棚幡女(たなばたつめ)
テコナの村に着いたのは、フミツキになったばかりの頃だった。
村は先住の土蜘蛛族の末裔だ。昔は穴居に住み、入墨をしていた。
今でも、もっと山奥の村や北に追われた部族ではそうしている。
テコナはここの村の長ソウジの娘だ。そして、ソウジはスクナの祖父でもある。
スクナはソウジを初めて見た。もちろんソウジもスクナを見るのは初めてだ。
真っ先にククリが、おじい様と言いながら飛び出した。
ソウジは風格漂う翁だった。深い皺が目立ち、髭を長く蓄えている。体の方は丈夫そうだ。腰がしゃんとしている。
ソウジはククリの顔を見て仰天した。ソウジはククリの痘痕顔しか知らなかったのだ。
「痘痕はどうした?」
「あれは母上が付けた魔除けでした」うつむいて白状した。
ソウジがテコナを見る。
テコナが笑っている。
「こんなに美しい娘であったなら、村の中に幾らでも相手がおったものを……それがテコナの狙いであったとは」そう言いながらソウジが笑顔になった。
そして……スクナを見た。
「スクナか?」愛おしそうに言った。
「スクナです。おじい様」
「わしが死ぬ前に、よくぞ会いに来てくれた」スクナの肩をぽんと叩く。
「私もです……」
「自分の家と思って、ゆっくりしていきなさい」
その晩はソウジ一族が集められ宴が開かれた。
スクナ達は紹介を兼ねて、今までの旅の話を披露した。
百合根の団子を喜んで頬張っていたソモンが、アギバのカタワレの話で突然手を止めた。切ないと同情の涙を流した。感情を取り戻して元気になった証しであろう。
そのアギバの件で、ククリがテコナに用件を切り出した。
星読みをしてほしいと、それも七日まで余り日が無いので今夜にでもと懇願した。
唐突な頼みであったが、和やかにテコナは即答した。アギバの気持ちを汲んでくれたのではあろうが、何より可愛い娘の頼み事だからと言った。その言葉と、その努めた態度に母親の愛情が溢れている。久しぶりの再会を惜しむこともなく、宵の口に始めましょうと言って、準備のため先に座を外した。
楽しい時は瞬く間に過ぎ、宵の口が迫ってきた。
折もよく今宵は晴れている。朔で月の光はなかったが、星読みにはその方が良く見えるのである。
スクナとククリが星明りを頼りに裏山の丘へと向かった。
そこにはテコナが先に着いて待っていた。
テコナが二人の気配を感じ振り向いた。
「スクナ、ククリ、こちらへ」両手を広げて二人を誘う。
スクナが右側へ、ククリが左側へ、それぞれ脇に着く。
テコナが二人の手を取った。
「この世の全ての者は……星のめぐりで運命められているのです。あなた達二人は生まれた時から既に、出遭う事になっていたのです。本当に愛せる人は唯一人……相手は一人しかいないのです……この広い世に名も知らぬ同士が引き寄せられる。こうして手を繋いでいると……私があなた達の赤い糸だったのですね。……それではアギバ達の運命めを見てみましょう。その思いが遂げられるかどうか。アギバの事を思って、宙を仰ぎなさい」
宙は一面の星で埋め尽くされていた。三人は雲一つ無い東の空を見上げた。
…………
「キュウ(宮)が見えてきました」
…………
「ひと際輝く三つの星が見えますか?」
「はい」スクナとククリが同時に答える。
「一番上で白く輝く星が……ククリです」
「その宮は……琴! 琴は龍でもあります」
…………
「その右下に川が流れています。その先にある赤く輝く星が……スクナです。スクナの星には三つの伴い星が重なっています」
「その宮は……鷲! 六つの星で姿をなしています」
「あら! 今、宮が変わった……」
「今度は首を長く伸ばした亀ですね」
「……その右には蛇使いがいます。左にも何か見えました……」
「それは……狐ですね。ククリとスクナの丁度真ん中で、スクナを見つめています」
…………
「そして……二人の左下の三つ目の星が……あれがアギバのカタワレですね」
「その宮は……白鳥!」
ククリが即座に反応した。
