表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

カーテンが取り払われた日 ~ 大宮たまき

4 カーテンが取り払われた日 ~ 大宮たまき


 私たちが中学生のとき、私が交通事故、彼はある病気で入院した病院で出会って初めて話したのは、私のギプスがとれて、子ども用の病室から太郎君のいる大人用の病室に移ったときでした。

 子ども用の病室でもそうでしたが、大人用の病室も、個室でない限りは同じ室内のカーテン一つで区切られた、ベッドを中心とした区画の中で過ごします。


 いい大人ならまだしも、中2の女子と中1の男子が一緒の部屋のカーテン1枚で仕切られた隣同士の場所で過ごした数週間。

 今思っても、なんだか不思議な思いがします。

 病院の人たちも、私や太郎君の両親も、よく、そんな状況になることを認めたものです。兄弟でも親戚同士でも何でもない、中学校も違うしお互い見ず知らずで、しかも思春期に入りたての少年と少女が、カーテンで区切られているとはいえ同じ部屋の中で何日も過ごすわけで、何かあったらどうするのかと、今なら思うところです。

 息子ならまだしも、娘には、そんな場所にいさせたいとは、正直思いませんね。


 病院の看護婦さんには、太郎君の叔母に当たるかなさんがいました。

 彼女の話によると、看護婦さんたちの中で、あの二人、


 私たまきと太郎君は、「できる」か?


 なんて、まるで賭けのような話を冗談めかしてしていたようです。いつの時点をもって「できる」ことになるのかって話になって、結局お金をかけて、ということはなかったそうですけれども、その分、結構楽しく盛り上がっていたそうで、まあ、いいのですがね。


 かなさんは、私たちの退院後、私や太郎君の主治医だった院長の息子に当たる太郎先生と結婚されました。その「キューピット」が私だとのことで、親族の太郎君とともに、私も結婚式に呼ばれました。

 こうなると、叔父と甥に「太郎」さんが、あわせて2人。

 英国の元首相大ピットと小ピット(父と息子)、あるいは古代ローマの学者大プリニウスと小プリニウス(伯父と甥)などの例に従い、太郎先生は「大太郎」さん、太郎君は「小太郎」君となりました。

 世界史が得意なクラスメイトで鉄道の写真を撮るのが好きな下山君(今はある雑誌の編集部にいるそうです)に相談したところ、そう呼べばいいと「発案」され、私がこうしたらいいのではと、義父というか太郎君のお父さんに提案したところ、太郎君の親族の間では、満場一致? で採択され、今に至っております。

 そして私はもう一度、今度は、男女ではなく「レアな体験をした元少年」を取り持つという、いささか変な「キューピット」をする羽目に。そのことは、後程。


 高校生の頃は、お互いあまり頻繁に会ってはいませんでした。

 特に太郎君は病気の病み上がりで学校にも行けず、いわゆる「大検(大学入学資格検定。現在の高校卒業程度認定試験)」を受験してO大学に行くための勉強をしていましたし、私は演劇部で忙しかったから、あまり会う機会はありませんでしたが、当人以上に私たちの両親が仲良くなって家族ぐるみの付き合いになってしまっており、嫌でも(嫌じゃなくてとってもうれしかったけど)太郎君とは顔を合わせる機会は度々ありました。

 彼は勉強のかたわら、プロ野球の本や資料を読み漁って、そのころになると、日本の野球のことは歴史も含めて大抵のことは知っているくらいになっていました。さらに鉄道にも興味を持ち、大学ではぜひ鉄道がらみのサークルに入りたいと思うようになっていました。


 かくして、年齢通り1年早くO大学に合格した私は、太郎君の頼みの鉄道関係のサークルがあるかどうかを入学式の日に調べることとなりましたが、苦もなく、「ある=実在している」ことが判明しました。

 中学生にもかかわらず、大学の新歓ビラを配っていた少年がいました。彼の配っていたビラには「鉄道研究会(鉄研)」と書かれていて、伯備線が電化する前の気動車特急(気動車を「電車」と言ったらこの筋の人に怒られると太郎君に聞いていたので、そこはきちんと区別できるようになっていました~苦笑)「やくも」の絵も描かれていました。私自身は新聞部に入りましたが、太郎君に情報を伝える目的で鉄研の例会をしている現場にも何度か足を運びました。鉄研の先輩方の方針もあり、その少年、マニア君こと米河清治君とのお付き合いは、そこから始まりました。

