夜逝列車
夜逝列車と書いて「やこうれっしゃ」と読みます。
「お父さん、今日は絶対に早く帰ってきてね。約束だよ!」
俊也は、ふと幼い娘の言葉を思い出し、顔をほころばせた。
今日は娘、香奈の六回目の誕生日だ。いつも残業で帰りが遅くなってしまう俊也だったが、今日だけは違う。何としても一緒に誕生日を祝ってやりたかった。
いつも、ひとりぼっちで留守番している香奈のために。
「くそ、また赤かよ……」
目の前で変わった信号に舌打ちする。夕焼けはいつの間にか、闇へと様変わりしていた。焦る気持ちが俊也を苛立たせてゆく。
俊也がたっぷり五回は悪態をついたところで、ようやく信号の許しが出た。思いっきりアクセルを踏み、そのままの勢いで右折しようとする。対向車は来ていない……はず、だった。
次の瞬間、目も眩むような光と共に、落雷にも似た凄まじい衝撃が俊也を襲う。フロントガラスから放り出され、路上に左肩から打ち付けられた俊也が最後に見たものは、トラックの下敷きとなり、大破した愛車の姿だった。
+++++
――ここは、どこだ?
気がつくと、俊也は薄暗い階段を上っていた。
足は止まらなかったし、止めようとも思わなかった。ただ、何百何千という人の波に押されて、少し苦しかった。何故上っているのだろうという気もしたが、別にどうでもよかった。
何も、考えられなかった。
気が遠くなるほどの長い階段をようやく上りきると、まるで小さな穴から這い出たかのように、視界が開けた。相変わらず薄暗く、豆電球で照らしているかのようだったが、そこには人間の塊があった。おそらく、何万という人間が、俊也の目前に存在したのだ。さらにその向こうには、古びてはいるが、黒光りしている蒸気機関車の姿もある。その車両はどこまでも続いていて、黒煙が覆っていた。
「……!!」
俊也は、その黒光りする機関車を見たとたんに涙があふれるのを、抑えることは出来なかった。
理由など知ったことじゃない。
ただ、身体が震えるほど、懐かしかった。
人々が、先を競うように改札らしき場所に並ぶのにつられ、俊也も最後尾に歩を進める。早く乗りたい、早く乗りたい……!その感情だけが身体を支配していた。
一刻も早くあの機関車に乗って全てを終わらせたい!!
――俺は、何かを……忘れている?
突然俊也の足が止まる。頭が痛い。何も考えられないのに、必死で記憶を辿った。
――俺は、誰だ?そして……
「どうぞ」
近くで響いた声にはっと前を見ると、俊也の前にいた五十歳位の女性が、黒い切符を受け取っていた。そして後ろから押されるように、俊也の番になる。しかし、俊也に差し出されたのは黒い切符ではなかった。
「おめでとう」
にっこりと、駅員が燃えるような赤い切符を、俊也の右手にのせる。その瞬間、記憶が流れ、湧き上がり、溢れ出る。頭を思い切り殴られたような衝撃が俊也を襲った。――浮かび上がる、幼い娘の横顔。
「あ……あ、香奈っ、香奈!!」
「大当たり〜!十年に一人の、大当たりぃ〜!!」
駅員が、誇らしげに叫んだ。
+++++
「この切符があれば、あなたは現世へと還ることができます」
駅員は俊也を小さな部屋に連れて行き、この切符を手にする確率がいかに小さいか、どんなに幸運なことなのかを詳しく力説した。そして、決して切符を失くしてはならないと注意をした上で、再び部屋の扉に手をかける。俊也がまだ呆然としながらも謝辞を述べると、「あなたがうらやましい」と寂しそうに笑った。
扉が開け放たれる――そして。
「何だ……あんたら」
俊也はゴクリと唾を飲んだ。扉の前に何千もの人々が立っていたのだ。皆不気味なほどに静まり返っているが、その目は俊也の右手に握られている赤い切符を凝視していた。震える右手に汗が伝う。
――決して切符を失くしてはいけません。
あの駅員の言葉が、何度も頭をよぎった。
「ど、どいてくれ!」
忍び寄る恐怖を振り切るように、俊也は人ごみに突進する。多少手荒でも、早くここから離れたいと思った。しかしその右手はすぐに捕らえられる。ぎょっとして俊也が振り返ると、痩せ細った老婆がしがみ付いていた。
「あたしにこれをおくれよ。どうして私がこのまま死ななきゃならない?なあ……」
「は、離せ!!」
「いやだね、これは私のもんだよ!!」
抵抗する俊也に、老婆を筆頭にして次々と人が襲い掛かる。何か叫びながら走ってくる若者たち、俊也の右手に噛み付く女性、泣き叫ぶ子供の声……
そこはまさしく、地獄だった。
俊也は本能にまかせ、とにかく走った。息切れやめまいがして気が遠くなりそうだったが、老婆を引き剥がし、若者を突き飛ばし、それでも走るのを止めなかった。
やがて、俊也の目前に、停止している機関車が迫っているのが分かった。一瞬迷ったが、すぐ後ろに迫る人の群れを見て、手近な入り口に身体を滑り込ませる。急いで扉を閉め、客車に駆け込む。椅子の背もたれに手を置き、ぼろぼろになった切符を確認し、ようやく息を吐いた。
「俺は、これからどうすれば……」
この切符を持っている以上、ここから出られそうもない。だが、この世界から逃れるには、これが必要らしい。未だ状況が飲み込めない俊也は、窓の外の光景を見て項垂れた。
「俊也さん!」
「俊也!?」
その時後ろの席から二人の女性の声が響く。思わず身構える俊也だったが、その姿を見て驚愕した。
「母さん、百合子!?」
「俊也さん!!」
妻の百合子が抱きついてくる。その後ろでは、母、さちが泣いていた。
「どうして……二人とも、事故で死んだはずじゃ……」
百合子の背に手を回しながら、俊也が呻く。これは夢か?夢なのか?