「天狗の女に関係がありますか?」ククリが訊いた。
「天女は白鳥に姿をやつして舞い降りると云われていますね」
天狗の女とは天女の事である。天狗の掟に触れる事は誰にも話していない。
「母上! タナバタツメ(棚幡女)をやってみます」
棚幡女とは……フミツキ(七月)七日に行う神事である。巫女がサニワ(審神者)となって先祖の精霊を呼び出す儀式である。
翌日、ククリが一同を集めた。
「アギバのカタワレを探す手立てが見つかりました」
アギバが真剣に見つめている。ククリを斬り付ける程に……
「七日に棚幡女を執り行います。そこで精霊として呼び出せるかもしれません。その備えに皆さんの手助けが必要になります」ククリが見回す。
皆が頷いた。
「ショウキ。あなたは白鳥を探してきて下さい。決して傷付けないようにね」
ショウキが頷く。
「ミヤキは精霊棚を作って下さい。そうね、ブトーが手伝って」
ミヤキとブトーが頷いた。
「ソモンにもお願いがあります。幟を作って下さい。クスリと書いた物と同じ物を。布はミヤキから貰って下さい。後、当日は日鏡を貸して頂くわ」
ソモンも頷いた。
「私くしは?」最後に残ったアギバが訊く。
「あなたは七日まで清めていて下さい」
アギバも頷いた。
「俺は?」スクナもいた。
「あなたは何もしないでいいわ。母上の側にいてあげて」優しく微笑んだ。
「棚幡女には笹の葉を使うのではなかったか?」
「今回は、精霊ではないからいらないわ」
「みんな! 七日までには必ずお願いね」
……そして、フミツキの七日になった。
時は夜明の晩。
既に一同が集まっていた。
正面に精霊棚が置かれ、その上に日鏡、白い布の幟、ランの白い羽が用意されている。
ククリ一人が正装して祭壇の前にいた。
そのすぐ後ろに、アギバが改まっている。
ククリがアギバへ振り返る。
「アギバ。カタワレに名を付けて下さい。名が必要になります」
「……それでは、アスカと」
ククリが幟を手に取り名を記した。
-アハシマのホウオウ党霊アギバのカタワレ アスカ-
「それでは、辺都鏡の法、及び棚幡女を執り行います」辺都鏡はアギバに教わった術だ。
ククリが白い羽を右手に取った。
「出よ! ラン!」右手を掲げた。
外が徐々に赤くなったと思うと、すぐに炎の鳥が入ってきた。そしてホウオウの姿になる。
「何よ! こんな真夜中に!」寝ていたのか不機嫌だ。そのわりにはすぐに来た。
「ごめんね、ランちゃん。早速で悪いんだけど、急いでるの」
反応も待たずに急く。
「ランよ! ヒカガミに宿れ!」
ランが日鏡に吸い込まれた。
ククリが左手をアギバに差し出した。右手にはランの羽を握ったままだ。
「アギバ。私の手を取って。アスカの事を思って……」
アギバがすがるように両手を差し伸べた。ククリの左手が包まれる。
「それでは行ってきます」ククリが言ったが、何処に行くのか。
ククリが目を瞑った。
「ひと。ふた。み。よ……」数える毎に日鏡の赤い輝きが増していく。
「……ここの。たり! ふるべ。するするとふるべ」
その呪文が終ると、ククリが止まった。
ククリは何処にも行っていない。
実は、この場にいる者には見えていないだけだった。
ククリがもう一人いて、この様子を見ていたら判ったであろうが。
ククリの四つ魂の一つが抜けて、鏡の中へと入っていったのだ。ランの力を借りて。
その後ろを尾を引いた霊代が付いていった。ヤスであった。危険を伴うと云う事だ。
ククリは今、闇を突き抜けている。その前には炎の鳥が先導している。
……そして、見つけた。
前方に光が見えた。それが徐々に大きくなってくる。
それは鏡だった。日鏡ほどの輝きはない。
間近まで来ると、その中に何かが見えた。
女の姿だ。これがアスカに違いない。アギバのカタワレは鏡の中に囚われていたのだ。鏡の中は常世である。
見つかればもう用はない。ランと一緒にすぐさま戻った。
ククリが目を開けた。
「アスカを見つけたわ! アギバ、ヒカガミを見て!」
