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第五章

 暗い闇の中で漂っているようだと晶子は感じていた。

 あるいは真夜中の海。

 周囲を見渡しても光がまったく届かない暗黒が視界を占拠していた。

 (私は……)

 時間の感覚がない。

 今、自身がどこにいるのかも晶子には朧気であった。

 あるのは自己の存在感のみであるが、他の存在を認識出来ない以上はそれは霞のような頼りなさしか晶子にもたらさない。

 長くその闇に浸っていたかもしれない。

 もしかしたら本当は瞬き程度の一瞬かもしれない。

 この時、晶子と共にあったのは疑問であった。

 自分自身以外で、晶子の思考内に取り残されたその疑問を彼女は次第に精神の指先で取り上げていく。

 我思う故に我在り(コギト・エルゴ・スム)

 その行為は図らずも人間が己の存在を確立する工程に酷似していた。

 私は、何だろう。

 私は、何を疑問に思っていたのだろう。

 ああ、そうかと晶子はその疑問に一定の理解を示す。


 これは──憤慨(ふんがい)だ。


 すると答えの一端を掴んだ晶子の目の前に、果たしてそれが瞳が認識する現実かは彼女自身には今は判別が付かないがとにかく感覚としては己の目の前に光が生じた。

 閃光のごときその光は、一瞬の内にとある人の形を取り出す。

 白銀の髪に褐色の肌。

 それはまさしく竜の騎士王の姿。

 (ジークフリート先輩)

 目の前のジークフリートが本人ではないと晶子は直感で理解した。

 その直感を証明するようにジークフリートは沈黙を保っている。

 普段なら、ジークフリートの方から話しかけてくるのにと晶子は考える。

 (先輩って結構可愛いよね)

 本人でない似姿に晶子の口元が綻んだその時。

 闇の中に浮かぶジークフリートの姿が、急に崩れ出す。闇へ、暗黒へ散り散りに霧散していくジークフリートの似姿。

 (あああ)

 晶子は声なき声を漏らす。

 そうして嫌でも思い出してしまう。

 消失するジークフリートに、いずれ竜の騎士王が辿る結末を想起されてしまう。

 (もうすぐ、彼は死んでしまう)

 思い出す現実。

 消したくても消せない魂の慟哭。

 こうして消えていく残影を見ていると晶子の胸の内に込み上げてくる言葉がある。

 お前に何が出来る。

 そう言われているようだと晶子は感じる。

 (私は)

 「──ちん」

 暗黒で晶子は朧気な心で膝を抱く。

 誰かに言われている訳でもない。

 だが、晶子自身が己を糾弾していた。

 「──晶ちん」

 自己を苛む声は限りなく。

 木霊する呪詛のただ中で、晶子の意識は光輝く場所へ向けて急浮上していく。

 (私は──ッ)

 闇から抜け出す刹那に、晶子が思ったのは、

 

 「晶ちんったら、もう」


 ──そこで晶子はハッとして意識を闇から現実へ覚醒させた。

 「話聞いているのぉ?」

 ハッキリした視界には机に両肘をついて晶子の表情を伺う兵庫の姿が。

 ようやく晶子は、今が午前の授業の合間にある休み時間の最中と気付かされる。

 先ほどまで呆然としていた晶子は学園における自身の机の椅子に座っており、兵庫はその対面で今は無人の椅子に腰かけていた。

 おそらく状況は休み時間に普通科の教室へ入ってきた兵庫が晶子と話していたのだろう。

 ほとんど心ここにあらずの晶子であったが最低限の受け答えは出来ていたのだろうと覚醒した意識が晶子自身にそう告げていた。

 「大丈夫~~? 最近、変だよん」

 「うん、平気だよ」

 咄嗟に返事をする晶子だが、その先は続かない。

 真っ直ぐな兵庫の瞳に、晶子はギクシャクする心を隠す。

 「それなら別にええんですけどね……でね、ギルスンがこの間超面白くてさぁ~~」

 続く兵庫の世間話を聞きながら、晶子は先ほどの闇の中……己の意識の内について思考を巡らせる。

 あれはおそらく晶子自身の精神世界。

 自らの悩みが具現化した光の見えない闇の景色がその事実を物語る。

 暗黒の精神内で、光は現れて、そして消えていった。それが何を意味するのかは晶子自身が奥歯を噛み締めるほどわかっていた。

 (私、わかりやす過ぎ……ジークフリート先輩のことをこんなに気にするなんて)

