蛟
サシの国に入った。
テコナの居る村はもっと山奥だ。その村をククリはもちろん知っている。九年間テコナの元に居たのだから。
今はまだその途中だ。目の前にはチマタ(街)が広がっている。ちょうど市が開かれていた。山の幸と海の幸との物換えの場だ。その他では、布の反物や貴重な金物がある。絹や黄金と云った貴い物はないが、そう云った棚(店)がたくさん並んでいた。
この街にククリは来た事があると言った。その薄ら覚えの中、ククリの目にひとつの店が留まった。そこには、-ククリ-と幟が立っている。
思わずククリが近づいた。近づくに従って胸騒ぎがする。しかし良く見ると、それは-ククリ-ではなかった。△に縦棒の-ク-と△に横棒の-ス-を見間違えたのだ。-クスリ-であった。
その店は屋根をぼろで張っただけの粗末な出来であった。中を窺うと、その中に男が一人いた。
突然、ククリが店から逃げた。
一目散にスクナの元へ。
「スクナ! 早く来て!」
スクナがその店に連れて来られる。残りの者も訳も判らず慌てて追いかけた。
三十路の男が薬を売っていた。全身衣が薄汚れている。元は白かったようだが。
脇にソハの笛(法螺貝)があるので、放浪していたと伺えるヤマフス(山伏)だ。
顔は彫が深くやせ細っていた。目に生気がなく、気枯れしている。
「三つ目が見つかったわ」ククリが耳打する。
スクナがこいつが聖獣かと云う表情をする。
「箱の中にいるわ」ククリが明かす。
脇に薬箱がある。背に担げる様になっている箱だ。
ククリがその男に話かけた。
「あなたにはミズチ(蛟)が憑いています」
男が反応した。ククリをそのまま凝視する。
瞳には、救いの女神が映っている。
男が頷いた。
脇の箱から引き出しをひとつ開けた。
その中から、とぐろを巻いた小さい白い蛇が出てきた。
こちらもかなり弱っている。ミズチならこれ程小さい筈がない。
「カラムと言います」男がか細い声で言った。
スクナがククリを窺う。
ククリが頷く。
スクナが訊き役に代わった。
「私は旅の巫でスクナと言います。こちらが妻のククリ。後ろは供の者です」
こちらが名乗っても、名乗り返さない。
「あなたの連れているカラムは聖なる獣です。そしてあなたに取り憑いて精気を吸い続けています。このまま放っておくと死んでしまいますよ」
「それでも構いません」無気力だ。
「そんな訳にはいかない。私はそれを止める事ができる。どうでしょう、やらせて頂けますか?」
「お好きなように」
「それにはカラムを我が式としなければなりません。それでもよろしいか?」
「……御勝手に」少し躊躇があった。
「まずそなたの名を訊ねる」
「トサのシシ(獅子)党霊がマナセの・・・・・・ソモン」
「シシ?」聖獣の名だ。父キビトが言っていたのを思い出す。しかしそれは後回しにした。
「何か依代にする清いものはお持ちか?」一応訊いてみた。
ソモンが薬箱から光る物を出した。
それは……輝くばかりの白銀の鏡だった。
それを見たスクナとククリが仰天した。
その白銀は……篭目封じで使うホキの材料と成りえる程の白銀だ。
この男は何者だ! ――とスクナの興味が膨らむ一方だ。
訊きたい事が次々と起こるので、場所を改める事にした。
ソモンも了承してくれたので移動の準備を勧めた。
その時、ソモンが足を投げ出した……
右足が無かった。膝から下が無くなっている。
これも訊いてもいいものかとスクナが悩む。
ソモンは杖を突いて付いて来た。
まず、宿を探す事にした。街ともなれば一つや二つはあるだろう。
ククリが知っていたので、そこに向かった。
その宿の前には少年がいた。
「ここは宿かな?」スクナが訊いた。
「そうだよ」
「馬屋もあるかな?」
「あるよ」案内にしては無愛想だ。
「お代は何でもよいか?」
「それはととに訊いとくれ」宿屋の息子のようだ。
その時少年がソモンに気づいた。
