第九話:すてき
すずの昂ぶりが収まった頃。
すずの顔面は、自分の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
「───ぶっ。ひっでー顔。」
「誰のせいだと思ってんのよぉ。」
「お~、よちよち。
かわいいベビたんでちゅね~。」
「うう……。
ごめん、コート、よごしちゃった。」
「いーよぜんぜん。アンタのなら、鼻水もゲロもぜんぜん汚くない。
なんなら食べちゃおっかな、アー───」
「やめい!!」
「うそだって。」
一張羅のコートを汚されても、ユウは全く怒らなかった。
それどころか、自前のポケットティッシュで、すずの顔を真っ先に拭き始めた。
「今キレイにしちゃるから、動かんでね。」
「コート、染みになるよ、」
「動くなって。」
「む……。」
すずと会う時、ユウは必ずオシャレをしてくる。
服も靴も鞄も、持ち合わせの中で一番上等なものを選ぶ。
アクセサリーに至っては、"すず専用"なんてラックが存在するほど。
今着ているコートだって、本当は下ろしたてのブランド品。
こだわりの強い人であれば、雨に濡れることさえ嫌がるだろう。
実際ユウも、天気が崩れそうな日には着てこない。
すずと会う場合を除いて。
たとえ汗の一滴でも、他人に汚されるのは嫌がる。
相手がすずの場合を除いて。
とどのつまりユウは、"優しい人間"なのではなく、"すずに優しい人間"なのだ。
「透明なんだよなぁ。」
「へ?」
「涙。
ワタシが泣いたら墨汁かぶったみたいになりそうだなって。」
「ああ、アイライン……。
ウォータープルーフのやつなら大丈夫じゃないの?」
「モノに依るかな。あと泣き方の程度に依る。」
「ユウ泣くとき激しいもんね。」
からかいながらも丁寧に、すずの顔を整えていくユウ。
すずは抵抗をせず、ユウの介抱にうっとりと身を委ねた。
「そだ。ちょうどいいや。」
ふと思い立ったユウは、サイドチェストに置いていた鞄を漁った。
取り出したのは、本人いわく営業用のメイクポーチ。
試供品や非売品を含め、自社製のメイク道具がパンパンに詰まっている。
「なに?お直しすんの?」
「そ。」
確かにアイシャドウもリップも落ちてしまったが、元来すずはナチュラル派。
メイク前も後もさして変わらないので、わざわざお直しする必要はない。
「どうせあと帰るだけだし、このままでも平気だよ?」
「いーから、いーから。
アンタの顔、一回イジってみたかったんだよね~。」
あまりにユウが楽しそうなので、すずは気乗りせずも、全面的に任せてみることにした。
「うひょ~、肌すべすべ~い。陶器みたいだ。」
自前のヘアクリッブですずの前髪を纏めたユウは、下地から施し始めた。
「ユウだってキレイじゃん。」
「ワタシは金かけてっから当然なの。
アンタなんかエステ知らずで安もんの化粧水しか使ったことないくせにコレでしょ?腹立つわマジで。」
「褒めてんの怒ってんの?」
「愛でてんのよ。」
「哲学だなぁ。」
不安定なベッドの隅、縒れたシーツの上で、前のめりに二人、向かい合う。
とても化粧に適した環境とは言えないが、そこは専門家。
プロのアーティストに匹敵する手早さで、ユウはすずを仕立てていった。
「───できた!」
10分後。
完了の合図を出したユウは、メイク道具をポーチに仕舞った。
「開けていい?」
「まーだ。
閉じたまんま、ほら立って。こっち。」
出来映えを確認したがるすずを制止し、ユウはすずを立ち上がらせた。
「手鏡あるのに。」
「せっかくだから。」
遮られた視界。覚束ない足取り。
ユウの宥める声と、引いてくれる腕だけを頼りに、すずが連れて来られたのは、壁一面の鏡の前。
「いいよ。あけて。」
お許しが出た。
すずは恐る恐ると目を開けた。
そこに立っていたのは、華やかに変身した自分だった。
凛々しい眉、したたかそうな目元、独立心を象徴する唇。
男性ウケとは程遠い、大和撫子とは似ても似つかない、型に嵌まった世間に物申すアラサー独身女の姿。
普段のメイクとどちらが良いかを聞いて回れば、大多数が前者を選ぶだろう。
だが、すず自身は今の姿が最も美しいと感じた。
ユウの手で生まれ変わった今こそが、自分史上最高であると。
「もとの顔立ちがいいから、リップとアイブロウだけで本当は充分なんだけど……。
こういう、いかにも"やってます感"出るのも、案外似合いそうだなと思って、やってみました。
どう?」
後ろに控えていたユウが、すずの隣に立つ。
こうして見ると、まるで二卵性の双子のよう。
「すてき。すごく。」
すずは鏡に映る自分に触れた。
ユウは塗り立てのすずの頬にキスをした。