第八話:10年待った
繰り返すが、今日は花の金曜日。
飲食店がどこも混雑しているように、ラブホテルもまた例外ではない。
学生風の浮ついた若者たち、酸いも甘いも噛み分けていそうな大人たち。
客層は様々で、関係性も人間性も千差万別。
誰がなんの目的で訪れたにしても、一般常識さえ弁えていれば、漏れなく歓迎される。
それがラブホテルという場所で、歓楽街に於ける暗黙の了解だ。
そう。
一般常識さえ弁えていれば、誰であれ拒まれはしないのだ。
たとえ酔った勢いだろうと、恋仲に満たない女同士であろうとも。
「───うわー、えっぐ。
マジで鏡だらけじゃん。ダンス教室くらいならここで開けんじゃね?」
「……そうだね。」
ユウとすずがお邪魔したのは、空間一面が鏡張りという、特殊なコンセプトの部屋だった。
わざわざ選んだのではなく、たまたまここしか空いていなかったのだ。
「まー、そこそこ広いし、いっか。
確かカラオケ付いてる、ってあったよねー。」
さっさと部屋の中に入っていくユウと、怖ず怖ずとユウの後ろを付いていくすず。
コンセプトルームどころか、ラブホテル自体が嬉し恥ずかし初体験なのだ。
少なくとも、すずにとっては。
「ねえ、ユウ。」
「んー?」
「こういうとこ、前にも来たことあるの……?」
やけに慣れた様子のユウに、すずは不躾を承知で尋ねた。
「……あるよ。
こことは違うとこだけど。」
ユウは即答こそしなかったが、嘘はつかなかった。
「まだなんか聞きたい?」
「……いや、いい。」
すずが真摯に尋ねれば、ユウも真摯に答えるだろう。
だが、すずは詳細を求めなかった。
"───ワタシは結婚歴がなければ、男とまともに付き合った経験もないから"。
男性とは、交際したことがない。
なのに、ラブホテルへ来たことはある。
イコール、男性ではない連れを供にしていた可能性が高い。
女性か、元女性か、現女性か。
いずれにせよ、こんな際どい場所に同行するほどの、親密な間柄であったのは間違いない。
ただの友達、ただの知り合い?
性的なあれそれも込みの、友達か知り合い?
わたしには内緒にしていただけで、実は過去に恋人と呼べる存在がいた?
"───したくないって言われたら、そういうの一切ない関係でも構わない。
逆にしてもいいって言われたら、遠慮しない"。
すずが唯一、腹を割って話せる相手がユウだった。
血を分けた家族以上に、ユウはすずを知っている。
故にこそ、喉から手が出るほど気になっても、すずはユウの深層を掘り下げられなかった。
「(そうか。
驕っていたのか、わたしは。)」
自分の知っているユウはあくまで、彼女の一側面に過ぎないのかもしれない。
ユウにとって自分は一番でも、唯一ではないのかもしれない。
ふと胸を刺した過ぎりは、無意識ながらも確かな慢心。
10年待ってくれたからといって、11年目があるとは限らない。
ハッとした瞬間、すずは肌が粟立つような恐怖と焦燥を覚えた。
「お、ここハニートーストあんじゃん!
せっかくだから頼むか。お祝いのケーキの代用で。」
なんだよ。遠慮しないって言ったくせに。
わたしから誘った時点で、いいよって意味なのに。
わかった上でわざとやってるなら、わたしのため?
それとも、わたしには性的な魅力がないから、催してくれないの?
「ユウ。」
晃平さんとする時でさえ、ここまで照れ臭くはなかった。
勇気を振り絞ったすずは、とうとう切り出した。
「しないの?」
「え?」
ルームサービスのメニュー表を開いたまま、ユウは一時停止した。
まだ惚けるか。
すずは半ばやけくそに続けた。
「セックス。」
「………なんて?」
呆けるユウに向かって、すずは二歩三歩と詰め寄っていく。
「だから!ラブホテルに来るってのは、そういうことじゃないのって!」
「行ったことないからどんなもんかってさっき───」
「うそ!ただの言い訳!建て前あんなの!」
急展開に思考が追い付かず、ユウはすずをぼんやりと見詰めた。
つい本心を誤魔化してしまった30分前の自分を、すずは呪った。
「本当はそういうつもりで誘ったの!
ユウならいいと思って、でも本当のこと言ったら引かれるかなと思って言えなかったの!」
まさか本来の用途も込みでのお誘いだったとは。
道中のすずが妙に大人しかった理由を、ユウは悟った。
「好きになっちゃったの、ユウのこと。
友達以上に、ユウがわたしを、好きって言ってくれるみたいに。」
みるみる火照りだした顔を、すずは俯かせた。
祝杯のアルコールが残っているのでも、外気との寒暖差に血が騒いでいるのでもない。
真っすぐな感情が齎した熱。
市販のファンデーションなどでは、とても隠しきれない。
「お仲間が分かるんなら、分かってよ。」
最後に八つ当たりの一言を吐いて、すずは口を閉ざした。
二人の間に気まずい沈黙が流れる。
ユウは無言でベッドへ近付き、端に深く腰かけた。
「すず。」
「?」
「おいで。」
名前を呼ばれてすずが顔を上げると、ユウが手を差し延べていた。
シャワーは浴びなくていいのか。
当たり前の疑問すら湧かないまま、すずはユウの導きに吸い寄せられていった。
「ここ、座って。」
ユウが自分の隣を手で叩く。
言われた通りにすずが従うと、二人分の体重を受けたベッドが、ぎしりと音を立てた。
「(おちつけ。)」
男女での行為は心得ている。
でも同性の、女性同士のやり方は、人づての俄か知識がせいぜい。
だって、こんなことになるなんて。
こんなことを仕出かしてしまうだなんて、自分でも予想しなかった。
思いがけず、ぶっつけ本番となったのだ。
「(おちつけ。)」
男役と女役に分かれるのがスタンダード、だったか?
