私も、「同じ」夢を見ました
私も、「同じ」夢を見ました ~ 米河清治
大宮太郎さん、たまきさん御夫妻の夢の話は、その翌日、彼らの家に呼ばれて聞かされました。私もその夜、夢を見たには見ましたが、太郎さんやたまきさんとはまったく別の場所での夢で始まりました。しかも、過去に起こったこととほぼ同じことが、その夢では起こっていました。
私がO大学に現役で合格した1988年の夏、O大の鉄研は四国で「合宿」をしました。まあ、みんな好き放題列車に乗って、何日かどこかに集まって泊まって、そこでどうこう、というだけのこと。他大学は分かりませんが、少なくとも当時のO大の鉄研は、それこそ強い時期の西鉄ライオンズじゃないけど、一種の「野武士集団」的なところがあって、集まる日以外は全くの個人行動。これでよく統制が取れるなと思われますが、まあ、群れたらいいってものでもないから、こんなものです。これなどまさに、プロ野球選手の「移動」と「試合」の関係のようなものと言えばいいでしょうかね。
その合宿のさなか、私は確か、宇和島から予土線に乗って窪川に出て、そこから土讃線の急行列車に乗りました。当時の四国にはまだ急行列車があり、なぜか、車内販売もありました。
車両は確か、キハ65だったと思います。向かい合わせのボックスシートではありますが、シートは昔ながらのものとは違って、新しいものを使っていました。
そこで私は、たまきさんより2歳ほど年上の男性と出会いました。旅の好きな人で、東京から来られたとか。しかも、酒も大好き。あいにくお互い酒の持ち合わせがなかったので、どちらともなく車内販売で買い込んで、そこでますます意気投合。いろいろな話になりましたね。実家が都内で自営業をされていて、時間の融通は利くのだとのこと。この石黒賢一さんという方は、鉄道が特に好きでどうというわけではないが、全国あちこち、時には外国さえも「旅」をされるとか。
今時だと、そんな形で出会った人と会話が弾んで住所交換なんてことはあまりしなくなりましたが、当時は、そういうことは頻繁に行っていましたね、それで仲良くなった人もいますし、石黒さんのように今も親交のある人もいます。
この石黒さんは一時期、ある政府系団体に勤めたことがあって、O市に住んでいた時期もありましたからね。
それで、まあ、酒を飲みながらいろいろお話して、そうこうしているうちに、O大鉄研の2学年上の上本氏が途中の駅で乗って来られて、まあ、とりあえず高知までこの急行で行ってしばらく飲もうという話になったわけですわ。
当時の高知駅は高架ではなく地上にありました。改札のある1番線のホームの東寄りにちょうど頃合いのベンチがありました。幸い、8月下旬でお盆のピークも過ぎており、人もあまりいない。酒やつまみなら、足らなくなったら駅のKIOSKで買えばいい。ますます「酒宴」は盛り上がりました。
とっくに成人の石黒さんや成人になったばかりの上本氏はともかくとして、私はそのとき、19歳の誕生日が来ていない、満18歳。
今なら大変なことですが、当時はそう難しいことは言われませんでした。
さあ、酔いも回ってきたころ、181系気動車の高松行き「しまんと」号が1番線に入線してきました。
私はO大鉄研に「スカウト」されてこの方、当時岡山から出雲市・益田を伯備線経由で結んでいた181系気動車「やくも」が大好きでした。ちょうど新幹線が博多まで行ってしまった後で、在来線特急が夜行列車を除けばこの「やくも」だけの時代でした。その上さらに、鉄研には181系気動車の好きな人は結構おられ、その影響も受けた私が「やくも」に熱中するのは時間の問題でしたな。
瀬戸大橋の開通で、四国からの特急も来ることとなり、この岡山という駅は、新幹線博多開業前のように「趣味的」な意味でも興味深い場所へとなっていました。