アギバは既に凝視していた。
そこには、先程の鏡と中に女の姿が映っていた。
すると……
凝視するアギバの左手の小指から炎の糸が伸びてきた。
糸が鏡の中へと進んで……瞬く間にアスカの小指へと繋がった。
「アギバ! 速く糸を手繰って!」
アギバが無我夢中で糸を手繰る。
鏡の中のアスカが見る見ると大きくなった。
日鏡から抜け出したと思った時……
突然、鏡から光が溢れた。優しい光だった。
その光が徐々に纏まって、女の姿に変わっていった。
アギバの前に、産まれたままの姿の美しい女が現れた。
「我がカタワレよ……」アギバが震えている。
二人の間を炎の糸が繋ぐ。
アスカはまだ周りが見えていない様子だ。
光が完全に消えたと同時に、その姿が薄れ始めた。
「ショウキ! 白鳥をここに!」ショウキが鳥篭に入った白鳥を素早く運ぶ。
「そうだ! 白鳥の名を決めていなかったわ」ククリが珍しく如才を放つ。
「ハグイ」スクナが決めてしまった。
ハグイは白鳥の別名でそのままであったが、急がねばならない。ククリが式を執った。
「言挙げます! この白鳥の名はハグイ! ハグイを我が式とする」
白鳥が光った。それと同時にショウキが籠から放した。白鳥は式を執ったので逃げ出さない。
「アギバのカタワレのアスカを我が式とする。依代はハグイ」
光を帯びたアスカがハグイへと吸い込まれた。
その光が薄れていく。
それが完全に消えた。
「続いて、足玉の法を執り行います」
ククリが白鳥の羽を一本引き抜く。
ミヤキがフル玉を掲げククリに渡した。
羽を玉の緒に刺した。
外のオコナを確かめると。
「キリンのイカルガよ! フル玉へ宿れ!」
オコナの角が消えて、黄色い光が飛んだ。
フル玉に吸い込まれると、黄色に変わった。
「ひと。ふた。み……たり。ふるべ。ゆらゆらとふるべ」黄色く輝いた。
「アスカの現身よ! 出よ!」
白鳥がどんどんと大きくなった。
女の姿になって先程のアスカの姿が現れた。アスカが生身を得た。
その小指の糸はまだアギバへと繋がっていた。
アスカが糸を手繰ってアギバに気づいた。
アスカが近づいて、アギバに包まれる。
アギバが感涙に咽る。
待ちに待ったこの時がきたのだ。しかし、何も言葉が出ない。アギバには言いたい事が山ほどあるだろうに。
アギバが思い出したように、懐から団扇を取り出した。
アスカが受け取る。
これからアスカは羽衣を織るのだろう。
その時、ククリが日鏡へ振り向いた。
鏡の中に黒い点が浮かんできた。
それがどんどんと大きくなって……黒い獣らしき形になった。
辺都鏡の法を終らせていなかったので、常世が映し出されたままであった。日鏡にはまだランがいるのだ。
「ランよ戻れ!」ククリが慌てて言った。
ランが抜け出すと、日鏡の光がふっと消えた。
魔が物がアスカの後を追ってきていたらしい。あれがアスカを鏡に閉じ込めていたモノだろう。危ない処で間に合った。
……アギバとアスカは、そんな事にもお構いなく、見つめ会ったままだ。
「二人はこのままにして休もう」スクナが皆に言った。
翌日は、アギバとアスカの披露の場となった。
ソウジに村の集い場を借りた。
二人はあのまま寝ていないのだろう。いや、眠れないだろう。
アスカはもう羽衣を羽織っていた。
皆はその早業に驚いた。それにどうやって織ったのかも判らない。多分、織っている処を見てはいけないような……そんな秘密の匂いがする。
それより、重大な事が判った。
アギバが言った――
アスカは言葉が話せないのだ。話し掛けた言葉は解かっても、それに応えて口をぱくぱく動かすだけで、声が出てこないのだと。
これは仕方の無い事なのか。アスカはまだ現世に産まれてきていないのだ。本来は、アギバと一緒に産まれる筈であったのが、何が原因なのか囚われてしまい、今までずっと鏡の中にいたのだ。その影響で声が出せないのか……その内言葉を話せる様になるだろう。そう思うしかないと……