「あなたこそ、どうしてこんなとこに!香奈を置いて死んでしまったの?」
百合子が涙目になって俊也の胸に突っ伏した。香奈、香奈と泣き叫ぶ。俊也は目を丸くした。
「死んだ!?俺が、死んだってのか!?」
「そうよ!ここは冥界と現世の狭間だもの。死なないと来ることは出来ないわ。あなた、覚えてないの?」
その言葉に全身から力が抜けた。俊也はへなへなと、木の床に座り込む。その拍子に、右手から切符が零れ落ちた。くすんだ茶色の床に、鮮やかな赤が飛び込んでくる。目の前の二人が息を呑んだのが分かった。
「俊也、もしかしてこれは甦りの切符じゃないのかい!?」
さちが震える両手で切符を包む。折れ曲がり、傷もついていたが、確かにそれは切符だった。
「そ、そうなのか?それは、駅員からおめでとうと言われて渡されたものなんだが……」
俊也がもごもごと答えた瞬間、百合子は泣きながらも満面の笑顔になり、切符にそっと口付けた。
「ああ、神様。感謝します。娘を、香奈を独りにさせないでくれて……!!」
そして二人は唖然としている俊也を立たせると、切符を握らせ、言った。
「さ、どうか早く現世に戻ってください。香奈が待っているわ」
「俊也、会えてうれしかったよ。これで安心してあの世へ行ける。全くお前は最後まで心配させおって」
名残惜しそうにしながらも、しっかりと別れを告げる二人。あまりにも突然すぎて、あの時は聞けなかった最後の言葉。俊也に焦燥感が込み上げる。
「待ってくれ!そうだ、百合子、もし本当に甦ることが出来るなら、お前が行ってくれないか?香奈には母親が必要なんだ!」
百合子の顔が辛そうに歪む。
「私も香奈に会いたい……もうどんなに大きくなっていることか。でも、それは出来ません。今更私が還っても、世間や香奈を混乱させてしまうだけ。だから、どうかあなた、私の分まで」
――香奈を幸せにしてあげて。
最後の方は顔を覆ってしまったため、小さくしか聞こえなかったが、俊也は百合子の肩に手を置き、何度も頷いた。頬を伝う温かな感触に、いつしか自分も大粒の涙を流していたことに気づく。
そして俊也はもう一度外の地獄へ向かうべく、出口の扉へ向かおうとした、その時。
ボ――ッ、ボ――ッ。
「――!!」
腹に響くような汽笛が鳴り、機関車がゆっくりと走り出したのだ。当然、扉が開くはずもない。「あなた!」
「俊也っ」という二人の悲鳴が届く。
俊也は一瞬のうちに決心すると、無言で傍の窓をこじ開けた。そして二人を振り返る。
「ありがとう、百合子。俺は絶対に香奈を幸せにしてみせる。だから……」
「ええ、分かっています、あなた。どうか長生きしてください」
百合子が微笑んだ。次の瞬間、俊也は窓枠を飛び越え、暗黒に身を投じる。赤い切符を、しっかりと握り締めたまま――。
+++++
闇をつんざく様な、けたたましいクラクション音が鳴り響き、俊也ははっと目を開けた。慌てて前を見ると、信号はとっくに青になっていたらしく、対向車は見当たらない。
――俺は、寝てたのか?
つい少し前のことなのに、自分が今何をしているのかを把握するのに時間がかかる。何か夢を見たような気がしたが、何も思い出せなかった。
「危ない危ない。俺ももう年かな」
ひとり言を言いながら、ゆっくりと右折する。何故か、死んだ妻の顔が思い浮かんだ。
――今日は、百合子の話でもしてやるか
そんなことを思いながら、俊也は娘のために少しでも早く帰ろうと、アクセルを踏んだのだった。
俊也の右手の中で、少しずつ赤い切符が消えてゆくのに気づかぬまま……
完
初めて作品を投稿しました。
まだまだ未熟者なので、これから精進したいと思います。
ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました!!