伯備線が電化して「やくも」は電車特急になり、少しがっかりしていた矢先、再び、岡山で181系気動車に出会えるようになりました。その181系気動車の「しまんと」号を目にした私が、酒を飲みながら何を言い出したかというと・・・
「それでは、ただいまよりO大鉄研に古くから伝わる歌を歌います!」
とか何とか、石黒さんとU氏の前で宣言し、「しまんと」号の先頭車をバックに、以前鉄研の会誌で紹介されていた鉄腕アトムの替え歌「鉄輪やくも」という歌を歌い始めました。著作権の問題もあるので、ここでは披露しませんが(苦笑)。実はこの歌、鉄研に来始めて最初の最初に、覚えろと言われなくても、すぐに覚えてしまいましたね。今でも、歌おうと思えば歌えますよ。ただ、酒飲んでそんな歌を歌って、たまきさんにばれたらまた嫌味を言われますから、今はやめています。
その後安芸市方面に行かれる石黒さんと別れ、私とU氏は四国の合宿の旅館というか民宿というかに移動しましたが、市電の車中では、さすがに、そういう歌を歌っていなかったことは言うまでもありません。ちなみに「鉄輪やくも」を歌ったという情報は、上本氏を通じて直ちに皆さんに知れ渡り、さんざん呆れられました。
その日の夢ですが、どういうわけか私は「鉄輪やくも」を歌い終わって181系「しまんと」が岡山に向けて高知駅のホームを去っていった頃に、ふと、眼が覚めました。
それまでの夢の経緯は、今まで述べたこととほとんど変わりません。まあ、太郎さんとたまきさんの結婚式で相当量飲んでいたこともあって、トイレに行ったのですけどね。それが夜中の2時半過ぎだったか。
水を一杯飲んで、もう一度、寝なおしました。
しばらくすると、また、夢を見始めました。今度はなぜか、私が小学生の頃の玉造温泉駅でした。年恰好は20代当時の姿で、なぜかここで、キャンディーズの鉢巻をした石本氏にお会いしたところから、夢は始まりました。記憶の限り、そこが「起点」ですな。
どうやら私は、福塩線と木次線を乗ってここまで来たようで、それなら、1984年の4月(伯備線電化後)に山陰号に乗るまでに来たルートとまったく一緒でした。
でもこのときは、岡山に戻るという話。しかも、電化前の伯備線。待っていると、確かに、181系気動車の「やくも」が入ってきました。
おかしいなとは思ったのですが、なぜか、「やった!」という思いで列車に乗り込みました。確かに、あの181系です。で、石本氏とともに食堂車に向かう途中、昨日お会いしたはずの新婚さんを見つけ、石本氏が声をかけて、あとは、お二人の夢の通り、食堂車です。そのあたりも、お二人と一緒でしたね。本当に不思議でした。
いやあ、それにしても、夢の中でお二人とも、しっかり「見せて」くれました。正直、いい年の私にはつらい光景でしたな。よっぽど、「いい年をして、よくそんなことができますね」と言いそうになりましたが、そんなことを言おうものならセーラームーンをつつかれると思って、黙っておった次第です(苦笑)。あ、結婚式当日のセーラームーンは、翌日、ビデオ録画を見ました。そりゃそうでしょう。
ともあれ、石本氏の「おごり」でどんちゃんということになっていますが、その前に、おまえも3000円ほどあるかと言われて、ちょうどあったので、それも軍資金になっています。一応、私の名誉のために申しておきますね。何と申しましょうか、いい年をした知人の目の前のラブラブなんか、見られたものでもありません。
そこで、私と石本氏は、これ見よがしにあの青木氏ことアオチュウの話や、某鉄研の窃盗事件の話をしていました。確かに、覚えています。チュウはチュウでも、恋人や夫婦のキスではなく、困った御仁のアオチュウではねぇ・・・。
しかし、当時小4だったはずの私がまた、なぜゆえにこんなところでビールを飲んでいるのだろう?
ま、いっか!
しかも、その頃食堂車で飲食できなかった私がなぜここで飲み食いしている?
さっぱりわからないけど、ま、いっか!
