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しかし、あるときわたしはそんな事態を回避できる簡単な方法を思いついた。
葉書にすればいいのだ!
便箋に書かれた内容を充実させなければどうしても体裁が悪くなる手紙ではなく、ときには自分の写真や近隣の風景を写しただけでも体裁が整えられる葉書にすれば、書くことが苦手なわたしにだって和音との文通(?)が気楽に続けられるじゃないの、と発想したのである。
和音は文章が得意だったが、わたしはどちらかと言うと画の方が得意だった。もちろん美術部とかに所属して研鑽を積んでいたわけではないので光と影の織り成す明暗だけで成立するデッサンみたいなものは苦手だったが、漫画的な人物の似顔絵は得意だった。
それから得意と言えば、道案内の画も得意だった。
常々わたしは絵画や写真などの美術展の案内で意匠を凝らせた道案内の画(図)ほど判り難くて非現実的なものはないと思っていたが、わたしが描く道案内の画はそれに対して、「わかりやすい」と結構評判だったのだ。
人は誰でも頭の中に方位磁石を持ってはいないし、現実の道は――京都や奈良の一部では異なるが――碁盤の目のようになってはいないし、まったく同じ幅であることもない。わたしの道案内の画は単にそれらをデフォルメして、ある道と別の道とがなす角度はできるだけ正確に、道の幅は誇張して、また目印の建物が四角ければ四角く丸ければ丸く描いた。
それに加えてわたしは平面で捉えた関係性から鳥瞰図を想起出来る才能にも恵まれていたらしく、自分が知っている場所であれば、どこかの街角で誰か――何故か老婆が多かったが――に道を尋ねられても、すぐにブックバンドを解いて取り出したルーズリーフ・ノートに道案内の画を描くことが出来た。急ぎの用がなくて、かつ目的地が比較的近いときには、その場所の近くまで一緒に歩いて行ってあげたから必ずしも画を描く必要はなかったが、それでも、「次にまた来るときに役に立つから」と頭を下げられて、「ありがとう」と感謝され、嬉しく感じたことを憶えている。
文通に葉書を使うという自分の思い付きにわたしは有頂天になったが、さてでは何を題材にしたら良いのかと思うとまた考え込んでしまった。だが、「ここで悩んでいたら意味ないじゃん」と思い返して、自分を写真に撮ろうと決めた。いずれはそれぞれの運命の許に和音とわたしはお互いを忘れ去ってしまうのかもしれなかったが、そのときのわたしは和音にわたしのことを忘れて欲しくないと強く感じていた。ならば写真がその目的に一番沿うだろうと考えたのだ。
後にポラロイドカメラのポラロイド社を倒産の憂き目に遭わせる使い捨てカメラ(正式名称「レンズ付きフィルム」)が観光地を中心にヒット商品となるのはまだ五年も先の話だった。
幸い父が写真を趣味にしていたので、わたしは願ったときに中古のオートハーフカメラ(一回の撮影で通常のカメラの半分の量のフィルムしか消費しないカメラのこと。よって十二枚撮りフィルムならば二十四枚写せる)を買い与えられていたので、わたしは自分ひとりで写真撮影を楽しむことが出来た。もっともそうはいっても小学生のお金の持ち合わせなんてたかが知れているので、フィルムの現像は大抵安い密着印画(写真フィルムを印画紙に密着させて原寸プリントしたもの、またはそのための技法のこと。ベタ焼き、コンタクトプリントとも言う)だけで済ませていた。その中から気に入ったものを時折りサービスサイズ(フィルムカメラが一般的だった時代の標準的プリントサイズ(89mm×127mm)のこと。他にも種々のサイズがある。)に焼いていたのだ。
そうと決まって、わたしは自分をどう写そうかと考えた。
親がそういう趣味ではなかったので、わたしは服装には頓着せずに育てられた。それでもいずれ巷のファッションに気が向くようになってくるのだが、それはまだ先の話だ。
アメリカでは映画俳優が大統領になり、初のスペースシャトルが打ち上げられて、イギリス王室で結婚式があり、年の暮れには日本人がノーベル化学賞を受賞した。本の世界では東北の寒村が日本からの独立を宣言し、テレビ・コマーシャルでは芸術が爆破し、映画では墓荒らしが活躍し、アニメでは飼い犬が「おはよう」と言われ、そしてわたしも和音も貧乏臭いピアノが弾けたら願望が大嫌いだった。
和音が小学校を転校したのはその年の九月だったが、季節はもう肌寒い晩秋になっていた。
わたしはまず自分の写る写真の背景を何処にしようか考えた。散々迷ったあげく、結局決めたのは最初に頭に思いついた神社の一郭で、子供心にも、「迷惑だろうなぁ」と思ったが、山門近くにある池の傍からはじまる階下と階上ではおそらく十数メートルの段差があると思われる木と土で出来た階段にしようと決めた。子供の頃から祖母に連れられて区でも有名なその神社まで良く遊びに行っていたわたしは、時間帯を選べば、そんなに人通りが多くないことを知っていた。
父から三脚を借りて、その際、「まあ、言っても無駄とは思うがそんなに汚すなよ」との注意を受けて、わたしは学校帰りに何度も下見した最適の場所に日曜日の朝に出かけていった。
小学校の第二土曜日が休校になったのが一九九二年、第二第および第四土曜日までもが休みになったのが一九九五年、それが毎週となったのが二〇〇二年四月だ。ゆとり教育が現在各方面で種々の問題を起こしているようだが、わたしたちが属したのは遅いバブル世代で、かつど真ん中の新人類だった。
そういえば、前に本当の早朝に神社に出かけて行って怖い思いをしたことがある。
まず家を出て神社に少し近づくと道を歩くおじいさんとおばあさんの数が急増した。その姿が皆一様に白っぽいものだったので、それだけでも子供心にパニックになりそうだったのに、次には神社を間近にして、その数が急速に膨れ上がってきたのだ。
もちろんその原因は朝六時半からのラジオ体操なのだが、それに気づくまでにわたしの頭は想像を逞しくしていて、「まさかキカイ・テイコクみたいなヒミツ・ケッシャが、おじいさんやおばあさんたちをさらうケイカクをたてたのだろうか?」と本気で考えて怖がった。ラジオ体操だったら夏休みに自分でも参加しているのに、その点に考えが及ばなかったのは、わたしがまだ子供だったためか、それとも生来の慌て者のせいか?
そのとき同時に知ったのは早朝は犬の散歩が多いという事実だったが、その点も踏まえて、わたしが神社に着いたのは朝の七時過ぎだった。
三脚を階段の下に階段を見上げるようにセットして距離を測りながら階段とカメラの間を往復していると、数人の犬連れと犬連れではない何人かの通行人が近くを通り掛かり、一目でわたしの意図を見抜くとその中の何人かが助けを買って出てくれた。わたしは自分ひとりで自分の写真を撮らなければ意味がないと強く思い込んでいたので、その親切心から出たであろうわたしにとって甚だ迷惑な申し出を無碍に断った。わたしに可愛くないところがあるとすれば、きっとそういったところなのだろうが、多少は歳を取ったいまならともかく、子供のわたしには自分の気持ちを曲げることなど思いつきもしなかったのである。
自分の世代でない時代の話を書くのは大変だ。こんなに面倒だとは思わなかった。もっとも推敲後は抜いてしまうかもしれないが…… キカイ・テイコクはサンバルカンです。飼い犬はスパンク。
作者の過去はまったく入っていません。念のため。