 あれほど避けていたのに、今はむしろ顔を合わせたいと感じつつも結果として以前と変わらぬ接触頻度の低さに晶子は自己嫌悪に陥っていた。

 その要因は、

 (私には何も出来ない)

 晶子の自らの無力さにも起因していた。

 あの日、校舎裏で聞かされたジークフリートの真実と竜騎士王の覚悟に、凡人の晶子は半ばジークフリートの意思を飲み込もうとしていた。

 ジークフリートは正しい。

 彼は救えない。

 誰も彼を救えない。

 そう考える他に道はないのに、

 (でも、私は……どうしても)

 ほぼ決した晶子自身の判断に、少女の心が感情で叫ぶ。

 どうにもならないのに、どうにかしたい。

 その晶子の心の動きはジークフリートがあの日告げた通りの贖罪なのかもしれない。けど、どんな感情から端を発していようとそれが本心からでたものなら抗えない逆らえない。

 何もないところで空を掴むような心の動作が、闇の精神から回復した晶子の心を空回りしている。

 (私は)

 何も得られない。

 それは定められた運命。

 悪循環する晶子の心の歯車。

 その決定した感情の機構を、


 「おい、晶子」

 外部から強引に打ち壊したのは、突如現れた伊織であった。

 いつの間にか伊織が晶子の机の横に立ちながら、見下ろす形で晶子にキツイ視線を送っていた。

 「あ、イッチー。おはよんあるいはこんにチワワ。実はさぁ~~」

 突然現れた伊織に、晶子は条件反射的に顔を上げた。

 そこで金髪の下にある不良少年の瞳と、晶子の瞳が互いを写し合う。

 なんとなく気まずい感覚になったので、晶子はすぐに顔を伏せた。

 その視線の交わりの後に伊織が、

 「お前、何怖がってる」

 伏せた晶子の表情が驚きに揺れた。

 急に晶子の内面を見抜くような言葉に、晶子の心はドキンと跳び跳ねそうになった。

 「ええ~~怖いって何よイッチー。そんなこと言うチミの方が怖いぃ~~」

 「五月蝿いバカ女。ふむ、ほうほう、そうかそうか……おい晶子」

 「何、かな」

 「行くぞ」

 何を考えたのか伊織は急に晶子の背中に手を当てて、

 「え──きゃあ!?」

 一瞬で少女一人を抱き抱えてしまった。

 いわゆるお姫様だっこの姿勢である。

 だが、驚いたのはそれだけではない。

 「行ってらー、お昼頃には変えるんだよん」

 兵庫の声が急速に離れていく。

 遠ざかる教室。

 そもそも伊織と晶子の二人は廊下の床から、さらには校舎の外にある地面から、

 「と、飛んでる」

 足で踏み締める筈の固い大地から、遥か下方に離れていた。

 「捕まってろ」

 教室を置き去りにして、学園を遥か後方に追いやる高速空中移動。

 伊織は両手で晶子の全身を抱えながら、何もない空中を両足で踏み締めて風を切っていた。

 「すごい、どうやって」

 「能力の応用で磁力の反発を利用しているだけで、実際は滑空と変わらない。口を塞いどけ、舌噛むぞ」

 風を切る速度が増す。

 人間の肉体が、空気の壁を切り進む。

 伊織本人は滑空と言っているが、ほとんど飛行と呼べる芸当である。

 それが十数分ほど続いて、

 「よっと、着いた」

 辿り着いたそこはとある鉄塔の頂上。

 360度全方位が解放された地上百数メートルの高みに晶子は放り出された。

 晶子と伊織の二人は、高い鉄塔の頂上で横並びに座り合う。

 「空の散歩は、どうだった」

 伊織のその質問に、一切の道具を使わずに大空を体験した晶子は、

 「……すごい、すごかった、です」

 あまりの感動で、語彙力(ごいりょく)が低下していた。

