第五話:分水嶺と境界線
ユウからの告白を受けた半年後。
話したいことがあると晃平さんに言われ、都合のよい日に機会を設けた。
「───じゃあ、そろそろ。しましょうか、話。」
「……うん。」
いつものように晃平さんの帰りを待ち、いつものように晃平さんを出迎え、作っておいた夕食を向かい合って食べる。
もう何度となく繰り返したルーティーン。
なのに目の前にいる夫は、まるで知らない人の顔をしていた。
「別れないか、俺たち。」
青天の霹靂だった。
話があるなんて急に言い出すから、きっと良くない知らせだろうとは感じていた。
ど真ん中に的中してしまうとは、いっそ清々しい。
「離婚したい、ってことですか。」
「そう。」
昔は自他ともに認める、仲のいいカップルだった。
晃平さんは私に、とても優しくしてくれた。
私も晃平さんを、とても慕っていた。
ブスのくせに身の程知らずだとか、晃平さんのファンに陰口を叩かれるのは辛かったけれど。
分不相応の自覚はあったから、乗り越えるべき試練なんだと受け入れられた。
そう自分に言い聞かせることで、目を逸らしたかった面もあるかもしれない。
矢面に立たされる私を、知らんぷりし続ける晃平さんから。
本当は私は愛されていないんじゃないかという、果てのない不安から。
"───結婚するのは大賛成。
ただひとつ、守ってほしい条件があるの"。
不安が不満に変わったのは、大学生の頃だ。
私は晃平さんを追いかけて同じ大学に入り、特技を活かして出版業に就くことを目標としていた。
"貴女が憎くて言ってるんじゃないの。
貴女のためを思って言っているのよ"。
それは叶わぬ夢と消えた。
私自身の力が及ばなかった、ならいい。
是非にと言ってくれる人も場所もあって、あと一歩のところまで迫っていたにも拘らず、断念した。
断念せざるを得なかった。
"せっかく良い会社に入っても、妊娠したら辞めなきゃいけないでしょう"。
"仕事の楽しさを覚えた矢先に、なんてなったら貴女が辛いのだし、会社にだって迷惑をかけるわ"。
家庭に入り、主婦業に専念してほしい。
高槻家から出された結婚の条件。
ご挨拶に伺った折、先輩のご両親から直接、そう言われた。
家庭に入ること。
夫を支えることを第一の役目とすること。
高槻家はそれなりの名家だし、晃平さんも割のいい仕事に就いたから、妻まで働きに出る必要がないのは分かる。
でも、強制されなければいけないことなのか?
夫が外で働いて、妻が家を守る構図は、偏った因習だと見直される時代になったんじゃないのか?
"でも、わたし達はまだ、若いですし。
子供の話は、もう少し先でも───"。
"そうやって大事なことを先延ばしにしていると、いつか取り返しがつかなくなるわ。
私は結婚も出産も人より遅くて苦労したから、貴女には同じ轍を踏ませたくないのよ"。
結婚は、あくまで私達のことだよね?
二人で働いて、二人で家庭を築いていけば、なんの問題もないよね?
彼だけは味方になってくれるはずと信じて、私は必死に晃平さんを説得した。
晃平さんが味方したのは、ご両親のほうだった。
"君の言いたいことも分かるけど、俺としては、はやく母さん達に、孫を抱かせてやりたい"。
"それは────"。
"別に、機会がなくなるわけじゃないんだ。
君のやりたい仕事は、何歳になってからでも出来るだろ?