「あっ! びっこだ! びっこは入れないよ」
「何故いけない?」
「ケガレモノだから。ととがそう言った」
その時、主人と思われる男が出てきた。慌てて息子を奥に去らせる。中で話を聞いていたのだろう。
いきなりスクナが旅の巫であると言うと態度が変わった。
「息子がとんだ戯言を言い大変失礼しました。部屋は空いておりますのでどうぞ奥へ」宿主は巫と見て手のひらを返した。
その店の中には到る所に神が祭ってあった。柱や戸に札が貼ってある。多分、勝手周りはもっと多いのだろう。商い柄、妨げになる魔が物を避けているのか、穢れを嫌うのも頷ける。
しかし、ソモンを穢れ者と言った事は許せなかった。障り者が必ずしも穢れ者とは限らない。
部屋へ通されると、すかさずスクナが宿主に言った。
「びっこは穢れているのか?」
「巫様どうかお赦しを……」
「それとも、穢れているからびっこになるのか?」
「私くしにその様な難しいことは……」
「後で息子をここに連れて来い!」スクナが言い放つ。
宿主が気まずい顔をして、いそいそと去って行った。
スクナが座に着くと、ククリに訊く。
「ソモンの失われた所はどうなっている?」
「霊代はちゃんとあります」
ククリがスクナの意図を見抜いている。この夫婦はもう以心伝心だ。ククリがスクナへ耳打して何事かを話しかけた。
そして、ショウキに頼んだ。
「この部屋から見える所に、オコナを連れて来て下さい」
ショウキが場所を確認し、すぐに出て行った。
それと入れ換えに、早速宿主が息子を連れてやって来た。
「このたびは誠に失礼な事を言い、平にお詫び致します」言葉通り二人がひれ伏した。
「もう二度と息子にびっことは言わせません」当の息子は形だけでひれ伏している感じだ。
「びっこと言わなくなれば、それで済むと思うか?」スクナが脅す。
親子が顔を上げた。二人とも戸惑った顔をしている。
親の方は、謝れば収まると思っていた様子だ。これ以上何をせよと言うのか予測ができない表情で。
子の方は、全く悪びれていない。親の言葉をそのまま言っただけなのにと云う表情で。
「言われたソモンは酷く傷ついているぞ」
当のソモンは何とも思っていない様子だ。
「言葉ではなく、その言霊を刈らねばならぬな」
親子には、その意味が解からず沈黙している。
「ブトー剣をよこせ!」
ブトーが大剣を差し出す。
スクナが鞘を抜いて息子に近づく。
親子が仰け反る。
「右足を出せ!」
「どうかご勘弁下さい! それだけは何卒」スクナの足にしがみ付き、宿主が泣きついた。
スクナが息子に言った。
「今から思い描いてみろ! その右足が無くなってからの自分の暮らしを…その先の生き方を…もう走る事もできないぞ! 嫁も来なくなるぞ!」
息子の表情がさっと変わった。
一同が見守る。特に親の方が。
「そして、びっこであると云うだけで除け者にされる。蔑まれる。謂れ無き事にもはばかられる。そんな暮らしを思い描いてみろ! それとも……成って見ないと解らないないかな?」
スクナが親を引きずった。大剣が迫る。
「どう思う?」スクナが優しく言う。
「……ごめんなさい」息子が泣いて謝った。
どうやら言霊は刈られた様だ。特に親の方が。――子は親の鏡。
スクナが剣を収めると、ブトーが破顔した。
安堵した親子にスクナが言う。
「序でに、びっこが穢れではない事を見せてやる」
スクナがククリを促がす。
「それでは、タルタマ(足玉)の法を執り行います」
ソモンを前へ連れ出して、ソモンの髪を一本引き抜く。
ミヤキがフル玉を掲げククリに渡す。
髪の毛を玉の緒にした。
外のオコナを確かめると。
「キリンのイカルガよ! フル玉へ宿れ!」
オコナの角が消えて、黄色い光が飛ぶ。
フル玉に吸い込まれると、黄色に変わった。
「ひと。ふた。み……たり。ふるべ。ゆらゆらとふるべ」黄色く輝いた。
「ソモンの右足よ! 出よ!」
ソモンの右足の膝から下が黄色く光った。
