聞いたククリが、突然怒り出した。
「ミヤキの……それとソモンの覚悟を無下にするのですか?」。
「いや。思わず言ってしまっただけだ」
「言葉には気をつけてと言ったでしょう! 言霊を甘くみないで!」ツナデの件はもう忘れて、一方的に嗜めた。
「今のは言霊と云う程ではないだろう?」思わぬ剣幕にたじろいだ。
「いいえ! 今のを聞いてどう思ったでしょう? 暗に邪魔者扱いしているのですよ!」
「そんなつもりは、全く無い!」
「そうじゃなくて、聞いた方はそう捉えます!」
「……俺が悪かった。それでいいか?」
大した事ではないのだが、ククリのこの剣幕は、ミヤキに対する感謝の表れだった。
スクナがそんな事を思って言ったのではない事は解かっていた。しかし、聞いていたククリがそう思ったのだ。スクナに弁解させたかった。ミヤキに、そうではないとはっきり聞かせてやりたかった。
一方、スクナはその事を全く気に掛けていない。別の事を考えていた。言霊と聞いて疑問を抱いていたのだ。ソモンへ船に残れと命じたのに何故、拒否できたのか? その理由が全く思い当たらない。
それに、自分だけで手一杯などと言ってしまった事に後悔もした。それが一抹の不安となっている。
ククリはスクナの焦りに気づいていた。その落ちついた態度に、他の者は誰一人気づいていないが……ブトーに対する無体とミヤキに対する無下がその表れだ。自分一人で手一杯……
ククリが言霊を発した。
「スクナ、大丈夫よ! 必ず封じられるわ!」ククリのその一言がスクナに安心をもたらした。
船がホウライ山の後に追い着いた。人夫が艀を渡している。
「そうだ、アギバ! 全員で行く事になったぞ」スクナが思い出して言った。
「そうですか」アスカの方を見て言った。
アスカは知っていると頷いた。
「鰐が近づいてきます」目のいいアコヤが最初に見つけた。
ブトーが俺の出番だとばかりに角笛を吹いた。こっちに来いとでも言っているのか。
そして角笛を耳に当てる。
ブトーが変な破顔をしながらスクナに向かった。
「やりました! 名を知っていた奴がいました。寝言でわしの名はアクツ仙人と言ったそうです」
「アクツか?」
「はい。アクツです!」
「よし!! もう勝ったも同然だ!」スクナがククリへ笑いかける。
ククリが大丈夫と言った矢先に起こったのだ。
一行が島に上陸すると、船が遠ざかって行った。ケイヤは離れて待機するのだ。
その島の地面は暖かかった。足元から感じる。これは島が生き物である事を思わせた。
そのせいか、一面に木や草が密生している。中には巨木も何本かある。樹齢何百年と云えそうな木だ。島ができて十年も経っていないのだ。これはレイキのマナが原因に違いない。その証拠に、頂きには仙人がいてマナを吸い取っているので木がないそうだから。
スクナ達は草を刈って進むしかなかった。術を使うのは躊躇われるのだ。
ショウキが大蛇の牙を鎌にして、密林の下を切り開いた。
歩く道を作るだけで、悪戦苦闘していた。
「スクナがあんな事を言うからよ!」ククリも思わず言った。
「ククリ様! もうお止しになってください。殿方にしつこくするといい事はありませんよ」ミヤキが年上の女らしく諌めた。
スクナは心の余裕ができたので、そのまま聞き流している。このまま言い返すと面倒な事になりそうだ。
疲れの見えたショウキにブトーが代わった。大剣で薙ぎ払う。
最後尾のアコヤがふと後ろを振り向いた。既に霞が起ち始め下が見えなくなっていた。
やっと中腹に差し掛かった。ここからは木が斑になっているので、楽に歩けそうだ。
頂きが見えてきた。そして……庵が見えた。
「ここからは俺一人で行く」そう言って、ブトーに手を伸ばした。
ブトーが月鏡を渡した。
「ワタミ、付いて来い!」
ワタミがアスカの腕から飛び降りた。
スクナが鏡を手に、ゆっくりと庵へ進んで行く。
その後ろを、ワタミが慎重に飛び跳ねて付いて行く。
中に仙人らしき者が横たわっていた。向こう側を向いているので顔が見えない。
「おい! そこの仙人!」
「…………」
「俺は巫のスクナだ。クマリセに頼まれてレイキのホウライを返して貰いにきたぞ!」
「…………」
「眠っているのか? 海月仙人!」
「……何の事じゃな? わしはそんなもの借りた覚えなどないわ! それにクマリセなど知らぬぞ?」
「何を惚けている! それとも不老不死は呆けるのか?」
「何じゃと? わしは呆けたのか? そう云えば、何故ここに居るのかも憶えていないぞ!」
スクナには、惚けた振なのか、本当に忘れたのか検討がつかなかった。しかも、仙人は向こうを向いたまま、何故かこちらの方を振り向かない。
「それなら、おまえの名は?」
