8. 週明け
週明けの学校、昼休み。
「竹宮君」
初夏の緑、花の香り――スッと現れるのは、西桜さんだ。今日は髪を束ねていて別の一面が見えた気がして、どこかそわそわしてしまう。
「今日の竹宮君、すごく……いい顔している」
「え?」
彫刻のような美しさのある彼女に“いい顔”と言われ、じろじろ見られると急に緊張してくるのですが。そんなに人の顔色ってわかるのか? さすが美術部エースだな。
「いいことがあったって顔に書いてある……ふふふ」
「そうかな?」
「本当に見ていて飽きないわね」
「はぁ……」
いいこと……あ、奈々ちゃんと水族館に行ったから?
僕ってそんなにわかりやすいのか?
「是非、今のあなたを描かせて。前に描いたものよりいい作品ができるわ」
彼女はそう言ってスケッチブックを取り出す。
だけど僕はそれを制した。
別に絵のモデルになるぐらいなら構わない。
だけど……今は西桜さんの言うことをそのまま聞きたくない。デッサンと聞いて僕の頭の中に浮かぶのは、いつだってあの子だけなんだ。
「ごめん。もう西桜さんの絵のモデルにはなれないよ」
「あら、大丈夫よ。多少動いても」
「そういうことじゃない……僕は……」
彼女の絵の才能はピカイチだ。これまでもきっと多くの人を描いてきたのだろう。あんなに立派なデッサンをするのだから、みんなが西桜さんに描いてもらいたいに違いない。
でも僕は……。
「……僕のことを時間がかかっても一生懸命描いてくれる子がいるんだ。その子のことが好きだ。だから……無理なんだ」
西桜さんは僕を見て、どこかの女王の肖像画のように静止している。
いきなり自分の話をしてしまって引いただろうか。
「……そうなのね」
西桜さんは残念そうにうつむく。まつ毛まで綺麗に揃った彼女に少しだけ儚さが見えてくる。
「ちょっと待ってて。その子が描いてくれた僕の絵、持ってくる」
僕はロッカーにあるリュックから、あの時公園で奈々ちゃんに描いてもらった自分の絵を取り出す。
『これ……はるくんにプレゼントするね』
そう言って僕に渡してくれた奈々ちゃん。
実はずっと手元に置いておきたくて持ち歩いていた。
「お待たせ。これなんだ」
「これは……」
西桜さんが奈々ちゃんのデッサンをじっと観察するように眺めている。明らかに西桜さんの方が技術面では上だから、果たして何と言われるか……。
しばらくしてからふっと微笑んで彼女がつぶやく。
「……素敵ね」
「……うん。ずっと持ってるんだ」
あちこちに消し跡が残っていて“綺麗”かどうかは正直わからない。だけどこれを見て僕は心の底から温かくなっていく。
「竹宮君、愛されているわね。分かるわ……私も好きなものであればいくらでも描けたから。この子は本当にあなたのことを想っているのね」
あ……愛されている……。
簡単にそういう言葉を口にしてもおかしくない彼女の上品さ。本当に同級生か?
そして奈々ちゃんに愛されている、とか考えてしまって心臓がドクンと前に出てきそうだ。
「私ね……作品を描いて評価されるたび、求められる水準がどんどん上がっていって、正直これでいいのか自分でも分からなくなるの。だから……描きたいって思ったその時に描いている」
「それで僕のことを……?」
何でも上手に描ける西桜さんにもそういうことってあるんだ。意外だな……。
「そう。人物画、好きなの。竹宮君は特にね」
“特に”だと? 何で? それにしても彼女にこういう風にじっと見られると全員惚れてしまうだろうな。いや、僕はもう奈々ちゃんだけだから……。
「ということは、竹宮君も行くでしょう? 市の絵画展。彼女も今頑張って描いているから、きっとあなたのために」
「うん……え? 彼女って……」
「ふふふ……」
まるで全て知っているかのように西桜さんが笑っている。鋭いな。奈々ちゃんだって分かったのだろうか。いや、まさか。美術部の人、他にもいるだろうし。
※※※
「お疲れ様でした!」
今日の部活も無事に終わって体育館の外に出ると……いた! 奈々ちゃんだ。
嬉しい――デートしたばかりだったけど今日は朝練があって会えなかったから。
「奈々ちゃん!」
「は……はるくんっ?」
「一緒に帰ろ、寂しかったから」
「え……もう寂しくなったの?」
「うん」
「……ちょっとはるくん……みんな見てるから」
「あ……」
勢い余って奈々ちゃんに抱きつきそうになってしまった。さすがに目立つか……落ち着くんだ、僕。
「そうだはるくん、西桜さんに見せたの……? あの絵」
「え?」
「西桜さんから聞いたよ。はるくんが持ち歩いてくれてるなんて……“愛されてるわね”って言われた」
バレていたのか、あの絵を見ただけで奈々ちゃんが描いたものだと。さすが天才美術部員である。
「私……何だかその……大事にされてるって感じが……恥ずかしすぎて……今日思ったほど進まなかったんだから……はるくんのことばっかり考えちゃうし」
奈々ちゃんが頬を赤らめている。可愛いので手を繋いでみた。あの西桜さんにしっとりと言われると照れてしまうの、よくわかる。
「僕も言われた。“絵が素敵、愛されてる”って。」
「え……? え……? そんな……西桜さんに比べたら全然上手くないのに……」
「僕は奈々ちゃんの絵の方が好き」
「はるくん……」
繋いだ手がさらにぎゅっと握られて僕たちは……おっといけない。まだ周りに帰宅途中の人たちがいる。
「西桜さんってね、コンクールで注目されているから、大人っぽくて受け答えもしっかりしてて、本当に同い年なのかわかんないよ。だけど隣で描いていたら、ちょっとは上達するような気がして」
「ああ、わかる。僕も葵さんと練習してコツ掴めたから。毎回負けてたけど」
「やっぱり高校って違うよね。いろんな人が集まってる。だけど……私はちょっとずつ頑張る。はるくんもいるから」
そう言う奈々ちゃんの笑顔……可愛い。
いつも頑張ってる奈々ちゃんが好きなんだ、ずっと前から。
「僕も少しずつだよ、奈々ちゃんと一緒に頑張る」
再び手を強く握り合って、僕たちは歩いていた。
そして駅を通り過ぎて公園まで行く。
「はるくん……?」
「奈々ちゃん……」
ぎゅっと彼女を抱き寄せる。ここなら人が少ない。
公園の木々の間から、夕陽がオレンジ色に差し込んでいる。
「……してもいい?」
「え……? あっ……んっ……」
触れたはずの唇は、気づけば深く重なっていた。
彼女の温もりが、胸いっぱいに広がってゆく。
週明け早々寂しくなって、ずっとこうしたかったなんて……かっこ悪いかもしれないけど、しばらくこのままでいたい。
「もう……はるくんたら……」
「ハハハ……」
彼女がいるから、また明日も頑張れる。
そう思いながら僕たちは肩を寄せ合って、夕陽を眺めていた。