光が消えかかると、膝から足が生えてきた。
「ああ~」ソモンがうめく。
それは、単に右足の再生への衝動のうめきであった。
ソモンには、足が戻った事への喜びが感じられない。今だ無気力のままだ。
足を失った事がその原因ではなかったようだ。
逆に驚いたのは、周りの者であった。
特に、宿主はククリを拝んでいる。なんとあらたかな巫様だと。
ククリがイカルガを戻すと、スクナの番になった。
「次に、カラムの式を執る」
そこで少し考えてから言った。
「先ほどの鏡はちともったいないので、その腰の壷では如何か?」
ソモンは腰に壷を下げていた。その壷は茶色く変色しているが、元は白かったようで姿が美しい。下が球となり、そこから上へ筒が伸びて先が広がっている。百合の花の様に。
「……構いませんが」少し躊躇した。
「その壷に名は?」
「これは我が家に伝わる……マナセの壷」
スクナが頷く。
「それでは始める。カラムをここへ」
アギバが引き出しを開けカラムを運んだ。
「言挙げる! ミズチのカラムを我が式とする。依代はソモンのマナセの壷」
カラムが光った。そしてすぐに、マナセの壷へと吸い込まれた。
吸い込むと同時に壷全体が光り始め、それが徐々に消えていくと、くすんだ茶色が純白に変わっていた。本物の百合の様に。
ソモンの目付きがすっと変わった。目に生気が宿ってきた。
無気力の原因はミズチであったのだ。
ソモンの閉じこもった意思が目覚めた。今までは、殻に閉じこもっていたようだ。
しかし、その表情がなぜか切ない。その内、ソモンの顔がうつむいた。
ククリが問い掛けた。
「ソモンには何か悲しい事があったのですね?」
ソモンの感情の篭り始めた口が、ゆっくりと開いた。
「はい。私くしは……もう人生に絶望しています」
「その歳でもう諦めてしまったのですか?」
「そうです。まだ二十二ですが」
その場の誰もが、驚きの顔になった。三十路とばかり思われていたのだ。
「それでしたら、その訳を話してみる気はありませんか? 誰かに話すだけで気が晴れる事もありますよ?」
「そうですか……」
ソモンが再生した右足を摩りながら、ククリの技の凄さを実感し始めた。
「それなら……この際なので、私の苦しみを全て吐き出します……」
うつむいていたソモンが顔を上げると、身の上を話し始めた――
北のトサの津(港)にマナセと言う姓を持つ薬師の家柄があった。
その家にソモンと言う息子がおり、十八の時、父からマナセの壷を譲られた。それは後継ぎになった事を示した。そして、その壷で作られる秘伝の霊薬の製法を伝授された。
それを期にソモンは結婚した。相手は幼馴染の娘でイスズと言った。しかし、ソモンにはイスズを取り合った恋敵がいた。サモロと言う同い年の親友である。サモロは落胆しながらも二人を祝福してくれた。
そんな幸せもあっと言う間に終ってしまった。
結婚して一年程経ったある日、村に大水が起こった。
村人は取りも直さず逃げおおせた。早くに気づいたので死人が出ずに済んだ。
しかし、丁度使いに出ていたソモンだけが、家に戻ってきた。
ソモンが気づいた時には、もう手遅れであった。辛うじて家法の鏡だけを懐に入れ、大水に飲み込まれてしまった。そのまま海まで流された。
……ソモンは何処かの海岸で目覚めた。
しかし、何も思い出せない! いや、微かに頭にある場面が浮かぶ……目の前に女……と向かい合っている……その女は笑顔を湛え……イズズ! 妻のイスズだ。そして……私の事を……ソモンと呼びかける。そこまでだった。
その時、自分が何かに寄り添っている事に気づいた。
白い大きな蛇だ。脇に白いミズチがどぐろを巻き横たわっていた。ソモンは驚いた。
飛び上がろうとしたが、体が重くてそうは行かない。ゆっくりと身を起こす。
振り返るとミズチに動きはない。ミズチは眠っていた。それも疲れ切って死んだように。もしかして本当に死んでいるのか?