その披露宴では、特別にホウオウのランを招待した。二人に縁があるからだ。尚且つ、アギバのカタワレが見つかった事をホウオウ党霊に知らせる為だ。
宴の途中でテコナが現れた。アスカに祝いの品を携えていた。ガタガキ(琵琶)であった。葛の葉を模った小さな琴だ。子供の時に亡くなったテコナの妹ウルマの形見だと言う。これをアスカへ贈った。
アスカが喜んで琵琶を抱えた。始めはやたらめったらに弦を弾いていたが、少しづついい塩梅になってきた。
それを見ていたアギバが何かを取り出した。
ホウオウを模った物だ。アギバが、これはホウオウ党霊だけが扱える楽器で笙であると言った。
皆は、アギバが楽器を扱う事も知らなかったし、その楽器を見るのも初めてであった。どんな音色なのか皆で興味を寄せる。
しかし、アギバがなかなか始めない。じっと手のひらでそれを握ったままだ。焦らしている訳ではなかった。暖めていたようだ。やっとそれを口に持っていった。その不思議で幻想的な音色に皆が歓声をあげた。
ランが羽ばたいて特に喜んだ。
いつしかアギバの笙の音色にスクナの龍笛の音が重なった。アスカの琵琶にもククリの和琴が……そして、気づくと他の者達がお囃子衆となっていた。
ブトーが大太鼓、ミヤキが小太鼓、ソモンが鉦、そしてショウキが持った物が笏拍子だった。
この笏拍子は天神から下賜された最後の一つである。ククリがショウキに委ねたのはつい先日だ。夏に白鳥を捕らえてきた難儀に対する褒美だった。楽の中で笏拍子を扱う者は音取を意味する。ククリはショウキがそれに値すると踏んだようだ。スクナもこの事には納得した。
ショウキが笏拍子を十字に構えて打ち鳴らした。ツルバミ(櫟)の乾いた音が響く。途端に打ち合わせしていたお囃子衆がぴたりと会った。即興の祝りの楽奏が始まった。この時、初めて三つの楽器の音が重なったのだ。
……するとアギバの笙から火の玉が飛び出した。それがゆらゆらと漂いアスカの口へと吸い込まれた。アスカが一つ咽ぶと突然立ち上がった。
「舞いまする」アスカが突然言葉を発した。すこし呂律が回っていないが。
テコナがその声を聞いて驚いた。それはウルマとそっくりな声だったからだ。
周りからも喜びの様子が窺える。しかし、自然と手が止まらなかった。
この場の空気が何か華やいできた。
龍笛と和琴と笏拍子が合わさって、歓喜の鎮魂になっている。
いつの間にか、周りを村人全員が集まって囲っていた。皆が笑顔だ。イカルガのオコナも嘶く。
アスカが中央に踊り出た。
アスカが舞った。天女の舞だ。
ククリも堪らず踊り出た。
ククリは鶴の舞。
白鳥と鶴の二人舞になった。
左舞がアスカで様になる……
右舞がククリでさすがに上手い……
その内ククリがはしゃぎだした。
アスカも舞い上がる。
「今度は私が花になるから、アスカは蝶になって」ククリが言った。
ククリが初めて見せる無邪気な様子だ。
村が一時、祭りになった……
去り際にテコナがスクナに言った。
「ククリの、あのはしゃぎぶりは、私も初めて目にしました。あの子は……私が痘痕を付けたせいで友達と呼べる者が一人もいませんでした。箱入り娘同然に育ったのです。だから、アスカはククリの初めての友達ですね。……そしてここで子供の頃に忘れた物を取り戻したのだと思います」
「私も……子供の頃の忘れ物を取り戻しましたよ。母上と楽しい時を過ごせました」
母と息子が微笑み会う。
その時、アギバの罵声が響いた。
「アスカ、余り付け上がるな! 我らは供の者だ、わきまえろ!」笙を手にしながらアギバが野暮な事を言った。
「すみません」アスカが謝った。
「構いませんよ。アスカは私の友達ですから」ククリが弁解する。
一同がアギバの異変に気づいた。
等のアギバは……泣いてアスカを探してくれと頼んだ頃の面影もない。まるで別人だった。
この時から、アギバの愛しみの心が表れなくなった。一貫して厳しい天狗となる。これ以降、アギバは二度と涙を見せなかった。これも天狗の宿命だ。あの火の玉はアギバの心が作った愛しみの炎だったのだ。