 さらにその蒼穹の広大さと、翼ある者だけが許されていた特別な解放感に晶子の頬は赤らんでいた。

 自らのちっぽけさと、だからこそ全てを受け入れて包み込んでくれる空の広大さが晶子の心に強く刻まれた。

 「それで何を隠している?」

 興奮覚めやらぬ晶子に、伊織は鉄塔の頂上から覗ける葦原の街並みを見ながら鋭く(たず)ねてくる。

 「晶子、お前は何を抱えている。全て吐け。ここなら俺だけが聞いてやる」

 確かにこの場所なら他に話を聞いている人間はいない。

 ある意味、胸の内を明かすなら最適な場所と言えよう。

 加えて、既に伊織は晶子にとって知らない人間でもない。

 よく会話する兵庫ほどではないが、それでもこの数ヶ月で少しは伊織の人となりが晶子にはわかっていた。

 (神崎くんは、その、少し乱暴だけど、それでも通すべき筋道は守る人。時々自分勝手に約束を破ることはあっても最後は道理を通すし、何より打ち明けた秘密を他人に漏らすようなことはしない)

 伊織に話すのもいいかもしれない。

 晶子は一瞬そのように考えた。

 ここで口を開いても、語られた秘密はきっと守られるだろうと理解する。

 その上で晶子は、

 「……」

 沈黙を選んだ。

 「(だんま)りか」

 「……」

 返事もまた沈黙。

 口を固く(つぐ)みながら、晶子は己の内に問い掛ける。

 (ジークフリート先輩が死ぬ。果たして、この秘密は神崎くんに……語っていいのだろうか?)

 普段からジークフリートと(しのぎ)を削っている。

 お前を倒すと伊織がジークフリートへ向かって口にする光景を何度も間近で目撃した晶子は、その宣言が一度も達成されたことがないのを知っている。

 伊織にとってジークフリートは乗り越えるべき大きな壁。

 どう見ても伊織にとってその行為が、人生の生き甲斐のように晶子には見えていた。

 あるいは、

 (強敵と書いて親友(とも)と読む、かな)

 暴力が苦手な晶子にはあまり理解できていないが、己の全力を相手にぶつける行為はもしかしたら言葉より本音に近しい行動なのかもしれない。それをぶつけられる相手が、もしも急にいなくなったとしたら……?

 もうすぐジークフリートは死ぬ。

 そのように、もしも知ってしまえば……その時の伊織の気持ちを晶子は判断できない。だが少なくとも、

 (私は、耐えられなかった……ッ)

 自分自身に置き換えては考えられる。

 だから晶子は沈黙を選んだ。

 ジークフリートが死ぬと言う秘密を、自分だけの胸の内に仕舞い込む選択をする。

 「何も言わない。そうかそうか」

 その晶子の選択を、

 「その程度の女かよ、お前」

 伊織は吐き捨てるように侮蔑の感情を口にした。

 「俺を失望させるな」

 パリパリと紫電が空気を焦がす。

 伊織の右掌が、晶子の頬を触れていた。

 「いいか、俺が本気になれば晶子の脳細胞を流れる電気信号を解読して思考と記憶を読み取れる」

 それは電気を操作する超能力者の特権。

 人間の肉体が電気仕掛けの体細胞で構成されている以上はその伊織の持つ権能を回避する術はない。

 もしかしたら、兵庫やジークフリートなどの猛者であれば対抗する方法を持ち得るのかもしれないが、凡人であると自覚する晶子にはそんなモノは存在しなかった。

 故に、導き出される結末はたった一つ。

 ジークフリートの真実が(あば)かれてしまう。

 それを何よりも怖れる晶子は、ここで再び己の無力さに打ちのめされる。

 目の前の相手は、最強の超能力者。

 竜騎士王であるジークフリートに匹敵する圧倒的強者。

 そんな人物に、弱者である己の反抗程度でどうなると言うのだろうか?