加えて、石本氏が「料飲税をかけない作戦」をすることは玉造温泉駅で確認していたので、それはやっぱり、こう来たか・・・、と。特に不思議な感じがしなかったのは、なぜだろうか。
ま、よくわかりません。
そうそう、料飲税がかからないようにする作戦については、中学生の頃から、石本氏にお聞きしたことがあります。全国組織の鉄道趣味の会播備支部のベテラン会員で、O市内で精米店をされている山藤さんも、同じようなことをされたそうです。
まあ、昭和の大酒飲みの工夫ですな。
とにもかくにも、目の前の新婚さんはホンマ、仲良さそうで、まあ、今もいいのですけど、こちとら当時も今も独身で、ま、別にいいですけど、うらやましいのはうらやましかったですな。ちょうど結婚式の日は、毒舌を披露してウケまくりましたしね。結婚なんてものは妥協の産物だとか、特急の停車駅争奪戦にかこつけてどうこうとか、結構楽しませていただきましたし。
しかし、なんでまた私が実際に乗って食べたこともなければ、まして酒を飲んだわけでもない「やくも」の食堂車に行ったのか、今もっても謎です。とにかく私は、石本氏と鉄道の話ばかりしていたな、という記憶はあります。どんなことをしゃべっていたかは、先ほどの問題の人物たち以外、ほとんど覚えていませんがね。
でもまあ、倉敷の寸前で3回目の会計を済ませて、自由席に戻ってしばらく話したことは、覚えています。運転曲線がどうこうという話も、「やくも」に関わる速度表示「特通気A32」についても、かねてO鉄道管理局の人に教えてもらったり、鉄研の例会でも聞かされたりしていたことでもあるので、まあ、そんなことを言っていても、おかしくないでしょうね。
私は、倉敷到着前に自由席の座席に座って、ちょっとうとうとしていたころで、そうですね、8時半前だったかに、眼が覚めました。
今なら、プリキュアが始まる、寝坊してしまう! と慌てるところですが、当時は、テレビを観るといえば、土曜日の19時から30分のセーラームーンだけでしたしね。慌てることもありませんでした。
それはともあれ、あの夢は、今も覚えています。
最近O大の学遊会事務室で行われた「公開講座」の席上、吉本隆明の「共同幻想論」に関わる話で「対幻想」という言葉が題材として出ました。
これは、恋人同士や夫婦や兄弟姉妹、親子などの2者間における「幻想」の形の一つだということです。全共闘世代には結構読まれたそうですが、私は、そうですね、言葉だけは知っていましたが、実際に読んだわけではないので多くは語れません。
ただ、私が太郎さんとたまきさん御夫妻と同じ場面の同じ位置の夢を、その日の眠りの「後半」で見たということは、ひょっとするとこの「やくも」の食堂車の光景というのは、「対幻想」ではなく、私が絡んだ時点で、ある意味「共同幻想」の様相も持ち合わせているのかな、とも思えますね。
でも何より、現実にはかなわなかった「夢」、特急「やくも」の食堂車で食事をするという夢が、こんな形でもかなったわけで、私としては、うれしいですね。
もし夢で見られるのなら、他の時代の他の列車の食堂車にも、行ってみたいものです。まあ、未来よりどうしても過去に向かってしまうのは、鉄道趣味者の一種「倒錯」した感情からくるものですから。
それはそれで、楽しめばいいのではないでしょうか。
そしてね、そういう「倒錯」した感情を持って楽しめているからこそ、現実社会をうまくわたっていける側面も、大いにあるのかもしれません。
白黒はっきりつく仕事、例えばコンピューターやら何やら、そういうものを扱う人は、逆にあいまいさが必要不可欠なもの、例えば小説とか旅とか、そういうことをするとよい。逆に、あいまいさが必要不可欠な仕事をしている人は、逆に白黒はっきりつくことを取り入れるとよい。そうすることで、バランスをとった方がいいのではないか。
私はある時、そんなことを考え付きました。
よくよく考えてみれば、私個人の人生はかなり白黒はっきりつく、リアリストのような人生を歩んできたようにも思います。
なんか、黒のほうが多いのは、気のせい気のせい。
でもまあ、その逆にある「あいまいさ」というか、本来「切り捨てられるべき存在」に目を向け、楽しみを見つけるというのは、今述べた構図とまったく同じで、要はこれでうまく私なりのバランスが取れているのだから、これでいいのではないかと、思っています。