 かたや、病院の院内放送でDJをした少年(太郎君はなぜか、その病院の先生方と仲良くなって、そういう「企画」をやってみないかと言われて、始めたのです。彼の放送は、患者さんや職員の皆さんにも、結構人気でしたね。その経験が高じて、後に大学卒業後、ある地元ラジオ局の社長に、私もいっしょに「スカウト」されて、今に至っています)、こちらは、小学5年で大学の鉄研に「スカウト」されて毎週水曜と土曜ともなればO大学の鉄研の例会に通い、入学式の日には新歓ビラを配っていた少年。同世代の男の子でそうそうできない経験をした少年たちは、こうして、私を介して巡り合うこととなったのです。

 しかも、「悪い虫よけ」ということで太郎君の父方の伯父さん宅に下宿させてもらい、ほどなく太郎君もやってきました。何だか、少女漫画みたいな状況ですね。

 最大の違いと言えば、マニア君は太郎君の「恋敵」たり得なかったことかな。

 それだけならいいけど、相も変わらず独身で女っ気なしというのは、おねえさんとしては、さすがにいかがなものかと思いますけどね。


 あるとき、太郎君は自分が「悪い虫」だろう、と言ったら、両方の両親から、即座に「却下」されました。じゃあオレは「虫よけ戦士」か、と言うと、バカ受けして、そろって大笑い。私の友人、特に女子の間では今も太郎君は「(悪い)虫よけ戦士」と言われています。

 「虫よけ戦士」はともかくとして、今度は、カーテンでの仕切りではなく、壁での「仕切り」がありましたけど、私たちはかくして、同じ屋根の下で過ごすことになりました。この頃になるともう、私の方も太郎君の方も、両親たちまでが私たちをあおるようなことを言いだしていました。

 まあ、ある程度冗談めかしてではありますが。

 太郎君は、ほっといてくれと言っていましたね。

 ただ、下手に言おうものなら、誰か他に好きな人でもできたかとか何とか、突っ込まれてややこしいからと言って、変な反撃はしませんでしたが。


 こんな話をしていると、あのマニア氏、3等級の2等の「開放型寝台」から「個室寝台」に進化して、結婚後は同じ寝室で、まさに3等級の1等寝台の2人用個室で、それこそツインデラックスですな、とか何とか、寝台車の歴史に絡めてなにやら論評してくださいました。

 人の寝床を寝台車に例えないでよ、と言いたくもなるところではありますが、まあ、確かにそうですね。彼の話のスジに乗って、考えてみますね。


 太郎君と私は、同じ「列車(建物)」の中で夜を過ごした期間がとても長いことに気づきます。彼は、鉄研の後輩の堀田氏が卒業時に譲ってくれた元ブルートレインの52センチの寝台を書斎に置いていて、そこでたまに寝ます。

 何も3等寝台に寝なくても、とは思うけど、彼なりに色々することもあるようですから、無理も言えません。それでも、2人用のベッドに1人で寝るのは広々としていいようですが、なんだか、寂しいものです。


 彼と結婚して(というより、それまで実質「同棲」していたわけですけど)、いろいろな意味で初めて、二人の間にあったカーテンや壁が取り除かれたあの日、私たちは、これまで述べた通りの夢をお互いに同じ夜に見ていました。

 私も太郎君も、気動車時代の「やくも」号に乗ったことはありません。一度だけ「やくも」で使われていた食堂車(「キサシ180」というそうです)が境線の大篠津駅に何両も留められていた光景を、列車の中から一緒に見たことがあるぐらいです。マニア氏は、食堂車に入って写真を撮らせてもらったことはあるものの、「やくも」の食堂車で何か食べたことはないとのことです。それどころか、初めて乗った振子電車の「やくも」で岡山から新見まで行く間に、まず乗り物酔いしないにもかかわらず酔ってしまったとか。当時中2でしたから、もちろん「酒を飲んで」酔ったわけではありませんよ。これは彼の名誉のためにも、しっかり申し上げておきましょう。