「それは憶えている。それがどうした?」
「俺は名乗ったのだぞ! おまえも名乗れ!」
「いやじゃな! …………そうじゃ、わしの名を当ててみろ。見事言い当てたなら、その借り物とやらを返してやるぞ!」
「言ったな! おまえの名は……アクツだ!!」
仙人が一瞬、反応した。しかし……
「はずれじゃ!」
「嘘をつくな! おまえの名はアクツの筈だぞ?」
「嘘ではない。ヒルコ様に誓って、嘘ではない!」
スクナは気づいた。本当に呆けているのだと。自分の神の名を出してまでの発言だ……
「周りにいる鰐が聞いているぞ。寝言でアクツと言っていたそうではないか。だからおまえの名は……アクツだ!」
「それがどうした? はずれなんじゃから、はずれじゃ!」
本当に呆けているとしたら、名まで忘れたのか? それでも諱にこの反応は可笑しい。それとも、本当に違うのか? スクナは焦ってきた。
「まだ白を切るのか、アクツ仙人! 呆け爺のアクツ仙人! レイキ泥棒のアクツ仙人!」これだけ諱を言えばどうだ?
「違うと言っておるだろう? わしの名はアクツではない! アツクじゃ!!」
二人が同時に驚いた。
スクナの目が丸くなった。アツクは未だに向こうを向いているので判らない。
スクナは本当に名が違っていた事に……ブトーがまた、へまをやらかして名を聞き間違えたのだ。
アツクは自分からしゃべってしまった事に……やはり不老不死で呆けていたのだ。
スクナがすぐに動いた。
「アツク仙人! レイキを返して頂こう!」
「レイキなど知らん!」諱に対するこの反応は……本当の事だ。
「それでは仕方ない。ワタミ! 月鏡に宿れ!」
ワタミが月鏡に吸い込まれて、鏡が光った。
「アツク! こちらを向け!」スクナが月鏡を翳した。
アツクが抵抗しているが、顔が勝手に振り向いた。
「わしは本当に何も覚えていないのだよ……自分の顔もな!」
そう言って、その顔を見せた。
……のっぺらぼうだった!!!
……目が無い!
月鏡の光がのっぺらぼうを捕らえた。
その顔は余りにもつるつるだったので……鏡の様になった。
光が反射して、スクナの顔に当たった。
スクナが吸い込まれる。
そう見えた時、スクナの顔が何かにさっと隠された。
ショウキがスクナの背後から、日鏡を顔の前へ翳していた。
ショウキが鏡の角度を操り、再びアツクの顔へ光を当てた。
スクナとショウキがそれぞれの鏡を少しずつずらせていく。
そして、ぴたりと二つの鏡が重なった。もちろん月鏡が前だ。
「アツク! 目を開け!」スクナが命じる。
アツクの顔が少し強張った。しかし、それだけだった。
「ヒルコ神の名に於いて命じる! アツクよ目を開け!」
アツクの顔の真ん中が縦に割れた。
その下の方から徐々に捲れていった。
捲れた部分が触手の様に伸びて動いている。
上まで完全に捲れると……そこに黒い点が見えた。
左右に二つあるので、それが目だった。
アツクが断末魔の悲鳴をあげて吸い込まれていった。
「ワタミ! 月鏡から出でよ!」
ぽんと月鏡から白い毛玉が飛び出した。
鏡の中にアツク仙人が居た。出してくれとでも言っている様だが、何も聞こえない。
突然、島が揺れ出した。
そして……どんどん縮み始めた。
躰が落ちて行く様だ。
「飛べる者は空に逃げろ~!」スクナが叫んだ。
スクナは天狗面を着けて翼を広げた。
しかし、他人を助ける余裕がない。自分一人で手一杯……
スクナは一人で飛び上がった。
ホウライ山が元のレイキのホウライに戻ったのだ。
黒光りした大きな海亀だ。甲羅の後ろには長寿藻が着いて蓑亀に似ている。
そして、その背の上でブトーとミヤキが抱き合って震えていた。残ったのはこの二人だけの様だ。
甲羅の大きさは大人二人でも充分な大きさだったが、真ん中で固まっている。
「スクナ様~! 助けてください~!」ブトーがスクナに気づき叫んだ。
「そのまま船まで乗って行け!」スクナが冷たく言った。
残りの者の生存確認が先だった。辺りには島に生えていた木が霧散している。そのせいで人の姿が見つけ難い。
探し回るスクナに、誰かが近づいてくる気配で振り向いた。
ククリだった。翼の生えたオコナに跨っている。イカルガがとっさに助けたのだろう。
その先にアギバとアスカが居た。アスカの腕にはワタミが居る。
そして……ショウキも飛んでいた。蜂の羽が着いている。
「これは蜂の比礼です。少ししか飛べませんが……」蜂の羽が着いた衣を着ていた。
「おまえ飛べたのか?」
「隠していた訳ではありませんが、これも……」
スクナが話を遮って捜索に戻った。
アコヤが見つかった。レイキの後を泳いでいた。
そうなると……まだ見つからないのは……ソモンだけだ!