そっと触れてみた。仄かに暖かい。そして到る所に傷があることに気づく。
そう云えば、自分の身には擦り傷一つ無い、有るのは、鈍い頭の中の痛みだけだ。
もしかして、このミズチに助けられたのか? ソモンはそのまま、そっとしておく事にした。
まずは、辺りを見回した。静かなさざ波が立っている、狭い入り江だ。この場所がどこかも判らない。そもそも、自分が何処にいたのかも思い出せない。
「気いがついたかへ?」ミヅチが目だけを見開き、話しかけた。
ミズチは寝むってはいなかったようだ。じっと休息して回復を待っていた。それを無理して止めた。そんな様子だ。ミズチに見つめられる。その目からは全く恐怖を感じない。優しい瞳だ。
「はい。ただ……私の名はソモン。それしか思い出せないのです」妻の事は言わなかった。
「カラム。わらはカラム。西の遠き海を渡うて来いした。彷徨うた女やな。そんなら、わらもそなからしか思い出せへぬは似た者とおしやな」雌だと言う。それに、異国訛りなのか、それとも舌が長いからなのか、歯切れが悪い。
「私を助けてくれたのですか?」
「いいええ。大水をこしらへてしもうた。たから、助けたのうなく、流れた男を拾うたや」
「大水をこしらえた?……」とにかく助けた事には違いないらしい。
「こな国は、地の源から絶えぬ力に溢れていまなん。底の割れ目から凄まる力かな。そん割れ目も一つや二つに納まらませへぬ。こんはこの世の臍やあるやもなん。そんに引き寄せられたもなん。そん辿り着いし、かの村は懐かしこうた……そん村の川を登りて住んれはよきかな……川を堰きしこな災してな。大さめて……あるに破れ……こな事になうた!」
「大雨で破れたと云う事でしたか」辛うじて意味が解かった。
「たから、助けたのうない」
「何処から流れ着いたか憶えているかい? 私の村はどちらだか?」
「いいええ。我も慌へて憶えてへぬ」
そして、カラムが尾をソモンへ差し出した。
「こはソモンのや」カラムの尾には箱が下がっていた。
背中に背負える大きな箱だった。
中には、木の葉やら粉の入った袋やらがたくさん詰まっていた。
ソモンはそれが薬やその材料である事に気づいた。
俺は薬を生業としていたのかと考えた。
そして、何か身元が判る物がないか探し始めた。
書き留めた物が見つかったが、全く読めない。
他には砂金の詰まった袋があったが、手掛かりにはならない。
しかし、これで当分は生きていけそうだ。
「カラム。取り敢えずここから離れ……」
そう言ったがミズチの姿では差し障りがある事に気づく。
「何か人里に紛れる手立てはあるかい?」
カラムがとぐろで渦を巻いた。
「ふん!」カラムが鳴く様に言った。
そこには、女の子が居た。
「これでいっか!」今度は舌足らずの女の子だ。
「カラムは変化できるんかっ!」こっちにも舌足らずが移った。
「そうだよ。とっと!」
「とと? カラムは何才だい?」
「女に才を訊くもんじゃないよっ!」性格まで変わった。
「でも多分、千才ぐらいっかな?」
「千!!!」
「疲れたからおぶっておくれよっ! とっと!」
「そうだったな。変化で力を使い果たしたか? ちょっと待ってておくれ」急に老けた父親になった。
ソモンは薬箱の上に寝床を作ってカラムを乗せた。
そして背負うとした拍子に、懐に何か入っているのに気づいた。
白く輝く鏡だ。白銀の鏡だった。これは何かの手掛かりだ。
カラムが目敏く気づいた。
「それは、他の人に見せぬ方がいっと思うな。殺されちゃうよ」
ソモンは思った――
カラムはなぜ少女に変化したのだろう? 夫婦でもよかった筈だ。
それはもしかしたら……ソモンの中にいる、妻イスズの存在に気がついたからなのか。ソモンに唯一残る思い出、その妻への気遣いか……その記憶の糸口に対する配慮か……
ソモンとカラムの父娘旅が始まった。ソモンは手掛りを求めて彷徨ったが、記憶は戻ることはなかった。唯、薬の製法は自然とできたので生活は営めた。そんな月日は二年も経っていた。
ある日、ソモンがある村に辿り着いた。
カラムが近くの川へ行くと言って分かれた。
一軒の家を訪ねる。
「お頼みします」ソモンが家を伺う。
「はい」と若い女の声がする。
出て来た女がソモンを見た。すぐにその顔が幽霊を見ている様な顔つきになった。
……イスズだった。
二人は向き合ったまま、無言で立ち尽くしていた。
その時、ソモンの記憶の糸口が解れた。一気に溢れ出す。
「イスズ……」ソモンが漏らした。
「ソモンなの……」
「…………」
「生きていたのね……ずっと待っていたのよ! 二年も! もう死んだ者と諦めていました。何故便りの一つでも遣して、知らせてくれなかったのですか?」
