―既婚ステータス:反映済み/他人の評価:未対応―・上
三月十四日。
円周率のように、終わりのない数字を選んだその日は土曜日だった。
まなは戸籍の入った封筒と婚姻届の入った封筒を陸と共に確認しながら、休日の役所の窓口の前に座っていた。
書類提出のために手袋を外した手は、暖かい室内に入ってきてもまだ指先が凍えていた。
赤くなったまなの手を、陸が握りしめる。
体温を分け与えるように、優しく握られたその手には、真新しい銀に光る指輪。
陸の指とともに触れる金属の感触が、実感として心に溶けていく。
少しして窓口に呼ばれた。
職員の初老の男性が、封筒を取り出す前から「おめでとうございます」とにこやかに声を掛けてきた。
二人は照れでぎこちなく笑いながら、「ありがとうございます」と返す。
取り出されたネコのデザインの婚姻届が職員の前に広げられる。
「ではこれでこの紙はお預かりしたら最後になるのですが……良かったら記念にお写真撮りましょうか?」
職員の方の申し出に、二人顔を見合わせて、そして陸がスマートフォンを渡す。
「おねがいします」
二人で婚姻届の端と端を持って、笑顔を浮かべる。
シャッターの音が響くたびに、ぎこちなかった笑顔が柔らかく解けていった。
今日、この瞬間から、隣に座る彼は”夫”という立場になり、まなは新しい名前で生きていく”妻”となる。
その役職に含まれる責任よりも、今はただ彼と一生を共にする約束が形になったことが嬉しかった。
――その夜。
こたつの上には小さなホールのケーキと、ロゼのワインが並んでいた。
ワインを注ぐのは、陸が買っていたあのペアのネコデザインのグラス。
言葉ではなく、視線だけを交わしてそっとグラスを重ねる。
「写真、撮ってもいい?
今この瞬間を残したい」
陸がスマートフォンを翳す。
カシャリと音を立てて幸せの瞬間が切り取られた。
ほどなくしてメッセージアプリで今撮った写真が共有される。
寄り添う二人の微笑みは、素面よりもほんの少し緩んでいた。
「……まなの、アプリの登録名……」
陸が、視線を逸らしながらぽつりと呟く。
その頬がほんのりと赤いのは、お酒だけのせいじゃない。
「あ、気が付きました?」
ふふ、とまなが楽し気に笑う。
「アプリも、ちゃんと”本名”で登録したくて」
「……うん。ありがとう」
陸がまなの肩を抱き寄せる。
二人とも、言葉は少ないけれど何よりも心が満たされていく。
静かな部屋に、穏やかな時間がゆっくりと流れた。
春休みの間、まなは北海道で陸と暮らした。
”新婚生活”という言葉が似合わないくらい、甘さよりも穏やかな静けさが目立つ生活が、彼らにはちょうど良かった。
春休みの終わり、東京へ戻るときには連休になるように有休を取って、二人一緒に帰ってきた。
入籍後すぐに電話で報告はしていたが、改めて顔を合わせるのは今回が初だった。
敢えて祝日の昼の時間に、個室のレストランを予約してくれたのは海。
結婚式の二次会とかにもよく使われるらしく、おしゃれだけれど格式が高くない。
ガラス張りのテラスから見える景色には、柔らかい色合いの花々や新芽の黄緑色が穏やかな風にくすぐられて揺れていた。
「では、改めて……兄ちゃん、まな!
結婚おめでとう!
幸せそうな二人に乾杯!」
海が明るく乾杯の音頭を取る。
両親たちも、なおも、ゆめも、みんな笑っている。
隣を見ると、陸も穏やかに笑っていた。
海がそっと近づいてきて、小さくまなへと声をかける。
「ちゃんと大事にされている顔してるから、ほっとした」
その言葉に、まなは泣きたいような気持ちになった。
陸は、その言葉を反芻するように目を伏せ、そして弟へ頭を下げる。
二人を見守るような海の明るい笑顔が、春の光の中、淡く綻んでいった。
学校が本格的に始まる前に、まなは一人戸籍謄本を持って運転免許証や銀行のカードなど、名義変更の手続きをする。
番号が呼ばれ、窓口に座ると変更用の書類を渡される。
――浅瀬、愛。
書類に書く名前も、北海道にいる間に慣れたと思ったのに、まだペンが書き出しを迷う。
でも、嫌じゃない。
書きながら、胸の奥が温かくなっていく。
書類を渡すと、窓口の人が一旦奥へと引っ込んでいった。
しばらく後、今回の処理について記載された書類を持って戻ってくる。
「浅瀬様」
一拍だけ反応が遅れて、返事を返す。
「では、こちらをご確認ください」
「はい」
陸がいない場でも彼の名字で呼ばれる。
その事実が静かな実感として嬉しかった。
大学が本格的に始まるころには、学務課にも書類をいくつか提出した。
学生証の名前も変わり、公的にも新しい名前が定着していく。
ゼミの時間に、教授から「おめでとう」と一声掛けられた。
その言葉にお礼を返していると、ゼミの同期も声を掛けてくる。
いつだったか、まなにガードが固すぎるだのなんだの声を掛けてきた男子とノリの軽い女子たちが、興味津々で声を掛けてきた。
「ちょっと、保坂さん……じゃなくて浅瀬さんだっけ?