「ソモンがいないぞ! 手分けして探せ~!!!」
飛んでいる者が血眼になって探した。ショウキは木の上を飛び跳ねている。
ソモンは何処にもいなかった……
スクナがブトーの近くに飛んで行った。
「ブトー! 鰐に助けを求めろ!」そう言ってすぐに上空に戻って行った。
ブトーが自分で気づかなかった事を恥じながら角笛を手にした時……
突然、海の中から白い蛟が飛び出した。
カラムだった。そして……すぐに沈んだ。
ソモンが浮いて残された。気を失っている。
「アギバ! ソモンを頼む!」スクナが叫ぶ。
スクナが河童面に代えた。そのまま空から海に飛び込む。かなりの高さだったので飛沫か高く上がった。
上がったスクナの手に……無残にも小さくなった白蛇がいた。
全員が船へ辿り着いた。さすがにレイキは船に乗らないので船で引いている。
飛んできたケイヤにスクナは素気無かった。すぐに一番近い陸に急げと言っただけだ。喜ぶのは後回しでよい。今はカラムとソモンの事で気が気でないのだ。
「ククリ! カラムとソモンの様子は?」
「ソモンは気を失っているだけですが……
カラムが……もう死にそうです……
命の火が消えかかって……
最後の力を振り絞って……ソモンを助けてのでしょう……
何とかマナを与えないと……」
ククリが今にも泣き出しそうだ。
「マナの力か? それならレイキの力だな」スクナは初めてカラムに出会ってから、それしか手立てはないと思っていた。レイキを式にできたなら、真っ先にカラムを助けようと……
突然ククリの表情が変わった。
(カラムは死にません)ヤスが傷心のククリに語る。
(何故ですか?)
(それは……今に判ります)
「スクナ! カラムは死なないって」笑顔に変わった。
「何で?」
「さあ?」
陸が見えてきた。船は全速力で進んでいたが、陸が近づくとその速さが実感できる。
上陸すると、ソモンを叩き起こした。
「ソモン! カラムが死にそうだ!」スクナがソモンの頬を叩く。
ソモンがすくっと起きた。
「ソモン! カラムを助けるぞ! まずはホウライを治せ!」
海岸に打ち上げられたホウライは、話の通り苦痛の表情で涙を流していた。まだ、腹の中に海月の生身が残っていて、毒を出しているのだろう。魂の抜け殻で死んではいる筈だが。
「マナセの秘薬でホウライを治せ!」
ソモンがマナセの壷をホウライの口に押し込んだ。そして中身を流し込む。人が一人、入れる程の大きさだ。
ホウライも薬だと解かったらしい、顎を上げて飲み込んだ。すぐにホウライの苦痛の表情が消えた。
「毒が治まった様だな」スクナがソモンに確認した。
「もう大丈夫だと思います」
ホウライがソモンとスクナの顔を窺った。
にっこりと亀の顔が笑った。
「助けて頂いて、ありがとうございました。長い苦しみから放たれて生き返りました」ゆっくりとした低い声は、その大きな躰からの想像通りだった。
「早速で悪いのだが、しばらくレイキの力を貸して欲しい。お願いできるかな?」
「はい。喜んで。このご恩は決して忘れません」