ソモンがたまらず愛しの妻を抱き寄せた。
「知らない海まで流されたのだ。おまけに、何も憶えていなかった。それも、つい今しがたまで……イスズの顔を見て……たった今! 全てを思い出した! ……ここに来たのは本当の偶然だ……」
妻が嗚咽した。
ソモンが妻との思い出に浸る。
「今からでも遅くない。やり直そう……」
「…………」
「まだ、若いのだから……」
「それが……だめなんです。もう……遅いんです!」妻が夫を突き放した。
「!!!」
その時、家に男が入って来た。
「ただいま、イスズ」
ソモンとその男の目が会った。
ここでも、二人が無言のまま立ち尽くした。
……サモロだった。
「サモロ……何故ここに……」「ソモン……生きてたのか?」
――二人が同時に口を開いた。
「私達はこの間、結の契りを挙げたばかりなんです」イスズが言った。
たまらずに、イスズが顛末を語った――
ソモンの行方不明から二年後に、ソモンの父とイスズの父が話し合った。
この当時、若い身空で相手が行方不明になったりすると、長くて二年程で諦めさせた。死んだ者と見なすのだ。
その理由は、うかうかしていると子ができなくなるからだ。子がいないと云う事は部族の滅亡に繋がる。ましてや子を作らないなどとなると、創造の神の意思に反する。神への反逆だ。
そんな話に説得され、イスズは嫌々ながら再婚させられた。せめてもの救いは、相手がサモロであった事ぐらいか。結の契りを挙げてから、まだ一月と経ってはいない。
皮肉な運命にソモンは慟哭した……
その時、奥から幼児がよちよちと姿を現した。昼寝から目覚めたようだ。
やっと歩けるようになったばかりの――男の子だ。
その瞳がじっとソモンを覗いた。
イスズがその子を抱き抱えると言った――
「あなたの子よ……ソモン……」
「大水の時には、既にお腹に居たの……」
「何だって?」ソモンが驚愕した。
「シグルと言います……あなたの父が代わりに付けたわ」
そう言って……シグルをソモンに抱かせた。
抱き抱えたソモンが……父親の顔になった。
(私の子だ……このまま家族三人で暮らして行けたら……どんなに幸せだろうか……)
その顔を見ていたサモロが、突然言った。
「別れよう! イスズ……」
「シグルにとっては、本当の父親の方が幸せになれる! だから俺は……また身を引く!」サモロが断腸の思いで言った。
「ちょっと待ってよ! サモロ!」イスズの表情が変わった。
「それに……イスズはソモンを……心から愛していたじゃないか……」
「ふざけないでよ~! 私がどんな思いであなたと夫婦になったと思っているの!
私はこの子と二人で、二年間も一途に待ち続けたのよ!
その思いを吹っ切って! 気持ちを捻じ曲げて! そうやって神前で、愛する事を誓ったのに……
それがやっと本物になって……
そんな私を……受け入れてくれたあなたを……今は心から愛しています……
お願いだから……もう二度とそんな事は言わないで……」
振り返ったイスズの前には、既にソモンはいなかった。
ソモンは黙って出て行った。
ここにソモンの居場所はない。死んだ事になっているのだから……見ていられずに逃げ出した。
さっきまでは知らない景色が、今は懐かしい故郷になった。
子供の頃に遊んだ山や川がある。
二人の男の子と一人の女の子の幻が見える。
あそこの土手では、二人の男の子が喧嘩をしている。
そして、ある大きな木の下で止まった。ここはイスズと結の約束をした場所だ。
イスズの幻が現れた。
「ごめんなさい。ソモン。どうしようもなかったの……」
幻ではなかった。イスズが後を付けてきた。
「イスズの事を攻めてはいないよ。イスズはどうやって諦めたんだい?」
「……死んだと諦めました。本当にそう信じました。二年も音沙汰がなかったのですから……」
「俺も、そう信じる事にするよ……」
イスズの後ろからサモロが現われた。シグルを抱いている。
「サモロ! イスズを幸せにしろよ……」
あの時、サモロがソモンに言った事と同じ事を言っていた。
今のソモンの悲しみは、あの時のサモロなんかとは比べ物にならない。悲しみの重みが違いすぎる。
しかし――サモロにもその重みは解かっていた……サモロは無言だった。
「それから……その子を頼む……」
ソモンはそう言い残すと……故郷を後にした。両親にも顔を会わせず。
……気がつくと、崖の上にいた。
静かな海が見渡せる。
ソモンはその海に話しかける――
(あのままこの海で……死んでいればよかった……
イスズは本当に……吹っ切れているのでしょうか?