 (ダメ──見られちゃう)

 晶子の脳内を(よぎ)る最悪の未来。

 その妄想すら伊織には丸裸同然。

 せめてもの抵抗として、晶子は自らの頬をなぞる伊織の指先の感触に怯えながら固く瞼を閉ざす。

 そうして、

 「だが俺はそれをしない」

 何もせずに伊織は晶子の頬から掌を離した。

 てっきり心を読まれてしまうと身構えていた晶子だが、伊織の予想外の選択に戸惑う。

 そんな晶子の姿を見ながら、伊織はほくそ笑みながら自らの選択の理由を口にする。

 「それは無粋(ぶすい)だからだ。他人の心を読み取って、それで理解した気になる男が最強の超能力者と呼べるか? 違うだろそんなのは。我が進むべき王道は、一片の傷すら許さない」

 一度荒ぶれば甚大な被害をもたらすのに、

 (まるでここから眺められる青空みたい)

 その涼やかな雄大さはまるで風のような思考だと晶子は思った。

 「泣くな哀しむな、笑っていろ、毎日を楽しめ、楽しんで愉しんで、そしてキレイでいろ。女はキレイなのが一番だ。そして一番ダメなのが」

 風と表現した通りに伊織の言葉が、秘密を隠した晶子の胸の中心を吹き抜けていく。

 「心が、精神が、魂が余計な荷物を背負っていること。忘れるな、お前は俺の女だ。それだけで晶子はこの世で一番キレイな女になる」

 (……神崎くん)

 言えないことがある。

 でも言いたいこともある。

 咄嗟には言葉にならないが声になる前の、

 (ありがとう、私を元気付けてくれて)