「言挙げる! レイキのホウライを我が式とする。依代は……アコヤの甲羅」
ホウライが光った。そして、アコヤの甲羅に吸い込まれる。
突然向かってくるホウライに、アコヤが慌てて甲羅に潜った。
緑色だった甲羅が黒くなった。それも白く艶のでた黒光りだ。
「ククリ! 次を頼む!」
ククリが頷いた。
既にカラムの前に居たククリが、鱗を一片剥がした。
カラムの鱗はからからに乾いていて、既に死んでいるようにしか見えない。
その鱗をフル玉の緒に括った。
「それでは、イクタマ(生玉)の法を執り行います」
「レイキのホウライよ! フル玉へ宿れ!」
アコヤの甲羅から、緑の光が飛んだ。
フル玉に吸い込まれると、緑色に変わった。
「ひと。ふた。み……たり。ふるべ。ゆらゆらとふるべ」緑色に輝いた。
「カラムにマナを与えたまえ!」
カラムが光った。
からからの蛇がみずみずしさを取り戻し大きくなっていった。
ソモンが知っている大ミズチになった。
しかし、まだ光が消えない。カラムはこれ以上姿が変わらないのに……いつもの法では終わりに光が消える筈だ。
そう思って皆が見守っていると……やはり、変わった。
蛇の頭が伸びた。人の上半身のようだ。頭ができ、手が二本生えた。
そこで光が消えた。これがカラムの本当の姿だった。
その姿を見たソモンが驚愕した。
それも目を見開いて、相当な衝撃を受けたようだ。
カラムが目を開けた。
「我は、遠きカイラスの国、ナーガのマナサーの神ぞ!」威厳のある神の表情でソモンをじっと見つめていた。
「でも、カラムでいいわ」突然微笑んだ言った。
ソモンはカラムの顔を見つめたまま、微動だにしない。
「ソモン。私は全て思い出したわ。何故あなたに引き寄せられるのかも……あなたの持っているマナセの壷は私が創りました。そして、その薬、シャハラーの作り方も……私が目指していた事も全て思い出しました。だけど……もういいわ! あなたと一緒にいる事にするわ」
ソモンの顔に悲しみの表情が浮かんだ。カラムの復活を誰よりも願っていた筈だが……
一番に喜ぶ筈のソモンの異変に、皆が訝しんだ。
「どうしたの……ソモン?」カラムもソモンの反応に訝しむ。
「……カラム……どうして?」
…………
「なんでその顔をしている! なんでだ~!!」
「なんでって、これが私の顔だからです」
「嘘だ! カラムは変化が得意な筈だ! 術を使っているのだろう?」ソモンが感情的になっていた。
「そうよ」カラムが呆気なく白状した。
「イスズの代わりにでもなったつもりか!」
突然、カラムの表情が泣き顔になった。その通りだったようだ。
黙って成り行きを見ていたスクナとククリの目が会った。やっと意味が解かったのだ。カラムの顔はイスズの顔なのだ。
いつもは冷静沈着なソモンがイスズの事となると人が変わっている。
カラムが泣き声で言った。
「だって……こうなったのも私のせいじゃないの……償いぐらいさせてよ~!!!」
カラムも神とは思えない変わり様だ。
スクナは思った。これは償いではない。忘れようとしているソモンには逆効果ではないのか?