 しかし、JRになって何年も経つにつれ、夜行列車の需要は減ってしまい、ついにブルートレインは日本の鉄道からは完全に姿を消してしまいました。その「後継」となる列車も生まれずじまいです。一種の「クルーズトレイン」はあちこちでできていますが、それはもはや、ブルートレインではありませんね。色の面でも、役割の面でも。

 カーテン一つでよそのベッドと区切られただけの、それこそマニア氏が言うところの「無防備性抜群(これはある鉄道評論家の方の言葉らしい)」の薄暗く狭い、風呂もない列車に乗って何時間も揺られて移動する必然性がなくなった今となっては、病院ならいざ知らず、列車でそんなものに乗って移動なんてことをしているほどヒマな人はそうそういない。

 新幹線か飛行機でさっさと現地入りして、ビジネスホテルにでも入った方がいい。男性で別に「個室」でなくてもいいというなら、カプセルホテルだってあるし、それこそサウナもついた風呂はあるし、ロッカーに入れるかフロントに預けるかすれば貴重品は鍵をかけて管理できるし。その方が寝台列車を使うより極めて安くて安全かつ快適に移動できる。

 これじゃあ、いくらJR各社が躍起になったって、復活のしようもないというものです。

 これはある意味、社会のいろいろな場所で「個人化」が進んだ結果だと、マニア氏はある時私たちに言っていました。だからこそ「個室」が当たり前になり、雑魚寝やそれに近い寝方をする文化もまた、廃れていったのだ、と。


 終戦後間もなく製作された小津安二郎の名作・「東京物語」には社員旅行で熱海の温泉に来て宴会をしているサラリーマン一行が描かれている。それを平成の世でオマージュした山田洋二の佳作・「東京家族」では、同じような家族で同じような旅行をプレゼントしたはずなのに、行った場所は横浜のホテル、しかもそこは個室できっちり区切られた空間、宴会の喧騒などとんでもない、強いて言えば、ある部屋の中国人らしい客が大声でホテルマンと何やら話している声だけ、という状況。この二つの作品を見比べれば、約半世紀の間の動きがよくわかるでしょう、とのこと。

 それでも、「家風呂」が当たり前となった今でさえ、昔ながらの「銭湯」が根強く人気があったり、ある程度の都市には必ずあるサウナ付きのカプセルホテルが盛況だったりするのも(女性向けのそういう施設はあまりありません。正直、そういうところに行ける男性がうらやましいです。

 実際、マニア氏は、そういう場所が大好きみたいですね)、単に昔ながらの人との距離感覚に「郷愁」を覚えるからというだけでなく、ある程度、人肌の近いところに身を置きたいという人間の本能からくるものがあるのではないか、だから、当時は「蚕棚」と揶揄されていた列車の寝台が今なお「郷愁」をもって語られるのも、必然と言えば必然ではないでしょうか。

 それこそ、動かすのに手間とエネルギーが散々かかった蒸気機関車を懐かしむのと、同じような構図ですね。

 素人の私にも、その当たりの間隔は、よくわかります。


 「カーテンでさえも区切られない場所で何人かと一緒に夜を過ごす」

ことと、

 「最低限、壁で区切られたたこつぼのような「区画」に入って、そこで一人一人が夜を過ごす」

ことと、どっちがいいのかな? 


 後者が当たり前となって久しい今日ですが、どちらがより「人類の進化」なのかは、マニア氏あたりなら即答で後者と答えるのかもしれません。

 でもね、少なくとも私には、そんなに割り切った答えは出せません。太郎君に先日聞いたら、少なくとも後者のほうが進化だというのは、あまりにも早計にすぎるだろうな、とのことでした。

 私たち夫婦は、多感な中学生のとき、カーテン一つで区切られた区画で数週間共に過ごしました。その後、途中壁などで仕切られていた時期もあったけど、ある時を境に、その「壁」は崩壊?し、カーテン1枚でさえ区切られることなく、いまは、同じ寝具の中で夜を過ごしています。

 子どもたちも大きくなった今、そこは太郎君と私だけの空間です。私にとって一番幸せなのは、そこで太郎君と昼夜を共に過ごせることなのです。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