 晶子のその思いがこの場の全てであった。

 「神崎くん」

 ようやく出た言葉で、晶子はまず訂正すべきことを戯れ言のように口にする。

 「私は君の彼女じゃないよ」

 「まったく、今更恥ずかしがるとか晶子は可愛い女だな」

 「あはは、さっきは失望したって言ったのに」

 「それはそれ、これはこれ、そしてお前は俺の女」

 そこには正直になれないが、素直で初々しい少年少女たちの姿があった。



 時計の針は進む。

 伊織に連れ出された晶子であったが、その後無事に学園へ帰還した。

 兵庫の言いつけを律儀に守ってお昼頃には学園の土を踏んだ伊織はそれからお決まりの保健室へ向かっていった。

 そんな不良少年の背中をクスクスと笑いを押さえながら晶子が見送ってから数刻。

 終業の鐘の音色が校舎内を響き渡る。

 現在、晶子は学園で最も自身と親しみ深い場所に居た。

 「はいどうぞ、貸し出し期限は一週間です」

 ガララと開くスライドドア。

 その扉から、晶子は何かを抱えて廊下へ出た。

 「失礼しました」

 晶子は丁寧に挨拶を済ませてから後ろ手に扉を閉める。

 扉の表札に書かれたのは【図書館】の文字。

 その文言通りに知識の詰まった学園の書籍が、今晶子の両手の中に数冊ほど抱えられていた。

 「ちょっと借りすぎちゃったかな」

 今回は一人で探し物をしたいと兵庫と別れてから図書館を訪れたので冊数の多い書籍を共に抱えてくれる相手はいない。

 非力な身にとって少々重い数冊の書籍を、本が好きな晶子は大切に腕の中で抱え直すがその慎重さが本の重量を増させる。

 その影響は、図書館から通じる階段を二階ほど降りた辺りで如実に現れる。

 本の重さに、通学鞄を持っていた晶子は足元のバランスを崩す。

 「あ──あわわわっ」

 足元がおろそかになり、重力に引き寄せられる。

 ポスンと晶子の身体は軽い衝撃を受けた。

 それは固い廊下の感触ではない。

 誰かの両手の中に晶子は落ちていた。

 「あ、ありがとうございます。支えて貰って」

 「いいのいいの、生徒を助けるのが教師の勤めだしね」

 自身を支えたのが誰か、晶子にはすぐにわかった。

 それは晶子にとって顔見知りの教師で、

 「天草先生」

 そこには学園で晶子が何度も顔を合わせた養護教諭の姿があった。

 その養護教諭──天草は、晶子が所属する保険委員の顧問をする人物である。

 「天草先生はどうしてここに?」

 「別に不思議なことじゃない。日課のフィールドワークさ。加えて学園内で体調の悪い者がいないかのチェック。これでも一介の養護教諭だからね」

 咄嗟に受け止めてくれたのは感謝しかないが、だからこそ失礼のないようにずっとそのままでいる訳にもいかないので天草から離れる晶子。

 頭を下げて下駄箱に通じる廊下を進もうとした晶子だが、

 「ねえ、小川さん」

 背後から天草に呼び止められる。

 何か用事だろうかと晶子が振り返ると、

 「もし良ければ保健室でお茶でも如何かな」

 晶子が思っていなかった提案を天草が口にした。

 特に急いでるでもなく、

 「じゃあ一杯だけ」

 断る理由もなかったので晶子はその天草の提案を了承した。

 放課後の保健室には天草と晶子の二人のみで、他には誰もいなかった。

 「神崎くんはいないんですね」

 「神崎は授業中の暇潰しにここを利用しているからね。自由な時間になればその理由もない。もしろ普段の彼のことなら君たちの方が知っているのではないかね。最近は仲良いみたいだし君たち」