となると、この場合はユウが男役、でいいのか?
でも確定してるわけじゃないし、同い年の幼馴染みなら、対等でいくべきじゃないのか?
でもでも、こういう時の対等って、何を以て対等なんだ?
右も左もサッパリなわたしに、大先輩のユウをリードできるのか?
「(おちつけ。)」
再び流れた沈黙に反して、すずの胸中は早くもお祭り騒ぎ。
動揺と緊張と期待とで、あられもないモノローグを繰り返す。
「すず。」
ユウの指が、すずの頬にそっと触れる。
「(きた、)」
すずはぎゅっと目を閉じ、肩を強張らせた。
「しないよ。」
3秒の間を置いて、すずは目を開けた。
視界いっぱいに映ったユウは、穏やかに微笑んでいた。
「しないの?」
「うん。しない。」
「なんで?」
「さすがに、破局して間もない人に手出すのは、ズルいでしょ。」
「わたしはいいって言ってるのに?」
「それでも。」
私はこんなにドキドキして、心待ちにしているのに、ユウは違うのか。
膨らませたイメージのことごとくを打ち砕かれ、すずは肩を落とした。
「やっぱり、わたしとは、したくない?」
「まさか。
許してくれるなら遠慮しないって、言ったでしょ。」
悔しい。寂しい。恥ずかしい。
自己嫌悪で涙が零れてしまいそうなのを、すずは奥歯を噛んで堪えた。
「なんなの、それ。
言ってることとやってることが違いすぎるよ。」
「かもね。」
本当は、勢いに任せてしまいたい。
正直になりたい。
おあずけを食らい続けた10年分、埋めさせてほしい。
取り戻させてほしい。
先に進みたいと望む気持ちは、ユウの方が強かった。
同時にユウは、"今夜ではない"ことも理解していた。
すずを愛しているからこそ、この日が待ち遠しかったからこそ、近道を選んではならないと自制できた。
「すず、聴いて。」
すずの左手に、ユウは自分の右手を重ねた。
すずは項垂れたまま、ユウと指を絡めた。
「ワタシは正真正銘、アンタに惚れてる。
本能の赴くまま行動していいんなら、不二子ちゃんを前にしたルパンみたいに飛び込んでいきたい。」
「飛び込んでいいよ。」
「だめ。少なくとも今日は。」
「理由は?」
「さっきも言ったけど、アンタはまだ、晃平さんと別れて間もない。人生かけた一大事を乗り越えたばっかなの。
どんなに平気なフリしても、受けた傷は一生残るだろうし、今の内にちゃんと治しておかないと、何度だってその時の痛みがぶり返す。
普通なら、立ち直るのに最低一年はかかるところよ。知らんけど。」
「知らんのかい。
わたしそんな思い詰めてないよ。」
「だとしても、アンタは自覚以上に弱ってる。
そんな矢先に、付け込むような真似はしたくない。」
「わたしが誘ったのに。」
「聞いたよ。
誘われて余計に、そう思ったんだよ。」
ユウの低い声が、だだっ広い空間に響く。
すずは不機嫌に鼻を鳴らし、ユウの肩に凭れかかった。
「さっき、好きって言ってくれたのも、もちろん嬉しかったけど。
それも本心かどうか分からない。」
聞き捨てならない台詞にすずは飛び起き、ユウを睨みつけた。
「疑ってんの?」
「疑ってはないよ。ただ、自信がない。
一番しんどい時に、傍にいた相手だもん。情が移るのは必然でしょ。」
「吊り橋効果だって言いたいの?わたしの好きは気まぐれだって───」
「そうじゃないってこと。
証明したいからこそ、急ぎたくないんだよ。」
すずのユウに対する"好き"は本物。
友人としての信頼や尊敬に加え、恋愛対象としての羞恥や欲求が着々と芽生えている。
「(そうやって、ユウはいつも───)」
ただ、片想いに忍んできたユウの言い分も、わからないでもない。
すずは反論するのをやめた。
「本当にぜんぶ落ち着いて、それでもワタシを好きだって、言ってくれるなら。
その時に応えるよ。必ず。」
ユウはいっそう優しく微笑み、すずは切なさに眉を顰めた。
「ユウはいいの?それで。」
「いいよ。」
「10年待ったんだよ?」
「10年待ったんだもん。これからだって待てるよ。」
「本当に?」
「ほんとう。」
「本当に、わたしを好き?」
「好きだよ。世界で一等。」
すずは堪えきれず泣いた。
ユウはすずを抱き寄せ、すずの震える背中を撫でてやった。