……私には……死んだと諦める事など……できない……
殺してやりたい……ほど好きなんです)
そして……殺した。
自分を……
崖に飛び込んだ。
…………
またもや助けたのは……カラムだった。
助かりはしたが、その時右足が無くなった。
そして……もう一つ。
心も無くした。
ソモンは殻に閉じ篭った。
その殻に……とぐろを巻いた蛇が絡まる。
カラムはもうソモンを放さない。
(ごめんね……ソモン……私のせいで……あなたに全てを捧げるわ……このままずっと一緒よ……)
――ソモンの身の上話が終った。
切なさに一同は下を向いている。中でも、アギバの同情は激しい。
「誰かに話したのは、これが初めてでございます」ソモンが吹っ切れた顔をして言った。
一同が静まる中、スクナにはすぐにでも訊きたい事があった。
「それで先程の鏡の事を訊きたいのだが?」
ソモンが白銀の鏡を取り出した。
「これは、ヒカガミ(日鏡)と申し、我がマナセの宝です」
「それは何処で手に入れたのだ?」
「はい。我がシシ党霊のタタラ場のヨアケムで作られた物です。そこの長エンクが父に贈ったものでございます」
「ヨアケムはトサの国にあるのか?」
「いいえ。ツクの国でございます」
「タチのすぐ北だな」
「はい。トサからは離れていますが、同じ党霊です」
「私はカタカムナギになる為に、そのヨアケムの白銀が是非にも必要なのだ。そこで二枚の皿を作って貰いたいのだが、それは叶いそうかな?」
「はい。できない事ではないと思いますが、その白銀はこの国には産しない稀有な物です。我が祖がこの国に渡って来た時に携えていた物だと聞いていますので、おいそれとは応じないと思われます」
「そうなったらその時だ。そこまで案内してくれないか?」
「それならば、お安い御用です」
スクナはソモンを一行に、是非にも加えたいと思った。
理由の一つは、このヨアケムの白銀だ。そして、二つ目が聖獣の手掛かりだ。
「そこにはシシはいるのかな?」
「氏神が祭られていますので、いる筈だと思われます」
「私には六体の聖なる獣の力が必要なのだ。いずれはシシにも頼もうと思っているが、その前に、カラムを聖なる獣として迎えたい。もちろん元気になったらの話だが……」
「はい。カラムも否とは言わないと思います」
「それは助かった。それでは、ソモン。行く宛てはあるのか?」
「……何処にもありません」
「それなら、我らと共に来てくれないか?」
「承知しました。私は故郷を捨てた身です。これからはスクナ様を第二の故郷と思ってお供いたします。それに、ヨアケムとは多少の縁があります。私が参れば少しは違ってくるのではないかとも思われます」
スクナ達一同に笑みがこぼれた。
「それでは、最後にもう一つ。薬の知恵はマナセの者にしか教えてはならないのかな?」
これは、スクナの第三の理由であった。
「それは、マナセの壷に於ける秘伝のみでございます。その他に関しては、私の知恵の全てをお使い下さい。その代わり、どうかカラムも救ってやって下さい」
そして、ソモンの講釈が始まった。
「それでは挨拶代わりに、私くしの薬の知恵を掻い摘んでお話します。
そもそも、すべての生き物には、本来、自分で治癒する力が備わっています。汚れなき水と穢れなき食べ物を取っていれば、何事も起こらないように創られているのです。
稀に、障りを持って生まれてくる者がおりますが、これは、私の力ではどうしようもできない事です。これこそ、巫の領分であると思います。
また、人だけは心の病も患います。これも自分で薬を作って治します。人の頭の中で大麻の様な恍惚を誘う薬を作り上げ、それが壊れる事を防ぐのです。
これは、何かに感動した時に特に多く現れます。以上は全て、神が人を作り賜うた時に与えた薬です。これを内なる丹と云います。
それでは、人が作り上げた薬とは如何なる物かと云う事ですが……
その神の薬の作用を補う事が一つ。その痛みを和らげる事が一つです。但し、その病の源を取り除く薬は今だありません。そして、これらは内に対して外なる丹と云います。
人はたまに熱を出しますが、これは何が起こっているのかと云うと。内なる丹が身に溜まった毒を焼べているのです。これは現身だけでなく、霊代の浄めでもあります。火の禊ぎです。