それを知ったククリが悲しい表情になった。そして語った……人にも産まれつき三つ魂がいるそうだ。荒魂が無い臆病者。奇魂が無い愚か者。和魂が無い嫌われ者。幸魂が無い厳格者ないしは薄情者。
この原因も語った。シムゲと言う邪神の仕業らしい。産まれる間近を狙って魂を一つ奪って行く。人を不幸にして喜ぶ邪神だ。この不浄の邪神を嫌う事から、その時期を触穢と云って遠避けるのではないかと……
「そうでしたよね? 母上」
テコナが頷く。
序にと、ソモンが言い出した。
「ショウキ殿は、どのようにしてあの白鳥を手に入れたのですか? 夏に白鳥はいない筈ですが、どうか種明かしをして下さい」どうしても気になると云う態度だ。
「種明かしですか? そんな大層な事ではありません。山奥のマタギがたまたま白鳥を捕らえていて飼っていたのです。羽を怪我して帰れなくなっていたそうです。それを譲って貰いました」
「只で貰えましたか?」
「いいえ。雉十羽を吹っかけられました」
「そうでしたか。これで納得できました」ソモンは細かい性分のようだ。
……これでアギバとアスカの件は、誰もが方が付いたと思った。
そして……夜になった。
皆が寝静まった真夜中の時である。
庭に白い子猫が現れた。鈴を付けているので何処かの飼い猫だろう。
ちり~ん! ちり~ん!
アスカが目を醒ました。
鈴の音に近づいて行く。
戸を滑らし外を見た。
アスカが白い子猫と目が会った。
「見つけたぞ! 我が舞子よ」猫がしゃべった。
それと同時に、子猫がどんどん大きくなり始めた。
大きな黒い化け猫となった。
日鏡を追いかけてきた黒い獣だった。ここまで辿り着いたのだ。
アスカは金縛りになって身動き一つできない。
ククリが真っ先に気づいた。
「どうしたの? アスカ」ククリが近づいた。
化け猫がククリに気づいた。
「おまえは……あの時の巫女だな」不敵に微笑んだ。
今度はククリも金縛りになった。
ククリはこの化け猫を知っていた……七才の天神参りで……
「とんだ所でいい物を見つけたぞ! もうこいつには用はない!」
アスカには目も触れず、ククリだけを見つめていた。
この騒動に全員が目を醒ました。
しかし……スクナだけがまだ寝ている。いや、これは神入だ。
(スクナ。次の敵は動きが速い。三面祓いの前に動きを封じる技が必要になる。だから、縛りの術を教える。しかし、今回は俺ではなくカツラギだ)
スクナが神入りのまま天狗面を取り出し被った。
(スクナ様。今から天狗の秘術ノブスマ(ムササビ)縛りをお教えします。これはコホシ(九星方陣)の力で敵を金縛りにする技です。細かい件はこの様に……まず左手で左の方陣を作ります。手筈は頭に縦三、横三の九星方陣を浮かべて下さい。そして今から言う順に指をなぞります。一が中の上、二が右の下、三が左の中、四が左の下、五が中の中、六が右の上、七が右の中、八が左の上、九が中の下。これが縦横斜め全てが足して同じ数になる九星方陣です。続いて、右手も同じ様に作ります。こちらは、一が中の下、二が右の上、三が左の中、四が左の上、五が中の中、六が右の下、七が右の中、八が左の下、九が中の上。これで左右に二つの方陣ができます。両手を合わせて左右の方陣を重ねます。すると、それがノブスマの形となります。これを敵に向かって「縛れ」と言い放って下さい)
スクナが戻った。
ククリが目の前にいた。その先には化け猫だ。スクナが敵を確認した。
「アギバ! 明りを灯せ!」スクナが命じる。
アスカを抱き抱えていたアギバの指先から炎がほとばしって、燭台に火が灯る。
化け猫がくっきりと浮き上がった。
それを見たミヤキが悲鳴をあげた。
ブトーがその前へ立ち塞がる。
化け猫の後ろに回りこんでいたショウキが、浮き上がった影に蜂の針を投げつけた。
影踏みが決まった。
スクナがその隙に裏口から庭へ回りこむ。その位置だとククリに遮られ術が放てない。
