第三話 マルコの苛立ち
王都の一角。
静まり返った回廊を、マルコの革靴がコツコツと響く。
彼は煌びやかな王子の礼装に着替えていた。
眉間には苛立ちの皺。
(……農業村の襲撃も失敗に終わり、ユダも拘束された……)
(あぁ……あの方との交渉が……)
(まぁ……しかし毒の化学兵器は完成し、サンプルはある……まだ交渉できるだろう)
彼の唇に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
(しかし……なぜ本部に農業村リリン襲撃がバレた?)
(この計画は私とユダ……あの方しか知らないはず……)
(霊獣[カラス]ヨセフの予知夢か?)
(エステルが……本部の奴らに伝えたか?……)
(……エステル。お前、まさか逃亡でも企てていたのではないだろうな?)
立ち止まり、エステルの扉の前に目をやる。
「……確かめてやる」
部屋の前に座っている侍女が、驚いたように身を固くした。
「マルコ殿下……?」
「エステル后殿は部屋から出たか?」
「いえ……」
マルコはトントンと扉を叩く。
「エステル后殿……」
しかし、中からの返答はない。
「マルコ殿下……」
おどおどした様子で侍女が声をかける。
「逃亡したのではないか?」
マルコはふっと笑い、侍女へ目を細めた。
「おいお前、王子の命令だ! ここの部屋の鍵を持ってこい」
(私のこうもりはエステルのカラス達に追い払われ、中の監視が出来ない……)
侍女は怯えたように頭を下げ、駆け足で鍵を取りに行き、ほどなく戻ってきて差し出す。
マルコはそれを受け取ると、荒々しく言い放った。
「さぁ! エステル!」
鍵を回し、勢いのまま扉を開け放つ。
「あら……なんの用ですの?」
エステルは布一枚を身にまとっただけの姿で、ゆっくりと振り返った。
「おっと……失礼しました。
部屋にいらっしゃらないようでしたのでね……」
マルコはそう言って、口元に薄く笑みを浮かべる。
その笑みは謝罪にはほど遠い。
「……そのようなこと、あるはずがありませんわ」
エステルは静かに言い切った。
「いえいえ。二日前の夜――
城の上空を、カラスの大群が飛び立つのを見たと、衛兵が話しておりまして」
わざとらしく肩をすくめる。
「はは……逃亡でも企てられたのかと、つい疑ってしまいましたよ」
(そんな証言などないが……揺すってやる)
「……」
一瞬、空気が張りつめる。
マルコは一歩踏み込み、声を低くした。
「――ご存じでしょうが、
あなたの予知夢は王族の管理下にあります」
笑みは消え、冷たい目がエステルを射抜く。
「第三者に漏らした場合……
どうなるかは、わかっていますね?」
「わかっていますわ……私の能力は王国サハラの繁栄の為に存在しますわ……」
エステルは微笑み、静かに平静を保つ。
「……マルコ殿下、このままだと風邪を引いてしまいます。まだ話したい事があれば改めて頂けないでしょうか」
視線は鋭くマルコを見つめる。
「失礼しました。エステル后殿……」
彼は紳士風に胸に手をあて、会釈する。
マルコは扉を閉め、侍女へ鋭い視線を向ける。
「変わらず、ここで待機するように」
「えぇ……」
(エステルめ……元は平民の分際で……)
「イライラする……」
マルコはギリリと奥歯を噛みしめ、そのまま廊下を歩き去った。
──
エステルは深く、胸の奥まで沈み込むようなため息をついた。
心臓の鼓動が、ようやく元の速さに戻り始める。
(――危なかった……本当に……)
あと十分。
ほんの十分、到着が遅れていたら――。
マルコが扉を叩いたその瞬間、エステルはまだ窓枠に手をかけていた。
ノルディア特有の海風が、肌と衣にまとっていた。
迷っている暇はなかった。
彼女は音を立てぬよう室内へ身を滑り込ませ、海の匂いをまとった衣を即座に脱ぎ捨てた。
それを浴室へ放り込み、香油の瓶を掴み取る。
甘く重い香りを空気に散らし、潮の気配を塗り潰すように満たした。
――そして、何事もなかったかのように。
今、浴室で衣を洗い流しながら、エステルは水音に耳を澄ませている。
鼻をくすぐるのは、香油と石鹸の匂いだけ。
あの海風の気配は、もうどこにも残っていない。
小さく息を吐き、ようやく安堵が胸に広がった。
「……マルコ殿下……」
声に出した名には、自然と苦味が混じる。
(……いくら平民の出とはいえ、私は王の后よ)
(その私の部屋に、許可もなく立ち入るなど――本来なら、許されることではない……)
それでも、彼は入ってきた。
笑みを浮かべ、疑念を隠そうともせずに。
(外に出ていたことが……バレたのかしら……)
一瞬、背筋が冷える。
だが、すぐに理性がそれを否定した。
(いいえ……あの男の性格なら、確かな証拠があれば即座に兵を連れてくる)
(私を問い詰めるどころか、その場で拘束していたはず……)
つまり――今は、探り。
(農業村リリン襲撃の予知夢は、王にしか伝えていない……)
(王がマルコに指示を出した可能性……)
(それとも……マルコ自身が……?)
考えが枝分かれし、どれも決定打に欠ける。
エステルは濡れた手を拭き、顎に指を添えた。
静かな仕草の裏で、思考だけが鋭く研ぎ澄まされていく。
(……怪しい。でも、証拠はない)
(こちらから動くのは、まだ早い……)
視線が、机の上へと向く。
封蝋と便箋。
(……ヤコブに、手紙を……)
胸の奥で、次の一手が静かに定まった。
続く