……しかし、ソモンはスクナとは性格がかなり違う。これが償いになるのだろう。ソモンの事はカラムが一番よく知っているのだから。
ソモンはカラムの献身に頼るべきか迷った。
「……ありがとう、カラム。でも、イスズの事はもう諦めたんだ。だから……自分の姿に戻ってくれ」
「嘘です! 今でも忘れられないくせに……それに……私の本当の顔はとても怖いの。ソモンに怖がられるなんて……とても我慢ができないわ」
ソモンはもう心を見抜かれている事を知っている。だからその意図も――
カラムは知っているのだ。この頃は元気を取り戻しているが、心の奥には、今だにイスズが住んでいる事を。普通はそれが思い出に変わるのだろうが、自分の場合はそれができない。最初は忘れようと思っていたのだ。しかし、イスズとの愛が強すぎたのか、自分の心の執着が強いのか……今だ忘れられないのだから、これからも忘れられないのだろう。
そして……心の中のイスズは決して歳を取らない。それ処かどんどん美化されていく。今後、それがどう云う事になるのか……
それをカラムをこう考えたのだ……いつかそれが命を危ぶむ事になるのでは? それならば、美化される事だけでも防がなければならない。そのためにはイスズの姿があった方がよい。そして……それができるのは自分だけだ。自分が身代わりになろう……それで償えるのであれば……
カラムの献身が痛いほど解かった。
「ありがとう、カラム。イスズの姿でいてくれ……」
カラムが姿を変えた。
蛇の足が人の足になる。
完全な人の女だ。
この女を皆は知らない筈だ。
ソモンとカラムだけが知っている……イスズの姿だ。
それも……ソモンの心に住み着いている……美しいイスズだ。
帰りはまず、カリマの所に向かった。
ホウライを助けだした事は、分身のケイヤが知っているので、今更言うまでもない。
しかし、直接カリマに会って目の前で言ってやりたかった。形としては、カリマの敵討ちにもなったのだから。
スクナが会って喜びを分かち合った時、アツク仙人を封じた鏡の処遇を託した。
クマリセとイチルにもゆっくりホウライと対面させた。その時、ホウライが見事海月の抜け殻を排泄した。
そして約束通り、ククリが足玉の法を執り行った。
カリマの目と耳は見事に復活し、噂が瞬く間に広がった。
そして、「呪者求む」の掛け軸が取り払われた。因みに、「強者求む」はカトラが負けた時点で無くなっていた。
その代わり、新しい二枚の掛け軸が作られた。
「天下一の呪者スクナ」と「天下一の強者ブトー」が掲げられた。
港町を挙げての宴が開かれた。醤漬の魚がふんだんに振舞われる。
去り際にカリマが言った。
「この借りはいつか返すぞ! 困った時は、真っ先に俺の所に来い! それでは旅の無事を祈っている」そう言ったカリマの顔はまだ若かった。もう襷は顔に巻かれていない。
次にアマゴの所に向かった。
浦の島に立つ宮へは、スクナとアコヤだけで向かった。
勿論、謁見の時はクマリセの成りではない。
レイキの件を報告した。そして、今はアコヤの甲羅に居るホウライの借用を再確認した。
帰りにアマゴから、玉の返礼にと玉手箱が贈られた。
陸に上がるまでは、決して開けるなとの但し言を付けてきた。
海岸に戻って早速開けようとすると、アコヤが妙な事を言った。
玉手箱の事だった。この箱はクシゲ(化粧箱)で、アマゴがこの箱を贈る時には、必ず中にトシ玉の煙を込めるのだそうだ。アマゴは若返りのワカ玉と歳取りのトシ玉を持っているが、今だ誰もそれを見た事がないとも言う。
それを聞いて、全員が一斉に玉手箱から離れた。
その時、スクナが思い付きで言った。
「そうだショウキ! そのワカ玉なら七才に戻れるかもしれないぞ?」
「嫌です! 私はこのままがいいです」
「スクナ。それは多分、嘘です」ククリが言った。
「乙な姫は、決して若くは見えなかったのですよね? そんな物が本当にあるのならもっと若い姿になっている筈です。私なら必ずそうしますけど?」
「その通りだ! アコヤ! 怖がらずに開けてみろ!」そう言った自分は近づこうとはしない。
「ふえ~! 解かりました……」命じらたのでいやいやながら蓋を開けた。
開けたと同時に、アコヤが走って逃げ戻ってきた。
……箱の中からは煙は立たない。
スクナが真っ先に近づいて、中を覗いた。
中に入っていた物は……海草でできた紙に墨で文字が書かれていた。手紙の様だ。
海中で決して開けないでくれと言った理由は、墨が滲むからであった。
スクナにはその文字が読めなかった。
試しに、河童面を着けた。
クマリセの目でその三行半の手紙を読み上げた。
- 飲んだくれの我が夫クマリセへ -
- もうあなたの事は忘れました -
- 二度とここへは帰って来ないで -
- 妻より -
スクナにクマリセのため息が聞こえた。
その苦悩が解かるような気がした。
辺りは既に夕暮れだった。
丁度それがより寂しさを煽っていた。
山の方から秋風が振り降ろしてくる。
それが尚、冷たく感じる。
その風に紛れて鹿の鳴く声が聞こえた。
哀れに鳴く鹿の声が悲しいかな……