 「いや、それほどでも。でも」

 差し出された椅子に腰掛けながら晶子は天草と他愛ない話題で会話する。

 「今日は彼に少し、元気付けて貰いました」

 「それはいい。若い内の交遊関係は大切にしたまえ」

 保健室の静寂に、お湯を沸かす音が響く。

 普段から保健室の来客に出して手慣れているのか天草の所作は熟練のそれであった。

 「お茶を出すの、慣れてるんですね」

 「実益を兼ねた趣味でもあるからね。ここだけの話、職員特権で良い茶葉を買えるんだこれが──さてと出来た」

 木製のお(ぼん)で運ばれてきた二つのマグカップからは湯気がほんのりと漂っている。

 「どうぞ遠慮なく。私も頂くとしよう」

 先に天草がお茶を口にして、後に続いて晶子は渡されたマグカップに口をつける。

 最初に舌で味わう温度は、猫舌でなくても思わずフーフーと息で冷ます。

 「お茶請けも自由に口にして構わないよ。どうせ学園のお金なんだからね」

 まさに至れり尽くせり。

 そうして丁度よい飲み頃になった加熱されたお湯で煮出された茶色い液体が、冬の冷気で冷えた身体に染み渡る。

 「ところで、聞いても構わないかな」

 三回ほど口にしたマグカップの底が保健室に備え付けられたテーブルに置かれる。

 さらに天草の人差し指が晶子が借りた書籍に伸びる。

 「どれも肉体や病に関する書物だけど、そんな本を借りてどうするのかな?」

 「ちょっと考え事があって」

 あえて晶子は悩みとは口にしなかった。

 その言葉を目の前の養護教諭に伝えるほど晶子にとって親しい間柄ではない。

 無論、必要最低限の会話をする程度の相手ではあったが。

 「この中に、答えがあるんじゃないのかなって思ったんです」

 それでもこうしてお茶請けと一杯分のお茶をご馳走になったお礼程度の話はしていいかなと晶子は心の胸襟を緩めていた。

 お茶によるリラックス効果か、少し意識がボンヤリとする晶子。


 ジークフリートの真実を知って、それにどうしても納得がいかない晶子が頼ったのは慣れ親しんだ知識の宝庫であった。

 図書館には何千冊もの書籍が収納されている。

 加えてこの学園の本は晶子の暮らす世界とは別の異世界の書物も豊富に取り揃えている。

 戦闘力では、力では叶わないのならせめて知恵をフル動員させてどうにか打開策を見つけられないのかと思案した晶子であった。


 (でも心のどこかではわかってる。この行動が無意味なのだと。本当に図書館にある本でわかるような症状ならとっくにジークフリート先輩の仲間たちが見つけているって……)

 本を探している間も、晶子の思考を過るとある考え。

 私に何が出来るのだろう。

 晶子のその思考はつまるところ──

 「小川さんの考え、言い当ててあげようか」

 そこで天草の言葉が晶子の鼓膜を叩いた。

 突然の内容に、普段なら(いささ)か困惑の表情を浮かべていた晶子であったがそうはならなかった。

 そうすることが出来なかった。

 (あれ……変だな。私どうしてこんな頭がボーっとして……)

 そう言えば先ほどのお茶は、どこの茶葉を使っているのだろうかと晶子は何となく考える。

 感覚が鋭くなる代わりに、鈍化していく心で数瞬前に味わったお茶が脳裏に浮かぶ。

 とても不思議な味のお茶だったなと晶子はこの日最後の思考をする。


 晶子も知る由もない。

 晶子に口にしたお茶には、彼女が暮らす現代社会には存在しない

 それは何の偶然か、晶子が心を砕いていたジークフリートの生まれ育った【ラ・グース】に存在するとある秘薬であったのだ。

 

 「それは“力”への渇望。無力な自分から、周囲の英雄たちと同じ位階を、景色を眺めたいと願う心。どうだい、違うかい?」

 晶子は何も言わない。

 養護教諭の言葉に晶子は何も感じていない。

 しかし、

 「人は本来、垣根を越えられない。生まれ持った素養があるからね。世界は残酷さ」

 感じないからこそ、砂漠で喉の渇いた旅人のように天草の言葉はようやく見つけたオアシスの水の如く無味乾燥の魂を満たしていく。

 「でももしもその世界が違えば……あるいは別の、この世と異なる物理法則を活用してまだ眠っている素養を引き出すことが出来るのならば。どうだい、魅力的な話じゃないかな」

 「私、が……?」

 「君なら出来る。確約しよう。その裡に眠る可能性を掘り起こすと約束しよう」

 「……本当に、なれるんですか」

 「君は自分を信じればいい。それが難しいなら、この私を信じなさい」

 グニャリと歪んでいく晶子の視界。

 そして意識は黒い渦のような喪失感に包まれながら、その心は危険なまでの解放感に満たされていた。

 自分に正直になれと、晶子自身が己に囁いておる。

 その己の声が、他者から引き出されたモノとは知らずに、

 「私も、みんなみたいになりたい」

 晶子は自身ですら知らなかった自らの本音を口にする。

 それは解放された心と精神が告げる宣誓でもあった。

 「なれるさ。君ならね」

 ──気付けば晶子は知らない場所で横たわっていた。

 そこがどこなのか、

 「ようやく隙を見せてくれましたね」

 「これまでは審神者や超能力者に阻害されて手を出せませんでしたが彼らも子供のようで」

 聞こえてくる会話が何なのか今の晶子から理解する術は失われていた。

 「被験体のバイタル安定しています。準備が整いました天草主任」

 「では施術を開始する」

 そして晶子の意識は、深い闇の底へ引き込まれていった。

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