故に、これを妨げる事をしてはいけません。これを止める薬は、即ち、毒となります。仮に、これを留め続けるとどうなるか、それが大病となり死に到ります。稀に霊代ごと燃え尽きる事もあります。
そんな訳ですから、それをする時は命を落とす畏れがある時だけなのです。そして、その極みは匙加減にあります。一度に起こる禊ぎを薬で、徐々に遅らせて行く事です。これこそが薬師の知恵でございます。痛みに対してもまたこれに然り……
それと、腹が下るのも、咳や痰が出るのも、全てこれと同じ理でございます。こちらは水の禊ぎです。この時の最も良い薬が清い水です。治る者は水を薬と言って飲ませれば、それだけで治ってしまうのです。要は、病は気からです。
……所詮、薬はその場凌ぎの技でございます。病の根本は、怨霊(見えない病魔)の仕業です。やはり、それを退けられる巫殿の力には到底及びません。内なる丹に比べれば、外なる丹など所詮……唯の気休めです」かなり謙遜した講釈であった。
スクナは知っている事も多々あったが、じっと聴いていたのだが――
「そんな事はないだろう。薬の元は生薬、これも神が創った物。現に薬のお陰で助かった者も少なくないはずだ」余りの謙遜に擁護する破目になった。
「それは……多分……少しは薬のお陰もありますが、なくても助かっているのです……先程病の源を取り除く薬は今だないと言いましたが、一つだけ有ります。それがマナセの秘薬です。これはあらゆる毒を打ち消します。土蜘蛛族が扱う附子、天狗族が扱う毒空木、河童族が扱う毒大芹、その他、蛇毒や蜂毒などです」
「それは凄い! 巫でもそんな真似はできない」
「ソモン。それは神から授かった者ですか? それともその事までが、秘め事の内なのですか?」ククリが興味を示した。
「秘伝は作り方のみです。授かったのは、仰る通り神からです。我が遠い祖が遥か西の地に住んでいた時に、そこの神から授かったと云う言い伝えです。詳しい事はよく判りません」
「病とは何かと云う教えはありませんか?」
「病は現世の一面であると云われます。決して無くなる事がない。貧しさと争いも同様に。しかし、私くしが二年間の放浪で気づいた事があります。これら全ては政の失敗が原因です。政次第で或いは根絶やしにできるのではとも思えました。私くしはこの様に考えています」
この考え方には、スクナが真っ向から反対した。
「その事なら、俺は違う考えだ! 病貧争も神の御業の内だ! 邪神も主の神が創り上げた神の内、その役目を果たしているに過ぎない。
俺はこう云う話を聞いた事がある。昔、ある長が病を根絶やしにしようと、病に弱い者を焼き殺した。しかし、しばらくすると次に病に弱い者が病になった。そして長は決して根絶やしにはできない事を知ったと。あたかも病に罹る役目があるかのように。だから病も神の御業の内なのだ」
「とにかく、私がやっている事は……他人を欺く、如何様なのです……」ソモンが苦悶の表情になった。
スクナはソモンの言い分を吟味していた。
ソモンは自分の事となると悪い方へと考える気があるらしい。如何様と言ったが、普通は暗示にかける手当とでも云う処だ。政で病貧争が解決できると大層な事を言ったが、決して己が為政するとは思ってもいないのか。イスズとの事が原因でこう云う性格になったのだろうか。理解しがたい性格だ。 その時、ショウキが何かを取り出してソモンに渡した。植物の根のようだ。
「これは! ワサビ(山葵)ですか!」ソモンが目を剥いた。
「ハラミ山の麓で見つけました。これは霊薬になると天狗に教わりました」ショウキが言った。アギバも頷く。
「これは清い水でなければ育たない霊薬です。それに、これこそがマナセの秘薬の元となる生薬です……こんな貴重な物を頂けるのですか?」
「ソモン殿に使って頂けるのが一番です。どうかお納め下さい」
ソモンの目が輝いて薬師の顔になった。
スクナ達に初めて見せた、気に満ちた顔だ。
「後は、飯を食ってれば、そのうち元気になるさ」ブトーが言った。
一行に薬師のソモンが加わって、カタカムナギに一歩近づいた。
そして、ここの宿主が火種となった噂があっと言う間に広がった為、スクナ達はそそくさと旅立った。