どういうことか教えてよ!」
「その指輪!
ただのペアリングじゃないよね?」
明らかに今までは少しかわいそうな目でまなを見ていた子たちが、今度はある意味羨ましそうに近寄ってくることに、まなは心が驚くほど凪いでいくのを感じた。
きっと、前だったら照れたり戸惑ったりしていただろう。
一人、男子が面白くなさそうに言葉を吐き出す。
「キスもさせなかった女は、さすがだね。
手を出してきた男に、きっちりと責任取らせちゃったんだ」
「私は幸せだよ」
ただ、事実を置くように。
自慢でもなんでもなく、ただの実感を言葉にする。
一瞬だけ呆気に取られた男子は、まだ何か言おうとしていたが、もうまなは真剣に取り合わなかった。
このゼミは、遊びじゃない。
大学へは、学びに来ているのだから。
その姿に、教授は口元を綻ばせて、まなを見ていた。
夏。
第一回目の模試の結果は、まずまず悪くない感じだった。
基礎栄養学のテキストを開きながら、気合を入れなおすために、麦茶を一気に飲み干した。
夏休みに入ると、北海道へと再び行き、陸と静かに暮らしつつも、時間を見つけては常にテキストを開くように心掛けた。
一日平均八時間はしっかりと勉強をする。
躓きやすいと先輩たちから聞いた、生化学や臨床栄養学は特に念入りに。
北海道と言えど夏は暑いが、東京よりも気持ち涼しいような、そんな気がしていた。
スーパーで購入した、朝採れのトウモロコシを湯がいておやつに食べる。
驚くほど甘いその糖分が、今の頭には嬉しかった。
秋。
夏休みが終わると、今度は卒業論文を必死で進めた。
模試を積極的に受け、過去問をとにかく解いていく。
陸の誕生日になにも出来ないことが寂しいが、今の優先順位を間違えたくはない。
それでも、おめでとうは言いたくて、電話をした。
やさしい彼の声を聞いているだけで、心が満たされていく。
そしていよいよ、季節は冬となった。
十二月中はとにかく必死で卒論を書き上げた。
勉強と同時進行で進めないといけないのが辛かったけれど、論文を提出した瞬間のあのやり切った感は凄かった。
本当に頑張った時にしか味わえない、特別なものだった。
その日、また陸と電話した。
いつもより長く話して、お互いの近況を報告しあった。
十二月二十四日、クリスマスイブ。
日付すら忘れていたまなに、黒色の可愛いデザインの鞄が届いた。
持ち手には赤いスカーフがおしゃれに巻かれている。
まなの好きな、赤と黒のコントラスト。
その鞄に添えられて、新しい手袋とネックウォーマーも入っていた。
カシミア製で、手触りも暖かさも一段上だった。
鞄も嬉しいけれど、それ以上に防寒セットが嬉しかった。
風邪を引かないように温めようとするそのアイテムが、彼の寄り添いそのもののようで。
そばにいなくても、家族としてしっかりと支えられているのがじんわりと伝わった。
陸の元へは、インターネットで注文して、お気に入りの東京のお店の焼き菓子を贈った。
実店舗にも行けずにお手軽でごめん、と謝ったら、むしろ賢いよ、ありがとうと思った以上に喜んでもらえていたことを知った。
卒論提出も終わって、息抜きの時間を取れそうなこの年末。
同窓会のお知らせが来ていて、とりあえず参加で返事をしていたことを思い出したのは、海にどうするのと声を掛けられた時だった。