化け猫が大口を開けた。もう影踏みが解けかかっている。
ブトーが剣を抜いた。
ショウキが大蛇の牙を構えた。
スクナが九星方陣を張る。
化け猫の口から鏡が出てきた。アスカを封じていた鏡だ。
鏡が光った。
ククリがそれにすっーと吸い込まれていく。
鏡の寸前で止まった。左目が光っていた。
鏡の前でククリがにらめっこをしている体裁になる。
スクナがノブスマを放った。
化け猫が痺れて震えている。金縛りが決まった様だ。
すかさず三面祓いに入る。
ブトーが飛び出して、化け猫目がけて早業を繰り出す。
しかし腰が退けていたのか、剣が外れて尻尾を切り取った。
よく見ると、ブトーの足は震えている。
その隙にソモンがククリを取り戻した。
スクナが八方陣を投げつけた。
しかし、それが届く前に化け猫が消えた。尻尾が切らた拍子に、ノブスマが解けていたのだ。
八方陣が残された鏡に当たった。
その勢いに、鏡から光だけが飛び出した。鏡から離れた光が、何故か消えない。
光が徐々に薄れていく。
それは……白く丸い毛玉だった。
その毛玉から足が出た。
そして……長い耳が出た。
「これは……何だ?」スクナが誰でもなしに問う。
…………
誰も知らなかった。
まん丸の兎に見える。
スクナがククリを探す。ククリに断じてもらおうと……
しかし、ククリはソモンの脇で震えていた。
スクナがククリに近づき、抱き寄せた。
「大丈夫だよ。ククリ。もういなくなった」
しかし、ククリの震えは止まらない。
スクナがこんなククリを見るのは初めてだ。余程、猫が嫌いだったらしい。
思わずククリに言った。
「ククリ。かわいいよ」
すると、ぴたりと震えが止まった。そっと顔を上げ、スクナを見る。
口元は笑っているが、目が怒っていた。
「そうだククリ。あれを見てくれ」慌てて目線を反らした。
ククリが丸い兎を見定めた。
そして首を横に振る。
「あれは聖なる獣ではありません。見かけによらず荒れた質です。それに……あの物の怪の手先ですから……」
スクナはその理由だけで得心しなかった。スクナには聖獣に見える。そして、ククリの言い方が嫌悪のよる偏見に思えたからだ。
ククリを抱き寄せた。
(ヤス様。あの獣は篭目封じに使えませんか?)
(だめです。あれは現世の獣ではありません。月の玉兎です。玉兎は現世では力を出せません。それに聖なると云う点でも難があります。
……そのまま連れて行くのがよいでしょう。いずれ何かの役に立つかもしれません。そして、いつか月に帰してあげなさい。
しかし、鏡に封じるのは止めなさい。どうなるかは、もう解かっているでしょう?)
今度はスネが忠告してきた。
(念の為、式にしておいた方がいいぞ。こちらに害が及ぶ前に。間違って鏡に封じられては大変だ)
スクナが玉兎を見た。今はアスカの腕の中にいる。とても凶暴には見えないが。
「ククリが式にしてくれ」スクナが言った。
「嫌です」即答だった。
「仕方ない……言挙げる! この玉兎を我が式とする。名は……ワタミ」
玉兎が光った。
「スクナ様! 申し訳ありません!」ブトーが突然、土下座した。
変な顔の失意の表情だった。
「気にするな! 祓いが決まっても、あいつは死ななかったさ」スクナは諦めも早い。
辺りに鏡と化け猫の尻尾が残った。
尻尾は蛇の様にうねうねと動いている。
その内、地の中へと消えていった。
「ブトー、この鏡はおまえが持っていろ! 化け猫が取り返しに来るかもしれないぞ」少しは根に持っていた。
ブトーが青ざめた。
そして……ミヤキが笑う。
その後、ショウキ、アギバ、ブトーが手分けして化け猫を探してみたが、何処にも痕跡はなかった。
唯、尻尾が消えた処に、どす黒い血の跡だけが残っていた。
スクナ一行が立ち去った後、そこに尻尾のない化け猫が現れた。
血の跡の周りをうろうろしている。どうやら切られた尻尾を探している様だ。
化け猫が子猫の鳴き声で鳴いた……
しかし……見つけられない様だ。
……小首を傾げて諦めて立ち去って行った。