それこそ子供を産んで、落ち着いてからでも遅くはない。
今は焦らずに、ゆっくり考えていけばいいじゃないか。な?"。
"………はい"。
固定された上下関係。
確定した未来予想。
私の意思は誰も尊重しない。
どこにも反映されない。
求められているのは、亭主の三歩後ろに控える、貞淑で大和撫子な、妻としての有り様だけ。
「理由、聞いていいですか。」
「………。」
「わたしのこと、嫌いになりましたか。」
「違う。」
「じゃあ、どうして。」
だったら何故、その時点で見切りをつけなかったのか。
我ながらほとほと呆れてしまうが、勇気がなかったのだ。
捨てるのも諦めるのも怖くて、イチからやり直すのが億劫だった。
だから窮屈な現状維持を選んだ。
いつかは道が開けるかもしれないと、根拠のない希望を寄る辺にして。
「妊娠させてしまったんだ。」
「……誰を?」
「会社の、後輩の女の子。」
その結果が、これか。
孫の顔を見せてやりたいから。
俺の仕事を優先してほしいから。
あれこれと申し開きを立て、私に鎖を繋いだ結果が、これか。
なるほど。
余所に女を作っていたから、妻を相手にしなくても困らなかったわけか。
いわゆるレスの状態が続いていたのは、単なる倦怠期ではなかったわけだ。
「つまり、わたしに隠れて不倫してたってことですか。」
「そんなんじゃない。」
「じゃあ何だっていうんですか。」
「……向こうから、どうしてもって、しつこく迫られて。
断りきれなかったんだ。」
「断れなくて、仕方なく応えているうちに、うっかり子供ができてしまったと。」
「………。」
妊娠させた?
しかも、会社の女の子を?
内輪に手を出せば、逃げ場がないと分かっていたはずでしょう?
もう少し二人きりの夫婦生活を楽しみたいからって、例の孫とやらを産ませてくれる機会さえ、見送ったはずでしょう?
私には我慢ばかりさせておいて、自分は外で悠々自適に過ごしていたの?
「相手の女の子は、どうしてるんですか。」
「まだ、初期の段階だから、堕ろすことも一応、できるけど……。
本人は産みたいって、言ってる。」
「その子とやり直すために、わたしはもう要らないって、そういうことですね。」
「そんな言い方はしてない。」
「そうでしょう、実際。
経緯はどうあれ、妊娠させてしまったからには、責任を取る。
そりゃあ、そっちを優先しますよね。わたしとの間には子供がいないんですから。」
怒りが湧いた。
許しがたいと思った。
ただ、冷静だった。
自分でも意外なほど、なにに対して怒っているのか、どうして冷静でいられるのか、理論的に分析できた。
怒りが湧いたのは、裏切られたから。
私の苦労を無駄にされたから。
冷静でいられたのは、そんな気がしていたから。
そもそも期待していなかったから。
「なんで俺ばっかり悪者なんだよ。」
「え?」
「君は気付いてなかったわけだろ?
俺が外で何してるか、どんな人たちと付き合ってるか、興味すら持たなかった。」
「それは、詮索しないでくれって言われたから───」
「だから自分は一方的な被害者なのかよ。
俺の気持ちなんか考えもせずに、毎日呑気に過ごして、いざとなったら全部俺のせいかよ。」
晃平さんも私も、随分前には、愛が冷めていたのだ。
どうにかここまで続けてこられたのは、周りからの圧力と惰性があったおかげ。
いつか破綻することになっても、予防はしないし回避するつもりもない。
釈然としないが、"なるべくしてこうなった"というのが、適切な表現だ。
「俺だって、君がもっと優しい奥さんだったら、浮気なんかしなかったよ。」
もうひとつ。
私が冷静でいられた理由。
ユウの存在。
ユウが私を好きだと言ってくれたおかげで、私は私の尊厳を守ることが出来た。
晃平さん以外にも私を必要としてくれる人がいる安心感が、私の心にベールを覆ってくれた。
そうでなければ、もっと狼狽して、もっと悲観して、もっと慟哭しただろう。
どうして私ばかりがこんな目にと、早まった真似をしたかもしれない。
「よく、わかりました。」
虫のいい話だ。
あなたのことは選べないなどと拒んでおいて、選んだ相手に捨てられそうになると、過ぎた岐路を振り返りたくなる。
「離婚の件も、妊娠の件も、あなたの気持ちも。
全部よく、考えますから。」
ねえ、ユウ。
本当にあの人でいいのって、前に聞いてきたことあったよね。
モテる人だから苦労するよって意味なんだと、私はずっと思ってた。
違ったんだね。
晃平さんがモテる人だからじゃなくて、私たちが人として欠けているから、上手くいかないよって言いたかったんだね。
ユウには、私たちの10年後がどうなるか、分かっていたんだね。
「少し、時間をください。」
私って、晃平さんのどこが好きだったんだっけ。